元旦
微かに開いた唇から白い靄が溢れていく。地平線の遙か向こう、朝の気配が滲んでくるのを感じながらペダルを回した。
間に合うか? と笑いながら後ろにぴったりとついた相棒が声を上げる。声色に焦りは一切見えず、寧ろこの空気を楽しんでいるようだった。
「間に合わせる」
短く答えて、ペダルを回す足に力を入れる。目的地まで、スプリンターにとってはすぐそこと言っても言い過ぎではなかった。
夜の色が残る海と朝が滲んで白くなりつつある空の間から溢れるように、日が昇る。寒波が運んできた風で慣らされた砂浜に足を放り出して、二人はそれをぼんやりと眺めていた。
「別にめちゃくちゃ特別ってわけじゃないんだけどさ」
「……」
空から夜を追い出そうと、ぐんぐん昇る太陽に目を細めながら手嶋がぽつりと呟く。青八木は片眉を上げてそれから、頷いた。海辺の空気は痛いほど冷たいが、現れた陽光から受ける暖かさは確かだ。
「青八木とこうやって走って、やっと新年が明けたって感じだよ」
「明けてからまだ六時間ちょっとしか経ってない」
青八木の言葉にまぁそうだけど苦笑いしながら、手嶋がスマートフォンを取り出す。地平線からすっかり離れてなお、天上を目指していく太陽にレンズを向けた。軽快な電子音が一瞬、波の音をかき消す。
「あけおめー、っと」
青八木のポケットから通知音が鳴る。恐らく手嶋が総北のトーク部屋に投稿したのだろう。続けざまに通知音が続いたが、端末を取り出すこともなく青八木はじっと海を眺めていた。
波が寄せては返す音が絶え間なく続いている。時折、風の鳴く音もして、初日の出を終えたそこはまた日常、冬の海に戻っていた。
「これからどうする」
「帰っておせちだな」
「わかった」
冷えてきた。と青八木が立ち上がって砂を払う。手嶋も立ち上がって伸びをして、それから。
「あけましておめでとう。青八木」
「……」
手嶋の言葉に小さく頷く。今年もよろしく、とぼそりと呟けば手嶋の手が青八木の肩を叩いた。
初詣
手を擦り合わせながら川沿いを歩いて行く。つま先から冷える感覚に身体がきゅ、となった。
「さみー」
そう言いながらも声の調子は妙に楽しそうな手嶋の横で。ゆっくりと深呼吸する。冷えた空気が一種のすがすがしさを孕んで肺の中に入り込んでいく。それから視界が霞む程の白い靄が唇から吐き出されるのを見て、青八木が目を細めた。そうやってのんびりと二人で歩いて行く。目指す場所は、小さな神社だ。
「おみくじ引く?」
「引く。お参りしてからだ」
「了解」
そんな事を言いながら、鳥居をくぐる。手水舎で手に触れた水は、まだ身体の中に残っていた眠気が消え失せる程に冷たい。
がらんがらんと鈴を鳴らして、賽銭を投げ入れ手を叩く。町から抜け出すような気持ちで朝早くに来たからか、手嶋と青八木以外には誰もいない。神妙と言えば良いのだろうか、暫く静かなままで社殿に手を合わせる。そうして曖昧な空気で、顔をあげた。毎年そうだ。どれくらい手を合わせればいいのか分からない。
「どんぐらい手を合わせたらいいのかわかんないよな。いっつも青八木が顔を上げるの見計らってるんだけどさ」
手嶋も同じらしく、身も蓋もないことを言いながら社務所に向かう。アルバイトだろうか、巫女姿の女の子が愛想を振りまけばいいのか、それとも神妙な顔をすればいいのか分からないといった顔で座っていた。
「おみくじ二つ、お願いします」
青八木から受け取った百円と自分の百円、会わせて二百円を巫女さんに渡す。どうぞひいてくださいと促されて目の前にあった筒を持ち上げた。
「狙いは?」
「大吉」
「そりゃそうか」
お互いが筒を持って軽く振り、逆さにする。細長い棒が一本するりと出てきて、手嶋は目を細めて数字を見た。
「まぁこんなもんだよな」
「ああ」
末吉と書かれた紙を眺める。青八木の御神籤には中吉と書かれている。
「平凡を良しとせよ」
「いつものことだ」
手嶋が読み上げた文に、青八木が頷く。
「……失せ物見つかる」
「お、ラッキーじゃん」
「言わなさすぎは誤解を招く」
「ははっ」
