夏は合法 バタンと身も蓋もなくドアが開けられる音に、僕は思わず吹き出してしまった。
今日は格別に暑かったから、彼がこの部屋へ来ることは勿論想定済み。シーツも抜かりなく洗濯済みだし、スペシャルな来客を迎え入れる準備はバッチリだ。いそいそとベッドの隣を空けていると、寝室のドアが無遠慮に開かれた。
「…………暑い」
「いらっしゃい、始! 今日はまた一段と暑かったよねえ」
バッと両腕を上げてウェルカムと叫べば、怠そうな様子を隠しもしない始はよろよろとこちらへ歩いてくる。広げた僕の腕の中に……なんてことは当然にないのが残念なのだけど、彼は遠慮なくベッドの上に上がってくる。持参した枕を僕が空けたスペースに置くと、横になってふうっと息を吐いた。
夏の茹だるような暑さで火照った身体に、ひんやりとしたシーツが気持ち良いのだろう。無意識に擦り寄る仕草をするのが何とも野生の動物っぽくて、僕の胸はキュンと鳴く。
「うっ、可愛い……」
スマホのカメラを構えなかった僕を、どうか褒めてほしい。これでも分別の付く大人なのだけどね。この習性ばかりは仕方ないんだ。
僕の葛藤を知らず、すぐに穏やかな寝息に変わった始は、しっかりと目を閉じたままそれ以上動く気配はなかった。会話も特にないまま眠ってしまった彼に、物足りないとは思うけれど、それ以上に僕は満足感を得るんだ。
毎年恒例行事なのに、始ときたら熱帯夜が訪れる最初の夜は、他人行儀な態度でこの部屋へやって来る。もし良ければ、邪魔じゃなければだなんて、君は一体、何年僕と一緒に寝てると思っているのだろう。
でもそんな遠慮は最初の二、三回だけで、酷暑が進み、暑い夜が本格化すれば跡形もなく終わる。四の五の言う余裕もなくなれば、始はさっきみたいに問答無用で当たり前のようにこの部屋に来て、当然の権利だとばかりに僕の空けた空間に入ってくる。
そんな変化がとても好ましく思うし、そういった態度に至る始の心情を想像するのも、僕にとっては楽しくて仕方なかった。
これは密かな僕の楽しみで、誰にも話してないことだ。始と二人の秘密の時間を、海にすら話す気にはなれなかった。
おやすみの挨拶もなく意識を落とした始に、とても親密な空気を感じる。自然と口角が上がるのを、僕は止められない。
「おやすみ、始。良い夢を」
「ん……」
タイミングの良い吐息にまた笑って、僕も布団の中へ潜る。夏場は上掛けとして、肌あたりの良いガーゼケットを使っている。いつだったか夜が勧めてくれた物で、洗濯する度に触り心地が柔らかくなり、肌になじんで寝心地の良さがアップしていくという物だ。
自分が快適なのも勿論、きっと始にとっても快適なはずだと思って購入してみた。サイズはダブルだから、二人で使用しても問題ない大きさだ。あとは。
「枕、だよねえ」
始は毎回枕を持参してくる。彼はどこでも寝られるので、その枕じゃないと眠れないわけではないだろう。この部屋に客用枕がないと思って持ってきているのかと思っていたけれど、どうやらそういうわけではないみたいだ。理由は何なのか、何故かなんとなく聞けなかった。
僕が始のために用意した枕はちゃんとあって、今もクローゼットで出番を待っている。ずっと前に、始が好きそうなふわふわの羽根まくらを選んで購入したものだ。
始のことを考えながら選ぶのは楽しかった。しかも始が僕と一緒に寝てくれる時に使う枕だなんて考えたら叫び出したくなって、買い物に付き合ってくれていた海に若干白い目で見られたけど、それも良い思い出だ。
あとはこれの出番が来て、その時思い描いていたアレコレが現実になってくれたらいいのにね。
推しと一緒に寝るのも凄いけど、推しの為に買った枕で推しが寝てくれるって凄いことじゃない?
