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    しおり
    リライタブルコネクション
     呼ばれている。煩いほどに自分の名を。
    「……ん」
     寝起きのぼやっとした頭は上手く回らない。
     けれど聴覚というものは閉じられないので、どんな時でも、それこそ寝ている時にだって音は耳に入ってくる。
     始はここ数日の間泊まり込んでいるホテルのベッドの上で、ごろりと身体を転がした。
     厚手の遮光カーテンのわずかな隙間から、冬の朝日が差し込んでいる。ゆっくりした動作で時計を確認する。針は朝の七時を差していた。
     次におもむろに手を伸ばした先はスマホだった。充電器に繋がれたそれは、画面に触れれば様々な通知が表示された。
     指で億劫そうに大量の通知を弾き飛ばしながら、目的のものを探したが見つからない。始が寮を出て泊まり込みを始めてから、これまで一度もなかったのだ。きっとよほどの事件でも起こらない限り、始のスマホに求めている通知が現れることはないたろう。
    「くそ……」
     眉をしかめて、悪態をついて舌打ちした。
     始が待っているもの。それは、毎晩始を必死で呼ぶ声の持ち主からの連絡だった。

     最初は幻聴だと思っていた。
     疲れているんだなと苦笑しつつ、声の主をぼんやり思い浮かべたりしていた。普段に名前を呼ばれる頻度としては春が最多だろうし、その次はグラビのメンバーにマネージャーの月城といった具合だ。
     けれど声の主──隼は、ひとたび会えば、はじめはじめと何度も何度も連呼する。感情豊かなその声がいつまでも耳に残り、ふとした瞬間こだまする。そんなわけで呼び声を思い出す頻度としては、彼の声が一番多いのだろう。
     ここ最近は快適な睡眠を貪るために、隼の寝室へ入り浸ることも多い。いつの間にか始用の枕が用意されていて、だから自分はいつだって堂々と来ていいのだと受け止めた。
     エアコン無しで快適に寝られる部屋。流れる空気のあまりの心地良さ。至上の楽園、なんて言うと大袈裟かもしれない。だけれども人工の風が本当に苦手な始にとっては、心底ありがたい素晴らしすぎる環境だったのだ。
     とはいえどんなに環境が良くても、他人と同じベッドの中で眠るなんて最初は考えたこともなかった。他人がいると眠れないなんていう繊細な精神は持ち合わせてないが、寮に入るなら相部屋は嫌だと思う程度には独りでいたいと思う派だ。そしてそれは、今でも概ね変わっていない。
     隣に彼がいても安心してぐっすり寝られることに気づいたのは、いつの頃だったろう。日中は何かと騒がしく、始を前にすればそれこそけたたましく何かの呪文のような言葉を唱えまくる不思議な存在、それが隼だ。ところがそんな彼は、夜の静寂の中では昼間とはまるで別人だった。
     静かな部屋の空気に溶け込んで、月のようにささやかな明かりを灯す。そんな存在だったから、歌うような声でおやすみの祝詞を唱えられれば、始は嫌なこともすべて忘れて穏やかな眠りに就けるのだ。
     あの部屋で眠ることがあまりにも日常で、春だってもう「またなの」なんて言わなくなった。
     ゆっくり寝れて良かったね、顔色がいいよ。
     大事な相方から微笑みながらそんなふうに言われて、ああ、自分にとってここが居心地の良い場所なんだなとはっきりと認識した。
     クローゼットに自分用の枕があると知った時、手に入れたと思ったのだ。その場所はもう自分のもので、誰にも譲りたくないだなんて、そんな執着を持ったのは初めてだった。
     たまにホラー映画やゲームを見て逃げ込んでくる新や恋の姿もあったが、始は無意識にではあったが隼の隣は譲らなかった。大抵は隼を挟んで横になり(ちなみに隼のベッドは背の高い成人男性が三人寝転んでも落ちることはなかった)、隼本人は「グラビサンドだなんて、豪華だね!」と喜んでいた。
