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    7月20日である。3度目の城鑑賞の後水柱の水まんじゅうを食しながらこれを書いている。ぷるんぷるんである。うーんとってもラムネ味。そうしながらしたらばのP値100万越え祭りを目の当たりにして鬼滅の化け物コンテンツっぷりに改めて感慨を深くするなどしていたのであるが、実際劇場に足を運んでみてもとにかく老若男女が連日ぎっしりと詰めかけておりそれは正直遥かに自分の予想を超えた光景であった。さすがに今作は集客も列車編程いかないのではないかと思っていたのである。すいません。鬼滅シアターにほぼ週一で通い、直前のテレビシリーズ再放送も見てアップは十分、初日の初回は混むだろうから午後にゆっくり鑑賞とのんきに構えていたのだが、前日の柱稽古編を見てしまったらもうダメで(4か月ぶり2回目)近場の劇場を検索しまくりどうにかこうにか初回の(さすがに最速は無理だった)タイトな座席にケツを捩じ込んだというポンコツぶり。いやあ疲れた。いやあ良かった。サンキュー有休。
        とまあ、ここまでが初動3日の前振りである。…今いつだっけ。


    列車編と同じく墓地で物語は幕を開ける。時は冬。かつてそこに立った産屋敷の想いを今悲鳴嶼が継いでいくという正しく劇場版二作目としての開演、そしてまた降る雪は原作の、アニメの冒頭シーンを嫌でも思い出さずにはいられない。そこから始まる無限城への落下。鬼がわらわらと湧く空間にAimerをバックに落ちてゆく柱と隊士達のカット。これがもうね。Aメロを持っていくしのぶ。時透をかばいながら落下する悲鳴嶼。最後までこの二人はペアなのであるが悲鳴嶼と並ぶと時透は本当にちっちゃくて、刀鍛冶編でもそうだったがあぁ無一郎…うぅ無一郎…おぉ無一郎…みたいに情緒がおかしくなってしまう。次作が思いやられますなあ。悲鳴嶼さんのムゥン!!は最高に好き、かっこいい(乏しい語彙)。また後では甘露寺が正面に降り立った鬼の集団を真上から斬って捨てる伊黒。そして踏ん張りの利かない炭治郎を救う降って来る冨岡。この炭治郎が出せなかった呼吸で軌道を変えた冨岡が炭治郎を掴んで部屋に放り投げるシーンまでは何回見ても神懸っていると思う。ものすごいものが始まった。これが初見の正直な感想であった。でも平隊士はほぼ死ぬだろあれ。

    そんな中で始まる蟲柱胡蝶しのぶの闘い。最初にぞくっとした瞬間はこれである。しのぶの納刀。カーン、ギリュッというその音は彼女の闘いの一つのシンボルだ。表に出るのは緩急自在な体捌きと目にも留まらない速さの突き。そうしながら同時に毒を、敵の特性を瞬時に看破しそれに対応した毒を考案するという目には映らぬもう一つの側面を蟲柱は闘っている。その音はそこまでの、またその後の彼女の闘いの趨勢であり、そうしながら彼女は努めて冷静になるべく、しかし到底なり切れぬまま効果を見据える。この鬼に、毒は、効くのか?そう、このあたりまでは想定内。あと4回、できれば違う音を聞いてみたかったというのが我儘な気持ちではあった。しかし「虻咬ノ舞  切裂の誘い」、聞いただけでは漢字も分からず今回のオリジナルなのかと検索してみたら、これはノベライズで既に書かれたものなんですね。ノベライズはチェックしていなかったので知らなかった。不明を恥じる。未熟でごめん。それからまた毒を分解された童磨に俺頑張ってる人応援したくなるんだよねと言われて、したのだ、舌打ちを、しのぶが(ひっくり返る語順)。女性の実際の舌打ちを実際の音として流される(しかも美しい娘さんのである。鬼や宇髄や不死川ならいざ知らず)ということは今まで鬼滅のアニメではなかったように思う。あったらすみません、とは言っておこう。