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    星ノアまとめ  (9/13更新)TUNINGはなよりもだんごよりもあなたああなつかしき千夜一夜Daylightそれでも、照りつけてくるはなびラムネ背中Impromtu狼の皮をかぶるすきなもの初冬の朝ゆきのおと初詣三が日の過ごし方零に近しい距離ハグ通り雨たんぽぽいちごミルク大人ののみものおみやげもう一度でも何度でもおりがみゆめうつつとも夕暮れのチャイム初夏のアイスクリーム六月度三期生リーダー会議七夕連れ出す夏祭り早朝の蜩終わりの向日葵月見ファストフードクリスマスツリー乾いた喉にはりついて努力こがねいろあめのおりもうなんどもハグ
    TUNING 暗がりのホールの中、抑えられた照明だけがステージを照らしていた。
     光は一つの輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。陰影を落とされた金色がゆらり、揺れた。
     一つの音が震えた。そして畳みかけるような響きが静寂を引き裂いては空気を揺らがせていく。
     歌うように、裂くように、暴力的に、甘く囁くように。
     全ての静寂を制して、全ての雑音をねじ伏せて。それは星夜の鼓膜を震わせている。
     余韻がやってきた。消えゆく事が名残惜しいと。再び静寂に包まれて、そこでようやく星夜はほっと、息を吐くのだ。
    「……やあ、星夜。お疲れ様」
    「お疲れ様、ノア」
     二人きりの筈だ。しかしそういった世界に身を置いている以上、第一声はそんな他人行儀な挨拶で始まる。それでもステージ上のノアは穏やかに笑っている。抑えられているにしても照明の下は暑い。額に浮かんだ汗をタオルで押さえて、それから小さく首を傾げた。
    「スタートまでまだ時間はあるけど」
    「それは……早く会いたくなったんだって」
    「嬉しいよ」
     ピックが弦を弾く。鳴る音に合わせて、すらりとした指がペグを締める。音が鳴る。指に力が籠もる。
    「皆には会った?」
    「おう!」
    「……そう」
     満足そうに頷くノアに、今日は上機嫌なのだと星夜は悟る。きっとライブへの昂ぶりがそうさせているからだと納得して、星夜はステージに近づこうと一歩進む。それでもなんとなく、近寄りがたい気がして、足を止めた。
    「お土産持ってきたぜ、水ようかん。楽屋に置いてあるからさ」
    「Really?」
     自分の好物の名前を耳にして、ギターに落としていた視線を僅かに上げた。薄いブラウンの瞳をぱちりと瞬かせて、それから気を取り直したように目を伏せる。
    「じゃあ皆で食べよう。終わった後にね」
     心なしか声が弾んでいるノアに相槌を打つ。また一つ音が空気を裂いた後、ノアはゆっくりと息を吐いた。
     オーケー、と呟きながら立ち上がったノアが袖中に消える。しかしすぐにそこから顔を出して、戻るよと星夜に一言告げた。
     ふわりと金色が袖中に引っ込むのを見届ける。
     もう一度誰もいなくなったステージに目をやる。あと少しの後、この暗闇は熱気に包まれるのだろう。
     ごつごつとした古い巨木が、うすいピンク色に覆われている。いつか遠い過去に幼馴染みから送られてきた写真の風景にひどく似たものを目の当たりにして、ノアは思わず呟いた。
     ああ、これはすごいね、と。
     桜と呼ばれるこの国の春を象徴する木を見上げている合間にも、うすい花弁は一粒ずつひらり、ひらりと枝からこぼれ落ちていく。雲か霞か、澄んだ青空を染めながら風がそよぐたびにひとひらを雨のように降らせるそれを、星夜とノアは少し離れたベンチから眺めていた。
     二人の間には星夜が購買部で買ってきた三色団子のトレイが落ち着いている。それからペットボトルの緑茶。星夜曰く、この組み合わせが良いらしい。
    「日本の人達はこうやって、春にピクニックをするんだね」
    「花見っていうんだぜ、ノア」
     ハナミ、星夜がたった今教えてくれた単語を反芻する。それから暫く黙りこくって、行儀良く桜を見上げるノアの姿を星夜は横目で窺った。ノアは今、自分なりに花見を実践しているのだろう。
     静かな時が流れていく。思い出したかのように通り過ぎる車のエンジン音。気まぐれに強く土を撫でていく風の音だけが、二人の耳に入っていく。
     ひとつ、小さな花弁ひとかけが柔らかな金色に甘えて張り付いたのを星夜は見た。
     当のノアは気づかないまま、淡々とこぼれ落ちる花弁達を眺めている。
     ひとつ、またひとつと力尽きていくそれを、真剣な眼差しで。
     そんな幼馴染みに目を奪われてしまうのは、きっと彼と桜が妙に似合うからだと一人納得することにして。
    「星夜」
    「えっ、何だ?」
     桜を見つめていたノアの、薄いブラウンの瞳がこちらに視線を寄越してきたのに気づいてどきりと一拍、時が止まる。
    「星夜は花見、しないのかい?」
     オレの方ばかり見て、もったいないよ。そう笑うノアに星夜はどうしようもなくなって、誤魔化すように団子にかじりつく。やさしい甘さが、曖昧な歯ごたえが口にいっぱいに広がっていく。
     そうしながらノアがしているように桜を見つめる。しかし落ちる花弁は少年の心を茶化すかのようにひらひらと覚束ないで風に攫われていく。
    はなよりもだんごよりもあなた
     眠れない夜にしか、出来ないことをしよう。

     なんだか眠れなくてとはにかむ幼馴染みの姿に苦笑しながら、部屋へと招き入れてそう言ったノアの声色もどこかいたずらっ子のようだった。
     既に窓もカーテンも閉めて、灯りは枕元のものだけにした部屋に二人。
     オレンジのぼんやりとした光が暗がり溶けた家具の輪郭をわずかに浮かび上がらせている。
     ベッドは十七の少年二人を受け入れて、優しく沈んでは白いシーツに皺を作る。傍の灯りのせいか星夜にはそれがはっきりと見えて、ひどく懐かしい気分に駆られた。
    「眠れない時にしか出来ないことって?」
    「そうだね、例えば」
     昼のあたたかさを吸いこんでふっくらした枕を胸元に引き寄せながら、ノアは考え込む。
     例えば、たとえば、と数回繰り返してからぱちりと、瞬きをした。
    「例えば、近況報告とか」
     近況報告。星夜がノアの言葉を繰り返す。いまいちぱっとしない反応だ。
    「きんきょーほうこくって眠れない時にするものなのか?」
    「そういうわけじゃないけどね」
     きっと純粋な疑問を口にしたのだろう星夜の言葉にくすくすと笑いながらノアは首を振る。
    「いつでも出来るけど、普段は中々しようとは思わないだろう?」
    「確かに……」
     だから、眠れない時にするんだ。
     殆どが他愛無いことかもしれないけれど、それでもいいんだよ。
     ノアが天井を見上げて枕の端を弄りながら口にするのをどこか感心したように頷き、それから笑ってそれじゃあしよう! とすっかり眠気の飛んでしまった声で星夜が笑う。
    「近況と言っても、もっと前の事でもいいんだ。……ほら、星夜が帰った後とか……」
     いつか子どもの頃、特別に思えていた夜更かしはいつから特別ではなくなってしまうのだろう。
     それでも今この眠れないひとときがしあわせであって欲しいとノアは思わずにはいられない。
    ああなつかしき千夜一夜
    Daylight
     太陽の光で染めたような
     或いはライ麦畑の憧憬を閉じ込めたような
    そんな彼の金の髪が好きだ。

     視界の端でゆらゆらと揺れるそれの気配を感じながら、ノアは楽譜をめくっている。
     頼れる作曲家が創り上げたメロディを口ずさむ。どんな言葉をのせようか、悩みは尽きない。どれだけ学んでもこの国の言葉は難解だ。月が綺麗ですねと言えばそれはI love you.と同義だなんて、初めて知った。
     月が綺麗ですね、と伝えたとして。
     そのまま額面通りに受け取る人もいるだろう。そして、その言葉を聞いた途端に顔を赤らめる人もいるだろう。
    (つまり、それは僕たちの曲と同じだ)
     正解なんてものは無いけれど、自分達が意図したものに限りなく近い解釈は存在する。しかし逆に、意図したものでない解釈も存在する。
    (だから面白いんだ)
     緩やかな陽光に誘われるように、深く深く思考に耽る。思案と微睡みの境界線に意識を彷徨わせていれば、不意に間の抜けた声が隣から聞こえてきた。
    「……星夜?」
     声の主に顔を向ける。先ほどまでうつらうつらとうたた寝をしていた幼馴染みは、まだ意識が浮上しきらないのか星を抱いた空のような瞳をぼんやりとノアに向けていた。
     数秒の沈黙は春の陽気に包まれている。
    「ノアの髪ってさ」
     ぱちりと星が瞬いて、それが笑顔に変わるのは直ぐ。

     そうか、陽の光は恋の色なんだ。
     眩い金色に目を細めたノアはたった今気づいてしまって、それからすぐにこれは自分だけの感覚だと悟ってしまい、軽い目眩をおぼえたのはそろそろ夏の気配が混じる春のことだった。
     子どもの絵日記に出てくるような空だった。
     突き抜けた青空とそこに立ち上る入道雲があまりにも、らしすぎる。夏だ! とはしゃぐ幼馴染みに思わず笑ったものの外に出た途端にぷくりと浮かんでは流れていく汗を手の甲で拭って、身体の中に溜まった熱を逃がすように息を大きく吐いた。
     日本の夏は、故郷とはまた違った暑さだ。包むような熱気とじりじりと睨む太陽光線が逃がさないと言いたげに身体に纏わり付いてくる。のし掛かってくると言ってもいい。
     そんな中で目の前の幼馴染みは笑っている。何度もこの夏を過ごしてきたので慣れてしまったのか、それとも生来の活発さがこの暑さに勝っているのかノアには判断がつかない。
    「星夜は元気だね」
    「そうか? いつも通りだろ?」
     いつも通りだからこそだよ、という言葉を飲み込んで頷く。それにしても暑いよなぁと空を見上げながら零す星夜の声からは寧ろ、喜びを孕んでいた。
    「太陽も眩しいぜ! ぎらぎら~って感じで、やっぱ春とか冬とかと違っ」
     真上に昇った太陽を見上げようと顔をあげかけた星夜の腕を思わず掴む。
     ノアのじっとりと汗ばんだ掌が星夜の火照った肌に触れて、やっぱり彼も暑いんだと悟る。
     ノア? と首を傾げられて、もう……と眉を寄せた。
    「太陽は直視してはいけないんだよ、星夜」
    「チョクシ?」
    「……直に見ちゃいけないんだ」
     目を痛めてしまうから。ノアの言葉にああ、と納得して星夜が小首を傾げた。そういえばちっちゃい頃に言われたなぁ、と。
    「気をつけて」
    「へへ、ありがとな、ノア」
     