     無邪気なそれに、少しだけ不満な気持ちが沸き起こることが不思議だった。隼が不在の時に新や恋が始を頼って部屋にやって来た時は、迎え入れてシングルベッドでぎゅうぎゅうになって寝ることもある。たまに彼らとそうやって一緒に眠るのも、決して嫌いじゃない。彼らから無条件に頼られるのは、もう随分と大人になって久しい今でも変わらずに嬉しい。
     だから単純にリーダーである自分を、メンバーに真っ先に頼ってもらえないことに対して不満を覚えていたのだと考えていた。始が自室にいなかったので彼らが隼の部屋に来たという説もあるが、そこはそれである。
     そんなこんなで、それほど寝心地の良い場所にしばしの別れを告げた始が、近場である都内のホテルに連泊しているのにはちゃんと理由がある。隼と距離を取りたかったとかいう理由では当然なく、純粋に今回の舞台に集中したかったからだ。
     クリスマスの夜と翌日の、二日間だけの特別な舞台。座長の舞台俳優としての四十周年記念公演となる、ファンとの交流を兼ねた大舞台だったのだ。その座長は昔から何かと始を気にかけてくれた相手で、役者としてのいろいろなことを学ばせてもらった、尊敬する相手だ。
    「始くん、僕たちと一緒に盛り上げてくれないかな? 最高に楽しい夜にしたいんだ」
     直に会ってその話を持ち掛けられた時、彼は大層機嫌が良くて、豪快に肩を叩かれた。驚くような構想をあれこれと練っていて、とにかく楽しくて仕方ない。そういった彼の雰囲気に、始は眩しさを感じた。自分もいくつになっても夢や遊びに夢中になれる人生を送りたいなんて思って、マネージャーに確認もせず、二つ返事をしていた。
     追い込みの期間は寮へ戻る数分すら惜しくて、稽古場であるスタジオのすぐ前のビジネスホテルに滞在したのだ。それだけ熱意を込めていた。
     そしていよいよ本番は明日ということになり、クリスマスイブの今夜は稽古が早めに終わった。ゆっくり寝て明日に備えろという座長の命だ。
     夕食のあとホテルへと戻ろうとした始の耳へ、普段は寝ている時にしか聞こえない、いつもの名を呼ぶ声が聞こえた。
     少し考えてから、始はつま先をツキノ寮へと向ける。ここから寮までは交通機関を使えば三十分強といったところだろう。本番を前に、気になっていた相手に直接会って、憂いを晴らしておくのは良いかもしれない。
    「久々に顔も見たい……か」
     最後に寮で彼を見たのは、駆の誕生日の時だったはずだ。それも少しばかりの時間だった。そんなことを思い出した途端、わずかに寂しさが芽生えた。
    「そもそもそんなに呼ぶくせに、あいつは何で電話もメッセージのひとつも寄越さないんだ」
     名を呼ばれるだけというのはじれったく、どこか切ない気分にもさせる。呼び声は情熱的というわけではなく、静かな夜に始を呼ぶ、歌うような優しい音色だった。それなのにどこかしら切実な響きで、必死さも感じられるのだ。
     噛み合わない二つの音色が、やわらかく始へとまとわりつく。もどかしくはさせるが、焦りや不安を感じさせるものではなかったので、隼自身に何かしらの不都合なことが起きているわけではないのだろう。そんなことがあれば即、海から連絡が入るはずだ。
     だから心配はしていないが、そんな声音で毎晩囁かれていたら変な気分にもなってくる。眠りに落ちる時に優しい声を聞いて、熟睡できたのもまた事実だが。
     呼んでいるくせに具体的なアクションはなくて、そのちぐはぐさが居心地を悪くさせる。稽古に影響が及んだりしない程度とはいえ、それなりに気になっていた。だから区切りをつけるには絶好のタイミングだった。
     何よりも始の方が、隼に会いたくなったのだ。寝入りばなにずっと名を呼ばれ、彼のことを考えていたら、ふと顔を見たくなった。会いたくなった。
     どこの恋愛ドラマなのかと苦笑しつつ、毎晩一方通行の強制電波を送ってくる相手へ文句を言ってやろうと、始は寮への道程を急いだ。