その音は非常に生々しく、同時に下卑た響きも帯びてい、この音で表されるしのぶの童磨に対する感情というものがもう本当に目の前の塵屑が口をきいたように、というのも塵屑に失礼なくらいに忌々しいものであるということが伝わり、そして当の童磨には一欠けらの悪意もないのだというこのね。100%善意。優しさの塊。それまでそんなことを考えたこともなかったのだが、恐らく自分の中でのしのぶは「とっととくたばれ糞野郎」とは口にしても絶対に舌打ちをするような女ではなかったのだ。カナエ死亡以前の辛辣な彼女だってそんなことはしなかっただろうと思う。それが人の育ちである。だが映画の彼女はそれをした。そのことに衝撃も受け、原作とは違ったアニメならではの演出と演技の凄みというものを見られたなとも思ったものである。同じような事を猗窩座に向けた炭治郎の「……は?  カラン(耳飾りの鳴る音)」にも感じた。これとこの後のセリフについては花江さんもライビュで自分で思ってもいなかった演技になった(うろ)というようなことを語っており、本当にそれは普段の炭治郎からは思いもよらない何かを越えてしまったような演技であって、聞いていたこちらも思わず動きが止まるような瞬間であった。これはまた無惨戦でなされるであろう会話の前哨戦であり、そこで炭治郎は更に自分の持つ価値観を遥かに超えた生き物と言葉を交わすことになる筈である。この耳飾りの音は頻繁に鳴っているのだがアクションシーンなどではあまり気に留まらず、炭治郎の心情の揺れや場面転換など要所要所では効果的に聞こえてくる。今作では例えば「怒ってますか?」の場面であるとか。この耳飾りは死の10日前にはまだ炭十郎の耳にあり、死の床で父が息子の耳に穴を穿ち形見の継承がなされたのかなどと妄想も捗る。そしてまたこのときの猗窩座との会話は原作では城の和室だが(というかここだけじゃなく終始城の和室だが)ここではなんというかそのホワイエというよりは地下駐車場かなんかのようなところでなされており、ま明暗や上下の対比といった事ではあろうかと思いますが、冨岡や不死川には個人ステージや効果用意するのにこの差。ハァッ…アニメスタッフ…いや、上弦の肆だからってサァッ…!! それから人である隊士達のためにそこかしこにまんべんなく明るすぎるペンダントとフロアランプを配置する律義さね。ぶっ殺すだけなら真っ暗にしときゃいいものを。自然な天井光の童磨の館とか城のライティングもいろいろ面白かったがそれはまた。ていうかそもそも関係ある鬼と柱や隊士のパワーバランスも考えた完璧なマッチングも鳴女ちゃんの小粋な配慮ではありますな。物語の都合上とも言いますか。いや閑話休題閑話休題。

    童磨という鬼は女を好んで喰う。この鬼にとって女はまず何よりも栄養分であり、また好き勝手にできる愛贋物であり、女から見れば何らの尊厳も認められず弄ばれるだけの存在である。玉壺の壺に女の髑髏されこうべを飾り、自分が親にされたように甲斐甲斐しく梳る姿はそれを端的に表しているといえるだろう。死んでからでさえ女には休息が与えられない。記憶は童磨に組み込まれ、肉体はただ童磨の意のままに使われるだけなのだ。世にこの鬼がある限り永遠に続く蹂躙。これは次回作になるがその童磨に女として初めて精神的に一撃を食らわせたのが栗花落カナヲであった。「君みたいな意地の悪い子初めてだよ」という童磨のセリフ。初めてというのはまあそのまんまの意味であろう。童磨には人として鬼としての在り方に境目がない。人として忘れ去りたいような過去も何一つなく、従って幼少時から鬼になった後までの記憶を彼は全て保持している。その童磨をこの世に生を受けてより百年余、初めて女として辱めたのがカナヲであったのだ。そのことで彼女は姉カナエとしのぶだけではなくそれまで童磨に殺された全ての女の恥辱を雪いだのだと言え、煽られた童磨はここで明らかにムカついているように見える。感情、あるんじゃないの?まあそれは定かではないがカナヲは実際に伊之助と首を斬って倒したという事と同時に言葉でも童磨に一矢を報いた。