お互いの内容を読み上げあいながら、境内にぽつりと佇む木の前で立ち止まる。すっかり葉の落ちた枝には、その代わりと言わんばかりに白い紙が咲いている。ここらへんがいいなと枝の先に引いた御神籤を結ぶ。すぐ隣に、青八木の御神籤も結ばれた。御神籤の花が、二つ増えた。
「帰るかぁ」
「駅伝」
「そうそう」
再びのろのろと歩き出す。砂利を踏みしめる音が心地よい。
三日目
新年が明けて三日目ともなると、味の濃いものが食べたくなるのはきっとどこも同じなのだろう。
「いただきます」
「いただきます」
目の前でぐつぐつと煮え立つインスタントラーメンに手を合わせる。手嶋は醤油ラーメンで、青八木は塩ラーメンだった。本来ならば雑煮の具になるはずだった野菜の傍には、生卵が割り入れられている。麺を持ち上げてふうふうと息で冷まそうとするたびに湯気が頬を濡らした。二人の間に麺を啜る音だけが響く。時折熱がる声が手嶋からあがった。
「正月に食うラーメンって、なんでこんなに美味いんだろうな」
「……うむ」
手嶋がぽつりと呟けば、青八木が頷く。理由は分からないが、思い出したようにインスタント麺を食べるのは、毎年のことだった。そう、だいたい正月気分が終わる頃に無性に食べたくなって、雑煮用に余った野菜と麺を鍋にぶち込むのだ。
何が見たいでもなくつけているテレビも、昼頃のを過ぎる頃には少しずつ正月気分が抜けて日常へとゆっくりと戻っていく。
「何が残っている」
「ん?」
冷蔵庫。青八木が短く聞いてきたのに、手嶋が首を傾げる。冷蔵庫の中には重箱から解体されたお節の残りが眠っている。
「かまぼこ、黒豆、しめ鯖ぐらいじゃね?」
足りる? と今度は手嶋が聞き返す番だった。青八木は澄ました顔で、麺を啜っている。
「餅もあるだろ、十分だ」
そう言われてキッチンで膨らむのを待っている切り餅の山を思い出す。それもそうだなと頷いて、目の前の昼飯に向き直った。
くちびる
あの、きゅっと結ばれて真一文字になった唇が柔らかく歪んで笑みを形作るのが、好きだ。
「きっと後方集団はここで追い上げをかけてくる。ここから先は真っ直ぐの平坦だ。先頭集団に合流するあたりでアシストはエースを出すだろうな」
「……」
会場近くの喫茶店の席で向かい合って、コースマップを開いている。手嶋が指差して作戦を伝えるのを、青八木がじっと聞き入る。愛想の良いとは言えないじとりとした目が手嶋の指を追って、それからゆっくりと頷いた。
「この距離ならいける」
「そう、ただそれだと読まれる可能性もある。阻止されるとやりにくい」
周りの席にも今回の出場者であろう人々がモーニングをとっている。参加することに楽しさを見いだしている人間、勝ちに来ている人間、この大会と向かい合うスタンスはそれぞれだ。それが許される大会だった。
手嶋と青八木は、後者だ。
「青八木に頑張ってもらわないとだけど」
手嶋の声が一層低くなる。内緒話をひとつ、とでも言いたげに目を細めて、意地の悪い笑みを浮かべて。
「……」
手嶋の耳打ちに、目を瞑って聞き入る。相変わらず唇は気難しそうに真一文字に開かれていて、手嶋が耳の傍から顔を話すと、残っていたトーストをひといきに口に入れた。ゆっくりと咀嚼して、飲み込む。
それから何事かを考えるように視線を彷徨わせてそれから、ゆっくりと唇は笑みを浮かべた。
「わかった」
生まれもってのポーカーフェイスを貫く青八木が、勝ちに行こうと貪欲になった瞬間ににやっと笑うのを見るのが、手嶋は好きだった。あまり欲の出さないこの相棒が、自分の言葉で心を動かして目をぎらつかせる。その瞬間がたまらない。
「よし、行こうぜ。ごちそうさま」
「ごちそうさま」
苦いコーヒーを飲み干して、伝票を引っ掴む。うむ、短く応えた青八木も、ゆっくりと立ち上がった。
結果、読み通り。先頭集団がエースを出す前に青八木を出したのは正解だった。
「……」
一位の証である盾を抱きかかえながら、青八木は相変わらず表情を崩さない。その隣で手嶋は満足そうにボトルを煽っていた。
「いやあ、あんなにうまくいくなんてな」
「ああ、純太はすごい」
「青八木も結構無茶しただろ」
