イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 「すみません。何も、分からないんです」
     男は分からない問題を当てられた子供のような顔をする。彼を拾ったのは、恩を売ってタダで働かせるためだった。

     配達用の牛乳缶を消毒し、逆さに並べてゆく。ぽたぽたと雫が地面に作る染みを見つめていると、街へ続く道からカランカランと金属音が聞こえてきた。音の主を出迎えに、家の柵を開け道へ出る。たった今沈みきった陽が坂を幽かに照らし、紫紺の闇はすぐそこに来ていた。空の缶を鈴生りにぶら下げ、大きな紙袋を腕いっぱいに抱えた男は、柵の立てる高い音に顔を上げた。耳飾より赤く瞳をきらめかせ、安心したように笑う。
    「ライセン、ただいま。頼まれたものはきちんと買ってきましたよ」
    「お帰りなさい。レイツ、今日はちゃんと全部回ってきたわよね?」
    「いつの話をしてるんですか。流石に何年も配達を担当したら間違えませんよ。あ、これも消毒して干しますね」
     からかうと、レイツはむっとした顔をして答えた。冗談だと分かっているのか、どこか楽しそうだ。ざざざざ。風が草木を波立たせる。頬にかかる髪を手でのけた。缶をがらがらと鳴らしながら、レイツは私の横を通り家へ踏み込む。横目にロングコートのフードからちらりと癖のある髪が見えた。羊より澄んだ白髪が、風にふわりと揺れる。ぐう、と腹の音が聞こえた。
    「あら、確か今日はおやつにクッキーを焼いて持って行ったんじゃなかったかしら?」
    「人にあげてしまいまして。早めに夕飯いただいていいですか」
    「ええ。今日は配達に出るのも早かったものね。今用意するわ」
    「いつもすみません」
     レイツが恥ずかしそうに頬をかく。初めて配達に行く時に贈った白い手袋は、かなりくたびれてきていた。
    (そろそろ、新調してもいいかもしれないわ。出先で破れたら困るし)

     レイツと私は、強い日光に少しでも晒されると肌が赤く腫れあがる。そういう体質だ。街へ配達に行き、家まで帰ってくるには半日ほどかかる。だから私が一人でここを切り盛りしていた頃は、日中は家畜の世話など全ての作業を済ませ、日が沈んだ頃配達に出て朝日が昇る前に農場へ帰る生活を送っていた。頼れる人も居ないのもあったが、何より私自身全く苦ではなかった。あの日までは、一人で大丈夫だったのだ。
     取引先が増え、仕事量も配達にかかる時間も増えた頃のことだ。幾つかの取引先から午前中に届けて欲しいと言われた。仕方なく私は全身を覆い隠せるよう、白いフード付きのコートと厚い手袋で配達に出た。日光を浴びないようコートを目深に被り、俯いたまま急いで配達を終え、帰宅した後。床に崩れ落ちた。全身に鈍い痛みが襲う。恐る恐る手袋を外すと、皮膚がべろりと剥がれた。いつもは帰宅してすぐに家畜の世話をしていたが、その日は立ち上がる力すら湧かなかった。お腹が空いて仕方が無かった。
     一人では、生活が維持できない。初めて、自分以外の労働力が欲しくなった。体力も力もあって、それでいて従順な労働力が。そんな時拾ったのがレイツだ。レイツは『自分は記憶喪失だ、家の場所も思い出せない』と告白した。都合がいい。配達を押し付けるため、ここに留まって働くことを提案すると、レイツはすんなり受け入れた。不安に沈んだ顔が、喜びに染まり赤い目がきらきらと輝く様子が面白かったことをよく覚えている。レイツも同じ体質だったことは誤算だったが、レイツは私と違い日の下で行動しても身体が覆われていれば問題無いのもあり、日中私は農場で家畜の世話や家事、レイツは街へ配達と分担して生活している。最初の頃は、レイツが契約先へ渡す缶を間違えたり街で迷ったりと問題もあったが、最近では失敗も無く街の人間と仲良くやっているらしい。食卓でレイツから街や人の様子を聞く楽しみができた。私はというと空いた時間ができたので、新たにチーズやバターの生産にも手を広げた。レイツが言うには概ね好評らしい。
     扉の閉まる音で我に返る。そうだ、夕飯の仕上げをしなくては。調理場へ向かおうと足を進め、止めた。辺りを見回し、すんと鼻を鳴らす。空気が湿っている。ざわと風が木々を揺らす。急いで未だに雫を落とす配達用の缶を回収し、家の中に放り投げた。黒々とした雲が、星の河を覆っていた。

