黒と白の神の話*指先は解かないで
離れていく。
それを感じるのに意識は世界に沈んだまま、白の覚醒を許さない。
(待って、いかないで)
遠くへ行くなら一緒に連れて行って。
君とならどこへだって厭わない。だから、お願い、どうか────。
眠る前に繋いでいた手に、呪いを掛けるように力を込める。程なく苦笑する気配があって、陽だまりのような温かさが指先から伝わり、身体を包み込んだ。
太陽の光そのものの熱に、対がそこにいることを感じる。俺はここにいると、言葉ではない意思が流れ込んでくる。心から安心して、けれど少しの不安を抱え、白の狐は握っていた手を少しだけ緩めた。
*黒様と白様
「黒様はまだお籠り中なの?」
「今回はまた随分と長いお休みだわね」
「白様は昨日お目覚めになったようだ」
「ここ最近、天地が騒がしかったから仕方のないことじゃ」
「どんな天災が来たって平気さ。黒様と白様が収めてくださるんだから」
「そりゃそうだ、我らの神は万能だ」
大きな耳をぴくぴくと動かし、風に乗ってさざめく噂を捉え、白の狐は苦笑する。
万能だなんて、そんな大それたこと。
屏風の奥で丸くなって眠る対を見やる。万能なのは彼なのだ。
「それにしても、これだけの天災続きは久しぶりだよねえ」
黒と白がこの世界に生まれて二柱となってから、どのくらいの時が過ぎたのか覚えてなどいない。自我が芽生えてからこれまで、世界は何度も天変地異に晒され危機を迎えたことがある。
その都度黒天狐は眠りに就き、彼の意識は世界を巡って安定と安寧をもたらした。地上に住まうすべての命あるものは、逞しく生き、巡り、今日の泰平の世を創るに至った。
泰平とは言うものの、知性ある生物が集まれば争い事は必ず起こる。小さな諍いから大きな戦まで、その規模は様々だ。しかしそういったことには干渉しない。地上はそこに住まう命たちのものであるからだ。
人知の及ばぬ力、未知からの干渉など、二人はそういうものから世界を守っている。世界は対である二人の、愛しい子どものようでもあった。
「今日も起きないね、始」
世界を騒がせた天災はとっくに落ち着いたというのに、あまりにも寝起きが悪すぎる──そう思っていないと、胸が張り裂けそうになる。
対が目覚めないのは己の力不足のせいではないのか。彼を支えるための力が足りていないばかりに、対の負担を減らせない。それに、もしかしたら世界がもう限界に来ているのではないかなんて。そう考え始めたらキリがない。
気が遠くなるような年月を二人、手を取り寄り添いながら、命を創り、看取り、巡らせて世界を紡いできた。これから先、終わりが来ないなんて誰に言えるだろう?
それとも永遠は、存在するのだろうか?
己の力の綻びを感じたことはないが、対が目覚めない時は不安になる。目覚めてさえくれるのなら、いつまでだって傍で彼の眠りを見守りながら待っている。
そのまま目覚めなかったら────なんて。
「ん……」
微かな声を耳が拾い、ぴくっと震える。
「始……? 起きたの?」
「ん、あぁ……。おはよう、隼……」
とろんと溶けそうな紫が白を射抜く。それだけで不安はすべて消えた。
「ふふ、まだ眠そうだね。今回はたくさん眠っていたものね? おつかれさま」
くあ、と大きな欠伸をひとつ。
黒い耳がぴるぴると震えるのすら、愛おしくて仕方がない。
「眠っているのに疲れるなんて、おかしな話だな?」
「本当にそうだねえ」
いまいち怠くて起き上がれないらしい彼は、まだふよふよと宙に浮いている。
この『眠りの間』はなんとも不思議な空間で、二人が眠りに就く間は無重力状態になっている。どれだけ長く寝ていても背中や腰を痛めないのは、理にかなっているのかもしれない。
黒の対を引き寄せれば、重力を帯びて白の腕の中に落ちてくる。しっかりと抱き寄せて膝枕をしてやれば、黒の狐はまた大きく欠伸をして、目を閉じた。
「あれ、また寝ちゃうの?」
「……お前が寝かせる体勢にしたんだろう」
目を閉じたまま呂律の回りきらない口が、自分は悪くないとばかりに寝息に変わる。