     直に見てしまった。ノアがはっと気づいたには手遅れだった。

     星空を抱く瞳を丸くさせて、眩く輝く金色を揺らして、無邪気に笑うこの幼馴染みがほんの少しだけ腹立たしくて。それ以上に愛おしい。
    (だってこの前もじゃないか)
     きっと彼はそんな意図はさらさら持っていなくて、なんの打算も無く。
    「……星夜」
    「ん?」
    「暑いね」
     我ながら的外れな切り出し方だと思ったが、言ってしまったのだからしょうがない。
    「そうだな?」
    「……どこか入らないかい?」
     一休みついでにお茶でも。努めてなんでもないふうに言ったつもりだけど自信がないな、と眉を寄せる。
     それを見てどう受け取ったのか、星夜が慌てた様子を見て取り繕って微笑んだ。心配しないで、と。
    「こんな暑さだと冷たいものが食べたいよね」
    「それならかき氷食べようぜ!」
    「いいね、一度食べたかったんだ」
     星夜のおすすめのお店があるならおしえてよ。ノアの声に表情を明るくさせて、それならと星夜が歩き出す。
    (そう、頭を冷やすべきだ)
     太陽が照りつけたせいで眩い視界をひとつふたつと瞬きをさせて、ノアはまた小さく息をのんだ。
    それでも、照りつけてくる
    はなび
     まだ熱の籠もった闇の中で、光が吹き出すのを楽しんだ。時折白い煙が視界を覆ったが、幼馴染みの楽しそうな声につられてノアもくすくすと笑う。
     ただ手に持った棒から色とりどりの火が一分程吹き出すだけなのに、何故か楽しい。母国にない珍しい遊びだからか、それともこの幼馴染みと一緒だからか。いやおそらくどちらでもあるのだろう。
     六百円と少しずつ出し合って買った詰め合わせをたっぷり楽しんで、すっかり寂しくなってしまった袋を見れば、そこには細い糸のような物の束があった。
    「ねえ星夜」
     これも花火なのかい? 他のとは少し違うようだけど。あまりに頼りなさげなそれを指で摘まんで、まじまじと見つめる。すると星夜が目を細めて、口角を上げるのだ。
    「それは大事な花火なんだぜ」
    「どうして?」
    「んー、なんでだろうな? でもノアもきっと気に入る! と思う!」
     根拠の無い言葉なのに、星夜が言えばそうなのだと思えてしまう。どうやってするのかな、と星夜にその束を渡せば、やはり頼りないそれを一本手渡される。同じように一本を手にとって、星夜がしゃがむ。ほらノアもと手招きされて、脚を揃えてしゃがんでみた。そこには、短くなった蝋燭が火を揺らめかせている。
     こうやって、と星夜が持ったそれの先端を火に近づける。すぐに燃え尽きると思えたそれは、ぷくりと丸い火をたくわえて、ぱちぱちと鳴りはじめた。
    「……」
     小さく弾ける音と共に、小さな火花が火球の周りから躍り出る。そんな光景と共に独特の火薬の匂いが鼻を掠めて、ノアは不思議そうに星夜の持つ花火を見つめている。先程の花火もそんなに騒がしくないものだったのに、この小さな花火のかそけさに比べれば随分賑やかだったように思えた。星夜でさえじっと黙って、徐々に激しさを増す火花を見つめている。これは静寂の中で楽しむものだとノアは理解して、そっと息を吐く。
     火花達が星夜の横顔を照らす。笑みを浮かべて小さな花火を見つめる表情にどこか寂しさを感じたが理由は分からない。きっと星夜も寂しいという気持ちは露ほど持っていなくて、寂しいように見えるのはきっとこの花火が寂しさを持つものなのだからだと直感した。
     やがて火花が少なくなり、ぷくぷくとした火の玉がふるり震えて。
    「あっ……」
     暗闇が広がる。少し不安になって、蝋燭の灯りを探したがその火も小さくなっている気がした。
    「……」
    「線香花火って言うんだぜ」
     星夜の密やかな声が鼓膜を擽る。
    「……やってみていいかい」
    「おう」
     手にした花火を蝋燭の火に近づける。小さく弾けるような音をさせて、小さな火が灯った。
     ほとんど息を止めるような心地で、ノアは踊る火花を見つめ続ける。火はこんなにも小さいのに頬にあたる空気は熱い。
     それからひとつひとつと、線香花火に火をつけては眺め、暗闇の中で笑うのを二人は楽しんでいた。
    ラムネ
     星夜はもう着いたかな。ふと浮かんだ疑問が引力を伴って、ノアの視線を窓へと引き寄せる。突き抜けるような青空が、どこか彼らしいと思ってしまった。星夜はとにかく、晴れを呼ぶ男だ。
     机の上に転がっているそれに視線を落としてみる。小さなコインのようなラムネを包んだ黄色いセロファンが、晴れた空から降り注ぐ陽光に淡くきらきらとしている。
     「……」
     朝方にすれちがったF∞Fの三人に今日からロケだってね、気をつけていってらっしゃいと声をかけたノアにお土産楽しみにしてろよな! と笑いながら渡してきたのがこのラムネだった。道中で食べるつもりらしいお菓子の詰まった袋から出されたそれをおすそ分けだと気持ちよく言い放った幼馴染みの顔を思い出しながら、ぱりぱりと音を立ててセロファンを広げてみる。白い菓子がいくつか重なっていて、少しでもつつけば崩れてしまいそうなそれをそっと摘まみ上げて口に放り込んでみた。
     舌の上で、泡立つような感覚がしたと思えば、ふわり甘酸っぱい味が口に広がる。コンビニでよく買うタブレットミントとは違った味と食感だった。
     「……」
     もう一つ。やはりすぐに溶け崩れて、その儚さになんだか笑いたくなってしまった。
     
     しばらく一人でラムネを楽しんで、残ったのは黄色いセロファンのみ。形の良い指でそれを広げれてみれば乾いた音がして、相変わらずきらきらと光を反射している。一寸思い立って、それを空にかざして透かして見てみるとそこだけが緑になっている。暫く見つめて、やっぱり青と黄がいいなぁと独り言ちながらノアは、セロファンの音を何度も生み出してみるのだった。
     机の上のスマートフォンが電子音をノアに放り投げる。セロファンを弄ぶ指を離して、端末を手に取る。
     ついた、すげー暑い! と南の島が嫌というほど似合う笑顔をこちらに向ける星夜の自撮りに少し安堵しながら、ノアはお疲れ様、ラムネおいしかったよと軽やかに画面を叩いた。
     せいや、星夜と声を掛けられて、はっと我に返る。目の前に座っていたノアがじっとこちらを見つめていた。その手は紙の束を持っている。わりぃ、とそれを受け取って後ろに寄越せば、皐月と睦月のくすくすとした笑い声が聞こえた。後ろの席にレジュメを回す役目を終えても尚ノアは自分から目を離さない。それからそっと目を細めて、小さく首を傾げる。
     「夜更かししてたのかい?」
     「ん、あー……ちょっとだけだよ。帰りが遅くなって……」
     「……ほどほどにね」
     ほんの僅かに咎めるような、というよりも恐らく心配が勝っているであろう声色でノアが囁く。それから教師の声が聞こえてきて前に向き直った彼の背中にわかってる、と小声で答えれば、軽く肩が揺れた。
     教師の溌剌とした声を聞きながら、ノアのぴんと伸びた背を眺める。時折ノートに何かを書き留める為に俯いたり、小さく頷いたりするのがよく見えた。
     柔らかそうな金髪がさらさらとしているのを、転がったペンを慌てて掴むのを、少し集中しすぎて力を抜くように深く息を吸うのを見ていると、不意にノアがこちらを向いた。どきりと心臓が跳ねて、あわてて俯いてレジュメを眺めるフリをする。どっ、ど、と嫌に自分の心臓が打つ音がうるさい。そこに書いている文字列も今の星夜には意味をなさなかった。
    背中
     細い雨が絶え間なく降っている。ホワイトノイズにも似た音が学園を包み込んでいた。校庭が見える廊下もいつもよりほの暗く、湿っぽい。しかしほんの一ヶ月前、あの暑い夏が連れてきた乱暴者のような重苦しい湿っぽさではなく、この時期の湿っぽさは冷たい手でひたひたと神経に触れるようなものだった。
     「戸締まり……オッケー」
     そんな日に限って仲間である晃と奏多はそれぞれの仕事でいない。勿論自分にもあるのだけれど、それでもユニットルームに一人でじっとしている気にはなれず、食堂に行こうか、レッスンルームに行こうか、それとも図書館で入荷した雑誌に憧れの竜胆椿が載っていないか確認しに行こうかと部屋を悩んだ末に部屋を出て、扉を閉めた所なのだ。
     抜いた鍵をポケットに突っ込む。結局決めきれず、とりあえず一歩踏み出してというところで耳に届いたのは柔らかな弦楽器の音色だった。ささめく雨音に溶けていくような、もしくは雨の中を気まぐれに散歩でもしているかのような、そういった音色だった。
     ノアのギターだ。
     音を聞いてすぐに、その持ち主が思い当たった。彼にしては珍しく、あてもない音だった。IBのユニットルームは隣ではあるものの、少し離れている。ついさっきまで考えていた行き先のことはすっかり忘れて、星夜は音の方向へ歩き出していた。
     
     ドアにはIBのロゴを模ったプレートが飾られている。やはりギターの音はこの中から漏れていた。音の呟きがぽろぽろと溢れてはだんまりをしを繰り返している。よくよく耳を澄ませば歌も聞こえてきたような気がした。
     (邪魔しちゃまずいかなぁ)
     音の主がある程度分かったところで星夜の脳裏にある種の遠慮がよぎる。ノアの音だとは思うが、もしかするとノアのギターを借りているレオンかもしれないし、はたまたリュカかもしれない。だが五人という大所帯であるIBが揃っているならもう少し騒がしくてもいいはずだ。それが今は、穏やかなギターの音と、ドアに隔たれて誰のものか判然としない歌が聞こえてくるだけで。
     しかし星夜の思考は扉の開く音で破られる。ゆっくりと扉を開ければ幼馴染みが少し難しい顔をして突っ立っているのに遭遇したノアが、ぱちぱちと瞳を瞬かせる。
     「星夜?」
     
     「ノックしてくれたらすぐ出たのに」
     くすくすと可笑しそうに笑って、ノアが棚からポットとティーカップを出す。慣れた手つきでお茶の準備を始める幼馴染みを眺めながら、だって邪魔しちゃ悪いだろと言えば、小さく首を振った。
     邪魔だなんて、そんなこと。首を振って星夜の前にティーセットと砂時計を置いたノアの表情はどこか嬉しそうだった。
     「むしろ丁度良かったかな、少し……テモチブサタだったから」
     「テモチブサタ?」
     うん、と頷いて雨降りしきる窓の外を一瞥し、それから傍らのギターを撫でる。
     「今日は皆用事があってね、レオンは巽とショッピング、リュカは作曲のアイデア探し、朝陽とラビは週に一回のカンフー教室」
     出かけようにも雨だったから、こうしてギターと過ごしていたんだ。ああ、そろそろ出来上がってるよ。
     砂時計が下へ落ちきるのを見てそう促すノアに目配せして、星夜がポットから紅茶を注ぐ。白くシンプルな陶器製のカップに温かな液体が満たされて、ふわりと甘い匂いが漂った。角砂糖を一つ落とす、ゆっくり溶けていったのを見届けていただきますと一口飲めば、温かさが身体の底から沸き上がってきた。
     「オレも、奏多は芝居の稽古で、晃はどっか出かけてて、オレはどうしようかなって思ってたら……ギターの音が聞こえてきて」
     「……近所迷惑だったかな」
     「そんなことないぜ! だって本当にちょっとしか聞こえなかったしさ、もしかしてノアかなって思っただけだ」
     慌てた様子で首を振る星夜を見てノアが目を細める。ほっとしたような、そして少しの驚きと喜びが混ざったような表情だった。
     「それならもう少しだけ弾いていいかな」
     「むしろお願いだって感じだ」
     やや食い気味の星夜の声に軽く苦笑いしながら、ギターを抱える。何を弾こうかとも言わず、ただおもむろにつま弾いて、不思議とそれが曲になっている。ノアが気分の良さそうな顔で重く甘い音色を生み出すのを星夜は肘をついて眺めていた。
     そうしている合間にもぽつぽつと会話が続いている。ノアがこの前の課題は終わった? と聞けばすっと目を逸らす星夜に可笑しそうにしながらちゃんとやらなきゃ晃に怒られるよと付け足し、それからまた別のとりとめのない会話を何度か交わして、そして不意に、ノアの指が止まった。
     「……晴れたね」
     「あっ」
     窓を割るような勢いで夕陽の光が降り注いで、部屋を染めている。ひんやりとした湿気はまだ残っているものの、気持ちよいほどの夕焼けが現れていた。その様子をギターを抱えたまま眺めて、ノアが小さく声を出す。夕陽に染まった横顔から、星夜は目を離せなくなる。
     「ねえ星夜」
     「おう」
     課題は今度手伝うから、今からどこかにって、どうかな。
     半ば思いつきに聞こえた。ノアの視線が星夜を捕らえる。どこか有無を言わさないような目だった。
     「オレも同じ事考えてたとこ」
     星夜が人懐っこい笑顔を向ける。決まりだね、ピリオドを打つかのようにもう一音鳴らして、ノアは立ち上がった。Impromtu
     トリックオアトリート、拙いながらもこの時期ではおなじみの合い言葉がそこかしこで飛び交っている。手にしたジャック・オ・ランタンを模したバケツはそろそろ軽くなってきて、中身を補充しに行こうかとノアは持ち場をリュカに任せて離れた所だった。
     「とりっくおあとりーと!」
     「Yes,お菓子をどうぞ。ハッピーハロウィン」
     すれ違いざまの子どもに声をかけられて、微笑みながらお菓子を手渡す。狼男だ!と指差してくるのがおかしくてくすくすと肩を揺らした。
     
