合法おかわり
お互いの鼻先がくっつきそうなところで、隼は異変を察知した。自分の背中には確かな両腕の感覚がある。それなのに、真下から感じる気配は。
「寝てる……?」
規則正しい呼吸は寝ている人のそれで、始は目を閉じて穏やかに胸を上下させていた。
(えええぇぇぇぇ…………っ?!)
始の上に覆い被さったまま、隼は固まった。
「いやいやいや、ねぇ、ちょっと待って。さすがにこのタイミングで寝ることってありますか? 僕的にはないと思います! それとも僕の方がいつの間にか寝てたのかな? 途中から夢に切り替わってた、もしくはそもそも最初が夢で、今覚めたという悲しい可能性が……?」
痛む頭で状況を整理しても、自分がどこで間違えたのか全く理解できない。普通からは逸脱しすぎた事態に、自分こそが非常識なのかと悩み始める始末だ。
寝息を零す唇との距離は本当にあとわずか。だが、相手の意識もないのに勝手に触れることなんてできやしない。相手が始なら、始だからこそ、隼にはなおさら無理だ。
一連の流れが急展開だったから、ベッドサイドの照明はまだ室内をやわらかく照らしているままだ。そんな中で間近で見る端正な顔には、日頃の疲れからかくっきりとクマが見えた。
始は相変わらず忙しい毎日の中、猛暑にあえぎながら頑張っている。それを労りたいと思ったらふっと肩の力が抜けて、仕方ないなと隼は苦笑した。
名残惜しく思いつつ、背中に回っていた始の腕を解いて、そっと身体の両脇に添えてやる。彼は隼の枕に頭を沈ませて、すやすやと気持ち良さそうに眠っている。
「枕、チャンスだと思ったらまさか僕の枕で寝てくれるオチだなんて。君といると何が起こるのか全く予想が付かなくて、たまに心臓にもの凄く悪いよ」
勿論始を起こす気はない。ならばと隼は、始のために用意した枕で自分が寝ようと、空いているスペースの方へ移動した。いつもと場所が左右逆で、見える景色が少しだけ異なるのが新鮮だ。一人分の空間を空けて寝ようとしたら、始の腕が何かを探すように彷徨った。
「どうしたの?」
始に問いかけても、意識が戻ってきたわけではないらしい。返答はない。やがてその手が隼の腕を探し当てると、やんわりと握った。
そこで、始は涼を求めているのだなと思い至る。今日の暑さがよほど応えたのだろう。ひんやりとした部屋にいてもなお、冷たさが欲しいようだ。
もっと冷やしてあげると言ったことを思い出して、どうしようかと隼は悩む。ご褒美をあげると戯れで口にしたけれど、半分以上は本気だった。無論、始が応じてくれるのが大前提だったのだが。
「まだ暑いのかなあ。寝苦しそうには見えないけれど。……あ、そうだ」
快適な睡眠というキーワードで、隼はつい最近ロケをしたヘッドスパを思い出す。頭のマッサージは非常に高いリラックス効果をもたらし、自律神経に良い影響を及ぼす。そして、施術中に自然と眠ってしまうくらいに気持ちが良い。
海と一緒に受けて、彼と同じタイミングでぐっすり寝落ちしたので、相方同士息がピッタリですねと微笑ましく見守られた。あれはなかなかに至福の時間だった。
始は仰向けで寝ているので頭部は無理だけど、腕や足ならいいだろう。頭だけでなく、手足へのマッサージもそれなりに効果がある。
「ちょっと失礼」
隼を捕まえていた始の手を逆に取り、手のひらを上に向けると、人差し指と親指の間にあるツボを押してやる。
「確かこんな感じだったかな」
以前体験したあれこれを思い出しながら、手のひらから前腕部、それから上腕部、肩へと丁寧に揉みほぐしていくと、始はたまに痛みを感じるのか顔をしかめて息を吐く。しかしその間も目を覚ます気配はない。
「始の肩、ものすごく凝ってない? 人間の肩ってこんなに硬いものだったかなあ」
