惚れ薬を作ったドナテロと、それを頭から被ってしまったラファエロの話 スプリンターことヨシ・ハマトの私物には、古い書物がいくつもあった。
そのほとんどが武術や忍術にまつわるものだ。体術や心構えについて書かれたものや、武器や道具が記されたもの。古い時代に使われていた薬についても記されていた。傷を癒す薬草、幻覚を見せる薬──心を惑わせる薬。
科学者とは大抵にして好奇心に満ちているものだ。
少なくともドナテロは、思いついたことは試さずにはいられない質だった。
「これで完成……のはず」
ビーカーの中身を掻き混ぜながら一人呟く。師の書物にあった秘薬の再現を、ドナテロは試みている最中だった。
必要にかられたわけではない。ただ出来そうだったから、作ってみたかったから行っている、要は趣味である。
まだ科学で解明されていないものがずっと多かったころの薬だ。何の成分がどう作用しているのかなんて書かれているはずもない。その一つ一つを読み解きながら解明していく作業は楽しいものだった。
そうやってとりあえず完成したものが、現在ビーカーの中にある。
現代では手に入らない素材もあった。製法も憶測で行った部分が多い。完全再現とはいかないが、理屈の上では同じ効果を持つはずだ。
澄んだ桜色の、ほんのり甘い香りのする薬液。
「いにしえの忍者が使った、心を惑わす──惚れ薬」
あとは効果を確かめるだけだ。
「ネズミか何か捕まえてきて、記録をとって……」
単なる趣味の産物だ。成果さえ知れればそれで満足だった。
惚れ薬が街を守る戦いに役に立つこともそうないだろう。念のためにデータだけ残しておけば十分だ。
「と……その前に、ちょっと休憩しよ」
凝り固まったこめかみを揉む。つい作業に没頭しすぎてしまった。
念のためビーカーに蓋をして、ドナテロはキッチンへ向かった。
湯気を立てるホットミルクに口を付けたのと、ラボから騒音が聞こえてきたのはほぼ同時だった。
「……マイキーッ!」
怒鳴りながらキッチンを出た先のリビングには、目を丸くしたミケランジェロの姿があった。
「ちょっとー!僕なにもしてないよ!」
ゲームのコントローラー片手に頬を膨らませる弟。確かに騒音の原因は彼ではなさそうだ。ごめんね!と手を合わせてラボへ急ぐ。
ラボの入り口には室内を覗き込むレオナルドの姿があった。ドナテロが駆け寄ると、困り顔をしたレオナルドが振り向く。
「何があったの」
「ああドナ、ラファがラボの中に突っ込んで……でっかい虫が出てさぁ、あいつ脇目も振らずに逃げ回って……」
「……大体わかったよ……」
肩を落としながらラボの中に踏み入る。視線を巡らせると、作業机の下にひっくり返って目を回しているミュータントを見つけた。一直線に突進して机に激突したといったところだろうか。机の上は衝撃で物が散乱していた。
「ちょっとラファ、大丈夫?」
「う……」
よろよろと身を起こす身体にさっと目を通す。額に大きなたんこぶができている以外に外傷は見当たらない。頭をぶつけたなら後で念のために軽い検査をしておいた方がいいだろうか。後は気になるところと言えば、頭から濡れていることくらい……
「……ん?」
そういえば。
自分はビーカーを作業机の上に置いて出ていったのではなかったか。
ぎぎぎ、と油の足りない機械のように足元に向けて首を動かす。
そこには空になったビーカーが転がっていた。中身がどうなったのか確かめたくない。確かめたくないけれど、そういうわけにもいかない。
慌てて濡れたラファエロの顔に自分の顔を寄せる。ふわりと独特の甘酸っぱい香りがして、ビーカーの中身の行方を悟ってしまう。
「ラ、ラファっ、平気?」
経口摂取の薬である。飲み込んでいないのなら問題はないはずだと、思わず鼻先がぶつかる距離まで顔を近づけて問う。
ぼんやりとしていたラファエロの瞳がゆっくりと見開かれる。丸く開かれた緑にドナテロの顔が映った。
「……ドナ……?」
ラファエロらしからぬ、か細い声がドナテロを呼ぶ。彼の頬は、まるで薔薇が咲くように染まっていった。
それは心を奪われた少年の顔。ラファエロが惚れ薬を飲んでしまったと認めざるを得ない光景だった。
「あの、ラファ、そのっ……」
「……っ!」
どん、と胸に衝撃。ドナテロがよろめくと同時に、ラファエロはラボから走り去っていった。
「どうしよう……」
へなへなとしゃがみ込む。作った発明品でトラブルが起こるなんて慣れっこだ。薬だって解毒剤を作ってしまえばそれで済む。
けれど、ドナテロの胸中は荒れていた。
「なんでよりによって、ラファなんだ……」