     「ノア、トリックオアトリート!」
     再びお菓子が詰められて重くなったそれを手にテントから出てくれば聞き慣れた声に呼び止められる。秋の晴天、穏やかな太陽に金色を輝かせて、吸血鬼に扮した幼馴染みがそこにいた。手にはオレンジ色の大きなバケツを持っている。それももうそろそろ満杯に近い。
     「星夜」
     「おかしくれなきゃ悪戯するぜ!」
     にっと満面の笑みを向ける星夜に星夜はお菓子を配らなくていいのかい? だとかそんなにお菓子を食べて大丈夫? だとかの言葉をゆっくりと押し込めて、ノアが瞬きをする。
     「……沢山貰ったんだね、重たくないかい」
     「全然! 子ども限定で参加できるラリーの案内役してるんだ」
     そういえば企画書に書いてあった。パレードの他にもミニイベントがあって、その中で子ども限定で参加出来るラリー……案内役のアイチュウと一緒にお菓子を集めるイベントが立ち上がっていた筈だ。ふと気がつけば星夜の後ろには数人の子ども達が目をきらきらと輝かせてこちらを見ている。おおかみおとこだ。金色の髪のおおかみさん、がいこくのひと?と口々に言う子ども達にハロー、と微笑みかければ、わぁっと歓声が上がった。
     「それじゃあ、お菓子をあげないとね。尻尾に悪戯されると叶わないから」
     「やったぜ! 皆、ノアがお菓子くれるから並んで受け取ってくれよな、合い言葉も忘れずにな!」
     はぁい、と子ども達がノアの前に並ぶ。へえ、中々いい案内役じゃないかとからかいたくなるのを飲み込んで、嬉しそうにトリックオアトリートと口にする子どもにHappy Halloween と応えてお菓子を渡していく。時折お耳さわっていい?とか尻尾は本物?と聞いてくるのにいいよ、そっとね。としゃがめばおずおずと伸びる小さな手が、偽物の狼耳に触れてそれから楽しそうな声があがった。
     「IBの皆は?」
     「お菓子を配ってるよ。E-2あたり」
     マップの区分け番号を告げればじゃあ後で寄ってみる! と言われて、小さく頷く。よしじゃあノアにお礼を言って次に行こうぜ! そう元気に告げる星夜に小さな参加者たちも元気よく応えた。
     「星夜」
     「ん?」
     ノアが星夜にそっと呼びかける。きょとんと夜空の色をした瞳が真っ直ぐにノアを見つめてきた。
     「……Trick or Treat」
     オレにもお菓子を頂戴。殆ど内緒話に近いような小声でノアが囁く。その声に頬を赤らめてから、星夜がわかったとバケツの中のお菓子をノアの右手に握らせる。
     「これだけ?」
     「えっ?」
     「……」
     「……」
     ほんの数秒の沈黙が流れる。それから軽く吹きだしたノアが悪戯っぽく微笑んで。
     「お腹を空かせた狼を待たせないうちにね、吸血鬼さん」
     そんな事を言いながら星夜の背中をぽんと叩いて歩き出す。そして振り向けばぽかんと口を開けた星夜が数秒して、一層頬に熱を集めるのに手を振った。
     「ほら星夜、子ども達が呼んでるよ! いってらっしゃい!」
     そう爽やかに微笑みを振りまき、作り物の尻尾を揺らしながらノアは、仲間達のいる持ち場へと戻っていった。狼の皮をかぶる
    すきなもの つやりとしたくらやみが真っ白な皿の上で澄ましているのを見るのが、ノアは好きだった。一見、少しでもつつけば溶けるか崩れるかしそうなそれは、実際にそうしてみると笑うようにぷるぷると震えるばかりで。
     いざ黒文字をその皮膚に食い込ませると音も無く切れていく感覚も、好きだった。
     「……どうしたの?」
     小さく切り分けた水ようかんを口に運びかけたものの、目の前の恋人の視線が気になった。いきなり問いかけられて不意を突かれた星夜が少しだけ戸惑いの顔を見せる。
     「そんなに見つめられると恥ずかしいよ」
     水ようかんなんて珍しくないだろとノアが一口、それを食べる。舌の上で涼やかな甘みが広がっていくのを感じて、幸せに目を細めた。
     「……だってノア、すげー幸せそうだから」
     にっと笑いながら答える星夜にそう見える? と首を傾げる。確かにこれは自分の好きなもので、久しぶりにゆっくりとそれを堪能する機会に恵まれて、しかも星夜と一緒に。そういうわけで少しぐらい上機嫌でも何もおかしいことじゃない。しかしこの無邪気で元気の良い恋人が、自分が甘味を楽しんでいる所を静かに見つめ続けてくるとなんだかくすぐったくて落ち着かなかった。
     「星夜も食べなよ」
     照れ隠しに促すと、おうと笑って黒文字を摘まむ。同じように真っ白な皿の上で大人しく待っているそれの肌を傷つけ、切り分けて口に運ぶ様子をじっと見てノアは、小さく息を吐く。確かに星夜の気持ちも分からないでもない。
     美味いなぁ、これ。明るい声をあげてもう一口、二口とあっという間に減っていくそれと星夜を眺めながら、ノアは共に出された温かなお茶を口にする。よかったよ、と平静を装いながら恋人が甘味を楽しむさまから目をそらせずにいた。
    初冬の朝 冷えた朝の素っ気ない空気に溶けるような、柔らかな歌声だった。
     ノアの歌声だ。幼馴染みが歌っている。校庭を走っていた星夜が思わず足を止めて、校舎の方を見れば三階の音楽室があるあたりの部屋にノアはいた。窓を開けて、遠くを見つめながら幸せそうに口ずさんでいた。自分のような歌い方ではないけれど、それは確かに澄んだ空気を介して聞こえてきて、星夜の頬を緩ませた。もっと近くで、と窓の下に歩み寄る。幼馴染みは気づいていないようで、のんびりと母国の言葉で歌い続けている。
     手を挙げる。ノア、と声を上げようとした所で中にいた誰か、恐らく彼の仲間の誰かが呼びかけたのか、柔らかな金髪が揺れて歌が途切れた。振り向いた姿勢で一言二言話しているのを、どこか残念な気持ちで手を下ろし、眺める。軽いジェスチャーを交えながらノアが小さく頷いて、それからまた窓の外に向き直りゆっくりと深呼吸をした。微かに白い靄が唇から溢れて、ノアの目がすっと細まった。
     窓を閉めようと身をひいたノアの動きが止まる。薄いブラウンの瞳と目が合って、急に頬に熱が集まったような気がした。星夜、と不思議そうな声が降ってくる。
     「どうしたの、今日は早いね」
     「ランニングしてた!」
     本当のことなのに何故か言い訳しているような気分だ。どこか落ち着かない星夜の様子を感じ取ってか、ノアは小さく瞬きをしてから風邪ひかないようにねとくすくすと笑う。おう、と頷いて、それから何を言うべきか星夜は迷ってしまう。ただ数秒、お互いに黙って見つめ合う格好になり段々ともどかしくなってきた。それでも軽く息を吸って。
     「あ、あのさ、ノア!」
     「……そんなに大きな声じゃなくてもいいのに」
     「オレ……今、すっげーノアの歌、聴きたい!」
     殆ど叫ぶような、ただでさえ声の大きな星夜の、叫び声に驚いたようにノアが目を見開く。なんだなんだ、とその後ろからレオンとラビがひょっこり顔を出した。
     「おー、星夜じゃん! おはよー!」
     「あはは、朝から元気だなぁ」
     「……これから皆で練習なんだ。ごめんね、星夜」
     困ったように眉を下げて小首を傾げる。言われてみればそうだ、朝早くに音楽室にいるということは、そういうことだ。確かクリスマスのあたりでライブがあると言っていた。そうだった! と軽く頭を抱えて残念そうにするもすぐに、それじゃあまた今度な! と満面の笑みを向ける星夜にノアがゆっくりと頷く。レオンもラビも引っ込んでそこからいなくなる。今度こそ、ノアもそこから離れそうなのに、目を離すことが出来ない。
     「星夜!」
     「っ……?」
     彼にしては少し大きな声で呼ばれて、肩が震える。
     「昼休みは空いてるかい?」
     「あ、ああ! 空いてる!」
     星夜の返答に満足そうにノアが微笑む。
     「それじゃあ、また後でね」
     ともすれば一方的とも言える約束だった。からからと小さく窓の閉まる音がして、一人取り残される。暫くぼんやりと突っ立っていれば、ドラムとベースがリズムを刻む音と、ギターやキーボードの音が漏れ聞こえて、星夜は後ろ髪を引かれる気分で、そこを後にした。
    雪が降る音っていいよな。
     この冬一番の寒波が到来し、都内にも雪がちらつきだした。これが積もったらいいのにと笑って外に飛び出していった双子の背中を見送る。空にたちこめる分厚い雲から降ってきた雪を席から眺めていると、窓の傍で二人の仲間と雪を眺めていた星夜がそう言ったのを聞いた。
     雪の降る音?
     故郷でも雪は降る。がたがたと窓を鳴らしながら酷く吹雪いた後は庭も道も、真っ白に覆われる。
     あの明るい幼馴染みとクリスマスを迎え、年をまたいだ事もある。温かい部屋の中、ラジオから流れるクリスマス・キャロルを真似しながら眺める外の世界は、それこそ雪に音を吸い込まれたかのように静かだった。
     あの時、星夜は雪の降る音は聞こえていたのだろうか。それとも日本に来てから〝雪が降る音〟が聞こえだしたのだろうか。
    「……」
     そっと小首を傾げてノアが窓の外に意識を向ける。静かだ。いつも聞こえる筈の、遠くを走る車のエンジンの音も、きっと散歩の途中なのだろう犬の鳴き声も、雪に吸い込まれて落ちてしまったのではないかと錯覚するほどに。
     彼が好むその音はどんな音なのだろうか。まだこちらに来て日は浅い故に聞き取れないだけで、いつか冬を重ねていけば、オレにも聞こえるようになるだろうか。
     そんな事を考えながらノアはひとつ、溜息をつく。
     またひとつ、自分の知らない幼馴染みを見てしまって、妬けるような、嬉しいような、そんな心地になった。ゆきのおと
    がらがらと響く鈴と、賽銭が投げ入れられる音は絶えない。初詣と呼ばれる新年の行事を済ませて、今年こそは大吉をと意気込んで社務所に向かうレオン達の後ろをのんびりととついて行けば、ノア! と呼び止められた。
    「……星夜」
     振り向けば幼馴染みがこちらに向かって手を振っている。奏多と晃も一緒にいて、奏多はともかく晃がいる事にほんの少し、驚いた。
    「あけましておめでとう、皆」
    「あけましておめでとうだぜ!」
    「あれ、他の皆は?」
     奏多に聞かれて社務所を指差す。目立つ髪色の四人組が、今まさにおみくじを買っている所だった。
    「ノアはいいのかい?」
    「ふふ、オレはいいんだ」
     晃の言葉ににっこりと笑いながら、ノアが小さく首を傾げる。なんでだ? と星夜が聞けばここで運を使うのって勿体ないからと言葉を濁して、それからぱちりと瞬きをした。
    「三人は今からお参りかな」
    「おう、沢山願い事してくる!」
    「……沢山しすぎてカミサマを困らせないようにね」
     意気込む星夜に苦笑いしてそう返せば、背後でレオンの呼ぶ声が聞こえた。ああ、行かなきゃ。それじゃあね。ノアが軽く手を振って、踵を返す。
    「ノア!」
     一歩踏み出した所で、星夜に呼び止められる。何? と振り向けば、あのきらきらとした青い瞳と目が合った。その瞳が、嬉しそうにきゅ、と細くなって目尻に皺を作るのだ。
    「また学校でな!」
    「……うん、休み明けにね」
     星夜の元気な声にノアは柔らかな声で返す。今度こそ踵を返して、四人の元に向かう。後ろで星夜と奏多の元気な声が聞こえたが、それもすぐに雑踏の音に吸い込まれていった。
    「ごめん、お待たせ」
    「今のって星夜達だよな?」
     ラビの声にうん、と頷く。ばったり会ったから、新年の挨拶をしたよ。と言えばいいなぁとレオンが声を上げた。
     オレ達もご挨拶したかったですね、と朝陽が零せば、リュカも頷いた。
    「来週には会えるよ」
     ところでおみくじは引いたの? そうノアがレオンの持つ紙に視線を落とす。これから木に結びにいくんだけどさ、と眉を下げる英国紳士の声に、ああ、と結果を悟ってそれから、ノアはくすくすと笑った。初詣
     元旦の初詣写真をアップしようと、星夜がオンスタを開く。晃や奏多は勿論、他のグループメンバーもフォローしているのでホーム画面には正月特有の写真がずらりと並んでいた。やはりここ数日で「いいよ」の数が多かったのは元旦が誕生日の双子の投稿だろうか。
    「あっ」
     すいすいと画面を遡っていればノアの投稿が目に入って指が止まる。新年の挨拶と共にアップされた写真には、スタジオの中、笑顔の五人が写っていた。コメント欄を賑わせているのはI♥Bのファン達だ。投稿は一時間前で、きっとそのままセッションを始めているのかもしれない。あの幼馴染みが今年、最初に歌った歌は、何だったのだろうかと想像しながらキーボードを叩く。送信ボタンを押して、それからハートマークをタップした。
     それから自分の投稿ボタンをタップする。何て書こうかなぁと考えながら、神社の前で三人で撮った写真を眺める。初詣に誘ったのは星夜だ。二人とも快く誘いに乗ってくれた。
     クッションを抱えながら暫く考え込んだ後、画面と向き合いなおす。それから投稿ボタンを押して、スマートフォンを脇に置いた。つけっぱなしのテレビでは、売れっ子のアイドルが肉の食べ比べをしている。
     かわいらしい通知音と共に、端末の画面が光る。オンスタのアイコンの横にノアのアカウント名が表示されている。「いいね」されました。という文を目にしてから、星夜は指の先で画面を撫でた。三が日の過ごし方
     まるで断末魔のような光が辺り一面のライ麦畑を黄金色に染め上げている。
    「……」
     夜を運ぶ冷えた風が幼い少年の頬を撫でる。柔らかなプラチナブロンドの髪がふわりと後ろに引っ張られるのにも気にせずに、ただ目の前に広がる黄金色をぼんやりと眺めていた。風が吹くたびに波打つ黄金のさざめきだけが、慰めだった。
     夕陽は沈んでいく。視界の端から夜の色が黄金を浸食していく。もうすぐ帰らなければいけないのに、どうしてもそこを離れがたい。
     せいや、と口にしてみる。海の向こうに帰ってしまった親友は、今何をしているのだろうか。気になって百科事典で調べてみると日本という国はここよりも半日ほど進んでいて、今その国は朝を迎えているらしい。まるで彼が別の世界に行ってしまったような心地になる。あの時別れではないからと言ったのを嘘にするつもりは毛頭無いけれども、それでも幼い少年にとっては、そこへどうやって行けるのかだなんて想像がつかない。
     息を吸う。少し大きな声で歌い始めた歌は、彼に教えてもらった歌だった。もう欠片ほどもない一日の残滓に向かって歌う。休むひまなく彼の国に春の陽光と暖かさを届けに行こうとする太陽が、この歌を届けてくれればいいのにとおとぎ話のような願望を抱きながら。遠く遠く、彼を想って。
      