     レイツが口元を手で覆う。大きなあくび、ひとつ。レイツの元にあった汚れた皿を自分のものに重ね、立ち上がる。涙を拭い、付いて来ようとした彼を片手で制した。ふらふらしているのに手伝われても邪魔なだけだ。
    「もう寝てもいいわよ。残ってる作業も片付けておくから明日も配達頼むわね」
    「すみません、お言葉に甘えます」
     余程眠かったのか、素直に自室へ消えていった。おやすみなさい、と閉まった扉に声をかけてから井戸へ向かう。あんなに眠そうなのも珍しい。最近顔色もあまり良くないし、体調でも悪いのだろうか。
    (まあ、ぐっすり眠ってくれるなら都合がいいのだけれど)
     そっと腹をなでる。夕飯を食べ終えたばかりにも関わらず、それはくうと鳴った。

     自室に入り、寝巻きに着替える。自分の顔が映る窓に分厚いカーテンで蓋をし、ベッドに横たわった。視界の端の、唯一の私物の太刀とレザートランクが目につく。いずれもここに来てからは一度も触れていないため、薄らと埃が積もっている。しかし磨く気は全く起きなかった。太刀も、トランクも、よく手に馴染む。不気味だった。自分には、記憶が無い。名前も、トランクの中の手帳に書かれていた名前を借りているだけで、本当に自分の名前だという確証は無かった。記憶を失う前の自分はどうやって、どこで誰と生きてきたのだろう。知りたいとは思わなかった。太刀が手に馴染む、日光に当たることのできない人間。ろくな生き方ではないだろう。それに比べると今の生活の、なんと恵まれていて真っ当なことか。自分にそんな環境を与えてくれたライセンに、感謝してもしきれない。ライセンは強い人だ。武器を持った私が近付いてきた時、自分は丸腰なのに戦う姿勢を見せた。薄暗い中、私をまっすぐ見つめる金の目が眩しかった。
    自分と同じ白の髪なのに、ライセンのものは光り輝くように見える。憧れだと、思う。私がもし、同じ状況になったら。きっと私は逃げるだろう。ライセンと違って、私は戦うことが怖い。太刀の持ち手にべったりと付いた茶色の染みから目を逸らす。私の知らない私が、何をしてきたのか。何故、記憶を失ったのか。様々な予測が頭に浮かんでは消える。過去の私の罪が、追いかけてくる。知らない私の罪が、私に刃を向けたら。ライセンなら、きっと堂々と立ち向かうだろう。彼女には、暴力も言葉も通用しない。何があろうと絶対に我を貫き通す、獅子のような強さがある。私は違う。暴力に屈し、言葉で追い立てられる兎だ。戦う術を知らないからではない。ライセンは、何があっても立ち向かう。私には立ち向かう勇気が無い。それだけのことだ。記憶を取り戻す努力をしなければならないと、思う。しかし平穏な日常を捨てて、恐ろしい世界に足を踏み入れる程の価値があるのだろうか?取引先や街の人たちは皆いい人で、随分お世話になった。
    ライセンには、衣食住世話をしてもらっているばかりか、編み出した新しいチーズの作り方や効率的な血抜きの仕方、周辺の土地についてなど役に立つことを教えてもらっている。夏は蒸れて大変だが、配達先の人がお茶を出してくれたりと、配達も悪いことばかりでもない。いつかライセンと一緒に街に行って、思いっきり楽しんでもらいたい。これは、現実逃避だ。
    (でも、続く限りは、このままでいても、きっと)
     壁の向こうから水音とどこかで聞いたような鼻歌が微かに聞こえる。あたたかい。人の気配に安心する。瞼の重みに抗う事無く、意識を沈めた。