    「……なんだ、あれは」
     思わずつっけんどんに呟いてしまったが、誰もが始の心境に同意してくれるに違いない。
     見慣れたはずのツキノ寮の外観が、おかしなことになっていた。三階の角部屋──プロセラルームがあるはずの場所が、真っ黒なペンキでもぶちまけられたかのように真っ黒に染まっている。染まったというよりは、筆で塗り潰されたという表現の方が近いような気もする。
     始の見ている景色が一枚の絵だとしたら、プロセラルームの辺りへうっかりインクが垂れ落ちてしまったのだろう。しかし今目にしているものは立体物であり、建物の壁だけが塗られているならまだ理解できるが、何もない空間にまで黒インクがはみ出している。
     冬の日はとっくに沈んでいて、空は元々暗くはあったのだが、光を吸収するようなその漆黒は異様に目立っていた。
    「…………」
     何とも形容し難い光景だが、明らかに異常事態だ。
     辺りの路上を見回してみても、寮の周りは普段から人気が少ない静かな住宅地だ。通り過ぎる人も見当たらず、あれが目の錯覚かどうかがいまいち判断できずにいた。
     始は気を取り直して、とりあえず裏口から建物内へ入る。いつものルートを通って螺旋階段へ足を掛けた時、ぶわりと全身の毛が逆立つのを感じた。足元から頭上へ電気が走り抜けたような感覚だ。
     だが、異常ではあるが危機感はさほど感じなかった。皆無というわけではないが、まあ問題はない。自分でも自分の適当な直感になんだそれ、と思ったものの、とにかくまずは異変の中心地へ足を向ける。目指すは三階のプロセラルームだ。
    「誰かいるのか……?」
     室内は真っ暗で、人の気配はするのに返事がない。寝るにはさすがにまだ早い時間だ。室内へ入り照明を点けた始は、フロアの上に無造作に横たわっている六人と、仰向けで惜しげもなく豊満な腹を見せている黒い兎を見つけた。
    「黒田まで……。何があった? おい隼、目を覚ませ」
     一番事情に詳しそうな隼の元に駆け寄った始は、まず彼の状態を確認した。呼吸は穏やかで苦しそうな表情もない。体温だって正常だ。見た目だけならぐっすり楽しい夢の中、といった雰囲気だ。
     何度か揺すっても起きないのは生来の寝起きの悪さのせいなのか、何か別の要因が絡んでいるのか判別できない。隼を起こすことを諦めた始は一旦彼から離れ、黒田、新、葵、涙、郁と順番に触れてみたが、反応らしい反応はない。最後に陽を抱え起こして揺すってみたら、彼はううん……と唸り声を出したあと、パカッと目を開けた。
    「陽、大丈夫か?」
     幾分安堵した始が何があったのかと口を開きかけたところへ、酷く驚いた様子の陽が、顔面を真っ青にして始の腕の中から逃げるように飛び退った。まるで山の中で猛獣と遭遇したかのような反応だった。
     その反応に少し傷ついていると、彼は「スミマセンでしたー!」と叫び、何故か始へ向かって土下座を始めたのだ。
    「始さん、ホントに心からスミマセンでした……っ!」
     呆気にとられる始へ、彼は更に畳みかけるように謝罪を繰り返した。流れるような一連の土下座に、グループのメンバーはリーダーに似るものなのだろうか、などとどうでもいいことが頭をよぎった。
    「お前に謝られることなんてなかったと思うが、一体何があった? それにこの状況は」
    「まさか始さんからキスしてって言われるとか思わなくて、これもゲームの進行に必要なのかと思って流れに乗っただけなんですよ! いや、ホントに! 多分クリアしてエンディングまで行かないと、あの世界から脱出できないやつかなーって考えて。俺も早く脱出したくて色々試してみてたっていうか、異世界に長居して良かったことなんてないですしね!」
    「何?」
     わけの分からないことをまくし立てられて首を捻ったが、そんな中でも色々とスルーできない言葉があったのを、始は聞き逃さなかった。
     自分が、彼に何をしたと?