「オレは……ゴールを目指しただけだ」
そう言って、はにかむ。くすぐったそうに肩を揺らして、青八木は頬を紅くする。それからやっぱり耐えきれなくなって、きゅ、と唇の端を微かに上げるのだ。
手嶋はそんな青八木の、わかりにくい笑顔が好きだった。殆ど動くことのない表情筋が、何かのきっかけで動き、下手にすら見える笑顔をつくる。そのきっかけが自分であることに優越感を覚えてしまって。
「純太?」
「……さぁて、何か食べてかえろうぜ」
そんな心の内を知られたくなくて、手嶋は愛車を持ち上げる。ああ、と頷く青八木の表情は再び、あの愛想のないポーカーフェイスに戻っていた。
握手
寒さがだんだんとすり寄ってきたプレハブで、握った手はやけに熱かった。自他共に無口である自分が柄にもなく提案をしたから、その緊張ともし叶えばという高揚感が生み出した熱だったのか、それとも自分の提案を耳にして何かの予感に同級生の体温が急に上がったからなのか。青八木一に最早知るはなかったし、今となっては、さしてそれが重要な事はなかった。
大事なのは、手を取り合ったこと。
「マジであちぃんだわ……」
「水分補給を忘れるな」
熱風が頬を叩く。寧ろ自転車で走って風を感じている自分達はまだいいのかもしれない。沿道で応援している人々は汗だくだ。きっとあそこから見るアスファルトの上はじりじりと焼け付いて、空気を揺らしているに違いない。応援する際の日傘の使用はご遠慮くださいとアナウンスはされているだろうが、帽子とタオルだけでこの暑さを凌げるのかは疑問である。六月だというのに空は青く、太陽は厳しい。
ふう、と後ろで息を吐く音が聞こえる。熱を吐くような重さだ。フレームにつけたボトルに手を伸ばして、口に運ぶ。自然と喉が鳴るのに薄く笑いながら青八木はもう一段、脚に力を込めた。
「青八木、ちょーだい」
「ないのか」
後ろから飛んできた手嶋の声に青八木が目を丸くする。流石に後ろは振り向けなかったが、軽く慌てた様子の相棒の様子に、手嶋が意地悪く肩を揺らした。
「あるけど、ほら、アレやろうぜ」
「……」
手嶋の提案に口をへの字に曲げる。手元のボトルを軽く振って、前を見据える。カーブだ。丁度いい。
そのままボトルを持つ左手を後ろにやりながら、孤を描く道にハンドルを傾ける。手の中が軽くなった感覚がした。
「サンキューな」
手嶋の嬉しそうな声に小さく頷く。暫くしてからまた手に重みが蘇って、それを元の位置に戻した。
「さーて、ラストスパートだ」
「ああ」
どこか活力を取り戻した手嶋の声に、青八木は口の端を僅かに、上げた。
節分
目の前に積み上げられた、所謂恵方巻きを眺めて青八木は片眉を上げた。
「いやさ、安かったから」
苦笑いと共に好きなだけ食べろよと促されて、それを引っ掴む。それからきょろきょろとあたりを見渡して、それから諦めたように目の前の相棒の方を向いた。ぼそりといただきますと呟いて、口を開く。海苔で巻いた白米に守られていた具がほろほろと口の中で崩れていく。
「で」
瞬く間に一本の殆どを腹におさめた青八木が手嶋を見つめる。手嶋も手にしたそれを囓っていたが、半分も食べていない。
「こんなに買ってこなくてもよかったんじゃないか」
「せっかくだしなぁ」
こういうの食べることなんて年に何回も無いだろ。種類も結構あってさ。そう言い訳する手嶋は妙に楽しそうだ。
「そうそう、ちゃんとデザートもあるんだぜ?」
「……何だ?」
何となく察してしまった気がするものの、青八木は律儀に問いかける。待っていましたとばかりに手嶋がウィンクをして、冷蔵庫を親指で指した。
「恵方巻きロール」
「……」
手に残った米の塊を一息に頬張り、黙って咀嚼する。目の前にまだ何本か残る恵方巻きは、明日にはただの太巻き寿司となって朝食に出されるのだろう。
四月馬鹿
教室でクラスメイトが嘘をついていた。
新学期早々、四月一日、エイプリルフール。世間がこぞってふざける日。
オレ、実は転校するんだとニヤニヤ笑いながら言いふらす彼を横目に、ポケットからスマホを取り出す。
今日はどうする?
