そこにあるもの
「しゅ、……」
いつものように隣へと呼びかけて、そこに見慣れた姿がないことに驚いてしまう。始は目を見開いたまま数秒固まり、海の呼ぶ声で我に返る。すまない、と返してすぐに次の動作へと移った。
思えば隼が不在のライブなんて初めての経験だ。出演できない事情は無論知っているし、本人からもすまなさそうにプロセラの皆をよろしくね、と伝えられていた。隼の代理である海率いるプロセラと共に、始たちグラビはとあるフェスのゲスト出演をしていた。二日間だけのそのイベントに、隼は別の仕事のスケジュールとの兼ね合いでどうしても都合がつかなかった。
長く活動していればそういうこともあるし、基本的には先の仕事が優先だ。しかし隼だけがいないという事実。それを頭では理解していたつもりなのに、心では受け止めきれてはいなかったようだ。
普段なら気にするまでもなく隣にある当たり前の気配。それがいつもそこにあって当然と思っていた自分に、いささかの衝撃を覚える。あるはずのものがない空間は、ぽっかりと穴が空いているようだ。
始はいつだって先頭に立ち、背中に続いてくれる者たちを引っ張ってきた。先頭にいるのが当然で、後に引くことなんて考えたこともない。先の見えない前方へひとり突き進んで行くのだって怖くはない。平気だった、はずなのに。
(さみしい、なんて……)
年齢を重ねて、性格が穏やかになった自覚はある。それでもひとりでどこへでも行けると思っていたし、怖くもないと信じていた。
始、とやわらかに響く呼び声。始を思ってくれる声だが、相方のものとはまた違う。それが聞こえないことにひどく心細さを覚えた。
視野が急速に狭まり、足元がおぼつかなくなる。気持ちが悪くなってくる。ぐらつきかけたところを相方の腕に支えられた。
「始、大丈夫? 気分が悪いなら少し休もうか?」
「……いや、問題ない。リハはきちんとこなしておきたい」
「わかったよ。でも無理はしないで。何かあればすぐに俺に言って」
「ああ」
その返事、信用出来ないなあと相方に苦笑される。どうして始が不調を覚えるのか、聡い春には検討がついているのだろう。心配げな表情のなかにニヤニヤ笑いを含ませてきたので、軽く小突いてやった。
プロセラのメンバーたちは海の指示の元、よく動いていた。ある意味生死が絡んだトラブルで鍛えられ続けてきた彼らは、リーダーが不在でも己のやらねばならないことを理解し、テキパキと動けるらしい。
海の存在も大きいが、細やかなアシストをしてくれる陽の存在もまた、大きい。彼は表面上は軽いように見えるが、人の面倒を見るのが得意で気配りも素晴らしい。それゆえにリーダーに散々振り回されて余計に鍛えられてしまった。そんな感想を伝えたら憤死しそうではあるが、彼はとても優しい性格なのだ。
いいチームだな、と始は微笑む。勿論グラビのメンバーだって、始がいなくとも道を見失って惑ったりはしないだろう。迷いながらも、最善を尽くしてくれる。それに、ここには春もいる。
そこまで考えて、始はふと我に返る。今この状況で一番動揺しているのは、もしや自分なのではないかと愕然とする。こんなではいけない。隼の分も、リーダーとして立ち振る舞わなければ。
隼とは別に今生の別れをしたわけではない。行ってくるね、と名残惜しそうに両手を握られながら挨拶を受けたのは、ついこの前だ。帰宅予定だってちゃんと聞いている。
だけど、でも、ここにいない。
何故だ、と理性の奥に隠れた心が暴れだしかけている。
隣を見る。いない。いないのに、また見てしまう。そこにいるはずなのに。どうして隣にいてくれないんだ?
ああ、穴が空いている。
再び気持ち悪くなり、吐き気のようなものが込み上げる。本番のステージの上でそんな醜態を晒すわけには断じていかない。何とか表情を取り繕い、始は一曲踊りきる。首筋から流れる汗に寒気を覚えた。
自分たちの出番はトリなので、これでイベントも無事終了だ。肩の力が抜けた時、また気持ち悪さが込み上げてきて嘔吐いてしまう。
まずい。今の動作はカメラに映らなかっただろうか?
