見たことがある気がする見たことがある気がする
ふとした瞬間、どこかがズレるような感覚がある。たとえば同級生からの呼び方。たとえばクラスメイトの顔。たとえば先生の顔。
日常的にそこにあるものだけれども、そんなところにあったものだったかと小さな違和感を感じることがある。
たとえば、こういう時も。
「うわあ! 都会とは全然違った星空が素敵だねえ! あっ、君と二人きりだからこそもっと特別なんだよね……! 生きててよかった! 僕は今、青春を最高に謳歌しているよ……!」
「………………それは、よかったな」
きゃあきゃあとはしゃぐ隣の白い存在に脱力しながらも、始はマグカップを片手に夜空を見上げる。
確かに超常現象研究部も本日、キャンプ部と同じ場所で合宿するとは言っていた。だがしかし、本当にキャンプ道具一式を準備して一緒にキャンプをするだなんて、誰が思うだろうか。
『あのねあのね、超常現象研究部も長野で合宿することになったんだよ! しかも偶然! キャンプ部と同じ場所で同じ日程!』
隼が嬉しそうに語ったのを覚えている。紅葉伝説とやらを調査しに行くとか何とか言っていた。始と一緒に星を眺めてどうとか、というような話もしていたが、一緒にキャンプをするとまでは聞いていない。
「……あ」
「うん? どうしたの、始。……あぁ! 流れ星だね! とてもロマンチックだ……!」
始のすぐ右側に陣取った隼は、はしゃぎ声を上げながら始の腕に懐いてきた。それを引き剥がす元気も最早沸いてこない。コーヒーをこぼさないうちに飲みきり、邪魔にならない辺りへと置いておく。
(そういえばこいつは、キャンプが楽しみだとか、俺と隣り合わせで寝るとか言ってたな……)
いつものただの戯れだと思って適当に聞き流した上、別に構わないと返した。テンションの上がりきった隼には何を言っても暖簾に腕押しなので、まともに取り合うと疲れるだけだからだ。こうして本当に二人で星を眺めることになろうとは、自分でもビックリな衝撃の展開だった。
キャンプ部の部長である篁志季は自由人なので、気がつけばどこかへ消えていた。ベストプレイスを見つけて今頃はのんびりと静けさを堪能しているのだろう。他の部員たちも各々散策するために散って行った。隼に絡まれている始から距離を取ろうとしているように見えたのは、おそらく気のせいのはずだ。顧問の教諭まで姿が見えないのは納得いかないが、超常現象研究部には外面の良い顧問がいる。自分はそちらへ体よく丸投げされたのでは、という考えもおそらく気のせいなのである。
始に腕を絡めながら飽きることなく星を見上げる隼を、ちらりと見遣る。その姿は、キャンプ場には不似合いだと感じる。日頃から動くのが面倒だの億劫だのと豪語するインドア派だという彼が、能動的になるのはいつだって始が関わる時だった。
それにしたって、まさかキャンプ部の合宿にまで着いてくるとは思わなかった。しかもここは、学園からは決して近いとは言えない場所だ。隼にテントが立てられるとは到底思えないし、そこで彼が寝泊まりするイメージも全く沸いてこない。相当な箱入りで純粋培養の出自とのことだから、寝袋でなどきっと寝られないだろう。
部活顧問からスケジュールを聞いて、本当に隼たちが合流すると知った時は耳を疑った。精々コテージに泊まるのだと、それならばまあと自分を納得させていたのに、何と彼は始たちと同じ区画でテント泊をするという話だったのだ。
始は高校に入学してすぐキャンプ部へと入部したので、夏の合宿は毎年出席していた。今年で三回目にして最後の合宿となる。隼と出会ったのは入学式で、出会ったその日から推しだのなんだのと言われて今まで追いかけられ続けていた。しかし最初の年も、去年の合宿でも現地まで押しかけられるようなことはなかったのだ。