     目覚めたのは薄暗い森の中だった。身を起こし、周囲を見渡す。誰も居ない。風に木々がざわざわと揺れ、遠くで鳥が鳴く。不気味に思い、思わず自分の腕を抱いた。
    (どうやって、ここに来たんだっけ)
     思い出せない。帰り道の分からない不安から視線を落とす。木の葉の隙間から、僅かに光る物が見えた。立ち、拾い上げる。菱形をした銀のタグだ。中心にⅦと刻まれている。
    (なんだこれ)
     改めて周囲を見渡すと、他にもいくつか落ちているようだ。一番近くの物を拾う。Ⅳ。パレットの上に落ちた後きちんと拭かれなかったのか、溝に黄色の絵の具がこびりついている。爪でかりかりと削り、綺麗になったことを確認してから最初に拾った物と一緒にポケットに入れた。がさがさと木の葉を掻き分け、次々とポケットに入れてゆく。ここまでくると見える範囲の物は全て拾わないと気が済まない。どんぐりを夢中で拾ったあの日のように、銀のタグを拾い集める。
     妙に思ったのは、Ⅰと書かれたタグを拾った時だった。溝に、重い茶色の絵の具がこびりついている。ポケットの中を探り、Ⅹのタグを取り出す。これの溝にも、重い茶色の絵の具が付いていた。Ⅴのタグにも同じ色の絵の具が付いていたが、尖った石にでもぶつかったのか、他のタグには無い大きな傷の方が気になった。茶色の付着物を削り、爪に付いた粉を見つめる。指先を口元に持っていき、恐る恐る舐めた。血液特有の、独特な鉄の味がする。日が落ちて森が闇に包まれていることに気が付く。ここに留まり続けることが、にわかに恐ろしくなった。急いで残りのタグを拾い集め、移動しようと決意する。足早に森の中を歩くと、何かに足を取られ転倒した。足元を見ると、小振りのレザートランクが木の陰に倒れている。ひょっとして、自分の物だろうか。そう思ったとき、あることに気が付いた。
     帰り道どころか、自分の身の上、延いては名前すら思い出せない。
     不安が押し寄せる。帰るって、どこに帰ればいいんだ?そもそも家は有るのか?誰か、私を知っている人間は居るのか?血の付いたタグや鞄の持ち主と私は何の関係がある?何故、私はこんな森の中で倒れていたんだ?何でもいい、何か情報が欲しい。縋るような気持ちでトランクを開けた。
     トランクの中身は、外見に反して簡素なものだった。赤い革の手帳に、木箱に入ったペンとインク壺。それに少しの干し肉と真っ黒な瓶。手帳と木箱には同じ紋章が入っているが、記憶を失っている今ではどこのものか分からない。手帳を開く。あまり開かれることが無いのか、紙の端が折れているということもなく。気になるといえば淡く黄色に変色している程度だ。持ち主はこれを覚書に使っていたようで、『肉を煮込む』『賢者』『緑が来た24/9』というように脈絡無い言葉が並んでいる。ぱらぱらと捲っていくと、幾つか略式の地図が書いてあるページが目についた。その内の一つを指でなぞる。
    「これ……」
     歩いた道の構造と、目印の風景。今通ってきたものと酷似している。それに気付くやいなや、トランクを閉め、街と書いてある方向へ歩き始めた。Ⅲのタグだけ無いことには気付かなかった。