ドナテロを見て頬を染め上げたその表情を、嬉しいと感じてしまった。あんなものは惚れ薬で歪められた感情にすぎないというのにだ。偽物を目の前にぶら下げられて喜んでしまった自分が嫌になる。
「ああ、もう……。とりあえず、片付けないと」
ぺちん、と頬を叩いて立ち上がる。解毒剤作りに取り掛かるにせよ、まずは騒動で散らかった机の整頓だ。
「なるほど、ラファの様子がおかしいのはそういうことか」
「うん。だから気にしないでやって。今解毒剤作ってるから、すぐに元に戻すよ」
レオナルドの視線は部屋の隅のラファエロに向けられている。壁に寄り掛かり、興味のない風を装いながら、ソワソワチラチラとドナテロの様子を窺っているのが見てとれた。
「正直めちゃくちゃ面白いなアレ」
「放っといてやりなよ……」
状況が違えばドナテロも面白がる側に回っていただろうが、さすがに今回は笑いごとにはできない。突き刺さる熱烈な視線がいたたまれなくて、同時に痛い。
「解毒剤はどれくらいでできそうだ?」
「順調にいけば明日か明後日には」
「そっか、頼むぞ。いつまでもあんなだと調子狂うしな、面白すぎて」
再びラファエロのほうを見やれば、遊び相手を欲しがったミケランジェロに手を引かれてどこかへ行くところだった。去り際に、名残惜しむようにドナテロを見やってラファエロは部屋を出ていく。
蜂蜜のように甘く、熱の籠った瞳。
「うぅ、やだなぁ」
吐息交じりに呟いた声は、幸いレオナルドにも聞こえていないようだった。
喉が渇いた。時計を見て、それなりの時間作業を続けていたのだと知る。夜も更け、いつもならそろそろ眠っている頃合いだ。集中していると時間を忘れてしまう。いったん手を止めてキッチンへ向かった。
「あ」
「……よお」
キッチンには先客がいた。今一番顔を合わせたくない相手だ。肌はうっすら汗ばんでいて、おそらく筋トレでもしていたのだろう。牛乳のパックとコップがその手にはあった。
目が合い、どちらともなく逸らす。
基本的に素直ではないラファエロは、惚れ薬を飲んでもストレートな行動に出ることはなかった。ひたすらドナテロを気にして、付かず離れずの距離で傍にいる。もっと普段の彼からかけ離れた行動をとってくれれば、これは薬のせいだと強く意識することができたのに、ドナテロのよく知るラファエロらしい行動で好意を示される。本物によく似た偽物を見せられると心がざわついて仕方がない。
目を合わせないままコーヒーを入れる。早く解毒剤を完成させたくて、多少無理にでもペースを上げようと思いきり濃いブラックコーヒーをカップに注ぐ。
すると横からラファエロの手が伸びてきて、黒いカップの中に牛乳を注がれた。ブラックコーヒーがカフェオレに変わる。
「濃すぎだろ、腹ん中荒れるぞ」
「……余計なお世話どうも」
わざわざ入れなおす気にもならず、牛乳を追加されたおかげでカップの淵ギリギリの水位になったカフェオレを啜る。
「おまえ、今日はもう休めよ。ずっとラボに籠ってたろ」
「平気だよ」
誰のために根を詰めていると思っているのか。半眼でじろりと見やると、思ったより近い距離で見つめられていた。心臓が跳ねる。
「ち、近いよ」
「えっ、あ、悪い……」
お互いに一歩遠ざかり、気まずい沈黙がキッチンを支配する。
何をやっているのだろう。ラファエロの感情は薬の産物で、この場で本当に心を乱しているのは自分だけだ。いたたまれなくなって急いでカップの中身を飲み干し、逃げるようにキッチンを去ろうとした。
「うわ、っ」
腕を掴まれる。思わず振り返ると、真剣な眼差しがドナテロを射抜いた。
「おまえ、調子悪いんじゃねえの。すっげー疲れた顔してる」
誰のせいだ!喉まで出かかった言葉をどうにか飲み込む。
「ちょっと考え事してただけだよ」
だから放して、と言う前に腕を引かれ、強引にキッチンから連れ出されてしまった。
「おい、ちょっと!」
「いいから来いよ」
そうやって連れてこられたのはドナテロの私室だ。ベッドの上に放り出され、強制的に毛布で包まれる。抵抗したくても腕力勝負ではかなわない。毛布ごとベッドに押さえつけられた。
「今日はもう休んどけって」
ドナテロが頷くまで解放するつもりはないらしい。半ばベッドに乗り上げた姿勢でラファエロは言う。
「勝手なこと言うなよ。君の解毒剤なんだぞ。早くまともに戻りたいだろ」
好きでもない相手を好きでいるの、嫌だろ。喉がつかえて最後の言葉は言えなかった。
「別にいい。そんな困ってねえ」
「今はね。後で思い出してワーッてなるよ」
