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    友だちならこんなことはしない数ヶ月前から日本で取り組んでいた厄介な仕事を終えたあと、本を買った。古い写真集や美術書が店頭にずらっと並んでいる古本屋で、"Shakespeare never did this"(シェイクスピアならこんなことはしない)とかいうふざけた題がやたら目を引いたのだ。
    その本は、酒や女、競馬がとにかく好きなアメリカ人の小説家がヨーロッパ旅行の行く先々で飲んだくれるという紀行であり、フィリピン行の機内で適当に開いたページにはこう書いてあった。

    「わたしにとっては死はほとんど何の意味もない。次から次へと続くひどい冗談の最後のひとつにしかすぎない。すでに死んでいる者にとっては死は何ら問題ではない。死はまたひとつ別の映画で、結構なことだった。」

    僕は一発でこの本が気に入り、フライトの間に読み切ってしまった。



    僕は、強いていえば、死ぬことよりは生きることのほうが好きだ。しかし、だからといって死のことがきらいなわけではない。死なんかよりも、手入れされていない革靴のひび割れ、ランニング、時計のきらめきを邪魔する手垢のついたショーウィンドウ、下手な駐車のほうがよっぽどきらいだ。
    生きることだって、死ぬことに比べたら好きなだけで、そもそもはそんなに好きじゃない。整髪料をつけてコームを通す瞬間とか、開けたてのコーラの匂い、新しく仕立てたジャケットのほうが全然好きだ。つまり、死ぬことも生きることも、仕事で相手をする間抜けたちと同じで、たいして好きにもきらいにもなれない。
    マルコに医者にかかれと言われて、まあもういちどかかるかと行った病院で、完璧に健康だと言われたときは笑ってしまった。だって死ぬと思っていたのに、死なないなんて、そんな忙しい話は笑える。
    先生は、(前はそんな説明一言もなく僕が訴える症状をうんうんと聞き、チラッと診察して、じゃあ出しときますよ、と薬を出しただけだったのに)諸々の症状は、禁煙による症状だと言った。
    「まず、咳についてですが、そもそも喫煙っていうのは気道にある繊毛をダメにするんですよ。だから、禁煙するとこの繊毛が回復し、痰を取り除けるようになって、一時的に咳が増えるんです。あなたの咳はこのためです」
    暑い昼下がりの日光を背に、先生は続けた。
    「で、出血ね。これ歯周病の出血ですよ」
    「歯周病」
    「はい、歯周病」
    「先生」
    「はい」
    「僕、歯周病なんですか」
    「喫煙者は歯周病の人が多いですよ。タバコの煙は血管を収縮させて、歯茎の血流量を減少させますから、細菌が繁殖しやすいんです。結果歯周病になっても血管は収縮してるから出血せず、自覚も難しい」
    僕はポカンと口を開けていた。
    「あなたの場合、禁煙で血流が戻り、歯茎からの出血もはじまったんですよ。よくあることです」
    だから、あなたは完璧に健康です、と医者は言った。今後も規則正しい生活をして、歯磨きを一日3回、ビタミン剤をちゃんと飲むように。

    そのあと数分間、僕は診察室で爆笑してしまった。先生は爆笑する僕を黙って眺めていた。



    マルコに会うのは久しぶりだった。
    マルコが来るはずの時間に、市場の果物屋でグアバジュースを飲んでいると、時間通りにやってきたかれは数メートル手前で立ち止まり、こちらを凝視した。買い物をしている人びとは、突然立ち止まったマルコを邪魔そうに避けていく。
    「やあ友だち、会いたかったよ〜」と軽く手を掲げると、マルコは不服そうにのろのろ歩いてこちらまで来て、こちらに対して一瞥なのか会釈なのかよくわからない感じのなにかをやって、それから、所狭しと木箱に積みあげられた果物に目を移した。
    かれはただしい姿勢のまま、色鮮やかな果物たちにあまり触らず手早く吟味し、果物屋の店主に「これと、これください」と言ってパイナップルをふたつ買った。
    「──あと、かれにも同じものをひとつ」
    マルコがもたもたとポケットから硬貨を取りだす前に、グアバジュースから口を離した僕はそう言って、まとめて払った。
    パイナップルを抱えたマルコはまた黙ってこちらを一瞥し、顔を背けて呆れたようにちょっと笑った。
    「友だちだからね」僕はウィンクをした。「さあきた、召し上がれ」