三年目の今、このタイミングで何故という疑問が浮かぶ。行き先が被ったのは本当に偶然だったのだろうか。彼らが調査の目的にしている紅葉伝説の舞台は、確かにこのキャンプ場からほど近い場所に存在する。けれども不思議な言い伝えなら、それこそこの国にはどこにでもあるのだ。
偶然でないのなら、やっぱり彼は始を追いかけてきたのだろうか。不慣れな場所であろう、こんなところにまで。
『会いたかった、始! やっと会えたね!』
キャンプ場で超常現象研究部のメンバーたちと合流した時、隼が真っ先に定型句を叫んで始に飛びつくように抱きついてきた。両者の部活の面々はいつものことと苦笑していたが、周りの無関係な人たちの、何事かとこちらを見る視線が痛かった。普段学園でよく隼の口から出る言葉、行動なのに、違う場所でされるとまるで本当に久しぶりに出会ったような感覚に襲われた。何日も何年も、長い間会えなかったような、そんな再会を思わせた。それは不思議な感覚だった。
やっと会えた、なんて大袈裟な言葉だ。毎日会っているだろうと訊いても、隼はその問いに決まって首を振る。何度でも彼は会いたかった、やっと会えたねと口にするのだ。始のクラスであるA組と、彼が在籍しているC組の間にある物理的障壁(B組の教室のことらしい)を越えて会いに行くことは、それほど大変なようだ。力説されても始にはまったく理解できなかったが。
ただ、儀式のようなそれを、恥ずかしいから止めてくれと言う気にはならなかった。会いたかったと目元を撓ませる彼の表情は何故か心地よいと感じていた。人はこんなにも幸せそうに笑うことができるのだと、仄かに胸が温かくなる感覚は決して嫌いではなかった。注目を浴びながらも、あの顔が始だけを見ている姿を、どこか自慢する気持ちすらあった。
「夢が叶って嬉しいなあ」
「……夢?」
ぽそりと囁かれた言葉に、始の意識が引き戻される。
「うん。こんなふうに始と星空を見上げたいなあってずっと思ってたからね! 今回キャンプ部の合宿先に、丁度都合の良い調査対象があったのはとってもラッキーだったよ! 去年やその前の年は、残念ながら意見を押し通せるほどの権力が僕にはまだ足りてなくてね」
名目が台無し、と叫んでいる海の顔が浮かぶ。今頃テントでくしゃみでもしているかもしれない。
「そんなに俺と過ごしたかったのか?」
少しだけ緊張を孕んだ声に、隼は気づいた様子もなく笑った。
「もちろんだよ! だって今年がラストチャンスだからね。これが最後になるかと思えば根回しだって土下座だって、僕にできることなら何でもやったよ!」
土下座という名の脅迫では、と呆れたのは一瞬だ。
「……そうか、最後になるのか」
「うん。学園生活は楽しすぎて、三年間なんてあっという間だよ」
「確かに、そうだな」
始は現在まだ生徒会に所属しているが、夏休みが終われば次の会長へとその座を譲り渡すことになる。自分が会長という立場でいる間にやれることはすべてやってきたと思っているので、それ自体は何の問題もない。次の会長に相応しい後輩もいるので、心配することもない。キャンプ部の方も、活動はこの夏で実質終わりだろう。気づけば色々なものが終わる時期に来ていた。始まったのはたったの三年前。あまりにも短い、学園での充実した楽しい時間。
隼は卒業したらどうするのだろう。そういえば始はそんなことも知らない。毎日追いかけられてはいたけれど、打ち明け話のような深い会話は、実はこれまでしたことがない。それに思い至り、少なからずショックを受ける。なんとなく浅くはない仲、のような気がしていたが、こちらから隼へ積極的に接触することは、よく考えてみればさほどなかった。
そもそも隼は変だ。今のこの距離にしても、親友というには近すぎるし、親友だとしても男同士でこんな接触をするだろうか?