     彼が気になるの? と呼びかけられて、はっと息を飲む。声の主はなんとなく、ほぼ直感で言ってみたのだろう。のんびりとした雰囲気を持っているのに妙に鋭いところがあるのはSNSでやりとりをしていた頃から感じていた。
    「そうだね」
    「彼、賑やかだよね」
     曖昧に頷くノアにははっ、と笑いながらラビが肩を揺らす。それから興味は資料に移ったのか、隣に座っているレオンと喋り始めるのをちらりと見てからノアは再び、少し離れた所で新しい仲間と笑っている金髪の少年の背中を見つめた。今は背中を眺めているのみだが、覚えている面影は色濃い。
    「……」
     暫くは新しい環境や新しいユニットの事で彼の頭の中はいっぱいだろう。そういった所も変わっていない。夢中になれば一直線。そういった所も、変わっていやしない。
     いや、自分も他人事ではない。ここに来た意味は何も幼馴染みに会いたいからという訳ではない。
    「どうしたの」
     四人が喋る輪に入り込む。皆が見ていたのは時間割だった。ノアにとっては初めて見るものだ。レオンの弾んだ声に耳を傾けて、聞き入る。あの賑やかな声は教室の賑わいに溶けていった。零に近しい距離
     屋上のベンチで二人で喋っていた。昼でも寒いだろうと少し着込んでも外に出たかったのは、二人きりで喋りたいと星夜が駄々をこねたからだ。ノアはそんな星夜に苦笑いを零して、頷いた。
     
     おや、とノアが声をあげる。少し驚いたようにぱちりと瞬きをして、それから首に巻いていたマフラーをゆっくりと外した。
    「今日は暖かいのかな」
     時折吹く風は未だに冷たいが、灰色っぽい空に浮かぶ太陽は、確かに昨日よりも暖かな光を注いでいる。外したそれを丁寧にしまってから、少し乱れた髪を後ろに流すのを、星夜はじっと見つめていた。ほんの少し変わった気候の変化を感じて、機嫌の良くなったその横顔は歌でも口ずさみそうだ。
    「もうすぐ春になるんだね」
     嬉しいなと笑みを浮かべるノアを見て、胸の奥がきゅうと詰まった。春は嫌いじゃないけれど、寒いと言い訳をしてハグを許してもらえなくなるからだ。そう結論づけた瞬間、どうしようもない寂しさがこみ上げてきて。
    「ノア」
     手を伸ばして、ノアの肩を掴み、抱き寄せる。外気よりも熱い温度がノアの身体を包んで、驚いたまま幼馴染みの名前を呼んだ。
    「俺は寒いから、ハグしたい」
    「もうしてるじゃないか」
     おかしな星夜、とくすくすと笑う。だってぇ、と声をあげる星夜の背中に腕を回しながら、その肩越しに空を見上げる。
    「冬でも夏でも、理由なんてつけずにハグするだろう、星夜は」
     やわらかいノアの声に、星夜は黙って腕に力をいれることしか出来なかった。ハグ
     きっと明日は荒れるだろう。窓の外、たちこめる暗雲を横目にノアはひとり、教室にいた。授業が終わってもなんとなく立ち去る気にはなれなくて、少し用事があるからだなんて仲間には言葉を濁して。そうして読みかけの本を数ページめくってみたり、手帳を開いてみたものの、どこかそわそわとした気分が拭えない。
     そうしている間に、空を這うように分厚い灰色の雲がやってきた。
     もしかしたら、今にも降り出すかもしれない。
    「……」
     ぱたりと手帳を閉じて、小さく息を吐く。傍らに置いていた鞄にそれを押し込んで、立ち上がった。
    「ノア!」
     けたたましいドアの音と人懐っこい声が耳に届く。え、なに、星夜? と言うひまもなく、自分より少し背の高い恋人の腕の中に、引き寄せられた。じわりと熱に包まれる感覚は、慣れっこだ。
    「……どうしたのかな」
    「通りがかったらノアを見かけたから!」
    「見かけたから?」
     ハグだ! とさも当然のように腕に力を込められる。背中におかれた手のひら、その指先の感覚にノアが目を細める。それから少し遠慮がちに、星夜の背中に腕を回した。
    「だめだよ」
     こんなところで。そう言ってみても、さっきまで意識の奥で感じていた落ち着かなさは追いやられている。
     だってハグしたいと子どものように星夜がねだる。きっとなんの下心もなく、ただハグがしたいと本気で思っているかと思うと、しょうがないなぁ、呆れと喜びがない交ぜになってしまう。
    (嵐のようだな)
     何も言わないノアを良いことに、星夜は恋人を離さない。少し高めの体温で建前を溶かされる感覚に、ノアは目を伏せて息を吐く。試しに軽く、肩に頭を預けてみれば嬉しそうな声がした。
    「ねえ星夜、雨が降るかも」
    「え、マジかぁ……」
     唐突にも聞こえるノアの言葉に、星夜が困惑した声をあげる。
    「傘持ってきてない」
    「……貸してあげる」
     だから家に行ってもいいかな。少し顔をあげて、テラコッタの瞳で星夜を見上げる。形の良い唇が薄く笑って、星夜にねだれば恋人はぎょっとして、それから頬を真っ赤にさせて。
     ぽつ、と水滴が窓にぶつかり、爆ぜた。通り雨
     それは、どこか既視感があった。既視感というよりもそれに酷く似たものを知っていると言うべきだろうか。
     芝生の隅で黄色い蒲公英が風に揺られている。意外と茎は丈夫でしなやかで、ちょっとやそっとのことでは折れたり千切れたりしないのだろう。そんな黄色い花がぽつぽつ、そこかしこに咲いていた。
     春の訪れに似合いのどこかほのぼのとした景色とは裏腹に、ベンチに腰掛けてそれを眺めるノアの表情は冴えなかった。確かに何もかもの全てが上手くいくことなんてあり得ないのは分かってはいる。ただ自分でも呆れてしまう程にそれは、つまらないミスだった。それを知った誰もが口を揃えて、ノアにしては珍しいと言うレベルの。そして今の自分にとってはそんな言葉も気分が沈む言葉でしかない。
     オレだってちょっとしたミスぐらいはやるさ。そう言いたいのをぐっと堪えた。下手な自己弁護に聞こえるのも癪だと生来のプライドの高さがそうさせた。今必要なのはそこから生まれる「そうだね」よりも、同じ過ちを犯さない為の――。
    「のーあっ!」
    「っ……!?」
     後ろから声が降ってきて、ノアの肩が跳ねる。咄嗟に振り向けば人懐っこさを帯びた青い瞳がこちらをじっと見つめていた。会えて嬉しいぜとその双眸が訴えているのに小さく息を吐きながら、せいや、と低く声を上げた。
    「いきなり後ろからは驚くだろう?」
    「あー……悪い、つい……」
     窘めれば眉を下げて、ごめんと零す星夜に小さく溜め息をつく。どうしたの、と返す自分の声に軽い苛立ちを感じて、軽く奥歯を噛んだ。
    「……元気ないのか?」
    「そうだね、少し」
    「少しって感じじゃねえぜ?」
    「そこまで気遣ってくれるのかい?」
     出てしまった軽い皮肉にノアが眉を寄せる。かたい横顔の彼をまじまじと眺めて、それからゆっくりと視線をノアと同じく芝生に向けた。
    「何見てたんだ?」
    「……たんぽぽさ」
    「あ、ホントだ。咲いてるぜ」
     星夜もそれに気づいたのか、ちょっとした喜びを見つけたような声をあげる。あれってどうやって綿毛になるんだろうなぁとか、刺身食べたいだとか、好き勝手に言いだす星夜の声をぼんやりと聞いていると、どうにも悩んでいた事がぼやけてきた。率直に言えば馬鹿らしくなってきた。
     ミスが、ではなくて悩んでいる自分に、だ。
    「星夜」
    「ん?」
     心なしか柔らかくなった声に簡単なものだと苦笑しながら、自分が座る隣をとん、と指で叩く。おいでよ、と言う前に幼馴染みはベンチの裏から回り込んで、そこに座った。
    「まだ何も言っていないけど?」
    「そうだったか?」
     くすくすと笑いあう。ベンチの後ろにいた時は少し逆光だった星夜の姿が、陽の光に照らされて柔らかな輪郭を作っている。
    (あ、これか)
     これだ。既視感。
     そう悟った瞬間、ノアがそっと手を伸ばして星夜の跳ねた金髪に触れる。毎朝セットしているのだろうその髪を手のひらと指で遊んで、ノアがテラコッタの目をそっと細めた。
    「ノア?」
     くすぐったいぜ。少し困った声で星夜が言う。ねえ、くしゃくしゃにしていいかなと言ってみればそれは困ると何故か嬉しそうに、返された。たんぽぽ
     間違い探しのような、些細な違和感だった。
     ちゅ、と細いストローを咥えて紙パックの中身を飲んでいるノアに気づいて、愛童星夜は軽く目を丸くする。その手に持たれたパッケージは、白とピンク色の愛らしいデザインだった。
    「何飲んでるんだ?」
    「いちごミルクだよ」
     とても甘いね。と手元のそれ、裏側に書かれた文字列をまじまじと眺めながらノアが答える。それからどうかした? と幼馴染みに視線を寄越せば、星夜はぶんぶんと首を振った。
    「……珍しいって思った」
    「なんでわかるんだよ?」
     顔に書いてあるよとくすくすと笑うノアに、星夜が口を尖らせる。だっていつも紅茶を飲んでるからと言い返せば確かにねと頷く。
    「オレも星夜がコーヒーを飲んでいる所を見ると、驚いてしまうだろうな」
    「俺だってコーヒーぐらい飲んだことあるぜ」
    「ミルクなし砂糖抜きも?」
    「……奏多と飲んだことある」
     すげー苦かったけど。と付け加えて星夜が小さく溜め息を吐いた。晃は大人だから飲めるんだよなぁと軽くつま先で床をとん、と叩く。いつになれば大人になって、あの苦い飲み物を美味しく飲めるのだろうか。
     晃は大人だからコーヒーを飲んでるわけじゃないと思うよ。ノアの言葉に星夜がううん、と唸った。でもさ、と星夜が珍しく反論の姿勢を見せる。
    「でも、あの苦いのがいいっていうのが大人っぽくないか?」
    「……まあ、そうかもね」
    「ノアって……コーヒー飲んだことってある?」
    「たまには」
     ノアは根っからの紅茶党なのではあるが、家にはコーヒー豆が常備してある。同居人がコーヒーミルでごりごりと挽いている時に気が向けばわけてもらうものの、基本的にミルクなしでは飲まない。
    「でもミルクはいれるよ」
    「ノアでも?」
    「オレでもさ」
     笑って一口、いちごミルクを飲む。話題とは真逆に、それは甘い。
    「ふーん、じゃあ、まだいいか……?」
    「どうして?」
     いきなり納得しだしたような素振りの星夜に、今度はノアが怪訝そうに眉を寄せる。
    「だってノアもまだ大人じゃないってことだなって!」
    「……」
     あだだだ、と星夜の悲鳴があがる。ノアの指がぎゅ、と星夜の頬を摘まんでいた。
    「のあ、わるかったって……!」
    「オレは星夜のそういう正直なところ、嫌いじゃないよ」
     じゃあどうして頬をつねるんだよと抗議をする星夜を見て、ノアの唇が笑う。子ども扱いが好かないだけだよと言って立ち上がり、それから手にしていた紙パックをゴミ箱に捨てた。いちごミルク
     紙コップに注がれた黒い飲み物をじっと見おろしながらごくり、と喉を鳴らす幼馴染みを見て、ノアは僅かに片眉を上げた。
    「……砂糖は?」
    「いらない」
    「ミルク」
    「大人はブラックで飲むんだろ?」
    「どうかな」
     止めてくれるな、と言いたげに青い瞳がノアを見る。彼らしくない、それこそ手にしている飲み物を飲んだときのような顔だ。少し呆れたような顔をさせて、隣で見守ることにしたノアの目の前の飲み物はそれと同じような色をさせていたが、その表面は楽しそうに泡を弾けさせている。
    「よしっ」
     気合いの入った声と共に、目の前の飲み物を一口煽る。すぐに星夜の眉間がぎゅっと寄って、苦い、という単語がありありと顔に浮かんだ。
    「……どう?」
    「……」
     二口目は少し遠慮がちに、ず、と啜る。そして諦めたように紙コップを置いて、小さく息を吐いた。ノアの手が動く。口を付けていなかった自分の飲み物と、星夜が置いたそれをそっと交換した。
    「あっ、ノア」
    「オレにもわけてよ、それあげるから」
     星夜の返答を待たずに、ノアが残りをすべて飲み干す。酸味と苦味が合わさったような風味が口の中に広がって、目が覚めるような気持ちを抱いた。
     あー、と悔しそうな声が隣から聞こえる。うん、苦いなとノアが唇を舐めれば、拗ねた様子で星夜が目の前のコーラを一口、飲んだ。それこそ、背伸びをしてみて上手く出来なかった子どものようだと、喉に張り付いた苦味を剥がす術を探しながら、ノアが笑う。
    「まだオレ達には早いよ」
    「でもノアは平気そうじゃん」
    「そうでもないよ」
     だって今、和菓子が食べたくてしょうがない。ノアの指がテーブルの上、軽くなった紙コップをつつく。俺はフライドポテトかなぁ、細いのがいい。星夜の言葉に、ノアが肩を揺らす。大人ののみもの
     とってもよかったよ。と笑いながらお土産をテーブルに置いていくノアに、星夜がいいなぁと声をあげる。特に朝陽が大喜びでね、あんなにはしゃいだ彼を見たのは久しぶりだよ。そう満足そうに付け足すノアの表情は満足そうだ。きっとライブも上手くいったに違いない。久しぶりに顔を合わせる幼馴染みに頷きながら、星夜もまた同じような満足感を、どうしてか抱いている。
    「猿のグッズが沢山あってね。店の人に聞いてみると見るな言うな聞くなのシンボルなんだって」
     ミザルイワザルキカザルだったかな。ノアが出してきたのはなるほど三匹の猿のかたちをした和菓子だった。
    「見るな言うな聞くなだなんて、厳しい猿だぜ……」
     確かにそれぞれ目を覆い、口を覆い、耳を覆っている。どこかとぼけた表情が愛らしく、口にするのが勿体ないとさえ感じた。晃や奏多と食べなよ、と言うノアに礼を言って受け取る。
    「ああ、あとはこれ」
    「なんだ?」
     ノアが差し出してきたのは小さな袋だった。手のひらで受け取ると澄んだ音が転がる。かさかさとそれを開けて、取り出してみれば細やかな意匠の鈴が揺れている。
    「鈴?」
    「御守りだって」
    「へえ?」
     よく見ると気持ちよさそうに目を瞑っている猫のプレートがついている。どこかで見たような気がする。
    「猿と同じぐらい有名なシンボルで……なんだっけ、ネムリネコ? そういう種類の猫らしい。朝陽が熱心に写真を撮ってて……平和の象徴だそうだ」
     白と黒のぶち模様を持つその猫には確かに『眠り猫』と書かれている。
    「なんで寝てるんだ?」
    「…………そりゃあだって、ネコは寝るものだよ」
    「そうなのか……」
     ネコは飼ったことがないぜ……と神妙な顔で眠り猫と睨めっこをする星夜の顔を眺める。鈴の音が二人の間で揺れて、眠たくなるような午後を呼び寄せていた。おみやげ
    「あれ……」
     授業が終われば一番にユニットルームに向かう幼馴染みは未だに席を立たないでいた。ぼんやりと窓を眺める彼を不思議そうに見つめていれば、先に行っているよとラビが告げてきて、頷いてから星夜の席に歩み寄る。
    「星夜」
    「っお、おう?」
     肩を跳ねさせてから勢いよく見上げてくる星夜に小さく溜め息を吐く。また何か考えすぎているのだと察する事が出来た。
    「隣、いいかい」
    「ん……あれ、ユニットルームに行かなくていいのか?」
    「まだ少し時間があるから」
     涼しい顔でかわすノアに、星夜が頷く。
    「何か考え事?」
    「…………」
    「オレにも言えないの?」
    「そ、そんなことないぜ」
     少し拗ねたようなノアの声に星夜が思い切り首を振る。その手元には一枚のプリントがあって、よくよく見るとそれは今日出された課題だった。雑誌や番組でよく聞かれる質問にどう答えるか、という課題だ。
    「……悩みはこれ?」
    「ああ、いや……そう、だな」
     彼にしてはやけに歯切れが悪い。そんなに答えにくい質問があったのかと設問を眺める。好きな食べ物、一番の思い出、自分のチャームポイント、苦手なもの。
    (初恋の、相手……)
     もしかして、と視線を上げる。隣の幼馴染みは相変わらず難しい顔をさせている。
    「言えばいいだろ、オレだって」
    「んぁ、なんで分かったんだよ?」
    「顔に書いてる。どう言えばいいか分からないって」
     星夜は正直だからね。くすくすと笑うノアに、星夜が唇を尖らせる。
    「……ノアが嫌じゃねえかなって」
    「どうして?」
    「だって〝お姫様〟だぜ?」
    「ふふ、そんなこと」
     ノアのテラコッタの瞳がすっと細められる。形の良い唇が緩やかに弧を描いて、それからそっと開かれた。
    「今はお姫様じゃないから、そんなこと気にしないよ」
     ノアの言葉にはっと星夜の目が見開かれる。そうだよな、とどこか寂しそうな声で応えた星夜に、そうだよ、と笑ってノアが立ち上がった。
    「とにかく」
     オレは気にしない。微笑むノアに、星夜がこく、と頷いた。それじゃあ、課題頑張ってね。そう言い残して扉を開ける。またな、と星夜の声が背中に当たった。
    「また明日ね、星夜」
     教室を出る。そろそろ紅茶の用意が出来ている筈だとユニットルームへ足早に向かう。
    「もう一度恋をしてくれたらいいのに」
     なんとなく呟いて、それからひとり、苦笑いを零す。もう一度でも何度でも
     ホールで楽しそうな声が聞こえて、それが聞き慣れたものだったので立ち寄ってみた。ノアと奏多がテーブルで何かをしている。
    「上手! ……本当に初めて?」
    「YES、ああでも紙飛行機ぐらいは折った事があるな。でもこんなに綺麗な紙を使うのは始めてさ」
    「何してるんだ?」
     星夜が近寄って声を掛けてみると、二人が顔を上げる。星夜、と奏多の緑の目が嬉しそうに見開かれて、手元の折り鶴を見せてきた。
    「あのね、ノアと折り紙をしているの」
    「奏多に教えて貰っているんだ。中々難しいけど、楽しいよ」
     ほら、とノアが出来上がったものを見せてくる。犬、パンダ、折り鶴、折り鶴は少しヨレていたが確かに上手だった。
    「ノアは器用だからなぁ」
    「星夜は得意な折り紙ってある?」
     まじまじと犬の折り紙を眺めていると、奏多が聞いてきた。うーん、と考えてそれから。
    「紙飛行機?」
    「随分簡単なものを選ぶね」
    「あれ遠くまで飛ばすの難しいんだぜ?」
     羽の端っこ折ったりして工夫したりさ。星夜が熱っぽく反論してきて、くすりとノアが笑った。それから手元の赤い折り紙に視線を戻す。
    「ああそうだ……星夜、こっち向いて?」
    「ん?」
     出来た、とノアがそれを星夜の頭に乗せる。すこし角の折れた兜がちょこん、と金髪の上に収まった。
    「うん、似合うね」
    「あははっ、すごく似合うよ、星夜!」
    「何? とっていいか?」
     まだ駄目、写真を撮るから。ノアがテーブルの上のスマホを取り上げて、カメラを起動する。ぱちぱちと瞬きをしてノアを見る星夜にレンズを向けて、シャッターボタンを押した。
    「やあ、楽しそうだね」
     笑い声を聞きつけたのか晃が声をかけてくる。星夜、似合っているよと微笑めば金髪が揺れて、ぽろりとそれが落ちた。
    「おっと」
     ノアが兜を受け止める。手のひらの上のそれを見た瞬間、青い目を輝かせた星夜にはい、どうぞと手渡して次は何を折ろうかと青い折り紙を一枚、捲り取った。おりがみ
     或いは、高熱に酷く魘されるような。
    「そんな夢を見た気がする」
     春の陽気には似つかわしくない物憂げな表情で、ノアが頬杖をつく。そんな姿もどこか様になってしまうのを本人は自覚しているかどうかは兎も角、アンニュイな気配を纏わせていた。
     隣に座っていた星夜がそんなノアをじっと見つめて、ゆっくりと瞬きをする。隣の幼馴染み曰く星空を写したような目を丸くさせて、それから小さく首を傾げた。
    「珍しいぜ」
    「うん……そうだね」
     ううん、と唸りながら星夜が缶コーラのプルタブを開ける。パキッと気持ちいい音が二人の間を突き抜けていって、それから小さな穴から炭酸の弾ける音が僅かに聞こえた。
    「ちなみにどんな夢なんだ?」
    「……言葉は通じるのに、通じない夢さ」
    「なんだそれ」
     わからない、とノアが首を振る。上手く言葉に出来ずに眉を寄せながら、視線を彷徨わせた。
    「ちゃんと挨拶も会話も成り立っているんだ。でもどこか……ズレていて、ちぐはぐなんだ」
     ひどくふんわりとした説明だと自覚しながら、それ以外にどう説明すればいいのか分からない。どうにも気持ちが定まらなくて、プラチナブロンドの髪を弄った。
    「でもそれって、夢だろ?」
    「ん、まあ、そうだね」
    「じゃあ大丈夫だぜ!」
     何故か嬉しそうに星夜が微笑む。すっと細められた瞳の奥の星空は深い。
     どうして、とノアが眉を下げればだってそれは夢だろ、今ノアは起きているから大丈夫だ。星夜が妙に明るい声で言い切って、ノアの手をぎゅっと掴んだ。
    「せいや……」
    「何も不安がることないんだ、だから大丈夫!」
    「……」
     な? と笑う星夜に思わず頷く。そうだね、夢だから。とノアがつられて微笑んで、それを見た星夜は満足そうに頷いた。
    (そう、夢だ。どうして夢なんかに悩んでいたんだろう)
    「ねえ、星夜」
    「おう」
    「また怖い夢を見たら、連れ戻してよ」
    「……」
     深い星空がじっとノアを見つめる。奥の奥まで吸い込まれそうな、やけにきらきらとしたそれが少し怖い。
    (そう、あれは夢だ。こっちが現実で、オレの生きる場所)
     それでも目の前の彼は星夜だから大丈夫なのだとノアは心の底から思った。ゆめうつつとも
     十七時、必ず町中に響くメロディの意味が、この国に来たばかりの頃は分からなかった。
     ユニットルームの窓から少しずつオレンジ色に染まっていく空を眺めつつ、帰宅の準備をしていると十七時きっかりに外から流れてくるのだ。それが影を濃くしていく街とオレンジの空に妙にあっていて、どうしてか寂しくなってしまう。
     