短めに送ったメッセージはすぐに既読がついた。一分もしないうちに、返答が来る。
練習。校舎まわり周回。
返ってくる言葉はほぼ単語。最初は何か怒っているのかと焦りかけたそのニュアンスも、一年を巡ってすっかり慣れた。オーケー、あと昼飯はいつものとこな。それと。
(それと?)
親指が迷う。何を打とうとしているのかと自問自答して、ふと視線を上げてみる。新学期早々バレるようなウソついてんじゃねーよと向こう側で笑い声が上がった。
なんだ、純太。
たっぷり一分たって、ぽこんと文字がポップする。四月馬鹿だなんて言葉を知らないように、青八木はいつも通りらしい。
四月一日って、わたぬきって読むらしいぜ。
いきなりどうした。
これ、本当な。
首を傾げるクマのスタンプが送られてくる。やっぱりと苦笑いをすればチャイムが鳴り響いて、教室はガタガタと机が鳴る音が響き渡った。
「調べてみた」
少し汗ばむぐらいの春の陽光の下、聞き取れるかどうかぐらいの声が耳に届く。へ、と手嶋が声の方を向けば、青八木が口を大きく開けてカツサンドに齧り付いていた。何度見ても気持ちのよくなる食べっぷりで、普段ぴくりとも動かない頬もこの時ばかりはもぐもぐと膨らんで動いている。
切り出した癖に食事に没頭している相棒を眺めながら、ペットボトルの紅茶を一口、口に含む。甘ったるいミルクの風味が口の中に広がった。しばらく無言で、紅茶とサンドイッチを食む。
「わたぬきは四月一日に着物の〝わた〟を抜くからわたぬきらしい」
手にしていた食べ物をすっかり腹におさめた青八木が、思い出したようにまたぼそりと言った。手嶋も由来までは知らなくて、目をぱちりと瞬かせてからそうなんだ、とこぼす。
「純太はすごい」
「なんでそうなるんだよ」
青みがかった目が真っ直ぐにこちらを見つめてきて、手嶋が目を泳がす。ただどこかで見かけたその読み方で、相棒をからかってみただけなのにと。
「なんでも知ってる」
「よせよ、ただの雑学だろ」
青八木が手嶋に向けた言葉は大袈裟にも聞こえて、くすぐったくて肩を揺らして笑う。そんな手嶋にゆっくりと瞬きをして、青八木は口を開く。
「だって本当だ」
エイプリルフールだけど、嘘じゃない。
喜色を孕んだ青八木の声に、手嶋の目元が熱くなった。
入学式の日
そろそろ始まってっかなぁ。壁にかけられた時計を見上げて、手嶋が呟く。余った勧誘ビラをとん、と整えながら青八木が片眉を上げた。
「今日から晴れてオレ達も〝先輩〟ってヤツ?」
「……」
口元を歪めて手嶋が笑う。口に出した単語に何か含みを持たせた声色に、せんぱい、と青八木が繰り返した。
「……ちょっと嬉しい」
「はは……まぁそれは否定しねぇわ」
でもそうも言ってられねぇだろと窓の外を見る。校庭の桜は満開を少し過ぎていて、風に煽られて散っていく花びらが陽の光できらめいている。一年前に見た同じような景色は、あんなにも眩しかっただろうか。
もっとくすんでいたような気がする。ペダルから脚を離す一歩手前、そんな状況だった自分はどうだっただろうか。目の前の相棒はあの日、どんな気持ちで。
「……少し怖かった」
「へ?」
「また上手く喋れなくて、三年間ずっと一人かもって思ってた。自転車部に入っても変わらなかったらって」
ぼそぼそとそんなことを口にする青八木をじっと見つめる。まるで心を見透かされたような心地だった。
「だから手嶋と〝先輩〟になれるのが、少し嬉しい」
いつもはまっすぐに閉じられている無愛想な唇が僅かに上がる。目元も僅かに染まっていて、それを見た手嶋の心臓は珍しく奇妙な動悸を引き起こした。そう言ったきり黙りこくって書類を棚に戻す青八木の背中をじっと見つめる。
