魔王様と鏡の迷宮 月並みなデートだった。
映画を見て、カフェでお茶をする。手を繋いで運河沿いを歩く。
仕事柄、遠出というのはなかなか難しいからリゾート地で開放的なデートを、なんていうのは望んでない。いつかは行きたいけれど、今はこんな学生みたいなデートでいい。まだ始まりの一歩を踏み出したばかりの恋人には、相応しい。
隼と始。二人の関係がその言葉へと変わったのは本当についこの前だ。お互いにずっと良い雰囲気があって、いつそうなってもおかしくない感じだった。それなのに一歩前へと進むのにこれほど時間を要するなんて、お互い予想外だったことだろう。でもそれが、とても自分たちらしいとも言えた。くすりと笑えば、繋いだ手から振動が伝わったのか、隣を歩く彼が、どうしたと言ってこちらを見る。
外は既に日が落ちていて暗い。ここは寮からはほどほどに離れている都内の公園だ。目の前にはレインボーブリッジの美しいイルミネーションが見える。東京湾の定番の夜景だった。デートにどこか良い雰囲気の場所はないかと陽に相談したら、ここを勧められたのだ。綺麗に整備された庭園で美しい夜景スポットなのだが、最寄駅からは徒歩で少しだけ掛かるので、穴場的な場所になっているらしい。
イルミネーションが華やかな場所になると、カップルどころか観光客でごった返しているのがこの都市の常だ。静かなこの場所はとても居心地が良かった。人がいないわけではなく、デートスポットだけあってカップルも何組かはいる。けれど彼らは他人のことなど全く目に入らないらしい。自分たちの世界以外は知ったこっちゃないと言わんばかりだ。お互いと、それからたまに遠くのイルミネーションを見上げては、いちゃいちゃと幸せそうに二人の世界を満喫している。
隼と始もそのうちの一組だなんて、こんな日が来るなんて信じられないと、隼はじんわり感動する。目隠しをしているから、周囲の人間には自分たちのことなど見えやしない。辺り一帯が暗いので、湾内の水面が透き通るようなムード溢れるマリンブルーじゃなくたって構わないのだ。
答えずに笑うだけの隼に焦れたのか、始は足を止めて隼の方を向いた。初夏のじっとりとした空気の熱が、二人を包んだ。お互いにじっと見つめ合う形になる。足元に等間隔で設置された仄かな橙のライトがウッドデッキを優しく照らし、間接的に二人の輪郭を夜に柔らかく描き出す。吸い込まれるような紫の瞳が、物言いたげに瞬いた。彼は思いを言葉にするのがわりと苦手なのだと知っている。微かに傾けられた顔の角度に、隼の胸がどきんと鳴った。
(これって、もしかして……、キスしても大丈夫なやつですか……?!)
緊張に固まりながら、隼はどうにか一歩、始へと距離を詰める。それから震えそうな片腕を伸ばし、彼の腰をそっと抱いた。
始はわずかに目を見開いたあと、軽く顔を背け、俯く。艶やかな黒髪から覗く耳が、みるみるうちに赤く染っていく。夜の中、そんな変化が分かるほど二人は近くにいる。
(ゆ、許されてる……?!)
自ら誘うような仕草をしたくせに恥じらうなんて狡い。こちらまで照れてしまうから。こんなのは、何時ぞや『俺に遊ばれたいのか?』だなんてクールに格好よく言い放っていた人がする態度じゃない。ときめきが過ぎて目眩がする。でも隼は、ここで倒れるわけには断じていかない。倒れたら全部終わる。この時間も、この雰囲気も、二人を優しく包むこの夜の空気も。
(これがギャップ萌え……っ)
足を踏ん張りながら、もう一押しだと心が叫ぶ。隼はごくんと喉を鳴らし、腰を抱いていた手のひらに力を入れて、彼の身体を引き寄せた。極々近い距離で向かい合う形になる。胸と胸が触れそうな距離に堪らなくなって、とうとう隼は、両手を始の腰へ回してぎゅっと抱き寄せた。
勢いに任せて思い切って唇を寄せたら、頬を赤くした始が顔を上げて、今度ははっきりと傾けたのが見えた。受け入れられたと認識した瞬間、彼の薄く開かれた唇へ、隼は噛み付くようにキスをしていた。
背中へ回し返される腕は始のものだ。胸がいっぱいになって息が苦しくなる。必死になって何度か唇を押し付けたら、始が笑った気配がした。無我夢中になった頭の奥で、こちらも月並みだが、リーンゴーンと祝福する鐘の音が響いたのだった。
1.
「最高のデートだった……。もう思い残すことはないよ……」
片付けの手を止めて、隼はぼんやりと天井を仰いだ。
平凡だけれども夢のようなデートから、二週間ほどが経過した。時が過ぎる速さに驚きながらも、次は始といつどこへ行けるだろうと思いを馳せる。始はあの翌日以降仕事が立て込んでおり、隼と寮内で合うこともままならなかった。SNSのメッセージでさえ邪魔になると思い、送りたいのを必死に我慢して控えていたのだ。
それが今夜、ようやく彼がこの寮へ戻ってくる。久しぶりに直で顔を見ることができる。一言目には何を話そうかなんて、そんなことを考えてばかりの隼が片付けに身が入らないのも当然だった。床の上にごった返す大小様々な物を挟んで向かいに座っている涙が、こちらは真面目に手を動かしながら相槌を打つ。
「良かったね、隼。たくさん楽しんだんだよね」
「うん、天上に舞う天使が見えたよ」
「召されちゃったの?」
「……うん。天国があるのならあれはきっとヴァルハラ……。僕は人生の試練へと勇敢に挑み、果敢に戦い抜いた戦士なんだ……」
「ええっと、いつも以上に全然意味がわからない……。隼さん、心ここに在らずって感じだ。あれから何日か経つのにね。俺はあと何回この惚気話を聞けばいいのかな……?」
涙の隣でこちらもきちんと作業に勤しむ郁は、乾いた笑いをもらした。何しろ例のデートのあと、同じ話を何十回何百回と繰り返し聞かされ続けたのだ。今回がもう何回目だか、当然覚えていない。おなかいっぱいとはこのことだ。
けれども、リーダーが気もそぞろになるほど浮かれて喜ぶ幸せそうな顔を見るのは嫌じゃない。だから苦笑しながらも、郁は何度でもはいはいと聞いてあげるのだ。
「それはそうとして、全然片付けが終わる気配がしないね、この倉庫。倉庫と呼んでいいのかもわからないけど」
「普段使われない物がしまってある場所だから、倉庫でいいんじゃないかな」
二人は休みを利用して、隼の部屋の整理を手伝っていた。
隼は日頃からグッズを購入するのは勿論、どこから持ってきたのか分からない怪しげな骨董品までコレクションしているので、この部屋──倉庫と呼ばれている場所も、さすがに埋まってきてしまったというわけだ。何やら困っていた隼へ、お困りでしたら手伝いますよと郁から気軽に声を掛けたのが運の尽きだ。ありがとうと喜ぶ隼に着いてきてみれば、こんな有り様だったわけである。
ともかく手伝うと言った以上、郁は厚意で手伝いを申し出てくれた涙と一緒に、その部屋の片付けをすることにした。まずはここへ置いたままにしておきたい物と隼の実家へ運ぶ物とを選別し、それぞれダンボールへと仕分けする。整理が終わり次第、隼の付き人である榊が、纏められた荷物を実家へ運んでくれるらしい。
「この部屋自体がそもそも異空間なんだけどね。僕たちの部屋にはこの場所にこんな扉なんてないし」
「それを言うなら涙、玄関入ってすぐにもう構造自体が違うよね。本当に今さらなんだけど」
「そう。今さら。だから細かいことは気にしない方がいいよ、いっくん」
「た、確かに。……それにしてもすごい数だなあ」
普通の寮の部屋には構造的にあり得ないその部屋は、六畳ほどで窓がない。コレクションが日焼けしないように窓がないのだと聞かされたことがあるが、窓が無くて心底良かったと郁は思っている。だって窓があったとして、外は絶対に普通の景色なんて広がってない気がしたからだ。窓の外に鬱蒼と茂った森があって、そこに魔物とか歩いていたらめちゃくちゃ嫌だ。同じフロアに自分の部屋があるのだし。
「これは要るのかな? 隼さ、──わっ!」
郁は、すぐ側に堆く積んであった箱の角で躓いてしまう。その衝撃で、一番上に乗っていた小さな古びた箱が落ちてくる。床に激突した衝撃で蓋が外れてしまい、カシャンと乾いた音を立てながら中身が転がった。
「うわっ、すみません!」
焦った郁が慌てて拾い上げると、それは箱と同じように古びた一枚の手鏡だった。随分と年季の入った品物に見える。時代劇に出てくるような、まさに骨董といった外見で、経年劣化のせいか鏡面はすっかり曇り、全体的に錆び付いていた。