    「そういえば星夜なら分かるかな」
    「ん? 何がだ?」
     偶然二人で帰る事になって、その道すがら思い出したようにノアが切り出した。ようやく生活に慣れてきた事や、受けた授業の話をしていてなんとなく思い出したのだ。
    「五時にメロデイが鳴るだろ」
    「……おう?」
     星夜の反応に一瞬、もしかして聞こえているのは自分だけなのかと心配になる。ノアの不安げな表情を察したのか慌てて鳴る、毎日聞くと星夜が肯定して、ほっと安堵した。
    「あれって、何?」
    「何って……夕焼け小焼けだぜ?」
     ユウヤケコヤケ、とノアが繰り返す。首を傾げる幼馴染みを見て、星夜が歌を口ずさめばなるほど、そのメロディで間違いない。恐らく民謡なのだろうと察した。
    「どうして毎日五時に流すんだい」
    「帰る時間だぞーって教えてくれてるんだよ。小学生はあのメロディを聴いたら帰らなきゃいけないんだぜ」
     すぐ暗くなっちまうから、あれが鳴ると皆帰るんだ。星夜の言葉にああ、そういう事かと納得する。
    「もうちょっと遊びたいなぁっていつも思ってたけどな」
    「ふふ、遊んでいるとあっという間だからね」
     疑問が解決して、どこかすっきりした表情でノアが笑う。十七時のメロディにこの曲を選んだひとは、ただしい。
    「……ユニットルームの窓からね、五時のメロディを聴いたんだ。夕焼けが街を染めていて、そこに染み渡るような曲だったから、随分寂しくなってしまったよ」
    「……ホームシックってやつか?」
    「……どうだろうね」
     そうかもしれないけど、まだ故郷に帰るつもりは全くないし。とノアが目を伏せてくすくすと笑う。そうだ、その歌を教えてよ、星夜。視線を上げてテラコッタの瞳を向ければ、星空を抱いたような双眸が、オレンジ色の空気に染まって、不思議な色をさせていた。
    「おう」
     星夜がまた歌を口ずさみはじめる。しかし丁度、十七時のメロディが流れ始めて、二人は顔を見合わせて、可笑しそうに笑い合った。夕暮れのチャイム
     それはカラフルで冷たくて、きっとほとんどのひとが好きな物だ。シェアハウスの大きな冷蔵庫にもいつでも食べられるようにと業務用サイズのものを入れている。そのスペースの隙間にも誰かがコンビニで買ってきたのであろう期間限定のフレーバーが常に押し込まれていたし、それを皆で食べるのも好きだ。
     ガラスケースの中のアイスクリーム達がぐるりと削られて、コーンの上に載せられていく。小さなこどもが嬉しそうにそれを受け取るのを横目に、フレーバーの書かれたメニューを眺めた。
    「迷うね」
     ざっと見渡して一言、ノアが呟く。その隣に立つ星夜も視線をうろうろとさせて、うーん、と唸っていた。
    「期間限定にするか、いつものにするか迷うぜ……」
    「ダブルなら期間限定といつものやつ、どちらも食べられるだろ?」
     ノアの声に星夜がぱちりと瞬きをさせる。確かに、と頷いてレジへ向かうのに笑いながらその後ろをついていく。
     