「……青八木サン?」
「…………何だ?」
手嶋の声に青八木が振り向いてぱちりと瞬きをする。そっと首を傾げれば、片目を覆う前髪が揺れた。
「いや、うん、オレも」
言葉を探しながら手嶋が視線を彷徨かせる。オレも、なんだろうか、と自問自答する。
「?」
「……オレも嬉しい」
出てきたのは月並みな言葉だった。今年こそIH行こうなだとか、後輩には負けねぇぞ、だとか。こういう時こそ気の利いた言葉をかければいいのに、それも浮かばない。青八木が手嶋をじっと見つめる。それから軽く口を開いた。
「……頑張るから」
絶対に行こう。後輩に負けたくない。
言いたい事を全て言われて、手嶋がゆっくりと頷く。こういう時に返す言葉を、まだ知らなかった。
決意の日
この時期は書く物が多い。
「青八木、あれって纏まった? 明日中にピエール先生に出せる?」
「ああ、もう出せる」
手嶋の言葉にファイルから紙を取り出して、すっと渡す。新学期が始まってから二週間で入部届を出してきた新入生の一覧と、ウェルカムレースの申請書。ありがとな、と手嶋が受け取ってそれを眺める。
「……」
新入生一覧を眺めながら、手嶋がくるりとペンを回す。くるくると軽やかにペンを弄ぶ指先を横目で見て、青八木は五月の予定表を手に取った。
「不安か?」
「いいや」
青八木の問いに手嶋が首を振る。寧ろ楽しいと笑う相棒に、そっと笑みを浮かべる。
ただ夏に近付くにつれてそういったものも薄れてしまうのかとも思えた。タイムリミットが迫るにつれて、決断しないといけないことも増える。それこそ、走っている時はそんな瞬間の連続だ。
「……純太」
「どうしたー?」
書類から視線を離さないまま、手嶋が答える。しかし相棒を呼びっぱなしのまま答えない青八木を不思議に思ったのか、ゆっくりと顔を上げた。
「青八木?」
「……」
青みがかった、お世辞にも愛想のいいとは言えない瞳がじとりと手嶋を見つめる。他の人間が見れば機嫌が悪いのかと思いかねない視線を受け止めて、手嶋は口元をきゅ、と上げた。
「心配?」
「……ああ」
こくりと頷く。信用していないわけではないと言いたげな顔をさせる相棒にわかってると口の中で言葉を転がす。
「でもここまで来られただろ」
だからオレは大丈夫だと思うぜ。にっと微笑む相棒の顔に小さく頷く。
「あとは走るだけだ」
「ああ、純太」
だからそんな深刻そうな顔をするなって、と青八木の腕に手を置く。何度か頷いて、わかったと青八木が答えた。
(あとは、走るだけ)
そうだ。それだけ。胸の奥の火が少し大きくなった気がして、青八木はもう一度大きく、頷いた。
ちょっかい
頭上でからりと音が鳴ったので、少し上を向いてみる。
「調子は?」
「…………ん」
特にはっきりとした返答をしなかったが、窓を開けて顔を出してきた手嶋はそっか、と嬉しそうに笑った。青八木も視線を愛車に戻し、フレームを拭き始める。無言のまま、丁寧に愛車の手入れをする青八木を見おろしながら、手嶋は窓の縁に肘をついた。
「青八木」
「……」
「帰りに寄りたいとこがあってさ」
「わかった」
どこに、とは聞かずに頷く青八木に手嶋が片眉を上げる。どこにって聞かねえの? と聞いてみれば青八木の手が止まった。金色が揺れて、再び青みがかった目が手嶋を見つめる。数秒見つめ合えば、重ための瞼がぱちりと瞬いた。
「本屋だろ」
「……ご名答」
言ってたっけ、と手嶋が首を傾げる。青八木が立ち上がって、手にしていた布を丁寧に畳んだ。
「気になってる本があるって言ってただろ」
ついでにサイクル雑誌の発売日。短く理由を言った青八木に、今度は手嶋がああ、と瞬きをする番だった。青八木が窓に歩み寄る。