    「もちろん本物の始さんじゃないっていうのは絶対的に確信してたんですけど、あの始さんの手練手管がなかなか凄くて、こんな時こんな表情するんだなって勉強になるというか、つい見入っちゃいましたスミマセン……!」
     パニックになっている陽を、始は地の底を這うような声で黙らせる。
    「……陽」
    「はっ、ハイ……ッ!」
    「その話、詳しく聞かせてもらおうか?」
     仁王立ちになり、顔を上げた陽を正面から射抜けば、彼は顔面を更に蒼白にしてこくこくと頷いた。



    「えっとまあ、こんなわけで」
     陽から事件の発端からあらましまでを聞いた始は、眉間を指先で揉みほぐしながらため息をついた。
    「何をやってるんだあいつらは……」
     とはいえ陽は自分が牢に入れられて、意識を飛ばしたあとのことは分からない。牢には隼以外の仲間が全員揃っていたので、最終的には隼が解決したのだろうとの推測だった。
     どういうわけか、隼は始と瓜二つの外見の、同じ口調で喋るおもちゃを作って遊んでいたらしい。
     電話の一本も寄越さなかった相手は、自分の自由にできるお人形に夢中だったというわけだ。しかも陽の話を聞く限り、健全な遊びとは到底言えなさそうである。
     こんな状況でなければ、自分を模してモデリングされたキャラクターを見てみたいという興味は沸いた。自分が人からどのように見られているのか、客観的に観察できるいい機会だからだ。自分が自分を第三者の立ち位置から見ることができるなんてなかなかないし、役者としては非常に興味をそそられた。
     しかし、弟分を誘惑するのは見過ごせないし、そんなシーンを想像すると果てしなく目眩がする。どうしたものかと思っていたら、背後から唸り声が聞こえた。
    「う、うーん……」
    「新? 目が覚めたのか?」
    「お、やっと起きたみたいだな」
     微動だにしなかったメンバーたちが、ようやく目を覚まし始めた。
    「あれ? ここは……俺たち無事に元のプロセラルームに帰って来れたのか。……始さん? 本物……ですよね」
     始を見て微妙な表情を浮かべた新に、始は何となく状況を察してまた目眩がした。新は何をされたのだろう。訊いてみたいが、陽の話で既にお腹いっぱいになっている。これ以上は胃もたれを起こしそうだ。
    「身体は大丈夫か?」
    「あっはい、何ともないです。ってうわ、もうこんな時間。葵くん、おーい! 起きろー」
    「んん……もふもふ可愛い……えっ?!」
    「葵くんおはよう。もふもふパラダイスから帰って来れた感じ?」
    「おはようって新、皆は無事……あ、始さん……!」
    「…………」
     まさかの葵にまで微妙な顔で見られ、頭痛がしてくる。この分だと、問題のキャラクターはここにいる全員に何かしらしたのだろう。案の定目覚めた郁にも困った顔で見られ、唯一いつもと変わらない態度の涙がいてくれて良かったと心底思う。
     目覚めた黒田にご飯をねだられたので、始は現実逃避気味に、プロセラルームのキッチンから確保してきた野菜を与えてやる。黒田がここにいるのは珍しいが、新と葵に着いてきたのだろう。野菜を食べ終えた黒田は満足したのか、隼が寝かせられているソファの陰でまた眠り始めた。
    「黒田……? 下に戻らないのか?」
    「黒田も隼を心配してくれてるのかな」
     涙の声に、始はソファの上へ視線を移した。
     隼は何度呼んでも目を覚まさなかった。陽が、床に転がってたら邪魔、と言いながら目覚めない隼をソファの上へ丁寧に運んだ。郁が毛布を掛けてやり、涙が心配そうにその顔を覗き込んでいる。