冨岡に倣えば踏み躙られるばかりの女たちの人としての尊厳を彼女は守れるようになったのだ。強くならなければ守れない。自分では何も決められず全部どうでもいいと思い「ある日ぷつんと音がして何もつらくなくなった」カナヲの感情はしかし死んではいなかった。心の声が小さいと炭治郎に言われたように、たとえ小さくとも彼女の感情は彼女の中で確かに育まれていたのである。感情をちゃんと持ちながらそれを封じて生きて来ざるを得なかったカナヲが今感情を爆発させて感情を持たない童磨を罵倒する。そうさせたのは目の前で姉を殺されたこれ以上ない憎悪、人間としての抑えきれない滾る思いであった。童磨と対峙し言葉を交わして初めて彼女は「何も感じない」という事が本当にどういうことなのかを理解したのだと思う。もし童磨の為した中で些かでも善に働いたことがあるとするのならばそれはカナヲの閉ざしてきた感情を解き放ったというこの一点にあるのかもしれない。そう言ってしまうにはあまりに犠牲が大きすぎたが。カナヲの声優の上田さんはAJ2025や増上寺での発言を見るともうほんとに上田が栗花落か栗花落が上田かというようなキャラへの没入感が凄い。それを聞いた早見さんの可愛くて可愛くてしょうがないっという気持ちも非常にわかり、そんな彼女らの演じるキャラ、決して鬼以外に舌打ちや他を貶める言葉など発しないだろう姉妹たちがこの修羅を味わわなければならない鬼滅の刃。地獄の蓋をこじ開けて姉たちの遺志を継ぎ仲間と目的を遂げる、その今後の上田さんの演技を心から楽しみにしている。今回胡蝶姉妹の舞台挨拶(ライビュ)は行けなかったのだが(痛恨の極み。鴉の回も行けてない。)舞台挨拶の魅力は初出演の声優さんたちが語る言葉にあるような気がする。炭治郎の同期たちと柱はもう何年も場数を重ねているのでもうすぐに役になり切って求められる発言に応えることができるが、出番の少ない、また初出演の人たちは役というよりは声優本人としてものを言う。これが非常に面白くてですね。たとえば初回の石田さんは列車編の猗窩座をおかしい人呼ばわりし、今回の描写も子供に見せてもいいのかどうか的な部分に言及して花江櫻井と高橋Pが火消しに回っていたところも生ならではの出来事であったが、次の回では打ち合わせたのかどうなのかそういうこともなく最初からそつなくこなしており、その代わりと言っては何だが中村さんが鬼滅の刃の作法によく通じていない(意訳)のでわからないが自分のセリフは猗窩座の記憶にあるものなのか慶蔵が語っているセリフなのかと疑問を持った旨話されていてこれはまた興味深かった。実際に演じている人たちと物語の距離。それもまた映像化の醍醐味であろう。

    また童磨と同じように記憶を完全に保持したままの鬼が獪岳である。彼の場合鬼化したとはいえ、隊服に幼いころから着ていたような上着を重ね勾玉を巻き日輪刀そっくりのもの(FB2)と呼吸を使う、正に人生全部乗せといったような有様である。人であった時に関係した意匠や行動を無意識に残している猗窩座とは違い、意図してそれらを用い続けている彼は過去を捨て去って鬼になり切るのではなく鬼殺隊士として雷の呼吸の使い手のままそれを凌駕して強くなりたかったように思われ、彼のずっと断ち切れぬ念というものがそこには見て取れるような気がする。その鬼に対峙する善逸が果たしてどのように描かれ、又下野さんがどのような演技をするのかという事も鑑賞前から非常に気になるところであった。特に「おせーんだよ クズ」これである。詳しく知っているわけではないがシリアスキャラでも経験豊かだという下野さんはここで違った演技もできたはずであるが、しかしその声ははっきりと善逸であった。この対決の最初から最後まで善逸は善逸でそこに聊かのブレもない。これは自分にとって非常に幸いであり、良いものを見せて貰ったという心持になったものである。善逸にとって殺す時でさえ獪岳は「兄貴」であった。