「片付けをするから、待ってて」
そう言って手嶋の頬に軽くキスをしてから、愛車の前に散らばった工具箱を片付け出す。
「……そりゃあどうも」
顔に熱が集まるのを感じながら、手嶋が頷く。口づけを受けた肌にそっと触れて、すごすごと窓を閉めた。
バタフライエフェクト
忘れられない表情がいくつか、ある。
その日のレースは相棒一人での出場で、勿論勝つつもりでいたし自分も手嶋は今度こそ勝つと信じてサポートをした。スタートの前に勝ちを持ってくるなとへらりと笑う手嶋に無言で頷いて、青八木はゴール近くの沿道に場所取りをした。
毎回良いところまではいくのだ。ただ結局、今回もゴール争いについていけずに、先頭集団から千切れた群れのひとつになってゴールゲートを潜る手嶋を迎えることしか、出来ない。
「……」
「はは、やっぱ駄目だったわ」
全身から汗を流しながら苦笑いを浮かべる手嶋に何も言えず、スポーツドリンクを渡す。応援してくれたのにごめんな、と謝ってきて、小さく首を振った。
表彰台に立つ自分よりも年下の勝者を見上げて、それから唇を噛む手嶋の横顔を青八木は忘れることが出来ない。
「初めて自転車に乗った時ってさ、めちゃくちゃ嬉しかったんだよな」
それこそロードじゃなくて子供用の自転車なんだけど、と手嶋が笑う。目の前のミルクティーをスプーンでくるくると混ぜながら、きっと何となく言った言葉に青八木はこくりと頷いた。
「自転車に乗ったら、走るよりはえーの。風なったような気になってさ、なんも用事ねーのにダチと街ん中ぐるぐる走り回ったりしてさ」
「……」
分かるような、分からないような気分に陥る。自転車に初めて乗った時の喜びは確かに、この速さならばどこにも行けそうな気がしたのを覚えている。ただ、自分には友達がいなかったから、友達と一緒に街の中をぐるぐると走り回ったことはない。きっと手嶋にとっては楽しい思い出なのだろう。
「……でもオレより速い奴らなんていくらでもいるって、ここ最近ずっと突きつけられてる」
かちゃり、とスプーンがぶつかる音がする。ゆっくりと頷いて、どう返せばいいのか、それこそカップの中で渦巻くミルクティーのように思考を巡らせたが結局何も言えずにいた。
「……ごめんな、ちょっと愚痴っちまった」
「いい」
苦笑いを向けて、それからまた視線を落とす手嶋をじっと見据える。初めて風のようになったと思った日の、幼い傲慢さを持つことはきっと出来ない。
それでも止まれないのは、まだ風になりたいからなのだろう。
雨よありがとう
日本史の教師の、しゃがれた声が教室に流れる。
欠伸を噛み殺しつつ手嶋が窓の外をちらと見やれば、ざんざん降りの雨が逃げ場はないぞと言わんばかりに窓を叩いていた。今日は無理だな、と諦めながら黒板に視線を戻す。
少し前で座っている、明るい髪が揺れる。
小柄ながらもすっと伸びた背筋が時折揺れては黒板とノートを交互に見比べ板書しているようだった。
真面目。
そんな言葉が脳裏をよぎる。自分のノートは思い出したように年号と出来事しか書かれておらず、その上でこっそり開かれたメモのほうが、インクはひしめき合っていた。
であるからして、云々。
しゃがれた声が数百年前から少しずつ、今に近付いていく。
「手嶋」
チャイムと共に何度も噛み殺していた欠伸をついに脱出させていると、青八木が声をかけてきた。
「すごい雨だ」
「あー……今日は無理だな」
少し残念そうに窓の外を見つめる青八木に苦笑しつつ、どうする? と言葉の外で問いかける。
青八木が眉を寄せて黙りこくる。こういう時、大体どうすればいいのか分からなくなっているというのを手嶋は分かっていた。