     なかなか目を覚まさないのは確かに心配だが、始がこの寮に戻ってきた時に嫌な雰囲気は感じなかった。だからそのうち起きるだろうと始は様子を見ることにして、コタツに入っていた新と葵の元へと合流した。
    「心配ですね、隼さん。俺たちは先にゲームオーバーになってたっぽいし、隼さん一人でクリアしてくれたってことだよな」
    「確かに。あのあと何があったんだろう」
     それぞれに何が起こったのか訊くべきか否かを始が悩んでいた時、ソファの陰で寝ている黒田の後ろ側からガサガサと音が聞こえた。
    「幽霊?!」
     びくりと身を震わせて始の後ろに隠れる新へ、葵が半眼になる。
    「そんなわけないでしょ……って、ダンボール! ディアブロ?!」
     きらきらと目を輝かせてガタンと勢い良く立ち上がった葵に、始は何事かと驚く。普段はどちらかといえばおっとり気味な彼が、周囲を顧みずに慌ただしい行動を取るのは珍しい。動くダンボール箱の姿は確かに久々に見た気がするが、そこまで喜ぶなんて、一体彼に何があったのだろう。
     ばっと駆け寄った葵に、ダンボールはちょっと驚いたように止まった。葵はしゃがみ込むと、ダンボールを抱えるようにする。
    「ディアブロ、お礼が遅くなっちゃったんだけど、この前はありがとうね。魔カピツアーのパンフレット、とっても助かったよ。君のお陰で素敵な子に出会えたよ。本当にありがとう……!」
     なるほど、と始は納得する。葵の律儀で丁寧な性格は昔から変わらない。微笑ましい光景を見守っていると、新があー、とため息とも唸りともつかぬ声を上げた。
    「あれ? ダンボール箱が結構へこんで汚れてる……。どうしたの? あっ、もしかして長旅の宅配から戻ってきたところなのかな。そうだ、ちょうどいいみかん箱があったから持ってくるよ。ディアブロにピッタリなサイズだと思うからちょっと待っててくれる?」
     早口で楽しげにまくしたてる様子に、どこかの誰かを彷彿とさせられた。何やら空気の変わった葵の雰囲気に、始は首を傾げる。バタバタと足音を鳴らして階下へ走り去っていく葵の背中を見送った新が、また「ああ」と息を吐く。
    「長旅の宅配って。それにしても葵くん、ダンボールからダンボールへ引越しするところを見せてほしいとか言い出しそう」
     ディアブロが箱から出てくるところを想像して、始の第六感がそれは駄目だと拒否反応を起こす。
    「……我慢するように言ってくれ」
    「あ、やっぱり本当に地球パッカーンとかするんです?」
    「背筋に悪寒が走った」
    「始さんが嫌な予感をキャッチするならやめといた方が無難ですね。実は俺もやめとけって思ってます。知らないことは知らないままの方がいいこともありますよね」
    「あ、ああ……」
     いやに冷静な新と、どこか暴走気味な葵。普段とは真逆の二人だ。より一層経緯が気になったが、新の言うとおり、無闇に首を突っ込むのは良くない。始は忍耐力を総動員して口を閉じた。
     みかんのダンボール箱を抱えて楽しそうに戻ってきた葵との間でまた一悶着あったのだが、箱の引越しも無事に終わったところでようやく渦中の人物が目を覚ましたのであった。


     
     久々に見た顔は普段と変わらず、まるで毎晩呼ばれていた声が幻聴だったと思えるほど、彼の態度は普通だった。隼のことを延々と考えていた自分が急に恥ずかしくなった。幻聴が聞こえるほど実は疲れが溜まっていただなんて、恥ずかしすぎる。
     それなのに、不健全な遊びをひとしきり叱ったあと。
     後頭部を引き寄せられて至近距離で目が合った時、彼はとても直向きな顔をしていた。信頼や親愛を感じる真っ直ぐな視線に心が騒ぐ。金緑の目に自分の姿が映って、ぼやけたと思ったら唇の上に温度を感じた。
