寝床 珍しくノックをしようか迷って、軽く握った拳を持ち上げたところで動きを止める。
「…………、…………」
部屋の中からうっすらと話し声が聞こえ、そのままのポーズで始は固まった。動きを止めたのは正解だったと、自分の第六感に感謝する。
ここは隼の寝室の扉の前だ。真夏のうだるような暑さの中、今年もとうとう我慢できなくなった始は、早々に避暑地へと避難しに来たのだ。昨日も猛暑で、容赦ない昼の日差しで熱せられた空気の中、うなされながら眠った。さすがに冷房は入れたものの、エアコンの風はどうにも苦手で朝がだるい。
いつでも涼みに来てね。そんなふうに気軽に誘われたのはもう昔の話だ。何を言ってるんだコイツは、とあしらったのも随分と昔の話で、この部屋で寝ることの快適さを覚えてからは、すっかり毎年の恒例行事となっている。
始は何処ででも眠れるが、寝る時に他人がいるのはあまり得意ではなかったから、最初の頃は本当に辛い時だけにしようと思っていた。毎日通いつめても相手に申し訳ないという気持ちもあったのだが、隼の方は、自分の寝床に他人がいても全く気にならないらしい。そのうち仕事で忙殺されるようになると、体調を整えることは最優先事項となった。
だから仕方ない。隼の方もいつでも歓迎だと言ってくれるからと、理由を付けては転がり込んだ。実際に、冷房もないのに快適な温度に保たれる部屋の寝心地ときたら、自室とは比べられないほどだった。
普段なら絶対的に自室の方が落ち着ける場所のはずなのに、隼のこの、どういう原理かは未だに謎の広い寝室の、大きなベッドの上の、なんと居心地の良いことか。
そんなだから始はいつの間にか、夏は隼の部屋へ入り浸ることが増えた。隼は笑顔で迎えてくれるし、彼が隣にいても始はぐっすり眠ることができる。目覚めは快適で、朝に弱い隼の寝顔があどけないのも、好ましい光景だったのだ。
この部屋の主である隼が泊まりの仕事で不在の時だって、始は我が物顔でこの寝床を占拠した。本人がいなくても、室内は高山にある別荘地のような涼やかさで快適だった。
「…………、そんな…………だよ」
再び聞こえた微かな声に、会話を盗み聞きするのはよくないと思うのに足が動かない。
こんな夜中に誰と話しているのだろうか。来訪者なら同じ寮内の者、プロセラの誰かの可能性が高いが、漏れ聞こえる穏やかな笑い声からいつもより深めの親しみを感じさせる。ちょっと特別な相手なのだと思わせるほどに。
(電話でもしてるのか?)
家族相手、とも違う気がする。特定の女性、と言われた方がしっくりくる雰囲気だ。始はそこにはたと思い至り、まさかそんな相手がいるのかと動揺した。仮にいたとしても、隼には始に報告する義務も必要もないわけだが、何故だか腹が立った。
ぎゅっと拳を握る。それとは逆側の手で抱えていた枕を持つ手にも力が入る。始はここへ寝に来る時はいつも、枕だけは持参していた。一番最初の時にたまたま持ち込むことになっただけだが、それが今まで続いている。枕まで借りたら何かが変化しそうな気がして、それが境界のような役割になっていた。実際に何を区切っているのかなんて、自分でも分からなかったが。
とにかく、隼は誰かと親密なお喋りに夢中で、扉の前の始に気づかない。また少し腹が立って、眠気に辛うじて勝てている理性が、乗り込んで来たのはこちらの都合なのだからと本能を抑える。
(今夜はあきらめるか……)
ようやく拳を解いて下におろし、始は緩慢な動作で扉へ背を向けた。のろのろと歩いてリビングを抜け、部屋を出る。耳の奥には隼の親しげな笑い声が残っている。そういえば、ここへ寝に来て目的を果たせずに帰るのは初めてだったな、と気づく。
「いつでも来いって言った……」
腹を立てるのは筋違いで、隼にだって都合がある。それこそこの先、彼に夜を共にするような相手が現れれば、始はもう二度とあの快適な寝床には入れないだろう。そんなことに気づいて、だけど隼に限ってそんなことは想像できないだなんて、何の根拠もなく思ってしまって苦笑する。
ずっと一緒なわけじゃない。
「今だけ……」
今とはいつまでなのだろうか?