    「土曜日の昼過ぎにさ、近所に来てたアイス屋、覚えてるか?」
    「車で来ていた?」
     覚えているよ。そう言って一口食べる。小豆の柔らかな味が、ひんやりと口の中に広がった。毎週土曜日に町に来ていたカラフルなアイスクリームワゴン。のどかな民謡のメロディと共にやってくるそれは、あまり娯楽のない町に住む子ども達にとっての楽しみだった。
    「星夜が連れていってくれただろ」
    「お小遣い握りしめてさ、何を食べるかずっと悩んでたよな」
     星夜が食べているアイスはビビッドなマーブル模様をしている。一口食べさせてもらうと、口のなかでキャンディがぱちぱちと弾けて不思議な味だった。
    「そう、バニラ、チョコミント、チョコ、ストロベリー、レモンシャーベット……それほど多くなかったけど、選ぶのも楽しかったよ」
     少しずつ溶けていくアイスを味わう。日本に来てから出会ったフレーバーで、ノアはそれを気に入っていた。
    「それにしても暑いな……」
    「まだ五月なのにな」
     夏の気配を確かに感じながら、最後の一口を食べる。抹茶という日本特有のフレーバーの、控えめな甘さに目を細めた。初夏のアイスクリーム
     星夜、と声をかけられて顔を上げる。そこには幼馴染みが立っていて、少しだけ怒ったような、困ったような顔をしていた。思い当たることがなくて、どうしたんだ? と星夜が首を傾げる。
    「今日は何曜日か知ってる?」
    [……火曜日だぜ?]
    「六月何週目の?」
    「えっと…………三週目……あっ……」
     しまった、といった顔の星夜を見てやれやれと溜め息をつく。ほら、行くよと促せば、テーブルに散らばっていた楽譜やら雑誌やらをかき集めて、鞄に突っ込んでいく。それからよし! と勢いよく立ち上がる星夜を見て、小さく笑った。
     
    「ノアが来てくれて助かったぜ……」
    「それ、先月も聞いたよ」
     ついでに言うと先々月もね。とノアが付け足すのを聞いて、星夜が頬を掻く。そうだったっけ、ととぼけてみるものの、確かにそうだったので言い訳のしようがない。
    「全く、オレが欠席の時はどうしてるんだい」
    「……」
     お互い、地方遠征の時や仕事でどうしても出られない時がある。どうしてたっけ、と思い出してみると、それとなく晃が授業終わりに言ってきたり、代理で出席しがちな恭介がLIMEで確認をとってくるので、それで思い出したりするのに気づいた。
    「えーっと……」
    「星夜はF∞Fのリーダーだろう?」
    「う……気をつけます」
    「よろしい」
     しょげて声を落とす星夜にノアが満足げに頷く。その様子を見た星夜が、じっとその横顔を見た。視線が注がれていることが気になったノアが、ちらりと星夜を見る。
    「何?」
    「……今のセバスチャンに似てたぜ」
    「……そうかな?」
     ぱちりとノアが瞬きをする。おう、と頷くと少し考え込んで、なるほど、と口を閉ざした。
    「彼との付き合いは長いからね」
     そのぶんお小言を貰うものさ、とノアがどこか言い訳じみたことを言いだした。何やら思い当たる節があるらしいが、星夜はそうだよなーと言葉の真意をくみ取れずに納得したようだった。
     それから暫くして、恭介がばたばたと慌ただしく入ってきて、またその後で皐月が入ってくる。時計をちらりと見て、ぎりぎり定時通りなことに軽く息を吐いた。立ち上がり、切り出す。いつもノアの役目だった。
    「さて、それじゃあ始めようか」六月度三期生リーダー会議
     色とりどりの長い紙が風に揺られて、鮮やかだった。短冊と呼ばれるその紙と笹の葉が風に揺らされる音を日本ではさらさら、と言うらしい。日本の民謡にも笹の葉さらさらという歌詞があって、アイキッズ達がレッスンで歌っているのを耳にしたこともある。
    「で、何を書くんだい?」
     学園の入り口に飾られた大きな笹には既に沢山の短冊がつけられていて、まるでカラフルな葉っぱが増えたようだった。その一つ一つに願いがかかれている。そして笹の傍らには長机があり、そこにはまだ何も書かれていない短冊と、これも色とりどりなペンが置かれていた。そこで星夜は短冊数枚を手に、うんうんと唸っている。
    「……というよりも、短冊の色は決まった? と言えばいいかな」
    「悩むぜ……」
     右手に赤、左手に黄色。そして目の前には様々な色が散らばっている。中には金色もあって、この短冊はきっとおりがみから作られたのだなと察する事が出来た。星夜が困った顔で隣のノアに向き直り、両手に持ったそれを幼馴染みの目の前に持って行った。
    「ノアはどっちがいい?」
    「……そうだな」
     目の前でひらひらと揺れる赤と黄色に目を細める。なんとなく脳裏にパプリカの姿が浮かんだのを追いやりながら、黄色の紙を指で摘まんだ。するりとあっけなくそれは星夜の指を離れる。
    「じゃあ俺はこっち!」
     嬉しそうに赤い短冊をひらひらとさせて、テーブルに向き直る。備え付けられたペンのキャップを外して、再び迷い出す姿に思わず笑った。
    「オレもどうしようかな」
     こうしていざ願い事を書くとなると、一種の気恥ずかしさが顔を出してくる。数日だけ風に揺られてからその後は燃やしてしまうというのに、自分の願いが誰かの目に触れることもあると思えば無理もない話だろう。この学園の個性的な面々は願い事ではなく好き好きに書いているようだった。きっと自分の大切なメンバーも思い思いを書いているに違いない。例えば、モテますように、だとか。
    「……」
     難しいな、と呟く。星夜は思いついたのか、赤の短冊に願い事を書き始めていた。きっと彼は思いのままに書くのだろう。その姿を横目に、よし、とノアも頷きペンをとる。きゅ、とペンを鳴らしながら故郷の言葉で〝願い〟を綴った。書けた! と元気な声が隣であがる。
     
    「出来るだけ高いところがいいぜ」
    「どうして?」
    「オリヒメとヒコボシが見やすいだろ」
    「それは、そうだね……ん?」
     星夜の言葉に頷きかけて、首を傾げる。そもそも願いを叶えるのはオリヒメとヒコボシなのだろうか。
    「よしっ、出来た! ノアの短冊も隣に飾ろうぜ!」
    「ああ、いいよ」
     自分達の背より少し高いところの笹の枝、揺れる赤い短冊の隣に黄色い短冊をつける。短冊に書かれた言葉を見て、星夜が瞬きをする。なんて書いてあるんだ? と聞けばノアが少し黙って、薄く笑う。
    「秘密」
    「えー、教えてくれよ」
    「ふふっ、読みたかったら辞書を持ってきなよ、星夜」
    「のあー」
     満足げにノアが笹を見上げ、ほら教室に行くよと歩き出す。ちょっとした意地悪に抗議の声をあげながら、星夜も幼馴染みのうしろを、追いかけていった。七夕
     頭上から自分を呼ぶ声に顔を上げる。星夜、ともう一度呼びかける声は幼馴染みのものだった。振り向けば階段の踊り場に彼は立っていて、いつも通り姿勢の良い佇まいでこちらを見ていた。
    「どうした?」
    「特に何も」
     背中が見えたから声をかけただけだよ。ノアが笑って階段を下りる。その腕の中にはファイルが収まっていて、なんとなく気になったので指をさしてみる。
    「それ何だ?」
    「これかい?」
     楽譜だよ。ファイルの端を弄りながら、ノアがそれを愛おしそうに見おろす。そこに挟まっているのは彼らの作曲家が五線譜に刻んだ新しい音色なのだと星夜は直感して、嬉しそうに笑みを浮かべた。
    「さっき受け取ってね、時間もあるし作詞でもしようかと思ってて」
     図書室に行くつもりなのだとノアが言う。喜びが滲んだテラコッタの瞳で星夜を見つめれば、でも、そうだなと呟いた。
    「気が変わったよ」
    「お?」
    「星夜は今ひまかい?」
    「おう、暇だぜ」
     中庭で歌の練習でもするかと思っていた所だと答えれば、満足げにノアが頷き、星夜の手を握った。
    「それなら付き合ってくれ」
    「?」
    「図書室に籠もるよりもいい言葉が浮かびそうだから」
     ね、お願いだ。ノアが微笑み、小さく首を傾げる。お願いと言いつつ殆ど有無を言わせないような微笑みだった。これはノアのちょっとした我が儘だと星夜が悟って、頷く。
     決まりだね、と腕を軽く引っ張りながらノアが歩き出す。早く行こう、とりあえず中庭がいいな。
    「別にいいけど、なんで」
    「言っただろ、図書館に籠もるよりって。こんなに良い天気なのに外に出ないのは勿体ないよ」
     今日はまだ涼しいし、風も吹いてる。歌うにはいい日だよ、星夜。
    「それに図書館だと歌えないだろう」
    「それは確かにだ」
     この前大声だしちまって怒られたぜ。図書館ではお静かにって。星夜が気まずそうに告白する。それを聞いたノアがくすくすと笑って、星夜は音量調節が下手だものねとからかえば、幼馴染みの頬がほのかに赤くなった。
    「それに比べて中庭なら怒られないよ」
     お昼寝している睦月やさぼっている双海がいれば話は別になるけれども。中庭に続く扉を開けながらノアが肩を揺らして笑う。扉の隙間から漏れ出る光が、プラチナブロンドの髪を揺らして、星夜は青い目をすっと細める。どこか懐かしい感覚だがいつの日々かと違うのは、手を引いているのが自分ではなくこの幼馴染みだという事だった。ほら、行こう。形の良い唇が動く。そのどこか無邪気にも思える声色はあの日々と変わらない。連れ出す
     水に満たされた色鮮やかな球体はまるで、おとぎ話に出てくる惑星のようだ。手のひらの中にある水風船をひたひたと触りながらノアはそんな考えを頭に浮かべていた。青色に色とりどりのチョコペンで飾り付けをしたような柄のそれはノアの指にあわせて、中の水をたぷたぷと揺らしている。
    「なんだかかわいいね、でもちょっとしたことで壊れてしまいそうだ」
     手の中で水が揺れる感覚をひとしきり楽しんで、それにくくりつけられた紐の輪に指を通す。重力に従ってそれは、ノアの顔の前でゆらゆら、宙ぶらりんになった。
    「部屋に飾っておきたいんだけど、難しいかな」
    「俺、やったことあるぜ!」
     ノアの隣にいた星夜が口を開く。でも一週間しないうちに萎んじまったんだ。当時のことを思い出したのか、軽く肩を落とす幼馴染みに思わずくすりと笑ってしまった。ヨーヨーすくいの屋台から離れて、オレンジ色の灯りが目映い屋台通りを歩いて行く。参道の石畳をからころと下駄で歩く音、屋台からかかる声、スピーカーからノイズ混じりに祭り囃子が聞こえてくる。今二人とすれ違った子ども達は人気アニメ番組のお面を被って、楽しげな笑い声とともにどこかへと走り去っていく。少し遅れてやはりお面を被ったもう一人の子どもが待ってよ、おいていかないで、ともたもたと走っていく背中に、ノアは思わず振り向いた。
    「ノア?」
     星夜の声と、少し汗ばんだ手で手を握られる感覚にはっと意識が引き戻される。
    「どうした?」
    「ああ、いや、子どもが……」
    「?」
     星夜が首を傾げて、ノアをじっと見る。なんでもないよ、と取り繕って握られた手に視線を落とした。
    「……」
    「あっ、悪い! はぐれそうだったから!」
     慌てて手を離そうと手を引っ込めようとする星夜のそれに力を込めて阻む。へ? と青い目がぱちりと瞬いた。
    「本当だね、はぐれそうだし捕まえていてよ」
     迷子放送なんて嫌だから。テラコッタの瞳を嬉しそうに細めて、ノアが囁けば星夜の頬に熱が灯った。普段のノアなら駄目だよ、だなんて言ってさらりと躱すの癖にどういう風の吹き回しだろうか。
    「バレやしないよ。人は多いし、みんな屋台に夢中さ」
    「……ノアってたまに大胆すぎるぜ」
    「褒め言葉かな?」
     ノアがくすくすと楽しそうに笑えばもう片方の手にもった水風船が、揺れる。夏祭り
     窓の向こう側から聞こえてきた奇妙な音にもの悲しさを覚えて、ノアは視線を上げた。カーテン越しにちらちらと薄明が呼びかけてくる。気怠い上体を起こしベランダ窓のロックをのろのろと外して、からりと隙間を作った。そこから入り込む空気は意外と冷たい。隣で眠りこける恋人を熾さないように布団を被り直した。
     窓を開けたせいで自分の目を覚まさせた音が大きくなって、それに耳を澄ます。その音はここ数日で目立って聞こえるようになっていたが、それが聞こえるのは決まって早朝かもしくは夕方、こういった光の薄い時間帯だった。ひどくもの悲しく、哀れっぽく心に訴えてくるようなそれは、蜩という虫の鳴き声だという。その音を日本語で表すときは、かなかな、って書くんだよと奏多が教えてくれた。日本人にはそう聞こえるのかと不思議に感じながら、その音から〝かなかな〟を汲み取ろうとしてみた。
     ごそ、と隣が揺れる。間の抜けた呻き声と共に恋人は寝返りを打って、ノアと向かい合わせになった。音から言葉を拾うのを中断して、起きたのだろうかとじっと見つめる。しかし再び寝息が聞こえてきたので、ほっと息を吐く。それから自分の枕を手元に引き寄せて、うつ伏せになった。頬杖をついて、恋人を見おろす。あどけない寝顔に自然と口元が緩んで、せいや、とそっと呟いた。少し掠れた、甘さを含んだ呼びかけも物悲しい音にかき混ぜられる。夏の終わり頃の朝はこんなにも寂しいものかとふっと息を吐く。恋人から視線を剥がし、目を伏せる。部屋に入り込む光がまた一段と強くなった気がした。
    「……のあ?」
     不意に隣から自分を呼ぶ声が聞こえてきて、そちらを見やる。青い目がこちらをぼんやりと見つめていた。
    「おはよう、星夜」
    「うーん……」
     すこしぐずるような声に苦笑いしながら、つま先で隣の足を小突く。もぞもぞと足が藻掻いたがそっと絡ませてきて、お互いの持つ体温がじわりと融けた。
    「起きないのかい」
    「おきるぜ……」
     ぼんやりとした声と共に、枕に乗っていた頭が布団に引っ込む。布団とシーツの境目に金髪だけが見える。本当かな、とノアがくつりと笑い、その跳ねた金髪を指で撫でる。布団から聞こえる声はくぐもって、要領を得ない。
     ふと、気がついた。さっきまであんなにもしきりにもの悲しさを訴えていたあの蜩の音が、ぱたりと止んでいたのだ。まるで夜明けの終わりを悟ったかのように。
    「んー……」
     星夜が隣でぐっと伸びをする。それからむくりと起き上がって、枕を抱いて見上げていたノアを見つめた。
    「おはよ」
    「……おはよう」
     君の寝顔、ちょっと面白かったよ。からかいの言葉をなげかけて、ノアがにやりと笑う。マジかよ、と少し頬を赤らめて、星夜が気まずそうに鼻の頭を掻いた。早朝の蜩
     きっともう終わってしまうだろうねと惜しむように呟いた幼馴染みの視線は、噎せ返るような夏の夜でも真っ直ぐだった。その先、盛りを越えた向日葵の群れは夜の中で静かに佇んで、項垂れている。あんなにも暑い日々の中で咲き誇っていたのに、老いの影を落としているそれを見て星夜はどこか、残念なような気分になった。
    「どうして枯れちまうんだろうな、あんなに元気だったのにさ」
     思わず星夜が呟けば、ノアが笑った。星夜らしいと笑って、それから目を細めてからそうだね、と頷いて。
    「でも日本人はそれをワビとかサビとか言って、愛おしむんだろう」
     だからもしかすると、あれも美しい形なのだろうねと暗がりの向日葵を指さすのだ。
    「……難しいぜ」
    「星夜は咲き誇る向日葵のほうが似合っているよ」
     いつかの日に語らいをしたベンチに二人座って、目の前の夏の名残を眺める。どこかの草むらでは既に虫の音が聞こえてきて、秋の訪れを伝えているようだった。終わりの向日葵
     秋にしか食べられないハンバーガーがあるんだと星夜に誘われて、学園最寄りのファーストフード店に連れてこられた。秋にしか食べられないというものだから、何かこの季節特有の所謂〝旬のもの〟が使われているのだろうかとメニューを見上げてみればただハンバーガーに目玉焼きを挟んだものらしい。月夜のイラストをバックに限定メニューの写真がずらりと並んでいるのを眺めながら、なるほどとノアは感心しきりに頷く。
    「フライドエッグを月に見立てたんだね」
    「ノアは何にするんだ?」
     数人並んでいる列の最後尾につきながら、星夜がスマホを弄っている。今週のクーポンはとどこか楽しそうに指を動かしているのでそれを横からそっと覗いた。
    「やっぱり初めてだから、基本的なものがいいな。セットがいいのかい?」
    「そうだなー、ポテトと飲み物がついてるのが一番オトクだ!」
     限定バーガーにフライドポテトMサイズと、飲み物Mサイズがついたセットメニューの項目を見せられて、それじゃあそれで、とノアが頷く。その間にも列は進んでいて、オーダーをするためのレジカウンターの後ろでは紙コップに炭酸が注がれる音や、フライドポテトが揚がったことを示す電子音が聞こえてきて忙しない。ご注文お決まりでしたらどうぞー、と声が飛んできて、店の奥へ興味を向けていたノアははっと我に返った。

