GWも終わりっすね(ここ出囃子)。ところでとうとう終映である。ギリギリ4/23まで行こうと目論んでいたのに果たせなく、こんなに長くやってもらったからもう十分という気持ちといつでも行けば見れるという環境がなくなる寂しさとがせめぎ合っている。円盤や配信で自由に見れるようになったとしても劇場大画面で鑑賞する体験はやっぱり特別なものだ。あのライトが落とされる瞬間に未知の別世界に沈降してゆくような何とも言えない感覚、誰とも知らぬ居合わせた周囲の人間とこれからその別世界の経験を共有するのだというあの感覚。かつて人生で1年宙ぶらりんだった年があり、意味もなく週の半分程劇場に居座って一日潰していたことがあったのだが(そんなことがどこでもできた時代だった)、当然金もなかったので名画座から大箱まで試写会という試写会に応募しまくったものである。日々そんなことをしているとああここでもまたこの人がという顔が幾人か出て来、自分よりも相当年季が入っていそうで業界の人でもなさそうなあちら様は名前も立場も知らず挨拶を交わすわけでもなかったがおお大先輩とは遠くから勝手に思っていた。もうあのように劇場に通い詰めることもないが(というかあの1年だけおかしかったのだが)そんな気分を今も時折不意に思い出す。などと書いていたらあらまあ6月に再上映があるそうじゃありませんか。行く行く!行くよ!
さて無限城編第一章。原作の描写が削除されている箇所の一つに蟲柱童磨戦の冒頭がある。今作では童磨に背中を向けて立つしのぶの姿が散見され気になった。まあ戦いの最中に頻繁に敵に背を向けるというのは迂闊だろうが、良く採ってやれば隙を晒して攻撃を誘う狙いであるともいえるかもしれない。原作でも「斬ら… れた…!!」のコマでしのぶは童磨に背を向けているが、これは複眼六角で正面から連撃を打ち込んだ彼女がその後童磨の頭上を前宙で越え彼の背後に着地した直後だからだ。これに対して初手の一撃、真靡きでは同じく正面から突きを放っているのだが、こちらは後方に飛び退って鬼とは正面で対峙したままである。ここで映画ではカットされている一動作が原作にある。しのぶのバク転である。最初にここをスクリーンで見た時に悪鬼滅殺の文字が目に入り粗忽な自分は「えっ前から刺したのに刃が後ろから出てる!?」と勘違いしてしまったのだが当然そんなことはなく、彼女の日輪刀はこの文字の部分まで深々と童磨の目を抉っていたのだった。また気になったのはその後で、水平に跳んだ彼女の刀が直立した童磨の目に手元まで刺さっているのならば彼女と童磨の対格差から考えて(童磨の身長は187㎝しのぶは151㎝)刀にぶら下がりでもしない限り彼女の足は地上に着いていないはずであり、思ったのは前に向いているベクトルを瞬時に後ろ向きに反転させるためにはそこから反動をつける動作が必要だったのではないかということだった。再視聴で確認するまで童磨の体を蹴って跳んだのではないかとちょっと妄想していたのだが、スクリーンで見るとしのぶの刺突により童磨は前かがみとなり、地に足が着いたしのぶは刀を抜き床を蹴って後方に跳んでいたかのように思われた。ここに原作でバク転が入っているのは童磨が扇を振って反撃してくるのを体を反らし移動に繋げて躱すという動きだったのかと思う。対カナヲ戦では更にこの動作が強調されており、扇という武器に突きはなく振って斬るという動きが基本なのだなあと改めて思ったり。ここ両手着いてるけど刀は?などという突っ込みはさておき、しのぶは童磨の最初の斬撃は躱せた。しかし同時に血を散布するという付随した攻撃までは想定できなかった。姉からも伝えられていなかったのだろう。知っていれば伝えたはずであるがそうではなかった。ということは童磨はカナエにはこの血鬼術を使わなかったと思われる。剣技だけで彼女と童磨は渡り合った。女が好物で意地汚いというこの鬼が夜明けが来て彼女を喰うのを諦めるまで。