     彼の手のひらの温度はやけに冷たくて、ああ、やっぱり呼ばれていたんだと始は確信する。いつもと変わらなく見えるだなんて、本気でそう思ったのなら自分の目はとんでもなく節穴だ。隼はそういうことを隠すのが上手いけれど、分からないはずがない。始は、ちゃんと触れるまで自分の気のせいだと思い込もうとしていたのだ。
     だって本気で彼を見つめるためには、もう少しだけ時間が欲しかった。ずっと隼の優しさに甘えてきた。進むのが怖いだなんて、言い訳なのだろうけれど。
     思わず薄く唇を開いたら、微かな質量を持ったものを口の中へ押し込まれた。それで始は気づく。隼が突然始にキスをしたのはこの為かと、納得したと同時に残念に思った理由だってもう理解している。
     ふわふわとしたそれは綿菓子のようだった。
     隼が始の許可も取らずにこんな方法で運んできたもの。大事に大事にされているもの。ある種の特別な愛しささえ向けられている。
     だから始はそれが何なのか、どうしても知りたくなった。口に入れられた時に歯を立てたのは、そんな思いからだ。
     しかしそれをされた方はひどく驚いたようで、可哀想なくらい震えた。知らない相手に八つ当たりをした自覚があった始は、噛んだ場所をぺろりと舐めて謝罪する。
     驚かせて悪かった、ちゃんと隼本人に八つ当たりする。だから安心して寛いでくれ。
     そうやって伝えれば、それは今度はくるくると回った。
     場をお開きにして一旦解散したあとで、始は隼の部屋へ向かった。いろいろあったものの、始の本来の目的をまだ果たしていない。バタンと容赦なくドアを開け放つ。既に布団の中へ入っていた隼はまだ辛うじて起きていたようで、目を丸くして始を見た。
     言葉はない。けれど始はクローゼットから当たり前のように枕を引っ張り出してベッドの真ん中にいた隼を転がし、自分のスペースを作る。最初から枕がここにあれば、部屋に入ってすぐ寝られるのにと不満に思う。
     隼が始を呼んでいた理由とか、そして自分がどうしたかったのか、とか。つらつらと考えていたことも、いつものように二人の寝床に入ってしまえばやっぱり気持ちが良くて、思考することが億劫になる。また今度でいいかと投げ出して目を閉じたら、「始」と名を呼ばれた。
    (……違う)
     自分の名前なのに、呼ばれたのは自分ではない。優しいのに、泣きそうな声だ。それは毎晩聞いていたあの不思議な声音に似ていた。求めているのに怖がるような、どこか必死さを内包した、声だ。
     ここにいると応えたくなる。けれどそれは始に向けられたものではなく。
    (そうか、お前が)
     隼が大切に運んできたものが何なのか、始はここにきてようやく気づいた。どういうつもりで『彼』を作ったんだとか、本人の元へ持ち込むのはどういう了見なのだとか、文句は山ほどある。焦るような気持ちでいたら、再び唐突にキスをされた。今度は遠慮なく、深く口づけられる。
     驚いたものの、すぐにそれもまたあの綿菓子のためなのだと知る。隼に触れるといつも感じる、包み込むような気配。それが塊となって勢いよく繋がった部分から流れ込む。しかし受け止めるのは始ではない。自分だってもらったことがないものを、よく知らない相手のために仲介している。隼は必要なことだからこの行為をした。そう理解はしても、胸のもやもやは大きくなっていく。何しろその相手は、始に似せて作られた存在なのだから。
     やがて胸の奥に受け入れた存在の気配が、波の狭間に揺らめいて、薄く淡くなっていく感覚がした。
    「おやすみ……。今は、眠って。君が夢を揺蕩い、次に目覚めた時、それは必ず叶えられるから」
