長い長い尺で斜面を駆け上がり突撃し爆散する兵隊、間断なく打ち続く砲撃、泥沙と爆煙と飛び散る血、銃撃と刺突と格闘、転がる死体とまだ死んではいない生者の累々たる山。その全てに何の意味も存在していないかのような、永遠に続くかのような時間のその果てに児玉はかの言葉を叫ぶ。「そこから旅順港は見えるか!?」と。折しも日付は二月二日の深夜。明けて三日というタイミングで「坂の上の雲」再放送23回目は放映された。愚直に時間を掛け、膨大な人間を投入し撮影された今ではおよそ考えられないであろう規模の国産「テレビドラマ」。(最近見たのでは大泉洋の戦国ものにその匂いがしたなあ。映画だが。)作者が生前にはGOを出さなかったという映像化ではあるが、素人目にはよく原作のエッセンスを伝えているように見える。日露戦役については沿革をなぞった程度の知識だが、太子河や黒英台また黄海海戦などの文字を見るにつけ、時に司馬の個人の思想に視点を据えた大変エモーショナルな、そして重きを置かない側には何故攻撃を徹底しなかったかと檄を飛ばし評価した側にはそれ以上を望める状況ではなかったと擁護したりとある意味矛盾しているとも取れる史実の切り取り方には様々な意見があるであろうともまた思われる。が、ともかくも当時のヘアスタイルに名を留めるほど人口に膾炙した数字203、この地名から古い人間ならば関連してさだまさしの歌などを思い出したりするかもしれない。さすがにリアタイ勢ではないがこちらの映画には将軍乃木に関してこのようなシーンがある。今後戦死する息子保典との最後の会話「幾千の人命を、命令一つで殺していく。将たるもの、名将などちゅう者は一人もおらん」。そして一兵卒である元ヤクザとの束の間の会話「寒いじゃろう、躰は大丈夫か」「どうせわしらあ消耗品ですさかいに、こんくらいの寒さあ」。紙切れ一枚で集められた様々な出自の兵隊と彼らの生死をその手に握る指令官。その「戦い」にそれぞれはどう意義を見出すか、または見出さないか。将が「皇國興廢在此一戦」という時、その言葉は果たしてどれほどの真実味をもって下士官兵卒にまで浸透し得ただろうか。
令を下す将の側の戦略指揮の、また巨大組織と国際情勢のダイナミクスというような諸々をさておいて、「
何故に戦うか」を問いとして見た場合、鬼滅の刃の組織の描かれ方はこれら従来の戦争物とは異なっているといえるだろう。組織は少数の志を同じくするものによって自然発生的に結成され、その運営方式は決して上意下達と言えるものではない。階級は存在するものの即座に目視で確認もできないし従って戦闘での先任もはっきりしなく何かあれば指揮命令系統は総崩れとなる。(那田蜘蛛山で見たとおりである。)隊律という言葉は登場するもののその実態が語られることは最後までなく、あくまでも自分自身の意志でこの場に加わり、抜けることにも差し支えはないと思われる鬼殺の闘争という「寓話」。そこで将は死を命じず命を救えと願い己はただの駒であると言い、そして兵は時に上官のために自発的に身を捨てる。冨岡が「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」と叫んだとき、それは正に自分がどう生き、どう死ぬかを他人に決めさせないという強固な意志の決然たる表明であった。生きることと死ぬことを誰ならぬ自分の手で選べるような世にすること。それがどんなにか弱く力のない人間であったとしても。
「叶うことなら生きて傍にいたかった」「みんなそう一番の願いは」
「でも選ばなければなりませんでした」「生きるか死ぬか勝つか負けるか」
「けれど選べるだけまだ幸せです」「本当につらいことは雪崩のように 一瞬で人を飲み込み何も選ばせてはくれない」(23巻)
「人生は選ぶことの繰り返し」「けれども選択肢は無限にあるわけではなく」「考える時間も無限にあるわけではない」
「刹那で選び取ったものがその人を形作っていく」(FB弐)
「死なないことがすべてに優先する」が最大の命題であるならば、生死を司る権利を持つ強者に楯突くのはほとんど得策ではないこと言うまでもない。いわば繋がれた家畜のように唯々諾々と他者に決められた定めを生きる。むしろ積極的にそちら側に接近しようとする。それを良しとして束の間の安寧を貪ることはある意味現実的ともいえるかもしれない、それは全く無惨が言う通りに。しかし鬼殺隊士は何故そうしないか。「弱者には何の権利も選択肢もない」「悉く力で強者にねじ伏せられるのみ!!」「当然俺もお前を尊重しない」「それが現実だ」そう言って目の前で頭を地面に擦り付ける少年の妹である鬼に刀を突き立てる冨岡。「脆弱な覚悟では 妹を守ることも直すことも 家族の仇を討つこともできない」のだ。自分の人生を自分が主役として生きるための覚悟。そしてそのなかで生まれる目的を同じくする他者への想いと信頼、いかな苦渋の連続だとしてもきっといつか願いは叶うだろうという未来への展望、そのための不断の努力、いつどんなに絶望にのみ込まれそうだとしても。伊之助が言う「信じると言われたならそれに応えること以外考えんじゃねぇ!!」という言葉。そのようにして、ようやっと何かが変わる。これが「人の想いは永遠」ということだと自分には思われる。現在世界で拡大しようとしている様々な闘争を見るとき、弱者は打ち捨てられ強者の論理と実践だけがまかり通ろうとする現在、この人への信頼がいかに容易く失われ、そして、想いの果ての大願成就というものがいかに困難なものであるかという事を思わずにいられない。そして今自分が当たり前のように享受し自明のものとしてその上に生きる権利が、かつて生きた誰かが文字通り生命を掛けて勝ち得てきたものであるという事を忘れないでおかなければと思う。それはけして永遠不変のものではない。自分にとって鬼滅の刃という物語は「生殺与奪の権を他人に握らせない」ための物語である。それでも希望を持ち続けたいと願うか細き存在として。
冨岡の誕生日を前に。(前にとは。インド人を右に!のようなものかな)
───組織の長たる産屋敷耀哉についてはまた違った見方もできるだろう。ほぼすべての隊士の感情と行動規範を理解し恐らくこれを自由に操ることのできる声質と会話術を身に着けているとも思われる鬼殺隊当主。これをして鬼滅を炭治郎のビルドゥングスロマンであるのと同時に他者(言うならば血を分けた娘や妻ですら)の想いを利用して呪われた己の一族の恨みを見事討ち果たすという宿願を叶えた男の稀代のピカレスクロマンであるという解釈も有り得るかもしれない。作者はその可能性を否定してはいないし少なくともそう取られ得る余地を残している、(これもまたいみじくも無惨が「あの男は完全に常軌を逸している」と零したようにだ。)いやむしろそういう側面はこの物語に当然孕まれ得るという視点を踏まえたリアリストである、と自分には思われる。また、そうでなければ、あの結末は導かれ得なかったのだ。だからこの物語はこれだけ人口に膾炙してはいるけれどもけしてあまねく万人向けであると言えるものではないだろうと(今後のアニメの展開を思うにつけ)、またアニオリでの善意の補足はその視点を助長する後押しになったのではないかという老婆心もありつつ、それはまたそのうちに。───