ところでしのぶは童磨に名前を告げていない。カナヲは姉しのぶとカナエの名を伝えただけであり、従って「今喰った柱の娘」が「しのぶ」であると童磨が知ったのは伊之助が乱入し、「死んだのか?しのぶ」と言った時であっただろうと思われる。鬼と対峙した時に名を名乗るかどうか。その裏には鬼を対等な対手として認め得るかどうかという意識があるような気がする。鬼を「君」と呼び「俺は炎柱煉獄杏寿郎だ」と猗窩座に名乗った煉獄。「鬼に名乗るような名は持ち合わせていない」と猗窩座を突き放した冨岡。しのぶは那田蜘蛛山で「鬼殺隊・蟲柱胡蝶しのぶ」と名乗ってはいるが、それは鬼の死んだ後であった。「ああいいですよ覚えなくて 私のことも姉のことも」「気色悪いので名前呼ばないで下さい」というのが実際のところであったのだろう。問われて名乗った者は多いが、問われる前に自分から鬼に名乗った人間としては炭治郎、伊之助、煉獄がいる。というか読み返してみたらこの人たちくらいしかいなかったのである。伊之助の場合は鬼に対してというよりは自分を叱咤するために言った感があり、不死川兄弟や宇髄なんかはいかにもやってそうな思い込みがあったけどそうでもなかった。カナエも童磨が思い出さないからには多分名乗りはしなかったのだろうが、でももしかすると名乗ったかもしれないという可能性も自分の中で捨てきれない。初めて見かけた縄でつながれた汚れた子供に、彼女は自分の名を告げ、相手の名を問うたのである。真っすぐに正面から。
あのしのぶの戦い振りを見てそれでも姉より才がないと、優しくて可愛い子だったと感想を述べるほどには童磨はカナエを知っていた。そしてカナエもまた童磨が本当は何も感じていない鬼なのだと、そんな童磨は気の毒なのだと戦いながら感じ取っていたのである。童磨にしてみれば児戯、しかし彼女にとってはどれほどの死闘だったのだろうと思わずにはいられない。鬼に同情し、死ぬ間際まで鬼を憐れみ、気の毒だと思っていたカナエ。童磨がそうだったように鬼にも人にもどうしようもなくどうしようもない何かは存在し得るのにもかかわらず、最後まで彼女は相手を気遣う事を止めなかった。彼女は鬼と人とが仲良くできる世を夢見ていた。鬼も人も隔てなく思い遣る。そう、鬼とはかつて人であったものであり、そして鬼は人であるのだとするならば鬼を思うという事は、即ち人を思う事であったろう。一体でも多く鬼を倒すと念じつつ彼女はそうでない道も同時に念じ続けていた。鬼と仲良く、それはどうにも腹落ちしない言葉であるけれども、彼女は人を信じるように鬼をも信じたかったのではないかと個人的には思う。どれだけの鬼の所業を目の当たりにして、カナエはこの言葉を口にし続けたのだろうか。優しい、とだけ言ってしまうにはそれはあまりにも必死であり切なすぎる感情であり願いというよりも祈りに似たものではないか。童磨本人は人であった時からこんなであって全く気の毒なんかではなかったのだが、そうであったとしてそういう存在である、という事自体がカナエには哀れだと思われたのだろう。その間には大きなずれがある。何事にも無反応であった幼いカナヲの感情の存在をカナエは疑わなかった。人であれば当然持つはずである諸々の感情。それを失くしたものが鬼であると、かつてそうあったものが鬼として存在しなければならないことが気の毒である、とするならば、というか正にそうであればこそ鬼は倒されなければならない。人を信じ鬼は斬る。それを彼女は最後まで貫いた。そうでなければ到底柱になどなれなかっただろう。死の間際に鬼殺隊をやめて欲しいと伝えたがそれでも戦うと決めた妹に「立ちなさい、蟲柱胡蝶しのぶ」「しのぶならちゃんとやれる」と呼びかける彼女は最後まで誇り高き柱であり、そして最後まで妹を信じたいと願い続ける姉であった。(まあこれは全くの余談だがそういう女を不死川は愛した。カナエの思いは記述がないので不明だが、ぶっきらぼうで誤解されやすく行動するまでが速すぎるので心配しているというほどには彼女は彼を知っていた。いやあくうっとなるじゃありませんか全く。)
さてアニメ再放送である。ありがとううれしい。立志編二話の放映を見る際には恒例としていることがひとつある。鱗滝に宛てた冨岡の手紙が読み上げられるとき一緒に唱和するのである。馬鹿でしょうか。いいえ誰でも。誰でも… 恐らく… きっと…。言ってみればネット上での「バルス」の如き行為であるが(違うか)冨岡義勇という男はこういう言葉を選びこのような行動規範に則って動くという事が良くわかるのがこれであるのでそこは大目に見て欲しい。以前書いたがこの手紙というのが自分の鬼滅へのとっかかりであり今こんなことになっているその第一歩であったという個人的な経験もあるっちゃある。本当は一話の冨岡の独白も唱和したいところだが流石に気恥ずかしくそこは自分も心の中でご一緒するに留めている。まあそろそろ那田蜘蛛山なんですがね。気分はというか気温はもう夏。もうここらで季節は足踏みをしてくれないか。しかし時を巻いて戻す術はない。Tップバリューのレモングラスティーを常飲したい'26年5月。
5.31 追記
Tップバリュ が正式な表記だった…。ジュトニジュデサンジュ。ジャスミンデザンジュ。