現在のラファエロにとってドナテロへの好意が嫌なものではなくても、それもまた薬の効果にすぎない。元に戻ったラファエロに八つ当たりされるのは避けたいし、多少の罪悪感もある。親切心で早く治してやろうというのにラファエロは頑なだった。
「もう、後から文句言っても知らないからな……」
根負けしたドナテロは自分から毛布に潜り込む。それを見たラファエロは満足げに鼻を鳴らし、毛布の上からぽんぽんとドナテロの腹部を叩く。幼児を寝かしつけるような柔らかい手つきに頬が熱くなる。
「おやすみ」
「お、おやすみ……」
これまで積極的に好意を示すことはなかったラファエロだが、人目がないと少々違うらしい。甘さを含んだ声に、ドナテロの心臓はしばらく落ち着いてくれなかった。
その夜からも、ラファエロは度々ラボを覗きにやって来た。解毒剤の進捗を見るためではなく、ドナテロが根を詰めていないか気にかけてだ。
二人きりでいるときのラファエロは普段より少しだけ素直に好意を示してくる。作業するドナテロをじっと見ていたり、理由もなく隣に寄ってきたり、少し長時間作業していると無理矢理休憩させようとしたり。
ドナテロからすればたまったものではない。頬が赤いのを知られないように、薬の調合なのに溶接用のフェイスシールドを被って作業している有様だ。
だが、そんな間抜けな光景も終わりだ。ラファエロが惚れ薬を摂取してから三日、とうとう解毒剤が完成した。
これでもうラファエロはドナテロを特別扱いしない。ドナテロは心を掻き乱されることもない。全て三日前に元通りだ。
「じゃ、ラファ。これをゆっくり飲んで」
ドナテロの指示に従ってラファエロが薬の入ったコップを傾ける。薬を口に入れる前に何故か少し躊躇って、それでもゆっくりと飲み込んでいった。カップの中身が空になったのを見届けて、ドナテロは安堵の息を吐いた。
「もう、ラファもこれに懲りたら何かわからないものを飲み込んじゃ駄目だよ。口に入ったらすぐ吐き出さないと」
「……は?」
ドナテロの言葉にラファエロが固まる。ドナテロの顔を凝視する不審な姿に首を傾げた。
「い、今、なんつった」
「怪しいものは飲み込むなって言った」
「…………俺、飲んでねえぞ、惚れ薬」
「え?」
今度はドナテロが固まる番だった。ラファエロはおずおずと続きを口にする。
「その、あの惚れ薬って、塗り薬系のヤツじゃねえのかよ。頭から被っただけで効果出たじゃねえか」
「そ……そんなはずないだろ、あれは口から飲まないと効果なんて出ない」
何か巨大なすれ違いが発生している気がする。それも、ものすごく厄介な類の。
「だ、だってよ、ドナがすっげー顔近づけてきたとき、なんか頭ん中ぐちゃぐちゃになったんだよ!おまえが後で惚れ薬のせいだって言ったから、俺っ……!」
ラファエロは惚れ薬を摂取していない。なのにドナテロに対して奇妙な感情を抱いた。惚れ薬のせいだと誤解するような種類の感情を、だ。
「あ、あの、その、ラファ……っ」
何が起こっているのかわからない。否、わかりたくないと言った方が正しい。
惚れ薬を摂取したという勘違いの上でだが、この三日間のラファエロの行動は全てラファエロの本心からのものだったということだ。何度も何度も向けられた、甘い感情の籠った瞳を思い出す。かあっと顔中が真っ赤に熱を持つ。顔どころか、全身が火照って今すぐこの場から逃げ出したくなる。
ラファエロもまた、茹で上がった蛸のように赤くなって動揺している。赤く染まった亀が二人。それぞれが落ち着いて何が起こっていたかを受け入れるまで、まだまだ時間がかかりそうだった。
「うーん、何やってんだあいつら」
リビングの片隅で固まっている弟二人を見て、レオナルドは首を傾げる。何を話しているのかはわからないが、下手に首を突っ込むと面倒なことになりそうな気配を察して遠巻きに観察するにとどめておくことにした。
「ねえ、あれどうしたの?」
後からやって来たミケランジェロが興味津々で隣に立った。
「どうなんだろうな、惚れ薬の解毒剤ができたって聞いたんだけど」
「惚れ薬?なにそれ」
「いや話しただろ、ラファが惚れ薬飲んでドナを好きになっちゃったって」
「え、そうだったの?僕全然わかんなかった」
「あのなぁ……ラファの様子がおかしかったろ?ずーっとドナのこと気にしててさ」
「んー、でもラファいつもと変わんなかったよ?」
きょとん、と目を丸くする末っ子に、レオナルドはおや、と思う。これは話を聞いていないとか何もわかっていないとか、そういう顔ではない。柔軟で感受性豊かなミケランジェロは、時々はっとするほど鋭いのだ。
「だってラファ、いっつもドナのこと見てたもん」