切ない御伽噺を連想したのは、今夜が七夕の夜だからだろうか。
エレベーターを降りて、始は蒸し暑い自室へと独り帰る。分かってはいたが、エアコンを付けていない室内は、一歩入っただけで汗が滲み出てくるほどだ。もう一度風呂に入りたい衝動さえ沸いてくる。
始は無言でエアコンを入れると、熱で温くなっているベッドへと乱暴に身体を横たえた。
暑い、ゆだる、息苦しい。
床に置いてある小型のサーキュレーターも回して、エアコンの冷気が直接肌に触れないように室内の空気を撹拌する。三十分ほどぼんやりとしていれば、ようやく少しだけ過ごしやすくなってくる。その頃には思考もどろどろで、もういろんなことがどうでもよくなっていた。
(昨日も、妙な夢を見たような……)
寝苦しい夜にうなされるなんて最悪だ。せめて今夜はマシな夢を見たいものだと、始は意識を手放した。
「……じめ、はじめってば!」
「……………………う、」
朝日が目に沁みる。夏の日差しが眩しくて、寝不足の腫れぼったい目には厳しい。
「もう起きないと間に合わないよ」
「…………はる」
辛うじて開けた視界の隙間から、見慣れた相方の顔が映る。
「昨夜は寝苦しかったから、隼のところへ行ったのかと思ってた。逆に、よくここで寝れたね?」
隼の部屋で寝た翌朝はスッキリ目が覚めるので、春が起こしに来る前に自ら起きられる。逆に、仕事だというのにいつまで経っても起きてこない時は、自室にいるというわけだ。
あの部屋に入り浸っているのを相方に把握されていることに、どことなく気恥しさを覚える。それと同時に、あそこで寝られなくてすごすごと退散してきたことも知られてしまって、今度は憮然とする。
「もしかして何かあったの? 隼が熱帯夜に尋ねてきた始を追い返すなんて、俺には想像ができないんだけど」
ストレートに尋ねられて、腹立たしいやら虚しいやらで、つい応答が雑になる。
「知らない誰かといたら、普通は遠慮するだろ」
俺が非常識に押しかけたみたいに言うな、と言い返す前に、春はえっと声を上げた。
「隼が? 夜中に? 海じゃなくて? 始が来るかもしれないっていうか、絶対行くのに?」
「…………」
咄嗟に言葉に詰まる。行くことが確定されていることにむず痒くなり、始は猛烈にこの会話を終わらせたくなった。
ただでさえ低迷しているテンションが加速度的に落ちていく。わざと神経を逆撫でしてるんじゃないだろうなと相方を胡散臭げに見やる。しかし春は、真面目な顔で何やら考え込んでいた。
「別荘地が使えなくなるのは困るね」
「…………」
なんと言ったらいいのか分からず、始は再び沈黙した。
別荘地と言えば、それはそうなのだ。でもそんなつもりばかりでもないわけで、ただあの部屋の寝床が居心地良くて、でももう二度と行けない可能性も────なんて、ごちゃごちゃした思いが溢れ出そうになる。
いっそ春に愚痴絡みをしてやろうかなんて思ってしまい、始はその欲求をかなり頑張って堪えた。寝起きの頭なんて無防備な思考の時に、そんなディープかつデリケートな話題を出さないでほしい。
やっぱりわざと誘導しているのかと恨めしく相方を見上げれば、目が合った。ちょっとだけ困ったように目尻をたわませる鶯色には、心配している気配が汲み取れる。だから始は、気が進まないながらも口を開いた。
「……今夜も暑いらしいから」
「うん」
そこでしばらく言葉を止めて、言おうか言うまいか迷う。春は急かせるでもなく、視線を始から外して続きを待った。
「また今夜、行ってみる」
「うん、それがいいね」