「割れては……ないか。でもガッツリ床に落ちちゃったよね。高価な物だったらどうしよう。見るからにそんな感じがするし」
「いっくん、大丈夫?」
音にびっくりした涙が、郁の側に来る。
「あ、涙。驚かせてごめん。これを落としちゃったんだ」
「鏡……?」
郁の持つ鏡を繁々と眺めた涙は、すぐに瞳を曇らせた。その表情に、郁は咄嗟にこれはよくない系の物である雰囲気を感じ取る。涙の直感は鋭いのだ。プチ魔王様という名は伊達じゃない。
「隼さん! この鏡……えっ?」
これはまずいと、慌てて持ち主に確認してもらおうと郁は立ち上がる。鏡を隼に向けた瞬間、鏡面がきらりと光を放つ。
「郁?」
振り向いた隼が、鏡面に映る。曇りはいつの間にか消えており、澄んだ水面のような鏡面が隼を捉える。それまでぽやぽやとしていた隼は即座に表情を険しくし、「二人とも離れて!」と叫んだ。
「へ? うわっ、眩しい……!」
「いっくん、光を見ちゃダメ! 目を閉じて!」
郁は手鏡を放り、咄嗟に涙を庇うように床へ伏せた。それから言われた通りに目を瞑る。
瞼を閉じていても分かるほど強烈な光が室内を照らしたかと思えば、すぐさま波が引くように消えていく。室内は何事も無かったかのような静寂が戻る。一瞬の出来事だった。
「もう大丈夫……? 今の、なんだったんだ」
「わからない。でもはっきりと嫌な感じがした」
郁がおそるおそる目を開けても、異変はもうどこにも見つからなかった。咄嗟に放り投げた鏡は床の上で沈黙している。
「涙はなんともない?」
「僕は平気。隼は」
「二人とも、無事かな?」
「隼さん!」
「隼」
立ち上がって郁たちの無事を確かめる隼は、どこから見てもいつもの彼だ。外見におかしなところはない。
郁と涙も伏せていた身体を起こし、立ち上がって自分の手足や身体を確認する。
「俺たちの方は大丈夫みたいです。気分が悪いとかもないですし」
「僕も同じ。隼は?」
「僕は……」
一瞬何事かを考えて言い淀む。そんな姿に微かな不安の種が芽生えた。
「いや、多分大丈夫。この部屋には曰く付きの品も多いからね。取り扱いには注意してね」
「いや、曰く付きがあるとか聞いてないですよ! 何で先に言わないんですか?!」
「さしずめこの鏡は、由緒正しき呪いの鏡というところかな。これは僕が片付けておこう」
「うわあ……。呪いの鏡なんて、またベタなものが来ましたね……」
古びた鏡を拾い上げ箱にしまう隼を、郁は半眼で見つめた。
「とにかくそんな危険なもの、素人に触らせないでください!」
「おやおや。数多の異世界を経験して立派に生き抜いてきた実績のあるいっくんが素人だなんて、またまたご謙遜を」
「してないですよ?! 俺は一般人をやめたことはないですし、これからもその予定はないですからね?!」
「そうだね、いっくんは強いんだ。だから大丈夫」
「涙?! 今のは褒められてないからね?!」
いつものやり取りをしているうちに不安を忘れ、郁は急速に空腹を感じた。
「つ、疲れた。まだ目標の半分も片付けてないのに。ともかく一旦お昼にしましょう。続きはまた午後に。今夜は始さんが寮に帰ってくるんですよね。それまでに終わらせたいでしょう?」
「勿論だよ! 二週間振りに始に会える! 何から話そうか考えすぎて、胸がいっぱいだよ!」
「あはは。今からはしゃいでたら夜まで持ちませんよ……って、隼さんに限ってそんなことあるわけないか」
「そうと決まればお昼だね。レッツゴー!」
いつも以上にはしゃぐリーダーを微笑ましく眺めがら、三人は部屋を出てプロセラルームへと向かった。午後からは再び作業を再開し、どうにか目標はクリアした。さて夕飯だと再び一行はプロセラルームへと向かう。そこまでは何の問題もなかった。
「ちょっと、あの、何言ってるんですか……?!」
夜の、信じられないと見開かれた目が隼を非難する。
整理を無事終えた三人がプロセラの共有ルームに行くと、帰宅したばかりの夜がいて、彼が夕飯を作ってくれることになった。成人を過ぎて以降、仕事の時間は昼夜問わずバラバラになり、歳を重ねれば重ねるほどそれは加速した。今は意図的に休みを合わせない限り、寮内で皆が揃って食事をするというのは難しかった。それだけ人気があるのは嬉しいのだが、かつてのように、夜や葵が全員の食事を用意して一緒に食べるなんていうことはあまりない。少人数ならそれなりに集まるが(何せ共有ルームに入り浸るのが皆好きだからだ)、普段は寮の賄いを利用するか、外食がほとんどだった。
夜か葵に会えて、かつ彼らに時間の余裕があれば、以前と同じように料理を振舞ってもらうことができる。昔は当たり前だったその時間は、今ではスーパーのくじ引きで何かが当選するくらいの幸運だった。そんなラッキーを引き当てて、三人は夜特製の和食にありつけた。久々に口にできたそれは相変わらずの美味しさで、非常に満足だった。
食後に全員で食器類の後片付けをして、淹れてもらったお茶をのんびりと飲んでいたところに、やや息を弾ませて駆け込んで来たのが始だった。予定より早めの彼の帰宅に、隼は大いに喜んだ。隼に会いたくて急いでここへ来てくれたんだという喜びそのままに、彼へ抱きつこうとしていたはずだった。確かに、意識の上では。
今、目の前には酷く傷ついた始の顔がある。そんな悲しい顔なんて絶対にさせたくないというのに、信じ難いことだが彼を心無い言葉で傷つけたのは、紛れもなく隼本人であった。
「隼、ろくに連絡もできなくてすまなかった。来週末の夜は、少し時間が取れそうなんだ」
次のデートのために予定を空けてくれる彼へ、隼の胸は甘くときめいた。
「必要ないよ」
「……え?」
(…………え?!)
ところが隼は、にこりともせずにたった一言、約束はもういらないとバッサリと切り捨てたのである。心のうちでは狂喜乱舞しているというのに、自分の身体はまるで別人になってしまったように、隼の意思とは無関係にあり得ないことを口にする。
「悪いけど、もう君に対して恋愛感情は持ってないんだ。今後は、普通のお付き合いにしてくれるかな」
横柄で冷く発せられた言葉に、始は何を言われたか分からない顔をしたあと、とても、本当にとても傷ついた表情を見せた。
(僕は何てことを! 始……! こんなの嘘だよ! 僕は世界で一番君のことを愛してるし、誰よりも君の近くにいたいって思ってる!)
「しゅ、隼さん……。ちょっと、あの、何言ってるんですか……?」
ごとん、と夜が湯呑みを落とし、目の前で起きたことが信じられないとばかりに目を剥く。
「そうですよ。隼さんはもうあなたのことを特別になんて思ってません。だからこれ以上、付きまとわないでくれますか?」
「いっくんの言う通りだよ。そういうことだから」
思わぬところから、隼のおかしな言動への援護射撃が飛んでくる。驚いて(表情には全く反映されなかったが)隼が声の方向へ視線をやれば、無表情の郁と涙がじっとこちらを見ていた。どうやら彼らも、隼と同じ状況に陥っているらしいことはすぐに察した。今の隼も、似たような無機質な表情をしているのだろう。
「郁、涙まで……?! あっ、あの、始さん、これは何かの間違いで……! ち、違いますから! こんなタチの悪い悪戯するなんて、俺があとできっちり叱っておきますので……!」
心底驚いた夜が、慌てて始に向かって弁解する。始は何も言葉を発せず、ただ呆然と隼を見た。紫の瞳の奥に揺らめく悲しみの色が、隼の胸を深く貫く。
(始! 惑わされないで! こんなのおかしいって気づくよね?! 冗談にもほどがあるって、怒って殴ってキスしてくれればショックで元に戻るから! 魔王様はお姫様のキスでどんなピンチからでも復活できるから! むしろここでしなきゃいつするの?! いつもみたいに物理でこの身体に言うことを聞かせてくれればいいんだよ?! さあ、始! 僕を殴って!)
心のうちで叫ぶ言葉は勿論外に出ることはない。表情のひとつも変えない隼に怯んだのか、始はそっと目を逸らした。
(……っ、君は、諦めてしまうの……?)
隼だって本当は分かっている。この場面で、始がそんな暴挙に出るわけなんてないと。
「………………わかった」
呟かれた静かな言葉に、夜が息を飲む音が聞こえた。
(嘘……)
「もう、ここへは来ない。……すまなかった」
それだけ言うと、始はくるりと背中を向けて、共有ルームを出て行った。
(……始! 僕は君を愛してる! 愛してるんだ! 待って、行かないで! もう来ないなんて言わないで! 君と離れたくなんてない……!)