    マルコはパイナップルを二つ抱えたままで大変そうだったが、おとなしくグアバジュースを受けとった。
    「あんたに言っても仕方ないけど、」並んで歩き出したマルコは、両腕が塞がった状態でちょっとおかしそうに言った。
    「友だちならこういうとき、これを持ってくれたりするんじゃないか。俺がジュースを飲めるように」
    「ああ!ごめん。スーツが汚れるかもしれないから、持ってあげられないよ」
    「そうか」
    「そうなんだ」
    僕はそう頷いてから、じぶんのぶんのグアバジュースを飲みきって捨て、マルコの手からまだひと口もつけられていないグアバジュースをとる。
    「何」
    歩きながら、目の前に差し出されたストローを不審がってマルコは言った。
    「何って、きみがジュースを飲めるように」
    マルコはまた顔を背けて呆れたようにちょっと笑う。それから、かれはグアバジュースを飲む。うまいかと訊くと、うまいよとかれは言う。僕もまたひと口飲み、うん、うまいな、と言うと、かれは慌てたように「おい、俺の分だろ」と声をあげる。市場の人混みのなかで、すれちがいざまにちいさな女の子がこちらをみておかしそうに笑った。僕はもう一口飲んで立ち止まり、「驚きだ、マルコ」とかれを見る。
    「──うまい」
    「勝手にしろ」



    市場を歩きながら、なんで来たんだとマルコに訊かれた。もうすぐ死ぬんだと口をついて出たとき、僕は自分でもすこし驚いた。なんでそんな嘘をついたのかわからない。けど、ふだんから自分が喋っていることはよくわからないというか、勝手に口先が動くたちなので、まあいいか、いつものことだし、と思い、言い直すことはしなかった。マルコはあまり変わらず、「そうか」と言った。
    「そうかって、もうちょっとなにかないのか?死ぬんだぞ?死ぬってあれだ、こう、いわゆる死ぬ、だぞ?」
    「死ぬのが怖いのか、あんた」
    マルコはそう言って、まっさらな目を僕に向けた。その瞳は、日差しをうけてキラキラ光った。顔の傷のせいでまつ毛が禿げている箇所があった。うつくしい瞳だった。
    「あんたにも怖いものがあるってちょっとおかしいな」マルコは笑わないままそう続けた。
    「……ハッ、」僕はあたりを見渡すように笑う。「なに言ってるんだ、死ぬのは怖くない。だいたい、死ぬのなんて好きでもきらいでもない」
    「好きでもきらいでもなく怖いんだろ」マルコは言う。
    「ハッ!」僕はもういちど笑った。「変なこと言うな、僕が怖いのは、シャツに飛んだ細かい血のしみに気付けないこと、仕事中にほしい靴が売り切れること、コーラが買えない国だ」
    「ぜんぶ生きてるから怖がれることだ」マルコは静かに言った。
    僕は黙った。
    「俺は、生きたいからといって息子の心臓を奪ったり、だれかを不幸にしたりするのは理解できない。でも、死ぬことがそうしたくなるくらい怖いということは、理解できる。俺も死ぬのは怖い」
    いつの間にか市場を抜け、静かな路地を歩いていた。通り抜ける風が心地よかった。
    「リングの上で、ときどき、死ぬのが怖くなくなる瞬間があるよ」
    ふだん口数が少ないはずのマルコは流暢に、低く歌うように続ける。
    「俺が怖いのは、それかもしれない。死ぬのが怖くなくなること。あの瞬間、俺は人間じゃなくなってる気がする。死ぬのが怖くなくなるとさ、なにも思わないんだ。無心で相手を殴りつける。──レフリーに制止されて、それでようやく、観客の怒号とか、血まみれになってうずくまってる相手とか、飛び散る汗とかが入ってきて、もういちど死ぬのが怖くなる。怖がってる自分に安心する。安心して、」
    マルコはそこで話すのをやめた。それからもう喋らず、僕を置いて路地の先の方へとスタスタ歩いて行った。