     森を抜け、視界が開ける。風に波打つ草原が月明かりに美しい。坂を下りた先に、一人の女性が立っているのが見える。今にも家に入ってしまいそうだ。慌てて声をかけながら駆け下りる。女性はゆっくりと振り返った。風に揺れる白い髪が艶やかに波打っている。私を視界に入れた女性は、流れるように構えた。威圧感に押され、思わず足を止める。女性はぎらりと金の目を私に向け、不敵に笑った。
    「あら、肩の立派な剣は抜かないの?」
    「剣……?」
     女性の視線を辿り、首を右の後方へ捻る。長剣らしきものが、赤い紐で右肩に結わえ付けられていた。かなり重いのに、今の今まで全く気付かなかった。自分の身体になじんでいるのだろうか。剣を振るうような仕事を、自分はしていたのか?自分の正体に不安を覚えながらも、女性を怯えさせてはいけないと慌てて訂正する。
    「あ、安心してください、貴女を傷つけるつもりはありません。今外して地面に置きますね!」
     そう言うなり肩の赤く細いリボンを勢い良く引いた。トンと地面に落ちた剣を足元に置き、大きく三歩後退する。女性は構えを解き、気の抜けたような顔をして稲穂色の瞳をこちらに向けた。
    「それで、何の用かしら?日はとうに落ちてるわよ」
     何の用だ。いざそう言われて言葉に詰まる。聞きたいことは色々ある。しかしまさか『私は何者なんですか』『私の家は何処ですか』と聞くわけにはいかない。ざわざわと風の音が聞こえる。女性の目がみるみる不審なものを見るようなものになっていく。何か、言わなくては。考える前に言葉が飛び出した。
    「あの、泊めてくださいませんか」

     寝室の扉を薄く開け、レイツが寝入っていることを確認する。音を立てないよう注意して家を出た。ざあと夜の草波を打つ。既にぽつぽつと降りだしているが、気にせず柵を飛び越え道の中央で腕を組んだ。
    (今日は、どちらに行こうかしら)
     最近、夜出歩いている人間が少ない。珍しく人が歩いていても、吸血鬼だったりやけに強かったりする。先日も、目を付けた人間を食べ損ねてしまった。今週はまだ、血を口にできていない。空腹を叫ぶ腹をさする。
    (少し無理をしてでも、何か口にしないといけない。レイツほど便利な人間を失うわけにはいかないもの)
     シャツを捲り上げたレイツの腕を思い出す。思わず白い肌に口を寄せそうになるほど、美味しそうだった。戸惑いも罪悪感も抱いたことは無かった。自分が吸血鬼であることにも、人を襲い血を飲み干すことにも。ただ一つ困ったことは、便利な労働者を吸い殺してはいけないことだ。
     レイツを拾う前は、家畜の血で空腹を誤魔化せていた。仕事も全て一人でこなせた。街への配達も、床や壁のしつこい汚れの掃除も、壊れた家具の修復だって。人を襲わずにはいられないほど、喉が渇くことも無かった。少し人より日焼けしやすい体質だから、外出する時気を配らなくてはいけないくらいで。レイツが来てからというもの、余計な手間や仕事が増えた。一人なら数日何も口にせずとも大丈夫だったが、レイツが来てからというもの人間の振りをするため栄養にもならない食事を用意しなければならなくなった。レイツが街で風邪を貰ってきたときは看病や取引先への連絡で大忙しだったし、子どもと遊んでコートを泥だらけにして帰ってきたこともある。人の血で腹を満たさねばならないのも、それで傷を負って破れた服を繕わなければならないのも、全部レイツのせいだ。
     黒いコートが重くなってきた。下の服にも雨が染みて不快だ。

    「今日は少し、遠出をしてみようかしら」
     普段は道なりに町に出ていたが、聞くところによると正面の森を突っ切った先にも街があるらしい。吸血鬼の身体能力なら、走れば夜明け前には帰って来れるだろう。誰も見ていないから、隠す必要も無い。誰かが見ていたとしても、『誰も見ていなかった』ことにすればいい。軽くその場で跳び、感覚を確かめる。地面から飛び上がった水滴が地に落ちる前に、深い闇の森に飛び込んだ。