それじゃあ起きようか、と春は始の手首を握って引っ張った。エアコンの冷気に晒された身体はだるい。脱力したまま相方に任せてしまう。
「はいはい、しっかりして! 準備、準備!」
着替えや持ち物は昨夜のうちに用意済みなので、起き上がることさえできれば、あとは顔を洗って着替えるだけだ。春に連れられて洗面所に押し込まれる。冷たい水で顔を洗えば、拗ねていた気持ちも幾分かマシになった。
「……別に、拗ねてない」
鏡に映る冴えない自分の顔に、始はポツリと呟いた。
一度熱帯夜を迎えれば、夏の暑い夜は続く。気温が下がる頃には季節が変わる。つまり、しばらくはずっと暑いままだ。
仕事を終えて寮に帰宅した始は、自室の蒸し暑さに辟易しながら明日の準備を済ませ、入浴を終える。パジャマ代わりのTシャツとスウェットに着替えて枕を片手に抱える。昨夜と同じスタイルだ。
三階に行き、隼の部屋のドアを開けて勝手に室内へ入る。ここまでは昨夜と同じ。さすがに二日連続で同じ状況にはならないだろうと思いつつ始が寝室のドアに近づくと、またもや密かな話し声が聞こえてきた。
何を言っているのかまでは分からないが、随分と親しげな雰囲気なのは全く同じ。またか、と思うと同時にどうするべきかと始は思考を巡らす。
別にやましいことをしているわけじゃないのだから、ノックをして顔を出し、取り込み中なら帰ればいい。そうだ。後ろめたいことなんて何ひとつないのだから。
「…………あ」
ガチャリとドアの開く音がする。つい癖で、始はノックもなしにいきなりドアを開けてしまった。逆にノックをしようとした昨夜の方がイレギュラーだったのだ。
バツの悪さを感じながら始がおそるおそる室内を覗くと、ベッドの上で何故か正座している隼と目が合った。特に誰が居る、もしくは居た様子もないし、電話しているわけでもない。彼が両手にそれぞれ持っているのは、二体のツキウサのぬいぐるみ。紫と灰色の小ウサだった。
「始…………?!」
ぴゃっと叫んで、驚いたように隼が目を見開く。
「…………悪い。何か取り込み中だったか? それなら、」
幸か不幸か始が想像していたような状況ではなかったが、それとは別に、少し異様にも感じるただならぬ雰囲気が漂っていた。やはり来るのは不味かったのかと始が控えめに帰る旨を伝えようとしたら、隼は焦った様子で言葉をまくし立てた。
「待って始! 大丈夫だから!」
「……なにがだ?」
隼は持っていたウサたちを慌ててベッドサイドに並べて置くと、寝室に入って来ようとしない始の前に急いでやってきて、腕を掴んだ。掴まれたところがひんやりとして、とても気持ちが良かった。
「涼みに来てくれたんだよね? 大歓迎だよ! ゆっくり休んで行って!」
幾分必死そうに訴える隼を訝りながらも、エアコンとは違う涼しい空気に抗えず、始は腕を引かれるまま広いベッドへと上がる。
自室とは違うひんやりとした空気に、さらさらの手触りの清潔なシーツ。うっすらと微かに漂う石鹸の香りも好ましい。毎年夏に味わえるこの雰囲気と香りに、始の緊張は瞬く間に溶けて、うつらうつらと眠気が襲ってくる。
熱帯夜とエアコンで、身体へのダメージはまあまあ深刻だ。ここなら眠れるという安心感と、ちゃんと隼から迎え入れられたという安堵に、一気に意識が遠くなる。
「お疲れだね、始。昨日は暑かったものね」
「……いきなり暑くなるのは、困る」
隼は半分寝かけた始の言葉にふふっと柔らかな笑顔を返す。
「とっても調子が悪そうだ。昨夜、来てくれればよかったのに」
持参した枕を敷き、始を支えてゆっくり寝かせてくれる腕は優しい。ひんやりと心地良い。けれども昨晩のことを思い出して、少しだけまともな思考が戻ってくる。