この想いを信じてもらえなかったことが、何よりもつらい。胸元を掻きむしって暴れだしたいのに、身体は言うことを聞かず冷淡な表情を浮かべたまま、興味無さそうに始から視線を逸らした。
(何がどうなってる? なんで、こんな)
始の凍りついた表情、あの悲しげな瞳が隼から冷静さを奪った。どうして、どうしてと頭の中がそればかりになっていく。
「………………信じられません。……信じられないよ! 今の茶番は何?! 皆、こんなのはさすがに冗談じゃすまされない」
静かな怒りに燃える夜の声が、プロセラルームに響く。
「どうしてこんな…………!」
悲しみを滲ませて隼、郁、涙の三人を順番に睨みつけた夜は、表情ひとつ変えない三人に対して絶望的な表情を浮かべる。
「理由があるなら説明してください! あるんでしょ? あるんだよね?! ねえ、何とか言ってよ!」
荒々しい叫びに、パニックになりかけていた隼の頭が急速に冷えてくる。始を傷つけられたことで、つい我を忘れてしまうところだった。夜にも可哀想なことをしたが、怒鳴りつけてくれた彼のお陰で、少しづつ理性が戻ってくる。
(原因は……? 何か切っ掛けがあったはず……あ、)
隼の脳裏に答えが閃いたのと同時に、涙が無表情のままプロセラルームに置いてあるメモ帳を手に取った。
「涙……?」
目の縁に涙を浮かべた夜が、何が始まるのかと涙を凝視する。彼はさらさらと何度かペンを走らせるが、思うように書けなかったらしい。メモ帳をテーブルに置くと、今度はきょろきょろと部屋を見渡した。そして床に落ちていた一冊の雑誌を手に取ると、パラパラと捲った。とあるページを開くと、それを夜へ見せる。
「え、何?」
涙は無言のまま、いくつかの言葉や写真を指差し、ページを捲ってはまた同じことをする。それに沿って、夜が指示された箇所を辿々しく発音していく。
「ええっと……、『墨』、『太刀』、『野』、それから……『炉』に『和』、『レター』……?」
怒りを忘れて夜が首を傾げる。涙がもう一度最初から、同じ言葉を指していく。
「墨、太刀、野呂、和、レター。ぼく、たち、のろ、わ、れたー。ぼくたちのろわれた……のろわれ……え、呪われって、ええっ?!」
やはり言葉を発することなく、涙は続けて別のページを開き、同じことをした。
「今度は、えっと……、反対のことを言う? なるほど、それでさっきはあんな……」
そこで夜は、力が抜けたのかへなへなと床へ座り込んだ。
「……なんだ、そっか。そうなんだ。突然のことで本当にびっくりしちゃって。……そうだよね、そんなわけないって思ってたのに、疑っちゃって……」
はは、と力なく彼は笑う。
「怒鳴ったりして、本当にごめん。どうやって謝ったらいいか……って、うわっ?!」
不意に隼の足元が光り、隼を中心にして光の波が円形に広がった。それは昼間見た光と同じように、室内の壁に当たってすぐに消えた。
「い、今の何?」
「あ、喋れるようになった。夜も呪いに感染したんだね。これで夜も、始に暴言吐くようになるよ」
「ええっ、何それ?! 俺はそんなこと絶対に言いたくないよ?!」
涙の言葉に、夜が真っ青になる。
隼はそんなやり取りを視界に入れつつ、沸々と沸き起こる怒りを感じていた。
(あの鏡……)
思い出した。
あれは確か、恋人を引き裂く呪いが掛かっているとか言われていた曰く付きの品だ。鏡自体は江戸時代か、それより昔の物ということで、骨董品としてはそれなりに貴重な物だ。しかし持ち主に不幸を与えるということで、次々に所有者が手放し、回り回って隼の元へ来たのだ。
実家に持って行こうと思って倉庫の隅に積んだまま、すっかり忘れていた。いわく、最初の所有者であった女が凄惨な事件に遭って恋人を失い、その怨念が鏡を見た者の愛を壊す。長い間、清めた箱に入れて閉じられていたものが、郁の手によって解かれてしまったのだ。
鏡は手始めに隼を映して呪いを掛けた。そして次に、同じ光を浴びた郁と涙にも感染させていった。主として呪われたのは隼だから、始に対してああいう態度となったのだろう。先ほどの光で、間違いなく夜にも掛かった。どういうタイミングで光るのかは謎だが、放っておくとどんどん呪いが広がっていくタイプなのだろう。はっきり言って、タチが悪い。
「え。呪い? これって呪いなの?」
驚く郁へ、涙が事もなげに頷く。
「そうだよ、いっくん。昼間光ったあの鏡。多分あれで間違いない。すごく嫌な感じが、あれと一緒だったから」
「ええっ、曰く付きの鏡とは言ってたけど、本当にガチのやつだったの?! しかも近くにいると伝染するなんて、新手のウイルスみたいじゃないか。それに、始さんのことも心配だ。何で始さんに対してあんなこと言っちゃったんだろう」
また災難に遭遇しちゃったよ、と郁は脱力する。
「でも、さっきの涙の機転は良かったね」
「本のページのこと? 口も利けないし、メモを書こうとしても無理だったから、全然関係ない物ならいけるかなって思ったんだ」
「俺はそんなこと、全く思いつかなかったよ」
「とっても昔に、似たようなことがあったんだ。それを思い出したから」
「へえ、そうなんだ。ところで俺たち普通に喋ってるけど、急に話せるようになったね。さっきまで何か言いたくても言えなかったのに」
「……どうやら、呪いを受けた者同士は話せるみたいだ」
静かに話し出す隼を、夜が労わるように見つめる。
「隼さん、始さんは……」
夜も、隼がずっと浮かれていたのを知っていたし、応援して見守ってくれていた。だからこそあれだけの怒りを露わにしたのだ。そしてそれが、誤解だと分かったまでは良かったのだが。
「あの鏡は、愛する者同士を分かつという呪いが掛けられているんだ」
「そんな……」
「最初に呪いを受けたのが僕だから、始に対して正反対のことを言わされているようだけど。この呪いは少しずつ真実を侵食し、やがて反対のことが現実になっていくっていう呪いみたいだ。呪いを受けた者は愛する人を忘れていく悲しみや苦しみ、喪う恐怖を与えられるというわけだ。このまま放置しておけば、僕は始への気持ちを完全に失ってしまう。おそらく進行は早い。周りにいる人物にもどんどん影響が出ていくみたいだから」
「ええっ?! 大変じゃないですか! 早くなんとかしないと隼さんが……!」
「でも夜さん、どうやって?」
「隼の力でどうにかならないの?」
三人が一斉に隼を見る。
「残念ながら、正しい手順で掛けられた呪いは強力だ。正攻法じゃないと打ち破るのは難しいんだ。実に忌々しいけれど、あの鏡は由緒正しい年季の入った呪いの鏡だからね」
「なんですかその強そうなやつ……。そんなものが寮の同じフロア内に存在してたこと自体がもう驚きなんですけど!」
引きながらも郁は、懸命に方法を模索する。
「始さんにお願いして隼さんの力をドーピング……というのも、この状況じゃ不可能ですよね。まともに会話ができないんだから」
「こんな状態じゃ、お願いはできないね」
「じゃあどうすれば……、はっ、陽の実家でお祓いしてもらう?!」
「いやいや夜さん、それはちょっと遠いですし、厳しそうですよ」
ああでもないこうでもないと言い合ううちにも時間は過ぎる。呪いが成就するタイムリミットは、おそらく夜が明けるまでだと隼は当たりをつけた。何としても今夜中にケリをつけなければならない。
「正攻法以外で呪いを強引に解く方法はもう一つある」
「えっ、本当ですか?!」
隼の言葉に、全員の表情が期待に満ちていく。
「本体を叩き壊すことさ」
一晩あれば、いや、五分もあれば十分だ。
「勿論依代だけでなく、そこに宿った穢れた魂ごと、粉々にして、ね?」
「ヒエッ……」
口の端を吊り上げた隼に、郁と夜が思わず抱き合った。
2.
何度も何度もあの時の始の傷ついた表情が思い出される。
不可抗力だったとしても、後悔しかない。あんな顔、ほんの一時だってさせたくない。
(この僕に呪いを掛けるなんて)
始があの時の隼を偽りだと見抜き、隼の想いを信じたなら。そしたら対の作用で呪いなんて消せるはずなのに、だなんて少しでも思った自分も許せない。隼が始へ向ける気持ちと同等かそれ以上のものを、彼へ一方的に求めてしまっていた。本来なら彼から想われること自体が、奇跡のようなものなのだ。傲慢で強欲な自分に反吐が出る。
始は隼の態度を見て、自信を失くしてしまったようだった。『すまなかった』と彼は言った。謝ることなど、彼には何ひとつとして無いはずなのに。後悔ばかりがつのり、隼は抑えきれない怒りのまま、共有ルームを出て行く。
「隼さん?」
驚いた三人が慌ててその後ろへと続いた。
普段の隼ならば絶対にしない乱暴な動作で床を踏み締めて、早歩きで自室へと向かう。ドカドカと荒い足音が夜のプロセラ領に鳴り響く。目的は自室の奥の、例の倉庫部屋だ。
その部屋の扉をバンと乱暴に開け放ち、隼は仁王立ちをする。室内は黒い靄で覆われており、見た目にも毒々しい有り様だった。
「えっ、何これ。怪奇現象?」
「気をつけて、いっくん、それから夜。あの鏡と同じ、嫌な気配がする」
「ひえっ、黒い煙……? これ、火事とかじゃないよね……?」
隼の背後から室内を覗き込んだ三人が、禍々しさを放つ空間を目の当たりにして眉をひそめる。
その部屋の中央には、問題の鏡が浮かんでいた。靄の発生源はその鏡面で、本体自体にも真っ黒な生き物のように見える靄が幾重にも纏わりついていた。普通の人が見れば現実にあり得ない光景で、室内に入ることさえ躊躇うだろう。しかし隼は違った。
勝手知ったる自分の部屋だ。ずかずかと踏み込んで鏡の前へ立つと、躊躇なくその持ち手を乱暴な仕草で掴んだ。そして自分と目が合う高さまで持ち上げると、鈍く曇った鏡面を真っ直ぐな視線で貫く。その奥に潜んでいるだろう呪いの主へ向かって、隼は高らかに宣言する。
「あのね、鏡の奥に潜む呪いの主? 君がどこの誰だかなんてどうでもいいんだ。僕はそんなことには一切興味が無いから」
そこで一旦言葉を切り、声をワントーン低くして、それこそが呪詛であるかのように隼は言葉を紡いだ。
「だけどね、始にあんな顔をさせたお前だけは、僕は絶対に許さない。何があろうと絶対にだ。……いいかい? これから僕の全身全霊の全力をもって、僕はお前に呪詛返しをする。覚悟は……できているよね?」
鏡を掴んでいた隼の腕を取り巻くようにしていた黒い靄が、急にするりと引いていく。まるで怯えるかのような動きに、郁の顔が引きつった。
「う、うわあ……。呪いのアイテムを脅迫する人って初めて見た」
郁たちが背後で固唾を飲んで見守る中、隼は元凶の鏡をひと思いにかち割ってやろうとした。その時、バタバタと室内へ駆け込んで来る複数の足音が聞こえた。慌てた様子で隼の部屋へ雪崩れ込んで来たのは、葵と新、恋の三人だった。
「隼さん! 始さんに何かしたんですか?! 見たことないくらい気落ちしてて……! 何か事情があるなら包み隠さず話してくださ……うひゃあっ?!」
異常しかない現場を見て、血相を変えた葵が叫ぶ。隼がそれに気を取られた隙に、鏡が大きな光を放った。
「うわっ! 眩しい!」
「またこの流れ……!」
「今度は何?!」
阿鼻叫喚とする中、隼はぐにゃりと辺りの空間が歪むのを感じた。小賢しくもあの鏡は、隼へ抵抗するつもりらしい。
「……ちっ。逃がさないよ」