今度は普通の眠りだった。誰もがしている、穏やかな午睡。きっと一刻ほどで目覚めるだろう。
黒い耳を撫でるとぴくっと反応する。その柔らかさと温かさに白の狐は安心して、黒髪を指に搦め、宝物を扱うように梳かした。
社の外へ耳を澄ませば、元気な声が聞こえてきた。あれは小豆洗いと鵺、それにかまいたちだろう。
今日のおやつがどうのこうのと話をしている声は、いかにも楽しげだ。対が微睡から覚めたら、久しぶりに豪華なおやつで宴会をしよう。
今はまだもう少し、世界で二人きりの場所に閉じ籠ったまま。
*均衡
「隼が起きれば、調和が取れる」
身体はまだ眠っているけれど、意識はしっかりとその言葉を拾った。
「待つことにするよ」
始が、隼を。
隼よりも先に始が目覚めることはほとんどない。この長い生の間、全くなかったわけではないが、それでも指で数えられそうな程度だ。
いつもは始の眠りを守り、待っている隼だが、こうして始に目覚めるのを待たれるというのは、何とも言えない不思議な気分だ。それと同時に、対が自分を待っていてくれるという言葉が嬉しくて、今すぐ起きたいのにやはり身体は動かない。
必要とされている。彼の力になれている。対として求められている。
それは何よりも隼の心を安堵させ、すべての憂いを押し流してくれる。
眠る時に彼の手を繋ぐようになったのは何時からだろう。あれは確か、初めて彼の方が先に目覚め、眠る隼の傍から離れた時だ。
自分が目覚めて、当然そこにある大切な気配が消えていた時、隼は気が狂うほどに叫んだ。天を劈くほどの慟哭。何も考えられなくなって力の制御すらできなくなり、社を含め、辺り一帯を粉々に吹き飛ばし地形を変えたほどに。
始は寝床を壊されたことを怒ったりはせず、ただすまなかったと、蹲る白の狐を抱きしめた。
それからというもの、眠る時は手を繋ぐ。目に見えない糸でその手を厳重に括りつける。もし離れていても、お互いの存在がすぐに分かるように。それは一種の呪いでもあった。
けれど始は、もう二度と寂しがりで怖がりの白い狐の傍から、遠くへ離れることはしなくなった。
「隼も、早く起きて追って来いよ~!」
心地よく風が通る青空を背に、怖いもの知らずの豪快な大天狗が、社から黒天狐を抱えて強奪していく。
(ちょっと、海ってばひどくない!?)
ある晴れた日、空は恐ろしく澄み渡り、ポカポカとした陽だまりが優しく社を包んでいた。
一粒万倍日に相応しい朝だった。
陽の力をその身に浴びて、黒天狐は対よりも先に目覚めた。手は当然繋がれたままで、振りほどくことはしない。ただ、今回はいつもと違うことがあった。この社に住まうのは、最早二人だけではないのだ。
海と涙に促されるようにして、始は隼の手を離す。社の周りには十二の月が揃っている。何も怖いことなどなくて、だから隼も安心して手を離した。
しかし、この良き日に始の力は増幅し、歩くことが困難なほどだと分かると、大天狗は何を思ったのか、黒天狐を抱き抱えて社から飛んで行ってしまったのだ。
(社から出るのはダメー!)
隼が眠りの淵で文句をつけても当然届くはずもない。ただ、唯一届いた相手からは、心配するな、起きたら来いと優しい声が返る。
仕方ない。社にいる皆は始が起きるのを心待ちにしていたし、始だって彼らのことを特別に思っている。目覚めたのならばすぐにでも一緒に遊びたいのだろう。何しろ彼の目覚めの時は、とても短い。
それは隼も同じことで、分かち合える仲間が増えたことを嬉しくもあり、でもやっぱり独り占めできないことにちょっとした寂しさもある。
その場にいたほとんどの者が、バタバタと大天狗を追って、我先にと社を飛び出して行く。
「俺は隼さんのお傍で待っていようかな」
心優しい狗神が代わりに侍ってくれるから、白の狐は大人しく丸くなる。無意識にびたんと床を叩いたしっぽを、彼が苦笑しながら撫でてくれた。
目を覚ましたら、一目散に対の元へと向かうのだ。
そう決意して、あと僅かに残る眠りの中へと戻っていった。