絶対に許さない、もう兄弟子とは思わないと言いながら、最後の瞬間に謝るのである。「ごめん、兄貴」と。彼は最後まで獪岳と道を一にして歩んでゆくことを夢見ていた。善逸もまたこの断ち切れぬ想いというものをずっと抱えている。原作では壱の型さえ出してはいないし(そう、今回の映画では霹靂一閃とその八連を出しているのだが獪岳は悉くそれを防ぐ。これは遊郭編で堕姫の首を斬った時のように本気ではなかったし、また獪岳は壱の型の特徴を良くわかっているという事でもあろうか)、倒した後でさえ「俺がいなきゃ獪岳もあんなことになってなかったのかもしれない」と兄弟子を思いやり、そして桑島にも謝るのである。期待に沿えなかったことを。雷の呼吸の後継として獪岳と一緒にやっていく桑島の願いを叶えられなかったことを。自分を見出し鍛え決して見捨てなかった桑島に何も誇れるものを手渡せなかったことを。しかし善逸にとって自分を見つけてくれた桑島が救いの手であったように、また桑島にとっても善逸は正に誇りで希望だったのだろうと思う。柱として戦い足の負傷によって三十五で引退を余儀なくされた彼の呼吸を継承してくれる、若き存在がようやく現れたことが。育手としてのキャリアも長いであろう彼が老人になるまで後継は出なかったと思われるが、自らがここに居なくとも、この正に極限まで叩き上げ誰よりも強靭な刃となった若者が技だけではなく自分の想いを汲み継いでいってくれる確信をようやく彼は得た。それでこそ甘んじて死を受け入れることができる。未来を信じることができる。それはきっと鱗滝にとって目の前に現れた炭治郎がそうであったように。選別に送った弟子を悉く喪い、恐らくはそれまでで最も強かった弟子であろう錆兎を鬼に殺され、残された冨岡のどん底に叩き落された姿を目の当たりにした鱗滝の。もう子供が死ぬのを見たくなかった、そう思い続けていた鱗滝のところに、炭治郎は、岩を斬り、突破して、生きて戻った。鱗滝が長く心に抱えていたであろう辛く重い想いを炭治郎は打ち破ってくれたのだ。恐らくは振り絞るような思いで送り出した選別から戻ったボロボロの炭治郎を禰豆子と共に抱きしめる鱗滝。その想いは冨岡にとっても同様であったのではないだろうか。今までずっと望むことの叶わなかった最後の希望。降る雪の中で出会った微かに灯る瞬きのようであった小さな光は、この瞬間に鱗滝にとって冨岡にとって確実な何かになったのではないかと思う。そうであればこそ彼らにとって鬼殺に参加する竈門兄妹を守り、己の命を懸けることは何らの迷いもなく当然であったのだろう。

    この冨岡の想いというものが今作でははっきりとは描かれない。「託されたものを後に繋ぐ もう二度と目の前で家族や仲間を死なせない 守る 炭治郎は俺が守る 自分がそうしてもらったように」そして浮かぶ蔦子と錆兎のイラスト。この部分がカットされているので冨岡もまた守れなかった者であるという視点がここでは失われ、今作だけだと最初から最後までただ炭治郎の強火保護者みたいに見えてしまっているのである。そしてまたこれは冨岡自身の性格もあるのだが、列車編ではあった鬼との対話を彼は自分で閉じてしまう。猗窩座と煉獄の火を噴くような(正に)思想の対決というものはここでは始まらない。そしてしのぶ、善逸、炭治郎とは異なり、彼と上弦には何の柵もないので勢い場面の中心は闘いの純度、技量のやり取りといった方向に進んでいかざるを得ない。炭治郎が沈思する時間が非常に長いこともあって、対話なしに進む冨岡の闘いは非常に壮麗ではあるが(特に痣発現の後、生々流転から雫波紋突きまでの間、落ちながら笑う猗窩座を切り刻む様は劇伴のピアノも相まって掛け値なしにかっこいい。劇伴。これはまた全編すごいのだがジャンルを横断して俯瞰できる包括的な知識を自分は持たないので軽々に触れないでおこうと思う。なんせ獪岳とか、桃→陰陽→京劇?みたいな三段連想しかできないのであるから。