     ガンガンガン。玄関の戸を叩く音で目覚めた。分厚いカーテンを捲り外を見ると、雨が降っていた。暗い中目を凝らし、時計を見る。11時。雨音をかき消すように、扉が騒々しく音を立てる。
    「はい!今参ります!」
     扉に向かって声を張る。急いで寝巻きの上からくたびれたコートを羽織り、居間へ出た。こんな時間に誰だ。基本的に此処へ来る客の応対はライセンがしているが、夜中なのに気配が無い。妙だなと思いつつ、玄関の前に立つ。
    「どちら様ですか。何の御用でしょう」
    「夜半に失礼します。こちらのお宅から、吸血鬼の気配を感じまして。退治するので上がらせていただけないでしょうか」
    「お引取りください」
     不審者だ。吸血鬼の気配も何もこの家には人間の私とライセンしか住んでいない。盗賊だろうか。どうやって追い払ったものだろう。返事をしたのは男一人だったが、扉の前には少なくとも二人分の気配がある。間違っても扉を開けるわけにはいかない。開けたら最後だ。私は、戦えないのだから。決意を固めると、扉の向こうからくしゃみをする声が聞こえてきた。どことなく、幼い。気になり、扉の前から離れられずにいると、男の声が再び聞こえてきた。
    「私が怪しいのなら、入れていただけなくても構いません。どうかこの子だけでも上がらせて貰えないでしょうか。雨に降られて、身体が冷えているのです。このままでは病気が悪化してしまいます」
     嘘だ。そう断言できたら、どんなにいいだろう。扉から雨音が聞こえる。たとえ扉の向こうに居るのがただの人間だとしても、中に入れてやる義理は無い。雨に晒され続けたことで、子どもが死んだとしても、私には何の関係も無いことだ。ここは、ライセンが築き上げた財産の一つ。留守を任された私には、それ守る義務がある。閂を見つめる。右手を、左手で強く包み込んだ。
    「もう一度、お聞きします。扉を開けてはいただけませんか」
     二度目のくしゃみの音が聞こえてきた時、両手は既に閂にかかっていた。ゆっくりと扉を開ける。糸のような隙間から外を覗こうと、顔を近付けた。
     扉が強い衝撃に震える。恐る恐る頭上を見ると、鋭利な刃物が闇に鈍く光っていた。止める間も無く、槍で扉をこじ開けられる。扉の向こうの二人の服装は貴族然としていた。濡れているどころか、染みひとつ無い。仮面をした三つ編みの男に胸倉を掴まれ、投げ飛ばされる。背中をチェストの角に打ちつけ、床に転がる。家の中に二つの靴音が入ってくる。殺される。逃げなければ。立ち上がりたいが、痛みと恐怖で膝に力が入らない。首筋に冷たい物が当たる。仮面の男に、槍を突きつけられていた。ライセンより赤味がかった金の瞳と目が合う。威圧感で押し潰されそうだ。雨音に、低い声が響く。
    「私の目はどこだ」
    「し、知りません」
     右胸部に槍を突き立てられる。熱い。痛みに声をあげると、右手で槍の切っ先を眉間に当てられる。
    「しらばっくれるな。この顔を忘れたとは言わせないぞ。お前が右目を掬い取る為指を差し入れた、この顔を。さあ、誇り高きウォードの血脈が一片、返して貰おう。今度は、一生もがき苦しむことになるぞ」
     怒りからか手が震え、切っ先が額を少し裂いた。怖い。嫌だ、死にたくない。恐怖からか、暑くもないのに汗が滲む。痛む右胸に添える手。震えこそするものの、力が入らない。自分の血でシャツが濡れていくのが分かる。歯の根が噛み合わないのを堪え、絞り出した声は震えて雨音に掻き消えそうだった。
    「本当に、知らないんです」
     右胸に刺さっていた槍が乱暴に抜かれ、右脚に突き立てられる。骨が断たれたのが分かった。男が何か言ったが、雷の音でよく聞こえない。男の背後に控えていた白い少年が、槍を持つ男に問いかける。
    「主人様、この人が主人様の右眼を盗った犯人なんですか?本当に何も知らないように見えるんですが……」
    「いいや、見間違えたりするものか。髪型や雰囲気こそ変わっているが、体格、声、顔つき。何一つ違うものは無い」