盛大な舌打ちをひとつして、隼は足元がどこかへ転移するのを感じ取る。やがて足裏が地に着いた感触がして二、三度瞬きをすると、ふっと視界が戻ってくる。そこは見たこともない場所だった。
一見すると和風の屋敷の中だ。畳の敷き詰められた部屋、板張りの廊下、開いた障子の窓の外は真っ暗だ。点在する行燈は、よく見ると謎の植物と溶け合い、融合していた。それが不気味な光を放ち、薄ぼんやりと辺りを照らしている。物音は一切しない。不気味な静けさが場を支配していた。
(これは……、おそらく呪いの主の、生前の記憶かな)
記憶に強く灼き付けられた世界が、恨みの対象と混じり合い、歪んだ状態で可視化したものだろう。どうやら同じようないくつもの和室が不規則に並び立ち、廊下で繋がれているようだ。まるで迷宮だった。
隼が転移した部屋の近辺をざっくり見聞していると、恋の悲鳴がけたたましく静寂を突き破った。
「な、な、なんじゃこりゃあー!」
「……恋くん。これは夢だな。俺たちはいつの間に昼寝を……?」
「ちょっと、二人とも、しっかりして! うわっ、両側からくっつかないで! 俺が動けないよ」
完全なとばっちりを受けた形の恋と新が、びくびくしながら辺りを見回す。目の前に広がる、暗く静かで不気味な光景はなかなかにホラーチックだ。廊下の向こうからいつ人魂が飛んできてもおかしくない。怖がりの二人はサッとそれぞれ葵の両側に張り付き、彼の腕にしがみついた。
葵へ労わるような視線を送った郁が、乾いた笑いを漏らす。
「これってやっぱり鏡の中の世界? あはは……、呪いの鏡の定番だよね……」
「呪い?!」
飛び出たホラーワードへ、恋と新が敏感に反応する。葵はそれをスルーして二人を両側にぶら下げたまま、夜に問いかけた。
「夜、これってどうなってるの? 何があったの? こっちは始さんが大変なことになってて……」
慌てた夜が事情を一通り説明すると、葵は恐怖よりも安堵の方が大きかったらしく、ホッと息を吐いた。
「ああ、なんだ。良かった……。始さん、この前のデートのあとずっと嬉しそうにしてて、次の休みを心待ちにしてたから……。だから、隼さんと喧嘩でもしたのかと思ったら居ても立っても居られなくって」
「俺も同じ気持ちだったよ、葵。呪いのせいで本当に良かったよね。でも今はまず、この状況を何とかしないと」
「原因が呪いで良かったっていうのもどうかなって思うけど、確かにそうだね。俺たちはその、呪いの鏡っていうやつの本体を見つければいいのかな?」
「葵、新、それに恋。巻き込んで悪かったね。……それから始のことも」
状況の確認を終えた隼が葵に声を掛ければ、彼はふにゃりと笑った。
「いいえ、俺は大丈夫です。新と恋は、まあ……」
「この件が片付いたら始の元へ行くよ」
「是非そうしてください! きっと隼さんのこと、待ってると思います……!」
話せばきっと誤解は解けるだろう。けれど拒絶されて、部屋に入れてもらえなかったらどうしようと不安になる心へ、今は見ないふりをして蓋をした。
「そのためにも早く呪いをなんとかしなきゃね」
涙の言葉へ深く頷き、隼は歩き出す。
「呪い……!」
びくびくっと逐一反応する恋と新を若干引きずるようにして、葵は涙たちと一緒に部屋を出て行く隼のあとに続いた。
隼は鏡の気配を辿って板張りの床を進んで行き、ほど近い場所にあった別の和室へと入る。室内をぐるりと見渡すと、中央に年代物の古ぼけた姿見が置かれていた。それ以外は怪しい気配ひとつしない。再度舌打ちしたくなるのを寸でのところで堪えた。
呪いの主は、隼を迷宮に閉じ込めてタイムリミットを狙っているのだ。無論そんなことは許さない。絶対に逃すものかと隼は姿見の前に立ち、その奥に潜む悪意へ、挑発するような視線を向けた。
「おやおや、こんな迷路に招待したっていうことは、君は僕とかくれんぼしたいのかな? 時間がないっていうのに仕方のない子だね。でもね、僕は隠れたものを探すのが得意なんだ。お望み通り、すぐに君を捕まえてその本体を叩き割って、一片の欠片も残さず塵に返してあげるから、楽しみに待っててね?」
「怖い! こういう場合って普通、迷宮に閉じ込められた俺たちが追いかけられる側だよね? 鬼が逆!」
「待って郁! 追いかけられるのはもっと怖いからダメ、絶対ダメ!」
思わずといった郁の言葉に、震え上がった恋が絶叫する。その瞬間、姿見がきらりと光った。不気味な緑色の光が室内に拡散し、全員が思わず目を瞑る。それが消え去ったあとに目を開ければ、新と葵、恋の姿が忽然と消えていた。
「えっ、葵?! 新と恋もいない……」
「二人ともすごく怖がりなのに、葵ひとりで大丈夫かな」
涙の言葉に、夜と郁が一瞬沈黙する。
「……ま、まあ、迷路だけなら合流すればいいだけだし」
しかし場を和まそうとした楽観的な郁のひと言を、涙がバッサリと切り捨てる。
「遠くの方に、鏡とは別の嫌な気配がいくつかあるよ。何かが歩き回ってるみたい」
「ええっと……、葵たちが何とか隠れてくれてれば……」
どうやら何者かが潜むこの迷路を掻い潜り、呪いの鏡の本体を探さなければいけないようだ。タイムリミットは夜が明けるまで。
「不可抗力とはいえ、始にあんな顔をさせるなんて……霜月隼、一生の不覚! 必ずあいつを叩き割って始を救い出し、僕たちの愛を取り戻してみせる……!」
「呪いが解かれて救われるのは隼さんなんだけどな……?」
「いっくん、涙。はぐれたグラビメンバーが心配だよ。とにかく皆を探しながら、俺たちも鏡の元へ行こう」
「でも夜さん、はぐれた皆の居場所どころか俺たちの現在位置もわかりませんよ。下手に動くのは逆に危険な気がします。涙は何か感じる?」
「ここからだとうっすらとだけど。近づけば近づいただけハッキリ感知できると思う。それが良いものか悪いものかもわかる、よ」
ぐっと拳を握って見せる涙に、一堂はおおーっと声を上げた。
「さすが涙。それじゃあまずはグラビの皆を探しながら、鏡の方へ向かおうか。隼さん、それでいいですか……、えっ、いない?!」
郁が振り向くと、いつの間にか隼の姿はこの部屋のどこにもなかった。夜と涙も、慌てて部屋の中を見て回る。
「まさか、隼さんも葵たちみたいに飛ばされたの?」
「でも今度はこの姿見、光らなかった」
「光らなくても飛ばせるってこと? もしかして、最初から不意打ちで隼さんを飛ばすのが目的だった……?」
室内は先ほど居た場所と同じように見えるので、原理はともかくとして飛ばされたのは隼の方だろう。ただ、非常によく似た部屋が続いているため、もしかしたら郁たちが飛んだという可能性もないとは言えない。これはちょっと面倒になってきたのでは、と郁は微かに這い上がる緊張を呑み込んだ。
するとその時、遠くの方から微かに鈴を鳴らすような音がした。耳のいい涙がすぐに反応する。
「鈴の音がするね」
鈴と聞いて、郁はすぐに記憶と結びつく物があった。
「あ、そういえばあの鏡、持ち手に鈴が巻き付いてた。俺がうっかり落とした時は鳴らなかったから、錆びてるのか壊れてるのかしてるのかも」
「……あのさ、二人とも。音、少しずつこっちに近づいてきてない? 俺の気のせいかな」
あはは、と小さく引き攣り笑いをする夜に、郁と涙は顔を見合わせる。
「良くない気配、だね。こっちに向かってきてる。僕たちは音を立てない方がいいと思う。見つかるのは多分、よくないから」
しーっと人差し指を立てた涙を見て、郁は慌てて声のボリュームを落とす。できる限り涙と夜の側に寄り、内緒話をするように話す。
「鏡じゃなくて徘徊してる気配の方ってこと? まずいな。今は武器になるような物もないし。対抗策もなしに鉢合わせしたら襲われる可能性が高そうだよね。とにかく、今すぐ音が聞こえる方角から離れよう。涙、夜さん、こっちです」
テキパキと状況を判断して動く二人に、夜はホッと息を吐く。葵には悪いが、夜もホラーが得意とは言えないのだ。サバイバル力溢れる逞しい郁とプチ魔王様の涙が一緒で良かったと、心から安堵した。
「絶対安全領域(我らが王様)はない、駆け込みセーブポイント(寺)と無敵ゾーン(魔王様)もない……。どうやら俺はここまでのようだ。葵、あとを頼む。それからピンク頭、ここはお前に譲る」
「あっ、新?! 新ーーーっ!」
「おいこら新! 一人だけ現実逃避するな! お願いこんな怖いとこに置いていかないでぇ?!」
突然鏡が光ったかと思えば三人だけになっていた。周りは先ほどの部屋と酷似しているものの、広さや間取りが違う。おそらくどこか別の部屋なのだろう。
目を凝らしてみても特に有用な情報は得られず、耳を澄ませてみても静かなものだ。隼たちの気配は全くなかった。どうやらここはかなり広い空間らしい。プロセラ勢ときっちり分断されてしまった形だ。葵はさてどうしたものかと首を捻る。
(状況が全くわからないけど、動き回るのは危険かな? 呪いの鏡が悪さをしてるなら、良いことが起こるとは到底思えない。何かがあった時に対処が難しいなら、俺たちはじっとしてた方がいいのかも……)
迷子のセオリーで、下手に動き回ったら逆に合流が難しくなるというのもあり、葵は行動を決めかねていた。特に怖がりの二人の腰が重く、動こうとしないのも理由のひとつだった。
呪いの鏡だなんて話を聞いて、挙句の果てに迷い込んだ場所が、ホラーゲームによくありがちなステージと似ているらしい。そう言ってまず恋がビビり倒した。それに釣られて新も一気にパニックとなり、今は部屋の隅でぶるぶると震えている。
「……どうしよう、これ……」
地方ロケやら何やらでしばらく忙しくしていた始が、久々にまともに寮へ帰って来れたのが今日の夜だった。彼はかなり疲れていた様子だったが、帰宅してすぐに、嬉しさを隠しもせずプロセラルームへの階段を駆け上がっていった。勿論その理由はグラビプロセラの間では周知の事実だから、葵はその背中を微笑ましく見送ったのだ。
けれど数分も経たないうちに、始が一切の感情を削ぎ落とした顔で戻ってこれば、何事かと思わない方がおかしいだろう。その硬質な雰囲気に、とてもじゃないがどうしたんですかと声を掛けることはできなかった。隼との間に予想外のアクシデントが起こったことは明白だったからだ。そうして葵は、グラビルームにいた新と恋とで隼を問い詰めに行ったのだ。
誤解ならいい、ただのすれ違いならいい。真実でなければなんだっていい。だからそうであってくれと願いながら向かった隼の部屋の扉は何故か開いていて、少し疑問に思いながらも室内に入れば、やたらと空気の密度みたいなものを感じた。重苦しく、嫌な感じだった。そこで引き返しておけばよかったのだが、三人はそんな冷静な分析ができる心境ではなかったのだ。
さらに奥へと踏み込めば、寝室とは別の扉の前で、隼、それから夜と郁、涙が固まって中を覗き込んでいた。まさか呪いの鏡に呪いを掛けられていただなんて、想像できるわけがない。
そして、そんな状況に対してなんだそうかと安心してしまった自分がちょっと嫌だ。呪いとかいう超常現象なんかよりも、隼と始の仲が壊れたわけじゃなかったことの方が、葵にとってよほど重要だった。いざこざの原因がすべて第三者のせいで良かったと心から思うし、このことを早く始に告げて、安心させてやりたい。今も彼は誤解したまま、傷ついたままだろうから。
(呪いの鏡って第三者って言うのかな……?)