隼は肩こりとは無縁なので分からないが、海のそれとは随分感触が違う気がする。元々の筋肉の付き方も違うから、比べるのも間違っている気はするが。
「ん…………」
肩と首元の辺りを指で解していたら、不意に始が両腕を持ち上げ、バンザイをするような形で両手を頭上に上げた。
腕の内側もやってくれ、とリクエストされたみたいに思えて、隼はどきりとする。けれどすぐにそんな邪念を追い払う。
「バンザイ寝って確か、肩こりの酷い人が無意識に取るポーズだったよね。やっぱり肩こりが酷いのかな?」
そんな色気もへったくれもない無駄知識を知っていた隼は、始が少しでも楽になれるようにと黙々と肩周りのマッサージを続けていく。
「仰向けの人の肩って押しにくいなあ。でも体勢を変えさせたらさすがに起きちゃうよねえ」
両肩、両腕を一通り終わらせる頃には、始はつま先を伸ばして、全身で伸びをしているような体勢になっていた。少しはリラックスに貢献できたらしい。それを見て、隼の脳裏につい先日見たヤマトの姿が重なる。
涙が不在で部屋が暑かったらしく、彼はプロセラの共有ルームにやってきて、冷えた床の部分に横たわり伸びをするように寝ていた。背中を反らせて手足をピンとさせ、お腹を丸出した姿は野性味が皆無だ。猫は液体だの吸うものだのとSNSで言われていたのを思い出して、微笑ましくなった。
「始はやっぱりネコ科だね」
リラックスして伸びながらだらりと寝ている。隼の寝床で、隼の枕に陣取って、無防備に腕やお腹を見せて。
そっと手を伸ばして、服の上から薄く上下する腹を撫でた。温かい。しばらくそのままでいても、彼からの反応は特にない。ヤマトもああいう状態の時には、お腹の毛をまさぐっても怒ったり嫌がったりはしない。逆にもっとと要求されるくらいだ。
またどきどきと心臓が鳴り始める。隼は焦るような気持ちで、もう少しだけ大胆に腹部を撫でる。始の寝息に変化はない。それなのに始がそこにいるだけで、隼の感情は大きく揺さぶられ、振り切れてしまう。
よくもまあ毎年、ほぼ毎晩だなんて、自分は彼の隣で冷静に寝られたものだ。それを今さら、本当に今さら、隼はしみじみと思ってしまった。同じベッドで、同じ布団で一緒に寝るだなんて、よく考えなくても異常事態でしかないのに。
始がここで寝ることを望んだから、深く考えないように、わざと思考停止していた。そんな自分への誤魔化しが、効力を失いかけている。
「……十分に冷えたかな? それともまだ、ご褒美が足りない?」
触るのはダメ。駄目だったのに、始が許すような素振りを見せるからいけない。あんな態度をしておいて受け入れるつもりがなかったなんて、寝ぼけていたなんて、そんなのは言い訳だ。
間違いだろうがなんだろうが、一度でも彼が許してくれるなら、手を取ってくれるなら、朝まで確かめたいと隼は熱望していたのだから。
始が履いているスウェットパンツは生地が少し厚めで、その厚みに阻まれて腹部のまろみをちゃんと感じられない。それを物足りなく思う。少しだけ逡巡したあと、隼はウエストの紐に指先を引っ掛けて解いてしまう。
緩んだ隙間からそろりと手を差し入れて、今度は下着の上からふわりと腹を撫でる。生々しい体温と、呼吸と連動して上下する動きをしっかりと感じ取れて、満足する。撫でていた親指の先が臍の窪みに引っかかって、足元からじわりと痺れるような感覚に陥った。
高揚した気分に押され、指先を立ててそこを擽るようにしたら、抗議のような呻きが始の口から漏れた。そこで隼は我に返って、何をしているんだと焦る。一方的にこんなふうにするのはただの乱暴だ。