始には親友と呼べるポジションの相手はいないので想像でしかないが、むやみやたらと触ったり抱きついたり、何よりも始に会えて嬉しいと、遥かな航海から家族の元へ帰ってきた旅人みたいな顔をするのが本当に不思議なのだ。
腐れ縁の兄的存在である弥生春と再会した時だって、軽くハグされたりはしたけれど、そんなひたむきな目で見つめられることはなかった。あの目にじっと見つめられると、心がどこかしらざわついてしまう。誰に見られても動揺なんてしたことはなかったのに。
アイドルでも芸能人でもない始を推しだと呼び、いわゆる追っかけ行為をすることだって、到底普通とは言えない行動だ。隼は大概おかしいと思うのに、それを当然だと、当たり前にも感じてしまう自分もどこかきっとおかしい。そしてそこで、また小さなズレが芽生えるのだ。
隼と同じ学校で過ごしていることに、小さな違和感を覚えてしまう。もし同じ学校に通っていたらどうだったんだろうと思ってから、同じも何も今一緒に通っているじゃないかと、自分の考えに首を傾げる日々。
絡まれていた右腕の抱擁が解かれ、今度は手の上にしっとりとした熱が重なる。夏とはいえ高原の夜は涼しくて、手の甲からほんのりと広がる温度が心地よく感じられた。隣に視線を向ければ、隼は相変わらず遠くの空を眺めたままで、静かな微笑みを浮かべていた。
「楽しい時はすぐに終わってしまうね。ひとつの始まりがもうすぐ終わりを迎えてしまう。始まれば終わるのは当たり前の理なのだけれど、やっぱりその瞬間は寂しいよ」
ぎゅっと力の入った手の温かさに、始はまた思いを馳せる。
隼は始の両手を握るのが好きなようで、よく熱烈に握手攻撃をされていた。正確に言えば握手とは少し違うのだが、何と言葉にしたらいいのだろう。恭しく両手を包まれて、大切な物のように閉じ込められる感覚だ。そんなのもやっぱり高校生男子同士のすることではないと思うのだ。なのに嫌じゃないなんて、抱きつかれる時でさえ、服の下に手を入れられても仕方ないで済ませるとか、隼に触れられている時の自分はまるで自分じゃないみたいだった。
あんなにベタベタされるのははっきり言って嫌いだ。始は他人から触られるのが苦手だった。普通なら許さないだろう。触られる前に避けるか、しつこくされたら投げ飛ばすくらいは間違いなくする。
でも、隼ならそれが当然と言う気がしている。何故そう思うのかは分からない。
「……また、来ればいいだろう」
そう言ってから、隼は卒業後の進路をもう決めているのかと再び疑問に思い、しかし口にするのはどうしてか躊躇われた。実家は確か京都だと言っていたので、そちらへ戻ればそこでささやかな付き合いは途絶えるのだと思えた。メールでもSNSでも、今の世の中なら連絡手段には事欠かないが、物理的な距離は結局何者にも勝る。やりとりが少しでも途切れた時、二人を繋いでいた糸はそこでぷつりと切れてしまうのだろう。始はあまりそういったツールを利用しないので、それは明白な結末だった。
無責任な発言だったかと始は俯く。どうとでも取れる約束は、場合によっては相手を傷つける。仮に卒業したあとで隼が帰省したとして、始は遠く離れた地に住む彼へ、一緒にキャンプへ行こうと誘うのかと問われれば即答できない。物理的な距離も時間も、それから精神的な心の距離も、何もかもが遠すぎる。
何を見るともなしに、地面に生えていた草が焚き火の灯りで赤く揺れるのを視界にいれていた。少ししてふと視線を感じ、顔を上げて再び隣を見たら隼と目が合った。いつもの穏やかな微笑みを浮かべてはいるが、どこか寂しげにも見えた。
「君ならそう答えるとわかっていたよ。希望をくれる言葉が何よりも嬉しくもあり、その希望を胸にまた僕は待ち続けるのかと思えばそれは……いや、やっぱりなんでもない。ごめんね? 気にしないで」
ゆっくりと逸らされた視線、それから離れていく手のぬくもりに、ちくりと胸へ沸き起こるのは疼くような痛みだ。
分かっていた。すれ違いしか生まないことは。隼が本当に望むこと。真に求めているもの。どことなく感じていたズレが、急に収束したように感じた。
ああ、これはきっと片思いなのだ。
隼は始を見ているようで、別の誰かを見つめている。
小さく息を吐き出して、始は呼吸を止めていたことを知る。空を見上げればそこには変わらぬ満点の星空がある。
指先が震えた。高原の夜は涼しい。これ以上の沈黙が嫌で、口慰みに寒くはないかと訊こうとして、隼に気温は関係ないかと思い出す。
(……関係ない? 何故だ?)