どうでもいいことを考えてしまい、葵は苦笑する。ちらりと部屋の隅を見れば、半分意識を飛ばしかけている新。半泣きの恋。
(なんでこの二人を連れてきたんだろう、俺)
それは勿論、当事者である始以外は、春も駆も寮に居なかったからだ。駆も二人ほどではないとはいえ怖がりだから、ここに居ても正気を保てるかどうかは怪しかったが。
(春さん、俺、頑張ります……!)
春のようになりたい、とかつて思い描いていた。それは今も形を少しずつ変えて葵の中に健在している。誰かから頼りたいと思われる人物に、今の自分は少しはなれただろうか。
唐突に葵の胸へ、過去の出来事が去来する。アイドルになったのは新が居たからで、もし一人だったならどうしていたのかは分からない。あれから数年が経ち、振る舞いも段々と板に付いてきたと思う────と、そこまで回想して、微かに響く鈴のような音に葵は意識を引き戻される。
「待って、これって走馬灯って言わない?」
恋がよく口にする、フラグというやつだ。葵は嫌な予感に身震いした。
「ねえ、ちょっと新ってば。……あ、ダメだ。完全に意識飛んでる。それじゃあ恋」
「な、な、なんですか葵、葵さん……っ」
どもりまくりの恋を何とも言えない顔で見つめて、葵は足音を立てないように二人へと近づいた。この静寂の世界の中で音を立てたら、きっと悪いことが起こる。第六感がそう訴えてきたからだ。
呪いという言葉が出る時点で、ここが安全な場所だとは思わない。こういう場所で頼りになる隼ともはぐれてしまった。
恋の側にしゃがみこみ、葵は小さな声で耳打ちする。
「鈴みたいな音、聞こえない?」
「へっ?」
「しっ! 静かに。あの音、なんだか近づいてくる気がするんだ」
「ヒエッ……むぐっ」
「黙って」
咄嗟に恋の口を片手で塞ぐ。恋は小さくなっていた身体をさらに恐怖で縮こまらせた。その時、部屋の外のごく近い廊下からリン、とはっきり鈴の音が聞こえた。恋が目を見開いて固まる。身体の震えでカチカチと歯がならないように、何とか噛み締めて堪えていた。
和室の壁面にはいくつか窓があるが、それらはすべて障子で閉じられている。外の様子は見えない。葵たちが飛ばされたこの部屋は、出入り口が一箇所だけだ。一度も外に出ていないので、当然そこも障子が閉じられている。
しかしながら、ぼんやりとした光だけは漏れてきていた。それはあの歪な行燈の、不気味な明かりだった。部屋の中にも行燈があるので、葵たちが不用意に立ったりすれば影が揺らめき、部屋の中に人がいることが外からも分かるだろう。
葵は室内の壁に沿って並べられた年代物の箪笥の影に隠れるようにして、なるべく出入り口から見づらい位置に移動する。音を立てないように慎重に新を引きずり、意識の無い彼を物陰に隠してやる。そして自分も恋と一緒に隠れて息を潜めていると、ぼうっとした緑の光がゆっくりと廊下を通っていくのが見えた。
「……ッ」
恋の口を再び手のひらで塞ぎ、さらに押し付ける。震えの止まらない恋は冷や汗でびっしょりだった。迷宮の中を何かが徘徊している。あれは決して良いものではないだろう。葵の直感が、これに見つかってはいけないとアラートを鳴らしてくる。
(これじゃあ本当に、恋が普段怖がりながらやってるホラーゲームみたいだ)
けれどこれは現実だ。異世界だけど、ここにあるのは現実の自分の、本物の身体なのだ。ゲームオーバーになったらなんて考えたくもない。葵もいつの間にか冷や汗を搔いていた。首筋に流れる生温かいものが気持ち悪くて、寒い。
どれだけの時間が経ったのか、気づけば緑の光はとっくに部屋の前を通り過ぎてどこかへと消えていた。怪しい鈴の音も、もうしない。葵が恋から手を離すと、彼は浅い呼吸を繰り返した。心臓がどくどくと音を立てている。
「ここから移動しよう、恋」
「葵さ……、い、移動って、どこへ」
「ひとまず隠れられる場所を探そう。この部屋は出入り口がひとつだけだから、あのうろついてるやつに入ってこられたら逃げ場がない」
「……ッ」
恋は声もなく悲鳴をあげる。
「大丈夫、元凶の鏡は隼さんが何とかしてくれるから。俺たちはそれまでの間、安全な場所で隠れていればいいんだよ。俺はちょっとこの部屋の周りを探索してくるから、恋は新をお願い」
「えっ、葵さんひとりで行くんですか?! 危険ですよ……!」
半泣きの恋が小声で叫ぶ。
「でも、誰かが行かないと。新はあんなふうだし、恋も怖いでしょ? すごく震えてる。それじゃあまともに歩けない。俺なら多少は動けるし、隠れられそうな場所を見つけたらすぐここへ戻ってくるから。もしまた鈴の音が聞こえたら、物音を立てないでこの箪笥の影に隠れてじっとしていて。いいね?」
「わかりました……っ」
見た目に分かるほど足が震えている恋は、立つこともままならないだろう。だからといって、あまり障害物のないこの部屋に留まるのは危険だと思えた。先ほど見逃してもらえたのは、きっと運が良かったのだ。少しでも物音を立てていたら、緑色に光る徘徊者はすぐに室内へ乗り込んできたに違いない。
自分ひとりなら逃げられる可能性はある。けれど当然、葵は新と恋を置き去りにすることなんてできない。そして、対抗する手段もなければ……なんて、想像したくない。
葵は意を決して立ち上がる。出入口の障子を開けるのには、思ったよりも勇気が要った。指が微かに震えていて、それがちっとも収まらない。ホラーは別に苦手でも得意でもないと思っていたけれど、怖いものは怖いんだなと苦笑するしかない。
怖がりなくせにホラーゲームをやりたがる新や恋に何度か付き合っていたけれど、しばらくはやりたくないかなあと思う。それを最後に、葵は思考をすぱっと切り替えた。廊下に出て遠くまで目を凝らしてみる。行燈のおかげである程度の距離までは確認できた。とりあえず今のところは何の気配も感じないし、音もしなかった。足音を忍ばせながら辺りを警戒しつつ、葵はゆっくりと板の上を歩いていく。
「な、何あれ! 何あれ……!」
「魔物……じゃなかったですね。お化けとか、そっち方面な感じ……?」
「そうだね。呪いの鏡が作った恐怖の幻影みたいなもの、だと思う」
「へえ、そうなんだ。……完全なホラー現象なのに、魔物じゃないっていうだけでなんかちょっと安心する自分が嫌だな……あはは……」
「いっくん、怪奇現象も安心するようなものじゃないからね?! 普通の人にとっては魔物とどっこいどっこいだと思うよ? 確かに魔界は魔界で大変だから、気持ちはわかるけど」
鈴の音から離れたと思ったのも束の間、今度は別の方向からその嫌な音色は聞こえてきた。どうやら徘徊者は複数いるらしい。郁と涙、夜の三人は音を避けながら廊下を進んでいく。方向感覚が皆無なので、どちらの方角に進んでいるのかは全く分からない。まるで樹海の中を彷徨っているように方角が狂い、眩暈がしてくる。廊下から繋がっている和室を覗いてみると、どこも最初に見た部屋と内装が同じ雰囲気だったので、余計混乱した。
いくつ目かに探索した部屋で、三人が隠れられそうなほど大きくて古風なクローゼットがあった。安全を確認してから、とりあえずその部屋で休むことにした。しかししばらく腰を落ち着けていたら、また鈴の音が聞こえてきた。夜はクローゼットに隠れようとしたが、郁と涙の二人は何が徘徊しているのかを確認しておこうと言い出し、窓の障子を少し開けて廊下の様子を窺っていたのである。
好奇心を抑えられずにそこへ加わった夜は、自分もやっぱりプロセラの一員なんだなあと妙な実感を沸かせつつ、わずかに開いた窓の外を覗いた。そこで見たものは、ぼんやりと淡い緑色に発光する、甲冑を纏った骸骨だった。
かつて眼球があっただろう虚ろな穴の奥には、緑の炎がゆらりと燃えている。
「…………っ」
叫ばなかった自分を心底褒めてやりたい。好奇心は猫をも殺すというやつだ。
ソレは足を動かして歩いているわけではなく、レールの上を滑るようにして廊下を移動していく。腰に佩いた刀の柄に古ぼけた鈴が巻いてあり、それが鳴っていたようだった。