    またマルコの前に顔を見せたとき、かれは試合後で顔が四方に浮腫んでいた。
    行きつけの店のカウンターで僕が飲んでいるのをみて、マルコは一瞬立ち止まり、表情を変えず(というか顔が腫れてて変えられないのかも)、僕の隣に腰掛けた。
    店ではサッカーの対ベトナム戦がかかっていて、とても会話のできる環境じゃなかったが、僕は大声を張り上げて「やあ、友だち!」と言った。「おつかれさま!会いたかったよ!」
    マルコがボソボソと何か言って、聞こえないので僕が肩をかれのほうへ傾けると、かれはすこし大きな声で「あんた酒飲んでいいのか」と言った。
    僕はなんのことかわからず、「これはコーラ」と大声をあげてジョッキを指さした。
    「きみに会えてよかったよ!あすの朝には韓国に行く仕事があって、またこれも長丁場になりそうなんだ」
    またマルコがボソボソ言う。僕が大きく体を傾けると、マルコは黙って僕を押し返した。
    ビールが出てきて、マルコはそれを煽って、適当に置いた。それからゆっくり顔をこちらに向けて、僕を見た。すごく変な目だった。目というより、機械みたいだった。すべてを記録する機械。丹念にうつしとって、視界のいちばん端っこまで、1ピクセルも逃さない機械。
    僕はその機械に見つめられたまま、ただ手を振ったり、笑顔でピースしてみたりして、突然思い出した。
    数週間前、市場をふたりで歩いているときに、なんで来たんだとマルコに訊かれ、もうすぐ死ぬんだと言ったことを、思い出した。
    あのとき、そうかとマルコは言った。ただ、そうかと。
    いま、かれはもう二度と帰らない男を見る目をしていた。フィリピンが得点を決めたのか、店中がドッと爆発したような歓声に包まれる。マルコはただ僕を見ていた。浮腫んで血がこびりついた顔で、目だけが冴えわたって澄んでいた。
    「あー!」状況を理解した僕は、大声をあげた。「なるほどそうか!ウソ、ウソ!ごめんあれウソなんだよ!」と言ったが、地鳴りのような歓声のせいで声が届かないらしく、マルコは首を傾げる。
    しょうがないので身を乗り出し、マルコの耳に口を近づけると「うそついた。ごめん」と言った。
    「あのー、つまり、僕はあと数十年は死なない」そこで口を一旦離し、ちょっと言葉を選んでから、また耳元につづける。「こないだ、完璧に健康だって医者にも言われたんだ」
    マルコはおかしなことに、そう言われても僕の首の付け根あたりを見続けていた。殴られすぎて耳の調子が悪いのかと僕は思い、「ハロー」と顔の前で手を振った。「きこえ、」

    その瞬間、死んだかと思った。もちろん、あんまりよくない比喩なのはわかってるけど、でも、死んだかと思ったんだ。
    めちゃくちゃ冷たくて熱い痛みが頬に爆発して、気づいたら後ろの客の人混みに吹っ飛んでいた。殴られる準備をしてなかったので、歯が本当にイったかもしれないと思いながら、綿飴みたいになった頭をどうにか引き戻して、体勢を立て直すと、視界には拳を握って暴れるマルコと、それを取り押さえる店員や客、僕の前に立ってどうにかマルコを正気に戻そうとしている面々で大騒ぎだった。
    マルコは大暴れして、両腕を大男に抱えられながらも僕のほうに近づいてきて、僕の鼻を噛みちぎりそうなほどの距離で歯軋りをした。息が顔にかかる。
    「許してくれよ」僕はとりあえず笑いかけて、両手を上げる。「冗談だったんだ。死ぬことは冗談だって、なにかの小説で読んでさ」
    マルコは「離せ」と低く言った。男たちが躊躇っていると、マルコは「もう殴らないよ。こんなやつ、殴ってやる価値もない」と続けた。
    解放されたマルコは、ゆっくりと首を回し、肩を回し、次の瞬間周囲の制止も間に合わない速さで僕に馬乗りになると「いいか、よく聞け」と囁いた。「あんたは知らないようだから教えてやるけど、友だちなら、……友だちなら、そんな冗談は言わないもんだ」
    涙を器用にも瞳いっぱいに張って、一滴もこぼさず、マルコは震える声で言った。胸ぐらを掴まれたまま、僕は肩をすくめ、「でも現に友だちの僕が言ったんだ。謝るから許してよ」と返した。
    マルコは僕の肩に額を埋めて、そのまま黙った。シャツに血がつくし、スラックスも床で汚れるし、はやくこの体勢をやめたかったけど、また殴られたらたまらないので黙ってされるがままにしていた。
    「お詫びの印にキスでもしてあげたいんだけど、歯周病で」
    店内に爆笑が起こる。テレビから実況者の興奮した声が響く。フィリピンがまた得点したようだ。顔をあげたマルコは、「歯周病がなんだ。俺はさっき飽きるほど殴られたんだ」と言って僕にキスをした。


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    Reference
    チャールズ・ブコウスキー, 中川五郎(訳) (2017)『ブコウスキーの酔いどれ紀行』筑摩書房, p.154.
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    2024/05/11 17:22:10

    友だちならこんなことはしない

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    #貴マル貴 プロいよいよ死にますドッキリしたらマルがブチ切れちゃって大変だ!の話 左右はよくわかりません

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