百足蛇腹からカナヲ登場までの画面と劇伴の融合する様は本当に素晴らしかった。)、原作では冨岡の心情でも書かれていたように相対する鬼との差は次第に明らかになり、冨岡の技量を見切った猗窩座は彼の刀を叩き折り「然らば」と嘯く。ここで煉獄のように冨岡も命を落としていたはずであった。炭治郎が割って入らなければ。初めて「炭治郎に救われた」冨岡。雪の降る山で彼が見出した小さな命は巡り巡って冨岡の命をこの世に繋いだのである。この後も冨岡は無惨戦の半ばまでこの折れた刀で闘うこととなるが、これもまたよくぞと言いたい。そしてまたのちに(三章かな)彼はその刀を手放すという危機に陥り、今度は悲鳴嶼、伊黒、不死川に救われて新たな刀を得、そしてその刀で最後まで闘い新たな世界を開く。原作で当初たった一人で闘っていたかと思われた冨岡は、姉と錆兎の想いを、炭治郎や柱たち隊士たちの力を得て変わってゆき、決して一人ではない闘いを生きた。今作で青銀乱残光からの凪の後眼前に頽れた冨岡を前に「死力を尽くして戦うに値する敵と出会い喜びを覚えた事を否定はできまい(うろ)」と猗窩座が「体は嫌とは言っていないぜへっへっへ」みたいなセリフを吐くのだが(すいません)、確かにその冨岡の感情と感覚が他者との遣り取りによって否応なしに開花し進化していく様(すいません)というものは鬼滅の一つのテーマではあろう。鬼滅の刃は冨岡義勇が冨岡義勇に帰ってゆく物語と自分は以前書いたことがあるが、帰ってゆく過程を経て辿り着いた先は地続きではありつつも多くの喪失と出会いを経た新たな地平であると今なら書き加えたい。彼は、生きて、繋いだのだ。いまここに在る者たちと生きられなかった者たち、そしてこれから生まれ出ずるであろう者たちの命を。

    冨岡だけではなく、恐らく物語をシンプルに、また感想を集約しやすくするためにカットされている部分は多い。(今回丸々切られた千寿郎の手紙のシーンも多分次回に入れられるのだろう。「猗窩座に勝たなければ読めない」の部分を除けば日の呼吸が重要な意味を成す壱戦に入る方がエピソードとしてはわかりやすいかと思う。)例えば狛治の父の遺書で"俺は人様から金品を奪ってまで生き永らえたくはない"という部分がカットされているために何故狛治の父が死んだのかの直接的な理由もはっきりとは語られず、「なんで首なんか吊った」という狛治のセリフも同様に削除されている。何故父は首をくくったか。狛治が盗みを重ねたために父は苦しみ、そして自らの命を絶ったのである。狛治の想いをわかっているからこそ死という手段以外に狛治を救う方法を彼は見いだせなかった。実際言葉で言っても彼が盗みをやめたとは思えず、そうであれば解決は自分が消える以外にはなない。言い換えれば狛治の重ねた罪が父を殺したのだ。(またこれは弟を鬼と鬼殺隊という死に直結したものからとにかく遠ざけたかった不死川の行為が弟玄弥を追い詰め、鬼喰いに走らせたという事態と非常に似通っているようにも見える。見えるが、というところは項を改めよう。)しかし狛治は自分が父を苦しめていたというその意識を持たない。自分の行為が父を死なしめたのだという意識を持たない。「貧乏人は生きることさえ許されねえのか」「どいつもこいつもくたばっちまえ」と原因を世の不条理に求めるのだ。それは確かに根源的にはそうなのである。しかしそこで大切な者を救うために他人を害することを肯じるかどうか。そこに鬼になるかならぬかの境目はあったような気がする。理由は定かではないが流れていった先で狛治はまたも周囲と衝突し7人の男を叩きのめす。そんな狛治の中にある行き場のない暴力的な衝動を守る拳に換え、図らずもではあるが守るべき対象を与えて守護させた慶蔵。「ここでの稽古と恋雪の看病で俺の心は救われた」という狛治の独白の通りに慶蔵が狛治に与えたものは確かに目的を失い無軌道に突っ走っていた彼に生きる指針を与えた。