「寄りたいところあるんだけど」
「ん……」
「一緒に行こ」
こく、と静かに青八木が頷く。寄りたいところがあるとは言い訳で、そんな言い訳のカードを手嶋は沢山持っていた。例えば買い物、例えばカラオケ、例えば
「あと今日さぁ」
「?」
「……親が帰ってこないんだわ」
「……」
来いよ、と目で訴えれば青八木は目の前の相棒をじっと見つめる。ややあって静かに頷けば、手嶋はすっと笑みを浮かべた。
よかった、一人じゃ寂しいからさぁと冗談を飛ばす。半分冗談、半分本気だった。
「?」
「そんな歳じゃねーだろって顔すんなよ」
肩を竦める。水を差すように、チャイムが鳴った。
あきらめきれない
これ以上は、と無言で訴えられる。友人、はたまた相棒という関係にしては近すぎる距離。
胸に手を押し当てて、きゅっとむずバレている唇も普段以上に強ばっていた。
「怖い?」
「違う」
平静を装った声と寂しげな目に、自然と笑みがこぼれた。
「ごめん」
そんな顔させて。手嶋が青八木の手首を掴む。
汗水漬く
まだ沈みたくないと牛歩する夕陽を横目に、疲労が募る身体をハンドルにもたれ掛からせた。ぱたりとフレームに水滴が落ちる。額から流れる汗が目に染みるのが嫌で、手嶋はゆっくりと目を伏せた。
のしかかるような熱気で上手く身体が動かない。十分後、自分の脚がちゃんと動くのが心配になってくる。
不意に強い冷気が頬を這う。視線を上げれば青みがかった目がこちらをじっと見つめていた。
「さんきゅ」
差し出されたスポーツドリンクを受け取って、蓋を捻る。満足そうに頷く青八木の髪や額、首元は玉のような汗が浮かんでいた。夕陽に照らされた金色から、少しずつ滴っては自分の身体や地面を濡らしていく。
「……」
青八木を見つめたまま、受け取ったドリンクを口にしない手嶋の様子に青八木が小さく首を傾げて、どうしたと視線で問いかける。
「……オレまだ余裕あるなぁって思ってた所」
「もう何本か増やすか?」
「いやー……」
どうかな。苦笑いを零してドリンクを煽る。喉から腹へ冷たい物が流れ落ちて、僅かばかりぼんやりしていた思考もはっきりしてきた。
「にしても、暑いなあ」
「ああ」
青八木が頷いて、腕で顎に伝う汗を拭う。それでも流れる汗は止まらなくて、困ったように笑った。
返事
いつも無口な相棒から、とてもシンプルな封筒を手渡された。家に帰ってから開けろと言われて、手嶋はその通りに帰ってから、それを開けた。
好き
封筒からぽろりとこぼれ落ちた言葉は弾けて消える。
中の便箋に書かれた言葉、無口な相棒が綴る精一杯の饒舌さ。
手嶋が文字を追う度に便箋の上を跳ねてまわる〝好き〟を追うように、指でそれをなでた。
感謝と、信頼と、尊敬と。
そこに見え隠れする愛情と。
これはラブレターだ。本人に自覚はあるのか、迷うところではあるものの。
傍らのスマートフォンを手に取る。耳に当てて数秒、寝ぼけた声が聞こえてきた。
「オレも好き」
電波の向こうで、がたんと何かが落ちる音がした。
土の中
僅かな蝉の音が手嶋の耳に届く。重たく息苦しい空気の中に混じるその音が、少しばかり苦手だった。
あの音を聞くと、何故か急かされている気分になってしまうのだ。
「青八木、窓閉めて」
茹だる室内を換気する為に開けていたが、あれがどうにもうるさい。さっきまで遠くの方で泣いていた筈なのに、呼応したように近くの蝉も喚き始めたようだった。
青八木が無言で窓を閉める。そしてうなだれていた扇風機のスイッチを入れて、手嶋に向けた。
「青八木」
掠れた声で呼ぶ。ぬるい微風で薄い色の髪を揺らしながら、青八木が手嶋を見つめた。
「ここにいる」
「うん」
「不安か」