     少し遅めの時間にも関わらず、二階は自分達と同じような年齢の学生は少なくなかった。同級生、はたまた先輩後輩、各々が放課後の余暇をファーストフードとともに楽しんでいる。星夜が目敏く窓際のカウンター席がふたつ空いているのを見つけて、そこに座った。目の前、ガラス向こうでは帰路につく人々が横断歩道を渡っている様子が一望出来た。
     限定バーガーの味はというと、ハンバーガーにフライドエッグを挟んだものだった。パテとフライドエッグ、ベーコンをバンズで挟んだものだ。固焼きに近い黄身とぷりぷりとした白身、少し油っぽいベーコンとパテとバンズの取り合わせ。材料としては旬でもなんでもなく、一年中取り扱っているもので秋じゃなくても作れるのではといった疑問がノアの脳裏によぎる。その隣では幸せそうに星夜がノアと同じものを頬張り、少し冷めたポテトに手を伸ばしていた。
    「秋にしか食べられないなんて、不思議だね」
    「月見だしなー、ん? でも月見って秋じゃなくても出来る……よな?」
     疑問に気づいた星夜がなんでだ? と首を傾げる。ああ、それはね、とノアが口を開いた。
    「朝陽が言っていたよ、中秋の名月っていう行事があるんだって。一年で一番月が綺麗に見えるのが秋だそうだよ」
    「そうなのか? 月が綺麗な時期なんて考えたことなかったぜ」
     そう素直に口にする星夜に思わず苦笑いを零す。今日の帰りにでも眺めてみなよ、今日は満月みたいだから。そう言ってしなしなになってしまったポテトを摘まむ。一口囓って、ふと視線を上げればガラスの向こう、人の往来を支配する横断歩道の真上に、うそのように黄色く、呆れるほどに丸い月がぽかりと浮かんでいた。つきがきれいですねと空言を言いたくなるような、そんな輝きだった。月見ファストフード
     子どもの背の高さほどある、もみの木を模した置物をノアは眺めていた。自分たちのユニットルームとは違った雰囲気の部屋、その目立つ場所に置かれたそれはまだ〝裸〟の状態でぽつねんと佇んでいる。
    「もうそんな時期なんだね」
    「そうそう、うっかりしてたぜ……」
     その隣で小さな段ボールを漁りながら、幼なじみが答える。取り出したのは赤や白の丸いオーナメントで、手にしたそれと裸のツリーを交互に見比べながら、ううん、と唸った。
    「I❥Bの家のツリーって凄そうだよな」
    「どうだろう、普通だよ」
     有能な執事が物置から出してくるであろうツリーを思い出しながらノアが首を傾げる。たしかに今二人が見ているそれよりはずっと大きく、リビングの天井に届くほどだが結局のところ飾り付けるものはほとんど同じであるわけで。
    「星夜は、プレゼントのほうが楽しみだろう?」
    「……それいつの事言ってるんだ?」
     ノアが思い出したのは故郷で一緒にいたころの幼なじみの姿で、ノアの屋敷に飾られたツリーの大きさや吊り下げられたオーナメントの豪奢さに目を輝かせたのは間違いないのだが、その足下に置かれた二人宛のプレゼントを見た瞬間の喜びようはノアにとって良き思い出として記憶に刻まれていた。
     星夜が持っていたオーナメントをツリーに吊り下げていく。味気なかった木の置物はみるみるうちに飾り付けられて、照明を受けて静かに輝いている。次に星夜が取り出したのは電飾で、それをぐるりとツリーに巻き付かせて整えていった。
    「ええっと、コンセントはっと……」
     電飾の先端についたプラグを差す。明かりを消そうかとノアが照明のスイッチを切れば、星夜がコードのスイッチをつける。ツリーに巻かれた小さな電球が色とりどりの光を灯しだした。
    「おー、ついたぜ」
    「ああ、いいね」
     嬉しそうに笑う星夜の隣にしゃがみ、ツリーを眺める。暗闇の中で点灯するほのかな光を誇らしげに纏うツリーを眺める幼なじみの横顔をちらりと見て、ノアが口元に笑みを浮かべる。それからぽつぽつと、英語で歌を口ずさみ始めた。それは故郷の国では定番といわれるクリスマスソングだ。ワンフレーズ歌った後で、ふとノアが思いついたように星夜を見る。
    「……星夜の部屋はどうするんだい」
    「俺の家? うーん、置く場所がねえよ」
    「……確かにね?」
     星夜の部屋は既に色々な者が飾られている。日本式の城の模型だったり、提灯だったりと見ていて面白い。あそこにはこの大きさのツリーでさえ飾るのは困難だろう。
    「テーブルの上に小さいのでも置いてみるのは?」
    「あ、それいいな!」
     ノアの提案にぽん、と手を打つ。それじゃあクリスマスマーケットにでも行こうよ、とノアが笑い首を傾げる。それからこれはもしかすると、自分はデートに誘っているのではないかと思い至り、僅かに頬を染めた。誘われた本人はやはり嬉しそうに肯定して、じゃあいつにする? だなんて何のひっかかりもなく携帯を取り出しているわけだが。
    「そうだな……」
     頬に集まる熱を気にしないようにしながら、星夜の手の中にある画面をのぞきこむ。クリスマスまでのマス目を数えて、ここは、と指さした。クリスマスツリー
    乾いた喉にはりついて
     風が寒々しい音を立てながら二人の間を駆け抜けていく。その勢いに煽られて、プラチナブロンドの髪がばさばさと泳ぐ。
    「……」
     向かい風の煩わしさにノアが眉間に皺を寄せて、手で髪を撫でつける。しかしそれも風が吹けばすぐにまた乱れてしまい、少しばかりうんざりしたため息がノアの唇から漏れた。その拍子に漏れた白い靄も、風でかき消えた。乾いた空気が喉に張り付く。んん、と軽く咳払いをすれば隣を歩いていた星夜がじっと見つめてきた。
    「ノア、調子悪いのか?」
    「まさか」
     幼馴染みの不安げな声に苦笑いしながらノアは首を振る。今日は随分空気が乾いているからと言い訳じみた答えを返せば、持っていた鞄に手を突っ込んでごそごそと中を漁る。暫くして出てきた手にはのど飴が収まっている。柚子の描かれたパッケージをほら、と差し出されて思わず受け取る。Thank youと一言返して、ぴり、と封を破った。ころりと出てきた丸いそれは陽の光に晒されて柔らかく輝いている。口の中に放り込めば柑橘類特有の甘酸っぱさと、蜂蜜の甘ったるさが舌の上で溶け出した。ゆっくりと小さくなっていくであろうのど飴を味わいながら目を細める。心なしか柔らかくなった気配に、星夜の頬が緩む。そういえばさ、と口火を切って、とりとめのない話をしだす。冬の空気に弾む星夜の声に耳を傾けながら、ノアは口の中の飴をかろころと転がす。しばらくして随分小さくなって欠片になったそれを、かみ砕いた。それの砕ける音が、頭の中に響く。
    「ああ……」
    「?」
     ノアが嘆息すれば喋るのをやめ首を傾げながら星夜が見つめてくる。星空を抱いたような青い双眸とぱちりと合った。
    「なくなっちゃったね」
     ノアが微笑む。形のいい唇をゆるりと上げて、白い靄を零しながら。冬の灰色がちな空気に温かなテラコッタの瞳が、冷たい空気のせいで赤らんだその目元が柔らかい温度を孕んでいる。それが妙に艶やかに感じて星夜はずきりと胸の奥が締め付けられる。
    「お、おう……よかったぜ」
     うまく返事が出来ずにもごもごと言葉を口の中で遊ばせて、それから深い息を吐く。
    「それで、続きは?」
     教えてよとノアが囁いてきたものの、何の話をしていたのかすっかり飛んでいってしまった。ただ何故か早くなった鼓動が星夜の耳にうるさく響く。急に熱くなった耳のふちが、冷たい空気に触れてじりじりと痛い。
    努力
    見慣れているはずのプラチナブロンドが、いつもと違う動きで揺れている。レッスン室の照明に照らされ柔く輝く毛先はいつもならば幼馴染みに肩のあたりを撫でるのに、今はそこから少し上、うなじのあたりでリズムに合わせて揺れていた。
     すらりとした脚を軸にターンをすれば、その足下でフローリングがキュ、と鳴る。自分の為の音楽が流れない中、澄んだ歌声を生み出している唇がカウントをとっているのを、愛童星夜はその後ろでぼんやりと眺めていた。そこから見える幼馴染みの後ろ姿は真剣そのもので、いくら近しい間柄でも声をかけることは憚られるような雰囲気である。伸ばされた指先、ぐっと反らされる細身のライン――姿見越しに見える、飴色の瞳。近くにあるのにどこか遠くにあるような気がして、星夜はくっと息を飲む。目を離せずに、そのままでいた。
     彼の動きが止まると同時、ふつりと空気が緩む。激しい振り付けを練習していた故か肩は大きく上下して、触れがたいものを纏っていた指先もだらりと力を無くしていた。やがて大きく息を吐きながら幼馴染みが首を振る。その拍子に高く結われた髪の先が、ゆるゆると揺れた。そのままくるりと振り向き、座っていた星夜に歩み寄ればその傍ら、水の入ったペットボトルとタオルを拾い上げた。
    「駄目だね」
    「ノア?」
     蓋を捻りながらぽつりと呟いた幼馴染みの言葉に首を傾げる。駄目、という言葉が指すものが何かを一瞬理解出来ず、ややあって何が駄目なのかを察したが愛童には肯定しかねる言葉だった。
    「俺は完璧だと思ったぜ」
    「そうかい? でも納得いかないよ」
     水を飲んで濡れた唇を舐め、ノアが愛童の隣に座る。流石に体力を使い込んでいるのを自覚したらしい。まだあがっている息を落ち着かせる為にゆっくりと伸びをして、ノアは目を瞑るのを見て、愛童は視線を向こうに向ける。常時開放されている大きなレッスンルームには二人の他にもダンスレッスンに勤しむアイチュウがいた。その中には同じシャッフルユニットのメンバーもいて、ノアが練習していた曲と同じものを練習しているようだった。
    「見劣りしたくないんだ」
     ノアがぽつりと呟く。いつの間にか同じく彼らを見ているその眼差しはハードな練習からくる疲労も相まってどこか憂いを帯びていた。
     その表情にどうしようもない寂しさを覚え、星夜の手が無意識にノアの手を掴んだ。幼馴染みの手はペットボトルについていたであろう水滴で濡れて少し冷たく感じた。
    「お前らしくない!」
    「……星夜?」
     唐突な言葉にノアがぱちりと瞬きをする。そしてはたと周囲に視線をやり、眉尻を下げて静かに、と囁いた。今、恐らく葵と目が合った気がした。恐らく星夜の大声を聞いてこちらに意識を向けたのだろう。
    「星夜、他の人も練習しているんだから」
    「わ、悪い……でも、さ」
     ノアの窘めに慌てた星夜が声を落とす。ほんの少し悲しそうな幼馴染みの表情を見て、ノアも僅かに焦りを見せた。
    「オレらしくない、っていうのは……」
    「だってノアはいつも堂々としてるだろ、自分の努力は間違ってないって。俺、そういうノアが好きだぜ」
    「…………」
     大真面目に答える星夜にノアが言葉を失う。わかりやすく目元を赤くさせて、ノアが自らの唇に指をあてた。
    「…………そう、かな」
    「おう!」
     もう一度小さく問いかけたノアに星夜が笑みを向ける。握られた手は互いに熱を帯びているのを感じ取って、ノアはそっと目を細める。すると何か思いついたらしい幼馴染みが口を開いた。
    「あっ、でも、でもさ。ちょっと弱気なノアもいいかもだぜ!」
    「……」
    「あだだだ」
     ノアの形の良い指が星夜の頬をつまみ、きゅ、と捻れば悲鳴があがる。悪かったってと情けない声を出す幼馴染みにくすくすと笑い肩を揺らせば、いつもの笑みを彼に向けた。
    「そうだね、でももう見せてあげない」
     ここではね。そう言い残してもう一度水を飲む。その言葉を理解しようとして、どうにも出来ずにいる星夜に笑いながら、中身の少なくなったペットボトルをそっと置く。それから軽やかに立ち上がり、次は一緒にどうだい、と幼馴染みの腕を引いた。
    こがねいろ
    「きみのかみの毛は、こがね色だろう。だからこむぎ畑はとってもいいものになるんだ」
     少し茶目っ気を含ませたような幼馴染みの声が耳に届く。それは誰かに向けられたようで、そうではないのを愛童星夜は知っていた。しかしなんとなく、思い当たるような物言いだったので思わず視線をそろりと隣に向ける。その先には整った横顔がある。少し俯きがちな角度は、彼の手元に小さな文庫本が収まっているからだろう。
    「きみが、おいらと仲良くなれたらだけど」
     続いた言葉にどこか悪戯っ子のような、それでいてさみしがっているような気配を星夜は感じ取った。おいら、なんて絶対言わないだろう。本の中のきつねは親友の唇と声を借り、飴色の瞳を期待に輝かせて、目の前の彼(――実際、いるわけではないが)に、こがね色の髪の王子様に語りかけている。
    「こむぎはこがねの色だから、おいらはきみのことを思いだすよ。そうして、おいらはこむぎに囲まれて、風の吹く音を聞くんだ」
     幼馴染みもしくはきつねは、そう言ったきり口を閉ざして黙りこくった。つい、と顔を上げて眼下、赤やオレンジが混じり合ったような夕焼けに染まるビル群を見据えているようだった。星夜と彼の間に、見計らったかのように風が吹き抜けて、幼馴染みのプラチナブロンドを撫でては揺らしていく。それから目が離せずに星夜はじっと、幼馴染み――ノアの横顔をただじっと見つめていた。
    「……オレに穴をあけるつもり?」
     可笑しそうなノアの声にはっと我に返る。直後あの飴色と視線が合って、星夜はかっと頬を赤らめた。
    「……わりぃ」
    「はじめて聞いたような顔してる。こっちじゃ有名じゃないのかい?」
    「んー……あ、でも前に奏多が読んでた気がするぜ」
     朧気な記憶を口にする星夜に苦笑いを零しながら、ノアが本の間にしおりを挟む。ぱたり、とそれを閉じてからぐっと伸びをした。
    「帰ろうか。もうこんな時間だ」
    「……おう」
     ノアの言葉に頷いて、星夜が立ち上がる。ごく自然な仕草でその手を幼馴染みに差し出した。
    「行こうぜ」
    「…………手を繋いで?」
    「だっていつもそうしてただろ?」
    「いつの話かな、それ」
     あ、と星夜が声を漏らして顔を赤らめるのにくつくつと笑い、ノアが立ち上がる。傍らに置いていた鞄を拾い上げて、空いた手で星夜の手を引っ掴んだ。
    「一階までだよ」
    「…………ああ」
     ぐっと手に力を込めれば、柔らかく握り返される。そのまま指を絡めてきたのを感じ取って、愛童星夜はもう一度、頬の熱を上げた。
    あめのおり 雨予報の日は暗鬱だ。分厚い雲が太陽を覆い隠して、逃げ道を無くしてしまうような気にさせた。
     時計が示すのは十七時二十五分、初夏特有の夜に成りきれないほの暗さが二人きりの教室を包んでいる。
    「……降りそうだね」
     幼馴染みの手元から視線を外して、ノアが窓の外を見やる。急に暗くなった気配がしたのは勘違いではなく、黒い雲が街の上に立ちこめてきたからだろう。ノアの声につられた星夜もペンを動かしていた手を止めて顔を上げた。
    「うわ、マジかぁ……」
     今にも降り出しそうな空模様に眉尻を下げて声を出す。その様子にノアが小さく肩を揺らし、笑った。
    「ほら星夜、はやくしないと……きっと酷く降るよ」
    「お、おう」
     とん、とノアが星夜の手元にある紙を叩く。それは明後日提出期限の課題で、ノアが幼馴染みに寄り道を提案した時にまだ手すらつけていない事が発覚したものだった。勿論寄り道は中止、誰も居なくなった教室でノアは星夜が課題を片付けているのを一時間ほど、見守っている。
     ――そういえば、ユニットのメンバーはちゃんと提出出来るレベルのものに仕上げているのだろうか?
     ふとよぎった気がかりに僅かに意識が向く。あともうちょっとだからと焦る声を聞きながら、帰ったら確認しようと結論づけた。
    「出来た!」
    「……見せて」
     星夜の弾んだ声にノアが手を伸ばす、その瞬間、窓の外でごろごろと何かが唸るような音がして。
    「っ」
    「うわっ」
     轟音と共に窓の外が瞬き、間髪入れずに水滴の群れが窓を勢いよく叩き出す。いよいよ雨が降り出したらしい。近くに落ちた雷の音と雨の音に二人は目を丸くして身を固くしている。
    「びっ……くりしたぜ……!」
    「…………」
     ややあって呟いた星夜が降っちまったかぁと窓の外を見て、肩を落とす。そして何も言わないノアの方を向いて、首を傾げた。
    「ノア?」
    「……何?」
     ようやく短く返したノアが伸ばしかけていた手でプリントを拾い上げる。小さなため息と共に、飴色の目で星夜の書いたものを追うノアの眉間には深い皺が刻まれていた。先程の余裕さとはうって変わった幼馴染みの雰囲気にぱちりと瞬きをして、顔を覗き込む。
    「今の怖かったのか?」
    「What?」
     星夜の、百パーセント純粋な問いに思わず母国語で返す。それから軽く肩を竦めてゆるりと首を振った。
    「まさか。突然だったから余計に驚いただけさ。ほら、星夜……ここと、ここの漢字、間違えているよ。それとここの解答は少し根拠が薄いね」
     いつも通りだろうと言わんばかりの、いつもよりも澄ました声に指摘され星夜が慌ててプリントを覗き込む。遠くの方で再び空の唸り声が聞こえてきた。
    「それにしても、傘があったとしても意味がなさそうな雨だね」
     ノアが呟いた言葉は殆ど独り言に近い。星夜は間違えた漢字を書き直している。雨の勢いは弱まらず、相変わらず窓を無遠慮に叩いている。さてどうしようか、彼の課題が終わったとしてこの豪雨の中で帰るのは得策とは言えない。
     この雨が止まずとも、いつ弱まるのかは、分からない。
    「なー、ノア」
    「出来た?」
     星夜に呼びかけられ、そう返せばまだもうちょい、と答えられる。ならばどうして呼んだのか分からずに小首を傾げれば、幼馴染みは申し訳なさそうに口を開いたのだ。
    「時間、大丈夫かよ」
    「そうだね、時間は限られてるけど」
     例えば下校時間とか。一般的な学校とは違ってアイドルを養成するスクールだ。ある程度遅くまでの居残りは許されているがそれでも二人は未成年である。十九時頃になればそろそろ、とプロデューサーかマネージャーが帰宅を促してくるだろう。
     不意に手元に放り出していたスマートフォンが震える。それを手に取り画面を確かめれば、ノアは片眉を上げた。
    「だから早く片付けて、星夜」
    「分かったぜ……」
     ノアの言葉に大人しく頷き、再びプリントと向き直るのを眺める。こんな憂鬱な天気でも、彼の髪色は褪せることなく輝いていて、それと同じ色をした睫は伏せられた瞳を縁取っている。
    (このまま、雨が止まなければ?)
     こうやって二人きりを続けられるだろうか。そんな考えがよぎり、ノアは飴色の双眸をゆるりと細めた。
    「悪くないけど……」
    「ノア?」
    「なんでも。少し馬鹿なことを考えていただけさ。ああ、星夜。セバスチャンが迎えに来てくれるって」
     こんな雨だからね、一時間後に。ノアの涼しげな声が、幼馴染みにそう告げた。
    もうなんどもハグ いつもよりずっと長いハグだった。
     何故ならもうこれきりということを二人とも分かっていたからだ。小さな腕を互いの背中に回して、元気でね、手紙送るからな、そんな言葉を交わしてそれでも、どうしようも出来なかった。
    「星夜」
     だからこそ、それは自分の役割なんだと少年は親友の背を撫で、一歩引いた。
     またね、また今度。