「……ん」
「はっ、いけない。妄想から帰って来れないところだった。そろそろ寝ないといけないね」
寝返りを打った始の声で我に返り、僕は今度こそ目を閉じた。
眠る始と僕の間は一人分くらい空いている。残念ながら始の温度を感じる距離ではないけれど、存在はしっかりと感じられる。何よりも秘密を零すようなかすかな吐息が、彼がそこにいるのだと、この上なくしっかりと僕に伝えてくれる。だけど。
もう少し近づけたなら。
これ以上、君が近づいてくれるなら。
(僕は……)
「しゅん、隼くーん!」
「んー……、もうちょっとだけ……始ぇ……大好き……」
「起きろーーー!!」
小声で怒鳴るという器用な海の声が聞こえた瞬間、身体に浮遊感を感じた。
「わあっ」
包まっていたガーゼケットを引っペがされて、僕はごろんとベッドから落ちた。
「ひどいよ海、こんなに大きなベッドなのにわざわざ床へ落とすなんて。せめてベッドの上で転がして……!」
しゃがみこんでぶつけた頭を撫でながら、僕が涙目で海へ講義すると、海は黙ったまま親指でベッドの上を指した。
「うん……?」
ひょいっと頭を持ち上げてベッドの上を見て、僕は絶叫しそうになる口を自分の両手で抑え、全力で堪えた。
「はっ、はじ……!」
何時もなら僕なんかより数段早起きの始は、珍しくまだそこで寝ていた。しかも枕元に僕がいつも置いている紫の巨大ウサをしっかりと抱いて、口を開けて無防備に。
腹の奥底から猛烈な萌えが湧き上がってきて、床でごろごろと転がりたくなるのを抑えていると、海が苦笑した。
「始のやつ、あんまり気持ち良さそうに寝てるからこのまま寝かしといてやろうぜ。春から連絡あって、午前中いっぱいは休みだから、疲れてそうなら快適な部屋で寝かせてやってほしいってさ」
「ふむふむ、なるほど。でもその件と海が僕を床に落とすのと、どう関係があるのかな?」
じろりと抗議の視線を向けると、海はハハッと悪びれもなく笑った。
「いやー、それな。ここに来た時な、なんかちょっと雰囲気っていうか、どうしようこれ、みたいな気分にさせられてな?」
「どうしようこれ、というフワッとした疑問で相方に床へ投げられる僕! 可哀想!」
言われている意味がちょっとわからなかったけど、反射的に嘘泣きをしたら、海がごめんごめんと言いながら僕を起こしてくれた。
ここまで小声でやりとりをしていたけれど始は起きる気配もなく、本当に疲れているらしかった。
「守りたい、この寝顔。だけど僕はこれから仕事なんだ……! 傍にいられない僕を許して、始……!」
「はいはい、君は大人しくお仕事行きましょうねー」
名残惜しく始を眺める僕を、海が引きずって行く。
紫ウサを抱いて寝る始は可愛すぎてちょっと召されそうになったけれど、それ以上に代わりに僕を、なんて思ってしまった。
ウサより僕の方がひんやりとしつつも温かいから気持ちいいよ、とか。こんなこと、口に出したら海になんて言われるんだろうね。
後ろ髪引かれる思いで僕は部屋を出て行く。
仕事へ行って帰る頃には、勿論始の姿はないのだ。
「暑…………」
最早「暑い」と送り仮名すら付けられないくらい、この猛暑にやられてしまったらしい。
本日の最高気温は三十九度。ちなみに送迎の車の温度表示は四十三度だったと海が言っていた。ついでに言うと、僕が車に乗る時は車もろとも一瞬で冷えるので、そんな数値は実際に見たことがない。
前回、始が来てから二日後。
ひどく怠そうに寝室の扉を開けて入ってきたと思ったら、彼は半分意識を飛ばしているみたいな危なっかしい足取りで、案の定よろけた。
「危ない、始!」
自分の瞬発力を総動員して、僕は倒れかけた始を支える。触れた身体が熱い。そう思っていると、始が僕の背中に腕を回して、しっかりと抱きついてきた。
「涼しい……」
変な体勢で抱き合ったまま、お互い無言。
僕はひとことも発せなくて、ただ固まっていた。どきどきと高鳴る鼓動は、意識が朦朧としている始には意味を持って伝わらないはずだ。
「ん、あれ……?」
始の両腕が僕の背に巻き付いている。そこであることをふと思う。ということは、だ。
「始、枕はどうしたの?」
「枕…………? 忘れた……」
何気ないひとことに、どきんと大きく心臓が鳴った。だって、それって。
多分意図して忘れてきたわけじゃないんだ。あまりにも茹だりすぎて、思考が飛んでいただけ。それでも、これは千載一遇のチャンスだった。僕の望みが叶うという点において。
「とりあえずベッドに行こうか、始。シーツもちゃんと洗ってあるよ」
「……もうちょっと涼みたい。お前の身体、冷たくて気持ちいい……」
離さないっていう意思表示なのか、背中に回った腕に力を込められて、ヒェッと僕の喉から悲鳴が漏れた。何これ。僕は明日生きていられるのだろうか?