「とにかくあれは、呪いの鏡に関係してるものなんだよね。それが何なのかわかれば、呪いを解く鍵になるかもしれない」
「そうだね。いっくんの言う通りだ。隼はあの鏡を壊すって言ってたけど、僕は壊すよりも解いた方がいい気がする。なんだろう、僕は隼に、あんまり乱暴な力を振るってほしくないんだ」
涙の言葉に、郁は微笑んで「わかるよ」と同意した。夜も一緒にしっかりと頷く。いくつかの世界へ行って、何度も隼に頼ってきたけれど、強い力は必ずしも人を助けるだけのものにはならないのだ。きっと傷つける方が何倍も多い。そして、力を行使した者も少しづつ壊していく。それを知ったのは何回目の世界だったろう。隼には、デートの惚気話をしている時のふやけた顔の方が、相応しい。
「それなら涙、隼さんが本体を壊すよりも先にどうにかしないと……。でも、どうすればいいんだろ?」
「うん……。あ、ここが呪いの鏡が作った迷宮なら、どこかに拠り所となるものがあるんじゃないかな? 上手く言えないけど、現世に留まるほど執着とか固執とかしている物、みたいな」
「確かにありそうだね。よし、決まりだ。この迷路をちょっと探索しよう。涙がいれば、ある程度は当たりを付けられそうだし」
「そうだね、頑張ろう。いっくん、夜」
ぽんぽんと進んでいく会話に、夜はちょっと疎外感を覚える。年長組が不在の状況で、まとめ役となるのは年中の夜だ。それが二人のテンポの良さに押されてしまい、頷いているだけで終わってしまった気がする。
「郁と涙が本当に頼もしすぎて、俺が一番年上なのに口を挟む隙もなかった……。本当なら俺がしっかりしなきゃいけないのになあ」
「年上か年下なんて関係ありませんよ、夜さん。俺は俺の大切な人たちを、自分の手で守りたいだけですから」
「いっキュン」
会話が止まれば辺りはまた静けさに包まれ、三人は静かにその部屋を出ていく。目指すのは、この迷宮の謎だ。
(本当に忌々しい)
隼はもう溢れ出る怒りを隠しもしない。
プロセラチームとグラビチームを引き離したことで、呪いの主は優位に立てたとでも思っているのだろうか。
「……どけ」
静かなひと言で、こちらへ襲いかかってきた鎧の骸骨は塵となって消えた。それは呪いの主から生まれた憎悪の欠片だ。恨みの相手をズタズタに引き裂いてやりたい、そんな念から生み出され、生ある者を探し、その刀を振り回して追いかけてくる。もっとも隼にとっては、葬っても無限に沸いてくるだけの煩い障害物でしかないが。
仲間たちはさほど遠くに飛ばされたわけではない。細かく分断してくるなんて、あの鏡はよほど用意周到なのか、臆病者のどちらかなのだろう。彼らの気配を探るのは、隼にとっては容易いことだ。助けに行かないのは、プロセラチームには危機を回避できる涙がいて、グラビの方は、葵が上手く立ち回ってくれると信じているからだ。
今は一刻も早く、呪いの本体の元へ行くことが先決だった。あれを壊せば、このくだらない迷宮は跡形もなく消滅する。あの憎たらしい本体ごと、だ。
再び怒りが沸き起こってきて、理性が暴走しがちになるのを感じてはいる。ストッパーになってくれる相方も、今は側にいない。それでも隼は構わなかった。むしろ誰もいないからこそ、醜い部分を曝け出すことができるというものだ。いっそ怒りに流されて、すべてを破壊してやろうかなんて衝動まで浮上してくる。
それほどまでに、始のあの表情が目の裏に焼き付いて隼を苛む。信じてもらえなかった自分が許せなくなる。世界で一番見たくなかったものを、強制されて現実に見せられた、純粋な怒り。
(始、はじめ……!)
今頃、部屋に独りきりでいるのだろう。きっとその表情は曇ったままだ。自分は何故彼を独りにさせているのだろうか。悲しい顔をさせてしまった。恋人になった時、月並みだけれども、彼がずっと微笑んでくれるように守っていきたいと願ったばかりだったのに。あの鏡は、そんなささやかな隼の願いを踏み躙った。
「絶、対、に、許さない」
念を込めて呟けば、廊下の行燈がいくつか弾け飛んだ。ギュオオオ、と悲鳴のような形容しがたい音が鳴る。強い力を持つ呪物は、他の生き物の魂を吸収する性質がある。そうしてエネルギーを取り込むことで、凶悪な呪いへと成長していく。迷宮に点在する異形の行燈は、不幸にも呪いに取り込まれた人間の魂の一部かもしれなかった。けれどそんなことは、最早隼の眼中にはない。
煩わしいこの回廊ごと破壊してやりたいが、本体が逃げる可能性もある。苛々しながらも今は進むしかない。鏡の気配は既に捕捉している。最短距離でそちらへ真っ直ぐに向かっているはずだが、思った以上に道が曲がりくねっていて複雑で、素直に進ませてもらえない。それが隼の苛つきをさらに倍増させていた。
「邪魔をするな」
何体目かの骸骨を消し飛ばし、隼は迷宮の深淵へと進んでいく。妨害をしてくるのは鎧の骸骨だけではない。真っ黒い毒の靄を噴き出すいびつな植物や、地面に沈み込んでいく穢れた泥の海、突然頭上がら襲い掛かる大きな羽虫。底の見えない落とし穴なんていうのもあった。どれもこれも捕まればただでは済まない。だが隼にとってはどれも児戯でしかない。
(この程度の力しか持たないものに、こんな呪いを掛けられるなんて)
一体ずつ壊すのすら面倒になって、隼は辺りを一息に凍らせてしまうことにした。生物も無機物も、靄も泥も、行燈の光さえ、静かな氷の中では等しく眠りに就くだけなのだ。隼がふうっと冷たい息を吐けば、鏡の迷宮はあっという間に氷の城へと姿を変えていく。永久の氷に閉じ込められた骸骨の二つの目が、無機質に隼を映したあと、その灯火を消した。
妨害行為は大した足止めになどならないが、隼はどうやらこの迷宮の一番隅に飛ばされていたようだ。鏡本体の元へ辿り着くにはそれなりの時間を要した。ようやく最後の部屋の扉の前に辿り着く。そこを乱暴に開け放てば、中央部分には黒い靄を纏った鏡が宙に浮いていた。もうどこにも逃げ場がないと悟ったのか、それはカタカタと震えるのみで、隼へ何かをしてくる様子はなかった。
呪いというものは、多くは残酷で強烈な恨みの念から生まれるものだ。この鏡だって最初から呪物だったわけではないだろう。
「君にどれだけ同情すべき過去があろうとも、呪いを行使して始を苦しませたことを、僕は許さない。────人を呪わば穴二つ。君も呪物の端くれなのだから、意味は、わかるよね?」
覚悟を持たぬ者、己が身で代償を支払うがいい。
鏡の前まで歩み寄り、隼は鏡面に向かって手のひらをかざす。その奥に潜む呪いの主の魂を、永遠に溶けない氷塊にするために。
「待ってください、隼さん! 俺は壊すべきじゃないと思います!」
「ストップ、一旦ストップです、隼さん!」
背後から複数の足音が、聞き慣れた声と共に室内へと駆け込んで来る。夜が隼の腰に抱きつき、郁が腕をホールドする。突然のことに隼が呆気に取られて動きを止めたら、少し遅れて涙がもたもたと走って来た。
「はあ、はあっ……、皆、足が速いよ……! じゃなくて、僕もだよ、隼! 確かにこの鏡は隼や始を苦しめた。自分勝手な理由で呪いを掛けたんだと思う。でも、魂を壊したりしたら、そこで終わっちゃうんだよね?」
魂を消滅、もしくは永遠の眠りを与えれば、それはもう二度と回帰することはない。この世界での終わりを意味する。そして隼は、怒りのまま、確かにそれを呪いの主へ与えようとしていた。
「そんなのダメ、だよ。鏡のためを思って言ってるんじゃない。僕たちは隼に、そんなことしてほしくないって思ってるんだ」
思ってもいないことを言われて、隼は目を見開く。
「そうですよ! きちんと説明すれば、きっと始さんはわかってくれます。隼さんがあんな心無いことを言う人じゃないってこと、ちゃんと知ってくれてますから! この迷宮を出たら、俺たちも一緒に行って説明しますから安心してください! 俺と涙だって、言わされたとはいえあんな酷いこと言ったんですから、しっかり謝りに行きたいです! だから、こんな意地悪な呪いのために、隼さんが力を振るうなんてことしなくてもいいんですよ!」
「涙、夜……」