     ノア! と元気の良い声と共に廊下の向こうから満面の笑みで幼馴染みが駆けてくる。やれやれ、と口角を上げて一歩引けば、目論見が外れて彼の腕はすかっと宙を抱いた。
    「星夜、廊下は走っちゃ駄目だろう」
    「う……わりぃ」

     ノアの咎める声に眉を下げて謝罪する星夜にくすくすと笑えば、それじゃあ、と改めて星夜が腕を広げてくる。その様子を見つめ暫く考えた後でゆるく首を振った。
    「また今度ね」
    「なんでだ?」
    「昨日もしただろ」
    「毎日したいぜ!」
     身構えたまま反論する星夜に苦笑いしながら、さてどうしようかと目を細める。まあ、それでこそ彼なのだし、別に彼の要望に応えてもいいのだが。
    「そうだね……オレが焦らしたい気分って言ったら?」
    「焦らす……? ハグをか?」
     星夜の青い目がぱちりと瞬く、そう、とノアが頷けばプラチナブロンドの髪がさらりと揺れた。
    「少し間を置いたほうが喜びも大きいと思わない?」
    「うーん……」
     ノアの言葉に曖昧に頷き、確かに、と星夜が肯定する。それからややあって、でもさ、とぽつりと呟いた。
    「オレ、ノアがこっちに来るまでずっとオアズケだったし……」
     星夜の言葉に、用意していた言葉を失う。絶句にも似た思いがノアを襲い、暫く黙りこくって、どこか遠くを見た後で目をつぶった。
    「オレの負け。ほら、星夜」
     おいで、ノアが軽く腕を広げる。それを見て、ぱっと表情を明るくさせた星夜が、勢いよく幼馴染みを抱きしめる。夏の蒸し暑い空気の中、腕の中に収められる。ハグだぜ~! と上機嫌に笑う星夜の声を聞きながら、ノアはこの幼馴染みに気づかれないようにそっと笑んだのだった。
    くろてら Link Message Mute
    2022/06/18 14:00:27

    星ノアまとめ  (9/13更新)

    ついったーにちまちまと上げていた星ノアSSのまとめ。随時更新中。
    最終更新日:9/13
    表紙は相変わらずCanvaにて作成。
    #二次創作 #アイチュウBL #星ノア #SSまとめ

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