再び固まってしまったけれど、いつまでも突っ立っているわけにもいかないし、明日の仕事のためにも寝ないといけない。僕は始を優しく促して、ベッドの上へどうにか彼を寝転がすことに成功した。
ぽっかり空いた枕のスペース。
ごくんと喉を鳴らして、僕はクローゼットから枕を取り出してきた。
「始、枕はこれを使って?」
彼の頭部を軽く持ち上げて枕を敷いてやれば、始はそこに頬を擦り寄せた。
「ふわふわ……」
きゅんと胸が高鳴る。思い描いていた景色がそこにあって、脳がその光景を留めようとしっかり覚醒する。物覚えが得意な僕の頭脳は、一枚の写真のように鮮明にこの場を記憶するだろう。
既にまともな受け答えができなさそうな始は、うとうととしてすぐに眠りに落ちてしまいそうだ。会話がないことはやっぱり少し寂しく感じるのだけれど、僕は決してこの空気が嫌なわけじゃないんだ。
「僕の方は眠れなさそう……」
しっかり覚醒してしまって、眠気なんて微塵も感じない。一晩中、僕の用意した枕に埋もれて眠る始を眺めていたい。人間の中で一番強い欲求である眠りよりも、もっと強い欲だった。
(僕にとっては、始より大事なことなんてない)
よく始本人に伝えている言葉だけれど、彼が本気にしたことは一度もない。はいはいと苦笑して冗談で済ます。だけど満更でもなさそうな顔をしているのを、彼自身はきっと気づいていない。
ベッドの上に座ったまま始を見下ろす。どんな夢を見ているのだろう。髪や頬に触れてみたら、その夢の一端を共有できるのだろうか。
「触るのはダメ」
何事にも、一線というものがあるのを知っている。それは無闇に侵してはならない領分だ。始が僕をどこまで許してくれているのかは、彼にしかわからないことだ。僕が感じたくても、確かめたくても、一方的な感情で求めてはいけない。
ふとやった視線の先に紫のウサが鎮座していたので、僕はなんとなくそれをベッドの上からどけて、別の場所に置いておく。
前回始に抱きしめられていたことに嫉妬しているわけじゃないし、ウサをどけたからといって自分が代わりになれると思っているわけでもない。
ほんの僅かな可能性が、だなんて。こう考えること自体、どうかしてるよね。
いつものように横になり、大判のガーゼケットを始と自分に掛ける。布団の中で同じ空間にいる親密さに、身体の芯が震えるような感覚がある。喜び、嬉しさ、幸せ、どれでもあってどれとも違うような気がする。言葉にするなら切なさ、が近いのかもしれない。
始の方だって、僕の隣で寝ることに少なからず特別感や親近感を抱いていることは知っている。でもそれ以上のことは、知らない。
(もっと知りたい)
知っているようで知らない人。始のことを、もっと教えて欲しい。
「ん……、しゅん」
「始? 起こしちゃったかな、ごめんね」
始がごろんと寝返りを打ち、僕の方を向いたと思ったらぱかりと目を開けた。眠そうな瞳はすぐに閉じてしまいそうだったけど、彼はしっかりと僕を見た。
手を伸ばすのがやけにゆっくりと見える。
最初は僕の腕、そこから遡って肩に辿り着くと、始はやや強引に自分の方へ僕を引っ張ろうとした。寝かけていた身体に力が入らなかったのか、思うように動かなかったらしいことに顔を顰めて、今度は始の方から僕の傍に寄ってきた。
視界いっぱいに広がる大好きな顔、流れる黒い髪。耳元で聞こえる少し乱れた息遣い。それから背中に回る、腕。
始は僕が彼のために誂えた枕なんて通り越して、今は僕の枕の上で僕と一緒に埋まっている。
(……何事なの?!)
広いベッドの上、二人の間にはいつも一人分の空間が空いている。なのに今は、僕のスペースだけで二人ギュッと密着している。
「やっぱりお前は、冷たくて気持ちいいな」
ふふっと耳元で笑う吐息が擽ったい。
無意識に抱き返そうとした腕を一瞬止めたら、始がまるで促すように、更に強く抱きしめてくる。前回、紫ウサが抱きしめられていた現場が脳裏に浮かんだ。あのウサが、今は僕で。
イメージのすげ替えに成功したら、現実感が溢れ出す。始の方から僕に近づいてくれるのなら。
両腕を伸ばして始の背中を抱く。首元に頬を擦り寄せたら始がまた笑った。
いいの、とかそんなこと、怖すぎて訊けなかった。だけど僕が始に触れることを、彼は拒否しなかった。このままでは境界を一歩超えてしまう。
でも、始が連れて行ってくれるなら戻れなくてもいい。
「……始、そんなに暑いの?」
「ん。今日は撮影が外だった」
「そっか。芯まで熱くなっちゃった?」
「身体中の水分が全部出たかと思った」
「それは大変だったね。春や奏がいるから、熱中症対策は万全だと思うけど」
「自分で言うのもなんだが、今日はよく頑張った」
得意げに言う声が甘えてくるようで、脳髄に蕩けて響く。機嫌よく喉を鳴らして笑うのも、ここだけの睦言だ。
「うん、頑張ったね。 ……じゃあ、そんな君にご褒美をあげないと」
「……何をくれるんだ?」
「ひんやりと心地良い、朝まで快適に眠れるベッド」
「それならもう貰ってるが? ……あ、」
くすくす笑う始を仰向けに転がして、その上に覆い被さった。僕を見上げる目に嫌悪の色はなくて、むしろこれから始まることをワクワクと待っている。
「君が気持ちよく眠れるように、もっと深いところまで冷やしてあげるね?」
顔を近づけたら始はちょっとだけ驚いた顔をしたけど、すぐに目を閉じた。だから僕も目を閉じる。
枕を持ってこなかったこと、今日が特別に暑かったこと。いろいろな要因が偶然に重なったのでも構わない。夏の夜が明けるまでの、短い夢でもいい。明確な感情は、まだ言葉にできなくてもいい。
背中に回る腕の温度を、もっと確かめたいと思った。