     切実で優しい声音に、眠気なんてとっくに綺麗さっぱり消えていた。
     ──本体を捕まえなくてはいけない。
     巣を乗っ取っただけじゃ駄目なのだ。始は危機感に近いものを覚え、そんな凶悪な思いに駆り立てられる。満足気に離れていく白い頭を乱暴に掴んで口づけて、言い訳を始めた相手に反論する暇も与えない。屁理屈を捏ねて、押し切ってやる。このまま流されてしまえ。
     ところが本番はこれからというところで、隼は何故か一人で何かを自己完結させて寝ようとする。始に舐められたいらしいから舐めてやったのに反応はいまいちで、どうも会話が噛み合わない。
     上手く躱されている気がして、気が長い方ではない始は苛々とし始める。慣れない口づけをしても相手は上の空で、まるで手応えがない。アプローチをことごとくあしらわれている。
     一方的な口づけを解いた時、隼の白い喉が上下するのが見えた。人体の急所だ。そこに噛み付いてやれば、もっと違う反応をくれるかもしれないなんて思った。喉元に喰らいつくなんて獣か、と自分の冷静な部分が呆れている。
     隼は相当驚いたようで、かなり本気で抗議された。それにまた腹が立って、始は目の前にあった指を噛んだ。まるで子供の癇癪だ。色気も何もあったものじゃない。でもここまで来たら引くことなんて考えられなかった。
     大事にされていたあの綿菓子が羨ましかった。自分も欲しいと思っていたものを先に取られたような敗北感までつのって、大分頭の方は沸いていたと言っても過言ではない。
     僕が欲しいの、と訊かれた時、こいつは同じセリフを他の奴にも言ったことがあるのだと何故か直感した。出会った頃からあんなに始のことが好きだと公言していたのに、ずっと始を見ていると言っていたのに、これは浮気だ。隼は嘘つきだ。
     始と同じ顔の相手にはできるのに、始にはできない。そんな馬鹿なこと。
     隼がその相手と何をしていたのか知りたくて、知りたくなくて、でもそれは絶対に始相手にはしないことだ。彼は始のことを神聖視している節があって、決して一線を超えてこちら側へ踏み込んでは来ない。
     いくら何でももう子供じゃない。始は変なところで世間一般の常識とずれているだとかこれまで散々言われてきたが、それなりに酸いも甘いも噛み分けてきた。
     夜に大人の二人がキスをして、それから何をするのかなんて、そもそも本能が知っている。相手が同性であっても、ある程度は想像で補える。
    (でもこの状況を作ったのは、俺のせいかもしれない)
     始がそう望んでいた。いつまでも続くやわらかな空気を壊したくない。失敗すれば居場所を失うかもしれない。臆病になってしまった心が何も知らないという演技をしていた。
     彼流に言うのなら、始の願いが隼の認知を歪めてしまった。相手の心の上にあぐらをかいていたツケが回ってきたのだとしたら、今動くしかない。これが最後のチャンスになるかもしれない。
     浮気者だなんて詰る権利はきっとない。ずっとはぐらかしていたのは始の方なのだから。事態が把握できずに呆気に取られるだけの隼を見て、心が挫けそうになる。自分の行動が空回りしている状況に気づいてしまえば、思考が急に現実へ引き戻される。遅かった、という言葉がぐるぐると回り始める。
     勢いよりも理性の勝った始が身を引こうとした時、強い力で抱きしめられた。抱き返した腕にありったけの力を込めたのは、そうしないと震えてしまうからだった。
    「僕と愛し合おう?」
     その言葉も別の奴に言っただろ、この浮気者。
     文句はあったが、肺が燃えるように熱くて息ができずに飲み込んだ。真上から見下ろしてくる強い眼差しを受け止めるだけで精一杯だった。