咄嗟に腕で顔を隠したが、体調を管理できない己に苛立った。
プロ失格だと思うのに、あいつがいないせいだと責任転嫁してしまう。そうだ、隼が悪い。いないのが悪い。始と一緒にこの景色を見て、一緒に笑ってくれないのが一番悪い。
眉根を寄せた時、どこかで鐘の音が鳴った気がした。
ああ、世界がまたひとつ始まる。そんなことを自然に考えてしまった直後(我ながら毒されていると思ったが)、聞こえるはずのない声が頭上から降ってきた。
「おやおや、本番中に物思いかな? 黒の王様」
────こんなの、聞いてない。
幻聴かと思ったが、ハッキリとこの耳に届いた。観客からどよめきの声が起こる。
ちらりと相方を見遣れば、心配げな視線とともに苦笑を寄越してきた。確信犯だ。今度は反対側にいた海を見る。イタズラが成功した顔をしていた。あとでシメようと思う。
こんなサプライズ、聞いてない!
「……遅いぞ、隼」
文句の色を乗せて答えれば、彼はおまたせ、ギリギリで間に合ったねと優しい声音で笑った。
全身の強ばりが解けて、呼吸が楽になる。息が詰まるほど緊張していたのだと認識する。
お前がいなくては終われない、と唇だけで告げる。姿を現した隼は軽く目を見開いたあと、ゆっくりと微笑んだ。
それを目にした瞬間、身体が震えた。胃の奥から迫り上がるものがある。今度は吐き気なんかじゃなくて、もっと喉を熱くさせるものだ。
嬉しくて口元がにやけそうになるのを必死で堪えながら、始は喉奥を焼く激情を飲み込もうと必死になる。歯を噛み締めていないと声をあげて泣きたくなる。嬉しい時、人間はこんなにも泣きたくなるものなのだと知った。
終わらなくては、始まらないのだ。
手を伸ばせば届く。触れる。アンコール曲が始まる。これも聞いていなかったが、最早そんなことはどうでもいい。これから始まるのだ。
隼に近づくところで彼の手を掴む。触って、そこにいることを確認する。さっき同じ曲を踊った時、そこは空っぽだった。
だけど今は違う。求める姿がそこにある。もう空じゃない。確かなものがそこにある。隣にいる。
視線が合う。始の姿が彼の瞳に映る。
もしかして、もう二度とひとりでは歩き出せないかもしれない。でもそれでいいとさえ思う。
先頭をひとりきりで突っ切るのには少々疲れてしまった。だから、隣を歩く人と歩を合わせて進むのだっていいだろう。それは決して逃げることじゃない。何故なら、一緒に歩いてくれる人がいるのだから。
合わさった手のひらが熱い。
離れ難い。いっそこのまま、と思えるほどに。離したくない。だからもうどこにも行かせないなんて口にしたら、隼はどんな顔をするのだろうか。
甘やかな夢の中にいる。
夢うつつのまま傍らに来た隼を抱きしめたら、観客席からきゃあという悲鳴が上がって始はハッと我に返った。しまった、やってしまったと慌てて離れたら、今度は隼から抱きしめられた。再び観客席から悲鳴が上がる。
あとで何を書かれるんだろうかと冷や汗を落としながら隼を見ると、彼は穏やかな顔で始だけを見ていた。
抱きしめてキスしたい、なんて欲求が急に湧いてきて、今度こそ始は慌てて隼を離した。本番でそんなことをしたらなんて、考えるだけでも恐ろしい。
やがて曲が終わる。隣に求めていた気配を感じて、始は胸がいっぱいに満たされる感覚に包まれる。いつもライブ後に感じる充足感だ。自然と笑みが零れる。
この夢が醒めたら、もう一度隼に触れたいと思った。