「来たんだが、お前は誰かと話してただろ?」
「えっ、…………聞いてたの?」
「だから、帰った」
会話は聞こえるほどではなかったし、立ち聞きしていたわけではないが、隼の反応が芳しくない。始が少し緊張して身構えていると、隼は困った顔をして笑った。
「帰っただなんて、そんな……! ごめんね、始。君が来てたことに気づかなかったなんて一生の不覚!」
「いや、お前にも都合があるだろ。勝手に来たのはこっちだし」
「始よりも大事な都合なんて、僕にあるわけがないよ!」
キッパリと断られて、もう少しだけ頭が冴えてくる。好奇心がもぞもぞと動きだし、始は隼へと問いかけた。
「昨夜は、誰と話してたんだ?」
「うっ、それは……」
かああ、と一瞬で頬を染めた隼を見て、やっぱり訊くんじゃなかったとすぐさま後悔が押し寄せる。押し黙った始へ、誤解しないでね、と隼が言いつのる。
「君のブロマイドがあまりに尊すぎて、一月ウサと十一月ウサで台詞捏造して遊んでました……」
「……まったく意味がわからない」
悪いことを白状するような言い草だが、始には何のことかさっぱり分からなかった。一月ウサは始、十一月ウサは隼として、台詞捏造とは一体なんのことだろう。
「深く訊かないで! そんなのダメ、ダメだよ始! そんな顔でそんなこと言われたら、僕はもう……!」
微妙に会話の噛み合わない意味不明な言葉を吐きながらキャーッと顔を伏せた隼に、始は何となく事態を察して半眼になる。というのも、ベッドに寝転がって辺りを見回したことで気づいたのだが、壁や棚の上に所狭しとつい最近出たばかりの始のグッズが飾られていた。先日演じた舞台のビジュアルで、自分でも出来栄えに満足していた写真のやつだ。
つまり隼は、始の新しいグッズを購入してガチファンモードになっていたらしい。ずっと昔に聞いたことがある。情報源は陽あたりだったか。特に気に入ったブロマイドなんかを見て、眺めては台詞を捏造して自分で自分に言って悦に入っているのだと。
初めて聞いた時はドン引きしたが、普通のファンもよくやる儀式らしいとどこかで聞いて、そんなものなのかと無理矢理自分を納得させた経緯がある(ちなみにその時、郁が真顔で引いていたのをよく覚えている)。
今でもそんな儀式をしているのかという驚きと共に、ファンでいてくれるのだと妙に感動を覚えた。それと同時に、そのやりとりを誰かとの会話だと勘違いしていただけだったと知って、やたらと安心した。空想とはいえ、隼は始と会話をしていたわけなのだ。
疑問や疑念がすっきりと解決して、再びとろんとした眠気の波に襲われる。億劫に瞬きをして何気なく流した視線の先に、仲睦まじく寄り添う紫と灰色の小ウサが並んでいた。よく見ると、それらは先日の舞台を模した衣装を着ていた。
そんなグッズは確かなかったはずなので、隼の手作りなのかもしれない。
「それであいつらは、どんな会話をしてたんだ……?」
「えっ?! えっと、それは……」
回らない呂律で尋ねれば、隼の頬がまた赤くなった。
「一緒にいよう? それとも寝よう? 傍にいて?」
「えっ、えぇっ……、あの、始……?!」
焦ったような隼の声を聞きながら、始は眠気に抗わず目を閉じる。
自分が言うのなら、もっと、なにか、違う気がする。舞台の終わりは、全員一緒にめでたしめでたし。だけど、たったひとりだけに伝えるのならば。
「もう、何があっても、はなれない」
息を飲む隼の気配を感じながら、始は意識を手放した。ひんやりとした、けれど温かな熱の籠る寝床に包まれる。
そんな夏の夜が、今年もやってくるのだ。