     もしかして、記憶を失う前の自分の話をしているのだろうか。男と少年はまだ何か話しているようだが、会話が頭に入ってこない。雨に濡れてもいないのに、寒くて仕方がないのだ。手が震える。結局、私は何も知らないまま死ぬのか。ライセンに迷惑しかかけてなくて、申し訳ないな。彼女が巻き込まれないことを願おう。祈るように視線を上げた。窓に、青ざめ引きつった表情の男が映っている。あれは誰だ?あれは私のはずだ。強い違和感を感じる。私は同じような表情の人間を、何人も見たことがある。あの時は、物を通してじゃなくて。目の前で。もっと、赤くて。赤かった?何が?いつ、それを見たんだ?頭が金槌で殴られたかのように痛む。あまりの激痛に、槍も男も構わず身を丸めた。誰かが何か言っている。痛みから逃れるように耳を塞ぎ、そして意識を手放した。

    「死んだんですか」
     オズウェルが恐る恐る聞いてくる。突然大声をあげた盗人は、ぐったりと気を失っていた。
    「純血の吸血鬼が、この程度の怪我で命を落とすはずが無い。傷口を見るといい。もう塞がっている。それより、さっき渡した箱を渡してくれ」
    「あ、はい」
     箱を受け取る。自分の手袋を確認してから、銀の手枷を取り出した。オズウェルに箱を渡し、盗人にしっかりと取り付ける。息を軽く吐き、脚に刺していた槍を引き抜いた。汚い。丁寧に血を拭う。オズウェルはみるみる塞がっていく傷口を興味深そうに見ている。ここに来るまでは、眼の在処を吐くまで拷問しようと思っていた。今ではすっかりその気は失せている。塞がりきった傷跡に触れながら、オズウェルが言った。
    「どうして、抵抗しなかったんでしょう?主人様の眼を盗って行った襲撃者なんですよね?」
    「……何か、裏があるのだろう。私は今から家の中を捜索する。ここでそいつを見張っててくれ」
     家の奥に踏み込もうとするも、オズウェルに服の裾を掴まれる。焦っている。
    「純血の吸血鬼が、凄い速さで近付いてきてます」
    「なに?……馬車に戻ろう。こいつを抱えて行くから、先に行ってくれ」
    「はい!」
     オズウェルが開け放してあった扉から駆け出す。盗人を抱え、手枷が自分の肌に触れないよう気を付けつつ家の外へ踏み出した。雨の勢いが、来た時より増している。立てかけてあった傘を片手で差し、オズウェルが開けていてくれた扉に乗り込んだ。御者に急いで自宅へ向かうよう指示する。いつもは気になるガラガラという音より、ピシピシと雨粒が打ちつける方が気になった。盗人が目覚める様子は無い。雨に当たったのか、彼方此方に赤い火傷のような痕ができている。最初はオズウェルの隣に転がしておいたが、盗人の顔が視界に入って不快なので隣に移動させた。オズウェルは未だ接近してくる純血を警戒している。やはり、盗人の仲間だろうか。私の目を盗ったのは組織的犯行だったということも考えられる。
    (そうだとすると、これで全てが解決したとは言えまい)
     盗人を発見できたのは偶然だった。仕事での移動中ある街に差し掛かった時、オズウェルが『純血の気配がする』と言ったのだ。オズウェルに探させ、指し示したそこには人間と楽しげに笑う盗人が居た。日中の目立つ時間だったこともあり、使いの者に後をつけさせてそのまま仕事に向かった。帰りに使者を回収し、盗人一人になったので我が眼を奪還しに押し入ったのだ。結果眼球の奪還は果たせなかったが、身柄の拘束には成功した。無理やり眼球の在処を吐かせる方法はいくらでもある。たとえ組織ぐるみの犯行だったとしても、元から断つことも不可能ではないだろう。
    「御者さん、急いでください!追いつかれます!」
     オズウェルが振り返り、窓越しに叫ぶ。この焦りようを思うと、きっと振り切れないだろう。
    (まずいな、キャリッジの中では槍を思うように振るえない)
     私とオズウェルだけなら、馬車から降りて戦えばいい。しかし、身動きの取れない盗人を捕らえたまま、御者や馬を護りながらの戦闘となると不利になる。馬車で逃げるのが一番なのだ。
     溜息を吐き、扉を開ける。御者とオズウェルの制止を聞き流し、キャリッジの上に立った。揺れと雨で転げ落ちないよう足元に気を配りながら、槍を構える。止まない風切り音に、チカチカと空走る閃光。嵐が視覚と聴覚を鈍らせる。
    「上です!」
     オズウェルの叫びに、顔を上げた。雷鳴と共に地が揺れる。光る空に黒い影が落ち、丸い金の眼と目が合った。槍で突くもかわされる。槍を振りぬくと足場にされ、奇襲者は馬に縋りついた。ごきり。鈍い音と共に一頭が地面を転げ、他の馬は怯えに足を緩めた。しかしキャリッジは勢いを緩める事無く、雨でぬかるんだ坂を滑り降りてゆく。キャリッジが石に乗り上げ、足を取られる。振り落とされそうになるも、すんでのところでしがみ付いた。
    「主人様!」
    「いい!」
     手助けしようとするオズウェルを制す。襲撃者は馬の死体を足場に、御者へ跳びかかる。まずい、御者をやられたら馬を操る者が居なくなる。坂を転げ落ちていくぞ。キャリッジの上に這い上がろうと力を籠めるも、雨で滑り思うようにいかない。金の目は弧を描き、御者を引き寄せた。衝撃。薄い唇から血が零れ落ちる。襲撃者の胸を、オズウェルの剣が貫いていた。見開いた襲撃者の眼が、キャリッジの中を映す。御者を掴んでいた細い手が、オズウェルの方を向いた。襲撃者を槍で突き刺し、宙へ持ち上げる。血が槍を伝い、手袋を汚した。襲撃者は槍を抜こうと掴むが、雨と血で滑るのかもがくばかり。濡れた白く長い髪で、表情は見えない。キャリッジの上に立ち上がり、空いた右手で新たな槍を握る。
    「手枷は一人分しか無い。悪いが死んで貰う」
     槍を次々と取り出し、様々な方向から突き刺した。槍を掴んでいた手が、力無く滑り落ちる。雨に混じって血が滴り落ちてくる。刺す面積が無くなったところで丁度よくカーブに差し掛かったので、遠心力のままに襲撃者を投げ捨てた。物のように水溜りに落ち、見えなくなるまで立ち上がる気配は無かった。