慶蔵と恋雪にとっても心を救われ進むべき道をみつけたことは同様で、過去を塗り替えてそのまま三人の人生は良い方向へ行くはずだった。あんなことが起こりさえしなければ。その時まで狛治は「二人が毒殺されるなど夢にも思わなかった」のだ。(初回だったかこのセリフの時に後ろの席で「えっ」という男性の声が聞こえた。ほんとにそうだよ。列車編の時も「上弦の…鬼…?」と呆然となっていたという人の話を見たが、そうなのである。そこでああくるとは思わないじゃないですか。今回の百足蛇腹のシーンも全くそうで、あれは絶対刺し違えても童磨を倒すという流れでしょうよ。ほんと初見殺しも甚だしい。元々の意味で。)好きな人や大切な人は漠然と明日も明後日も生きてる気がする それはただの願望でしかなくて…  その言葉はここでは使われてはいないけれども、カナヲ、善逸、そして狛治のそれぞれの場面で在るに相応しい。善逸が闘いの終わりに「ごめん!」と謝ったように猗窩座/狛治も最後にまた「ごめん!」と謝る。(次回作にはなるがカナヲもまたそうである。)言葉は同じであるがしかし善逸と狛治に違いがあったとすれば、それは彼の人の根源が他責にあったか自責にあったかではないだろうか。現況が不本意であればこそ非常な努力をし、しかしそこで人から奪うことを良しとするかどうか。己の不足を他に転嫁せず己の弱さを直視することができたかどうか。己を省み続けた善逸は死と生の境目でそれまでの自分は駄目ではない、間違ってはいない、掛け替えのない素晴らしい存在であると肯定され、狛治は同じ場で駄目だった己をようやっと省み、そして愛した者たちに許され受け入れられた。間違えた自分を許し、丸ごと肯定してくれる存在がずっとそばにあった事を気付かぬまま過ぎた年月と重ねた罪。それは累もそうであった。獪岳もそう成り得た人々を受け入れる機会は何度もあったはずなのに決してそうすることはなく、終の時に誰も迎えてくれぬまま彼は一人死を迎える。愈史郎の言うが如く彼は誰も守らず、そしてまた彼を守ってくれるものも最後には誰もいなかったのだ。

    守れなかった、今度は死なせない、きっと守る、これらの言葉はさざ波のように鬼滅の通奏低音のように(この単語の用い方に関しては音楽畑から違和感を覚える向きもあるようで:参考 ttps://note.com/s_n_n/n/n935738096928 バロック音楽の素人である自分はおかしくはないだろうかとびくびくしつつ使わせていただく。)物語の中にあり続け陰に陽に繰り返し繰り返し語られる。鬼に奪われた者は刀を握り、人に奪われた者は鬼になった。つまるところ鬼滅の刃とは数多の守れなかった、何かを喪った者たちがいかに生きたかという物語であり、今回映画を最後まで見て改めて感じたこともそれであった。



    この感想を書きながら自分の事実認識に間違いがないか確認するために鑑賞を重ね(手元で反復できない一時停止できないつらみ)そして見る度にまた新しい気付きがあって書いては直し書いては直しをしているうちにこんな時期になってしまった。まだ映画できちんと把握できていないところも多くもっと見てもっと詰めたいのだが全く切りがないので、枝葉のテーマは取っ払い最初に書いた中心部を繋ぎ合わせて半分くらいに削り不承不承ではあるが上げてしまうこととした。いろいろ不備の点は平にご容赦。さてまた劇場行きますか。サンキュー有休。いろいろな作品の予告を見れるのもまた楽しいですね。深町 貴様の任務は終わりだと海江田に言われてみたかった’25年秋。まだ暑いが。
    るげ Link Message Mute
    2025/09/19 0:54:57

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    👹つれづれ
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