慌てすぎて、不埒な手はそのままに始の顔を見れば、うっすらと開かれた瞳と視線が合う。あ、終わったかも、と隼の脳内で言い訳がぐるぐると回り始める。
床に沈められるだけで許されるだろうか、と思っていると、始の手のひらがイタズラをしていた隼の手に重ねられた。
「あっ……、はじ、」
「……くすぐるのはやめろ。触るなら、もうちょっとしっかり、撫で……」
「え、しっかり、何て……?!」
「…………」
思わぬ反応に隼がパニックになっていると、始はまた沈黙した。緊張がピークに達した頭で彼の様子を確認するも、再び目を閉じて寝息を立てている。どこから見ても完全に寝ていた。
「……ですよね!」
脱力して力なく笑う。気まぐれなネコ科にもほどがある、という文句は脳内だけに留めておく。
「今度は、……君の意識がある時に、撫でさせてよ」
暑さで意識が朦朧としていない夜に。夏というボーナスタイムが終わったあとに。
何でもない日常の延長線上で。
それを、許してほしい。
「身体が何だかスッキリしてるな……。特に肩がやたらと楽だ」
「それは良かった! 君が寝てる間に、僕が全身全霊を込めてマッサージさせていただきました!」
翌朝、始より先に隼が起きていたことに始はまず驚き、隼の言葉に二度驚いていた。
「それは、……ありがとう。最近凝り気味だとは思っていたんだが、暑さのせいで運動もろくに出来てなかったんだ」
「素人の僕が触ってもガチガチだったからね。見様見真似でやってみたのだけど、効果があったのなら何よりだよ。君にご褒美をあげると言ったしね?」
「あぁ、言ってたな。何をくれるのかとちょっと驚いた」
くすりと笑う始は、寝入り端の言葉までは覚えていないらしい。隼は結局寝れなくて、本当に一晩中始の寝顔を眺めてしまった。ちなみに寝不足はチートで処理済みなので、このあとの仕事に差し支えることはない。
「昨夜は本当に辛かったから、挨拶もろくにせず寝落ちして悪かったな」
「ううん、気にしてないよ。そんなことくらいで遠慮して、君がここへ来なくなる方が嫌だしね?」
「そうなのか? まだ暑さは続くみたいだから、俺としてはもうしばらく世話になる予定なんだが」
「それは嬉しいなあ。いっそ毎晩来てくれてもいいし、季節が変わって秋になっても冬になっても、この先ずーっと来てくれていいんだよ? 冬だってこの部屋は、暖房いらずの程よい温かさだからね」
冗談交じりに言えば、始はふっと笑った。
「冬は冬で魅力的なお誘いだな。確かに俺は暖房もそんなに得意じゃない。冷房ほどでもないが。……でも今日は、本当に調子がいいな」
ベッドから降り、うんと伸びをする始を見て、隼は昨夜の始を思い出す。ベッドの中で無防備に両手両足を投げ出して、隼に触れられても目を覚まさなかった彼。それが隼にだけ見せる姿ならいいのに、と思う。
「さて、と。そろそろ行くか。昨夜もありがとな、隼」
「どういたしまして、だよ」
隼はベッドの上に座ったまま、寝室を出て行く始を見送る。すると始はドアを開けたところで立ち止まり、隼を振り返った。
「そういえばお前、腹をくすぐるのはやめろ」
「……!」
不意打ちで言葉に詰まる。彼はしっかり覚えていたらしい。お腹弱いんだね、なんて咄嗟に茶化すこともできなかった。
「撫でるなら、もう少し手のひらに力を入れてくれ。じゃないと、くすぐったくて無意識に回し蹴りしそうになる。寝ぼけてる時はさすがに手加減できそうにないしな?」
じゃあまた、と言って今度こそ出ていく背中を呆然と隼は見つめた。物騒な理由に笑いそうになりながらも、頬には熱が上がって、痛いほど心臓が鳴った。
冷気を呼ぶのは得意だが、熱の方はあんまり自信がない。だけど。
────早く、早く次の熱帯夜よ、来い!