相手を害する力は、たとえ守るために使うのであっても使用者の心を穢していく。それは隼も十分に理解している。自分がそうやって穢れを溜め、壊れていく世界だって存在しているのだから。今いるこの世界は平和で、そんな危機感を持ったことはあまりないから、ともすれば感情のままに動いてしまいそうになる。これはもっと怖いものなのだと、自分は忘れてはいけないのだ。
「とりあえず呪いを解きましょう! 隼さんは正攻法で掛けられた呪いって言ってましたよね。それなら正攻法で解除できるのがお約束ってものですから! さあ、鏡。お前が本当に求めてるのは、これなんだろ?」
「郁、何を……っ」
隼の腕を抱えたまま、郁は手の中に握っていた、古ぼけているが美しい意匠の鈴を、鏡面へと押しつけた。
その瞬間、迷宮全体から地鳴りのような音が鳴り響き、大きく揺れる。
「うわっ」
「涙、俺に掴まって!」
「いっくん……!」
鏡の持ち手に結ばれていた鈴が揺れて、澄んだ音が鳴り響いた。
見る見るうちに錆が消えて、本来の美しい姿を取り戻す。それは、郁が持っていた鈴と対を成す見事な意匠だった。
「これは……」
「隼さん、この鏡はこれを探してたんですよ。もう一度会いたいって、そう思ってたんです」
急速に邪気が払われていく。隼の心を縛っていた黒い塊が、ふわりふわりと解けて体外へと出て行くのが見えた。対の鈴の音が反響して響き合う。美しく澄んだ音色は、穢れた迷宮と共に鏡をありし日の姿へと戻していく。リーン、リーンとまるで求め合うように鳴り響いていた音は次第に小さくなっていき、鏡の持ち手へと二つ仲良く収まった。
鏡面は磨かれた直後のような美しさだ。全体的にくすんでいた鏡は、鮮やかな真紅へと変わっていた。これが本来の姿なのだろう。年代物であることには変わりないが、細やかに彫られたレリーフが大層素晴らしい。持ち手に巻かれた二つの鈴と相まって、神聖な雰囲気を醸し出していた。
「この鏡の持ち主は、不幸にも引き裂かれた大切な人を探していた。詳細は長くなっちゃうから省きますが、傷心のまま長い年月を経るうちに、鏡に映る恋人や夫婦のような、縁で繋がれた者に嫉妬するようになったみたいです。まあありがちな話と言えばそんな感じなんですけど、探し物がハッキリしてるっていうのは助かりました」
隼を離してホッとした顔で笑う郁へ、同じく隼から離れた夜も苦笑した。
「俺たちの目的が明確になるからね。とは言っても、この迷宮内にそれがあるかどうかは賭けだったんですけど……。大切な物って、心の奥のどこかへしまい込んで鍵を掛けたせいで、本人が忘れちゃうことって意外とあるじゃないですか。どこか忘れ去られた部屋にぽつんとあったりしないかなー、なんて思いまして。探索は涙の感知能力に頼りっきりでしたけど」
「皆が原因と対策を考えてくれたから、僕は探すことに専念できたんだよ。プロセラの皆の勝利、だね」
「ここにいない海さんや陽も?」
「きっと心の中で応援してくれてたよ」
「あはは、そうかもね」
「…………」
ふと気づけば、部屋の窓はすべて開け放たれていた。そこから見える青空は澄んだ湖面のように美しかった。目の前には、陽の光を浴びて鮮やかな色彩を煌めかせる手鏡が浮いている。
もうどこにも黒い影なんて見当たらない。隼がそっと手鏡の持ち手を握ると、浮力を失って微かな重みが隼の手の中にかかった。辺りの景色がふわりと滲み、この迷宮が消失していくのを感じる。あの行燈に宿った魂も、解放されて緑色の軌跡を残しながら天上へと登っていった。
「……適わないな」
隼はつい目先の怒りに囚われて、盲目になってしまっていた。
プロセラの仲間が隼のことをいつだって思ってくれているのはもう知っていたつもりでいたのに、言葉にしないと思い出せないことがあるのだな、と反省する。
(大切すぎてしまい込んで、逆に忘れてしまうもの……)
夜の言葉を頭の中で反芻する。とても重大なことを教えられた気分だった。
スッと肩の力を抜けば、呼吸がひどく楽になる。怒りのあまり、緊張で身体が固くなっていた。視界も狭くなっていたらしく、隼は改めて三人へと振り返り、確認するようにそれぞれの顔を眺めた。彼らは皆一様にやり切ったという満足げな表情をして、褒めてくれと言わんばかりにキラキラと隼を見返してくる。思わず笑ってしまった。
「皆、頑張ってくれてありがとう。……さあ帰ろうか、僕たちの世界へ」
「そうですね! 帰ったらまずは始さんのところへ行きましょう!」
「わあ、この和室って明るいところで見るととっても綺麗な造りをしてるね」
「本当だね。欄間のところとか、すごく凝った造りになってる。真っ暗だと怖い感じだったけど、こうして見ると素敵な和室だね。でも俺は、やっぱりプロセラルームが安心するなあ……」
あはは、と笑った夜に、郁と涙が同意する。
「誤解が解けたらゆっくりお茶しましょう。この前、春さんからリラックスできるハーブティーをもらったんだよね」
「それはいいですね」
「春がくれるハーブティーはいつも美味しいから、嬉しいな」
「うん。皆で飲もう。大冒険だったから、さすがにちょっと疲れちゃったし」
最後にリーンと清らかな鈴の音が遠くで鳴り、景色が白く霞んでいく。次に目を開けた時は、隼の倉庫部屋にいた。
郁と涙が片付けてくれたので、ダンボール箱がすっきりと整理された状態で積まれている。その向こう側に、ブルブルと震える恋と意識がなさそうな新、それを庇うようにしていた葵の姿が見えた。
「あれ……? 元の世界に戻れた……?」
「ほ、本当ですか!? もう大丈夫なんですか? 怖いゲームは攻略できたんですかあああ?!」
「……うーん、これは夢、これは夢……」
パニックになる現場に、夜と郁がうわあ、という顔をする。
「葵、大丈夫だった?」
「夜! 俺たちの方はなんとか。隠れられる場所を探して皆でじっとしてたんだ。そっちは……、大丈夫そうだね。良かった」
「葵さん、この状態の二人を匿っていただなんてすごいです……。俺ならちょっと挫けそうかも。特に新さん……」
「葵、お疲れさま。これから始に状況を説明したあと、皆でお茶会をするんだ」
涙はそこでちらりと時計を見て、現在時刻を確認する。深夜に差し掛かっていたので、あまり長い間のんびりとはできないだろう。そこそこの時間、迷宮に閉じ込められていたらしい。
こちらの世界に戻ってくる際に、飛ばされた時から実は時間が経過していなかったなんていうご都合主義にはならないらしい。何とも世知辛い。明日のスケジュールを思い浮かべて、涙は少しだけ肩を落とす。
「時間がちょっと遅いけど、明日の予定が大丈夫なら皆も一緒にどう?」
「わあ、ありがとう! 俺も結構疲れちゃったから、是非ご相伴にあずかりたいな。新と恋も落ち着かせたいし。それに、そっちに何があったのかもちゃんと聞きたいしね」
「よし、決まりだね。じゃあ隼さん、始さんのところへ行きましょうか。……ええと、隼さんの方は大丈夫ですか?」
夜に話を振られて、隼は我に返る。色々と思うところがあって、ぼんやりとしてしまった。
「心配かけてごめんね、夜。僕は大丈夫。……それから、始のところへは一人で行きたいんだ。皆は一足先にお茶会をしててくれるかな?」
「わかりました。それならプロセラルームでとびっきりのお茶を入れて待ってますね」
「ちょっと待って夜、隼はそのまま帰ってこない場合もあるよ」
「え、……あっ、そうか、ハイ。だ、ダイジョウブデス。こちらのことは気にせず、ゆっくりしてきてください!」
言葉の意味を理解した夜が、若干頬を赤くして、片言みたいなイントネーションで返事をした。
恋人という関係の変化は、周りにも変化をもたらすものだということを、実感する。
「皆、ありがとう。まずは始に、大切なことを伝えてこないとね」
「大丈夫ですよ、隼さん。仮に何かあった場合は遠慮なく戻って来てください。そしたら第一回始さん対策会議を招集しますから」
笑う郁の隣でうんうんと涙が頷き、葵も「その時は俺も混ざろうかな」と笑っていた。
もう一度ありがとう、と礼を言うと、隼は恋人と会うために自室をあとにした。
ep.