     男の顔をしている、と思った。想いはようやく繋がった。確実に今を壊し、関係を書き換えられる。
     そう考えたら急に怖くなった。隼に対して怖いと思ったのはきっと初めてだ。けれどやっぱり引き下がる選択肢はなくて、新しい始まりへの期待が、もつれ合う感情を掻き立てる。
     何度だって書き換えてしまえばいいのだ。お互いが納得するまで何度でも繋がって、離れて、また繋がって関係を上書きする。やり直すことは不可能なことじゃない。
     それにしても、隼の頬の辺りが発熱している人みたいに真っ赤になっているのが気になった。彼は元々色白だから血液の流れが目立つのだろうけれど、どう見ても尋常でなく熱っぽい。地味に気になって仕方ない。良い雰囲気から一転、始は現実へと引き戻される。大丈夫かコイツ、と思ったら案の定、隼はあっけなく鮮血の海に沈んだ。



    「なんだ、これ……」
     似たような言葉を数時間前にも言った気がすると思いながら、始はしばらく途方に暮れていた。
     鼻血ってこんなに勢いよく出るものなんだな、と感心しながらすっかり意識を飛ばしている隼を見て、次第に笑いが込み上げてくる。一度笑えば緊張も解けて、どんどん可笑しくなってくる。最後には声を上げて笑ってしまった。
     数分前まで随分な修羅場だったはずだ。何をやっているんだとか、こういう結末はいかにも自分たちらしいだとか。そもそも明日は本番で、こんなことをしている場合じゃないのにだとか、それはもういろいろたくさんあった。
    「とりあえず、最低限の処置はしておくか……」
     鮮血の被害に遭ったのは主に隼の上衣だったので(鼻血を吹いた時、彼は仰向けに倒れた)、脱がせて洗面所で簡単に洗っておく。寝具にも多少の被害が出たが、この時間にどうこうできるものではないので、明日洗濯に出してもらうことにする。
     ごくごく簡単な応急処置を済ませると、始は今度はちゃんと寝るために布団の中へ入る。意識のない人間に服を着せるのは至難の技なので隼の上半身は裸のままだが、普段から裸に近いような状態で寝ているらしいので構わないだろう。
     そういえば始が来る時はいつも、隼は上下ともパジャマを身に付けていたことに今、気づいた。彼にもきっと葛藤があったのかもしれない。お互いに、言葉が全然足りていなかったことを今さらのように認識する。
     明日から二日間の本番を越えて、年が明ければ実家で少しゆっくりできる。その時に隼と、今まで話せなかった話をしよう。あの綿菓子のことも含めて。
     『彼』は隼の祝福で眠ったのか、今はもう存在を感じない。
     次に目覚める時というのがどんなタイミングなのか、正直に言って始には全く分からない。でもきっとその時は来るのだろう。隼がそう言うのなら、そういうものだからだ。
     それならば、旅立つその日までこの身のうちにいればいい。色々思うところはあったが、少しだけでも会話がしてみたかった。叶いそうにないのだけが残念だ。
    「……おやすみ。俺もそろそろ寝ないと、だな」
     サイドランプを落とす。厚手の遮光カーテンが窓の外の光を遮断するので、室内は真っ暗になる。静かな暗闇が広がる。けれどここは寒くない場所だ。隣で眠る人の指先にそっと触れて、始も目を閉じた。



    PLA Link Message Mute
    2025/03/17 22:22:03

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    #隼始 ディスコネクティッドゲームの始視点。独白のような感じ。

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