常時二十度設定だから大丈夫だなんて、自分の頭に浮かんだ言葉が理解できない。自分で、自分の言っている意味が分からない。
お前は誰で、俺の何なんだ。
何故そんな顔で俺を見る?
何故、大切なもののように触れてくる?
それなのに、何も求めてこないのは何故なんだ。
本当は、誰を求めている?
何故、どうして────。
「……前も、こんなふうにお前と夜空を眺めた気がする。あれは、どこだったか……」
絞り出した始の声は弱弱しかったが、答えた声はもう普段通りの隼のものだった。
「え。君とこうして二人で星空デートをするのは初めてなのだけど……はっ、他の誰かと僕を間違えてる?! 夜中に二人で星を見上げるような相手が始に?! ああっどうしよう、嫉妬で夜も眠れなくなりそうだよ! ジェラシー……!」
メラメラと拳を握る隼を横目に、始は深く深呼吸をして自分の中へ潜るようなイメージを浮かべた。今、視えかけているものを逃したら、二度と掴めないような気がする。隼の求めているものの欠片はおそらく自分の中にある。だからこそ彼は、始に異様な執着を持つのだ。
意識を切り替えると、目を閉じた暗闇の先に扉が視えた。
重い扉をなんとか開くと、そこは先ほどまで目にしていた空と変わらぬ、美しい星の降る夜だった。
満点の星空の下、金色の星がきらきらと輝いている。どんな星よりも美しく、あたたかな光を宿したそれは────。
もう少しでたどり着けそうだった時、やわらかな声が間近で響く。
「それ以上は見ないで。それは、君が知らなくてもいいものだから」
優しく、しかし確実に意志を奪っていくその声に、目の前にあった光景のすべてが絡め取られていく。視界が真っ白になった。
「始。君はただ、そこに居てくれるだけでいいんだ。やっと会えたのだから、もう何も思い出す必要もない。そうだよね?」
ぐらりと傾く身体を隼が抱き止めた。背中に回った腕が、始の着ていたライトアウターの内側へ遠慮なく入ってくる。Tシャツの上から大きな手のひらで撫でられて、ぞくぞくとする合間に心臓が疼くように痛んだ。また服の下に手を入れてくるとか、なんて考える程度の思考は残っていたが、それもだんだんとどうでも良くなり、始の身体が勝手に動き始める。両手は自然と隼の背中に回る。そのまま抱き寄せれば、とてもしっくりとした感覚に包まれた。
きっとどこかでこうして抱き合い、熱を交わしたことがある。それは自分だったのか、それとも自分によく似た別の誰かだったのだろうか。
「……隼、」
「おねがい。どうか思い出さないで」
切実な響きなのに、どこか命令するその口調に違和感を覚える暇もない。
「思い、出さない……」
「そう。そのまま忘れて? ……いい子だね、始」
いつの間にか彼の手は始のTシャツを捲り上げていて、直に背中を撫でていた。心臓を裏側から掴まれるような、怖いような恍惚とするような感覚がある。寒くはなかった。露わになった背中は外気に晒されて寒いはずなのに、隼の周囲はいつだって適温で快適だ。それを確かに知っていたが、知った時期はまったく思い出せないし、もう思い出さなくてもいい。
公衆のキャンプ場で周囲に大勢の人がいるはずなのに、その気配すら感じられず、ただ静かで、星の流れる音すら聞こえてきそうなほどだった。この場所だけ時が切り取られているようだ。呼吸を忘れていた肺が急に苦しくなって、ふっと喘ぐように息を吸えば、唇の上に熱を感じた。
キスなんてしたことがないけれど、これは確かにそういうもので、親友でもするわけがないし、ましてやよくわからない相手とするなんて言語道断だと思うのに、何故隼は始にそんなことをするのだろう。そして、始も隼へしているのだろう。
何度か唇を合わせていると苦しい息が余計に苦しくなって、頭がぼんやりとしてくる。手足からゆっくりと力が抜けて、始は隼へ全体重を預けて目を閉じた。
「……おやすみ。夢から目覚めれば、僕はまた君に会えるね」
沈んでいく意識に抗えず、始は意識を手放した。
やっと会えたね。
そう切実に響く声を、やはりどこかで知っている気がするのだ。