「始……!」
「早かったな、隼。カタは着いたのか?」
へっ? と疑問符を浮かべた顔は、かなり間抜けだったのだろう。始はくすくすと笑いながら、何事もなかったかのように隼を自室へと迎え入れた。
自分の部屋を出てエレベーターを待つ間も、乗っている間も、降りてから始の部屋の前まで歩く間も。未知のブルーホールへ命綱無しでダイブするくらいの決意を抱えてここへやって来た隼は、当の始の対応に拍子抜けした。
ソファを勧められ、やや呆然とした隼が言われるがままに座ると、始はお茶を淹れてきてくれた。隼が好きな銘柄だった。馥郁たる紅茶の香りが漂う。それで隼は、少しだけ落ち着くことができた。
「悪かったな」
「……君が、謝ることなんて」
隼の向かいに座った始が突然謝罪する。それへ再びパニックになりかけたところを、始が制する。
「さっきは極度の寝不足で頭が回らなかったんだ。何しろ前日もその前も、ろくに寝れてなかった……というのはまあ、言い訳だよな。俺の自己管理不足だ。よく考えなくてもお前の様子はおかしかったし、郁や涙も普通じゃなかった」
「言い訳だなんて、そんな……」
「部屋に戻って少し寝たら頭がスッキリして、状況が何となく把握できた。だからお前が来るのを待ってた。よくよく思い返してみれば、いつものお前のうるさい気配もずっとしてたしな?」
返す言葉も見つからなくなった隼へ、始は悪戯が成功したみたいに、小首を傾げてフッと笑った。「何があったか、教えてくれるんだろ?」と魅惑的に囁かれれば、当然そのことを話すつもりであった隼は、堰を切ったように語り始めた。
「というわけでこの鏡、君が許せないと言うなら、今この場でやっぱり破壊しよう」
顛末を語り始めれば、やはり当初の怒りが振り返してきてしまう。どんな事情であれ、始が分かってくれたとしても、あんな顔をさせたのは事実だったからだ。一番見たくない、望まないものを見せつけられる悲しみ、理不尽、屈辱。それらは容易く再燃した。それというのも、全部始に関わることだからだ。こればかりは隼にもどうしようもなく、感情の制御なんて利くはずもなかった。
握られた赤い鏡がガタガタと一人でに震え出す。それは隼にしっかりと持ち手を握られているので、隼がわざと震わせているわけではないのは一目瞭然だ。意志を持つ鏡だというのは、疑うべくもなく伝わるだろう。
あまりの震え方に不憫に思えたのか、始はなんとも言えない顔をして、鏡と隼を交互に見た。
「いや、そこまでしなくていい。もう何も問題はないんだろ? 大丈夫だ。夜たちの活躍も無駄にできないしな」
鏡の震えが少しだけ収まった。まだ微かにカタカタと震えていたので、「お前は一体、そいつをどんな目に遭わせたんだよ」と、始が鏡へ同情の視線を向けた。
そこで事件の話が終わり、不意に沈黙が訪れる。深夜の恋人の部屋でお茶を飲むというのは胸が騒ぐ。デートはこの前の時が正真正銘の初めてで、恋人らしいことはほとんどまだしていない。そういうつもりで手を握るだけで、心臓が爆発してしまいそうになるのだ。
ひどく喉が渇いて、紅茶をお代わりしようとしたら、始が笑いながらもう一杯淹れてくれた。琥珀色の水面に映る自分の顔は、緊張で変なふうに固まっている。それを掻き消すように砂糖を入れてやり、とどめとばかりにスプーンで掻き混ぜる。そんな隼の一連の動きを面白そうに眺めていた始が、そっと口を開いた。
「でもさっきは、ちょっと心にきたな」
ドキッとして、隼は動きを止めた。何を言われるのか、知りたいけどそれ以上に怖い。
「恋人になってみて、イメージと違ったと思われたのかって。そんなふうに考えて、一瞬自信なくした。二週間もほぼ音信不通にしてたのは事実だし」
反射的にソファから腰を浮かしかける。あやうく紅茶を零すところだった。それは全くの見当違いだと叫びたくなる。
「お仕事は仕方ないよ! 君が仕事を大事にしてることは知っているし、僕も同じ仕事をしているわけだから、その辺りの事情に駄々を捏ねたりはしないさ。実際にロケや撮影が立て込んでると時間がとにかく分刻みだし、メッセージすら送る気力もなくなることってあるからね」
「……お前が仕事に関してまともなことを言うと、なんだかちょっとくすぐったく感じるな」
「君のためなら正論もお手のものさ。それに、イメージが違うなんてこと一生あり得ないよ。僕の理想はいつだって、現実の君なのだからね」
「そこは俺にはちょっと理解できない感覚だ。お前はアイドルとリアルを混同しているわけでもないのに、アイドルの俺も好きで、現実の俺も理想だと言う。自分で言うのもなんだが、全然違うと思うぞ?」
そこで始は言葉を切ってから、感慨深げに隼を見つめた。
「……でも、お前がそう言うなら、信じる」
「僕を信じて! アイドル始とリアル始で推しが一粒で二度美味しいだなんて、僕だけの特権だからね! だから今回みたいなことがあったら、いつでも殴って問い質してくれればいいんだよ!」
鼻息荒く詰め寄れば、始は若干引いた。
「俺がDV常連みたいな言い方するな。人聞きが悪い」
「アンクロはご褒美です!」
「……馬鹿」
始は立ち上がると、隼の方へゆっくりと歩いて来る。二人掛けのソファの真ん中に座っていた隼を端に押しやり、空いたスペースに身体を捩じ込ませてくる。身体が密着して、隼はヒエッと小さな悲鳴を上げた。
強引かつ突然の接触にはまだ慣れていないのだ。けれどそんな隼を気にも留めず、始は隼の方を向いて片手で肩を抱き寄せ、もう片方の手で隼の顎を捕らえた。
あっと思った瞬間、温かな熱が唇へ落ちる。
「んっ」
ちゅっと音を立てて一度。それから続け様に何度も唇を合わせてくる。
「……あっ、ちょ、始……ん、んっ……、待っ……」
驚きのせいで硬直していた身体が、熱に包まれて次第にほどけてくる。隼は自然に始の背中へ両腕を回し、しっかりと抱き返した。
「ふ、……んぅ、」
主導権は彼に任せ、与えられるものをひとつも逃さないように受け取る。
お互いの息が軽く上がり、始はそこでようやく唇を離す。すぐに口づけられるような位置に留まり、そっと囁いた。
「だけど、あんなのはもうごめんだ。これっきりにしてくれよ?」
隼、と愛おしさを溢れさせて呼ぶ吐息。胸がぎりぎりと痛むのと同時に、この上ない喜びが脳を占拠した。勿論、誓って、もう二度と。どれも言葉にすれば空虚でうわべだけだ。だから隼は、今度はこちらから口づけをする。何度も何度も、唇が腫れて痛んでも構わないとばかりに唇を合わせた。深くない口づけは、逆に表面だけだからこそ物足りず、欲求が収まることを知らない。この焦がれる想いを、今日のことを、絶対に忘れないようにしたいと思う。
完結させてしまったら、きっと心の奥底に大事にしまって、しまったことを忘れてしまいそうな気がしたから。未完成でいることが、この先も一緒に居られるということなのだ。だから隼は、不完全で構わない。
始が二回目に淹れてくれた紅茶はまだカップの中に残っていて、冷めてしまっただろう。でもそれでいい。足りないと思うことが必要なのだ。何度でも、彼に紅茶をねだってしまっても許されるのだ。
ソファの上で抱き合って、唇の表面を触れさせるだけの口づけを、二人でしばらくの間分けあった。この夜、隼が夜たちと合流することはなかった。
「あーーー! 鏡が僕を誘惑する!」
「なんですか誘惑って」
あれからさらに一週間後、仕分けしたダンボール箱を運び出すために郁と涙がまた隼の手伝いをしてくれていた。もうすぐ榊がやってくるので、箱を台車に乗せて寮のエントランスまで運んでいる最中だった。それなりに量があるので、何往復か必要だ。
例の鏡は元の箱に入れられ、封印はされることなく倉庫部屋に置かれていた。
「だって、夜中に僕の目の前に現れて、始の姿を覗かせてくれるんだ……。遠く離れてる場所でも、自由自在に見えるんだよ。僕は普段から、始が寮の部屋で寝返りを打ったとかは感覚でわかるんだけどね、さすがに姿がはっきりとは見えないから。誘惑以外の何者でもないよね!」
「ちょっとなんですかそれ。立派なストーカーじゃないですか。やめてください! あと寝返りが感覚でわかるとか意味不明ですし、日常的にそれってさすがに怖いです! ホラーよりゾッとしました! リーダーが犯罪者になるとか俺は嫌ですよ!」
ドン引きした郁の隣で、涙がうんうんと同意する。
「誤解しないでいっくん、涙! 僕はそんなこと望んでないよ?! 鏡が勝手に見せてくるんだもん! しかも始と会えない日を狙って!」
「でも鏡がなくても寝返りはわかるんですよね……?」
注がれる胡乱な視線に、隼は精一杯曇りのない笑顔を向けてみたが、効果はなかったようだ。郁は一層不信感を強めた。本気で引かれると、それはそれで少しは傷つく。
「隼が見たくないなら、見なければいいんじゃないの?」
もっともな涙の意見に、隼はちょっと考え込む。一応持っている世間体と、始への愛を天秤にかけてみたものの、最初から全く勝負になんてならなかった。推しがすべて、推しこそ命なのだ。
「見たいか見たくないかと言われれば……、見たいです!」
「あ、ダメだこの人」
「始に覗きがバレる前に封印しちゃう?」
「え、隼さんごと?」
その後鏡の箱は、郁によって丁重に実家行きのダンボールの中へと詰め込まれた。実家へ運ばれてしまえば、隼の前に現れることもなくなるだろう。
鏡にとっては謝罪の意を込めた行為だったのかもしれないが、隼にとっては普通に呪われるよりもこちらの方が、もっとダメージが大きかった。そうこうしているとやがて榊がやって来て、名残惜しくも運ばれていく箱を眺めながら、隼は郁たちと一緒にプロセラルームへと戻った。スマホを確認するが、始からの通知はない。今日も忙しいのだろう。
けれど寂しい時は、あの不完全な夜を思い出すのだ。それだけで、今度こそはと未来への期待が湧き上がってくる。
「さて、やっと倉庫部屋の片付けが終わりましたね」
「いっくん、完了記念パーティーしよう。僕、食べたいものがあるんだけど」
「いいね、涙。隼さんの奢りで頼んじゃおう! 隼さんはどれにします?」
呼ばれて苦笑しながら彼らの元へ行く。
今日は仕事で不在の夜や、あの時巻き込んでしまった葵たちにも改めて謝罪しないといけないなと思いながら、隼は郁が見せてくれたスマホ画面のメニューを眺めた。