「分かっちゃう?」
こくり、と頷かれて口の端が歪む。
「オレの前世、蝉かもしれない」
土から出られなかった蝉だよ、きっと。
「なら土から出られてよかった」
「ほんとだわ」
青八木は静かに笑った。
熱
手のひらで触れた背中はしっとりとして、抱き寄せたひとは熱かった。
「……あつい」
少しばかりの抗議を込めた声色を聞こえないふりをして、夜の熱気で火照った恋人の身体に、肌に触れる。自分より少し小柄で、自分よりも少し筋肉質な身体が腕の中で身じろいで、諦めたようにもたれ掛かってくる。手嶋はゆっくりと笑みを浮かべて、それを隠すように金色が覆う首筋に埋めた。
「純太」
耳の後ろでなだめるような声がする。半ば諦めたように、自分の名前を呼ぶ青八木の背に軽く爪をたてれば、その声もやんだ。
「……あついんだよ」
「ん……」
「お前もだよな、青八木」
手嶋の低い声が青八木の耳元で震える。伏せがちな目を彷徨わせてから、青八木は手嶋の肩に自分の額を乗せた。
流れ星ふたつ
引力に導かれた宇宙の旅人が今際の際に輝いた瞬間を見つけて、手嶋はあっと声を上げた。
「流れ星」
「お願い事したか?」
「うーん」
願い事を考える間もなく見えなくなったので、また見えたらなと笑う。
「青八木は何かお願いしたい?」
「……」
小さく首を傾げて青八木が考え込む。言われてみれば中々思い浮かばないものだなと呟けば、そうだよなぁと手嶋が相槌を打った。
すると、また別の流星が席ほどのものと同じ方角へ向かって駆けていくのを見て、二人は顔を見合わせる。
「お願い事した?」
「してない」
まさかこんな短時間に二つの流れ星を見るとは思わなかった。彼らが去ってしまった後の夜空を、手嶋は目を細めながら見上げる。
「もしかしてさっきのやつを追いかけていったのかもな」
「純太はロマンチックだ」
「そうか?」
こくりと頷く青八木が星二つが去って行った方向を眺める。暫く二人とも黙りこくって、立ち竦んでいた。手嶋が気を取り直したように歩き出す。
「追いつけたかな」
「どうだろうな」
青八木が歩き出さずに、じっと空を見上げている。
「また一緒になれたらいいな」
「……青八木も人のこと言えないぞ」
「誰かさんのおかげだ」
「褒めてる?」
「褒めてる」
振り向いて視線を投げかける手嶋に笑って、青八木はゆっくりと歩き出した。
星屑を踏む足
空から落ちた星屑が砂になったんだよ、と手嶋は真実のように語る。たしかに足下の砂は微かに煌めいていて、暗くなった辺り一帯をぼんやりと白く照らしていた。
白い星屑の砂の上に、手嶋は裸足で立っていた。足の甲や脛には所々小さな傷をつけていて、治りきらないそこから流れた血が、砂を濡らしている。
「純太」
その傷が出来た理由を知っている。ほとんどが練習やレースでつけた傷で、傷ついては癒えていた筈のものだと、青八木は知っていた。
(本当に治っていたのか?)
青八木がふと思い至って、手嶋の傷ついた脚をじっと見つめる。たしかに脚は癒えるのだ。小さな傷なら、少し血が流れてから、塞がっていくのだ。
(それだけじゃ無いはずなんだ)
彼が脚に傷をつけるたびに、痛む心があったはずだと青八木はざわつく胸を押さえる。
劣等感、焦燥感、諦観。
(傷ついたものを動かすのは、痛い)
それでも笑いながら、砂を赤く濡らして立っている相棒は強い。
「誰がなんて言おうと、純太は強いよ」
刹那に星屑が瞬いて、視界が白む。次に目を開けた時は、見慣れた天井だった。
隣で相棒は眠っている。ぐっすりと眠りこけるその身体に身を寄せて、所々に瘡蓋の感覚が残る脚に、自分の脚を絡めた。
もう一度目を瞑る。まぶたの裏で、星が瞬いてる。