    「そろそろ、睡眠を摂らなくては」
     溜息をつき、聖堂の灯りを消して回る。今夜は雨が降っていたためか、誰一人いらっしゃらなかった。流水を苦手とする神は少なくない。神々の訪問を阻む雨雲をひとつ睨んでやろうと、聖堂の扉を開ける。聖堂内に雨が吹き込む。眼に雨水が入り、反射的に眼を瞑ってしまった。負けるものか。反抗するように目を開ける。ゴロゴロ。遠くで雷が落ち、鋭く辺りを照らした。暗闇の中に、小さな人影が一瞬見える。ふらふらと数歩進んだ後、ばしゃんという音と共に崩れ落ちた。濡れるのも構わず駆け寄る。声をかけても、反応は無い。反射的に肩を貸し、聖堂内へ連れ込んだ。
    「これは……」
     暫しの間、言葉を失う。倒れていたのは女性だった。白く美しかったであろう肌と髪は泥と雨水にまみれ、眼は力無く閉ざされている。何よりも目を引いたのは、服に無数に空いた穴だった。覗く肉体には幾つもの傷跡が薄らと残っている。下の服は元の色が分からない程血に染まっていて、この吸血鬼がどんな目に遭ったのかは明白だった。
    「血を、与えなくては」
     ナイフを取り出し、深めに左手を斬りつける。彼女の上半身を優しく抱き起こし、唇に左手を押し付けた。瞼がゆっくりと持ち上がる。彼女は口を一度離し、私の首に両腕を回す。彼女の牙が私の肌に突き刺さった。暗くなる視界と共に、私は幸福に目を閉じた。

     白い髪を銀の髪留めで一つに纏め、新緑色の眼をした吸血鬼が祭司を見下ろす。祭司はベッドに横たわっていた。その首には真新しい包帯が巻かれている。
    「よくやった、ミットライト。あいつは最近この一帯で人を襲い回っていた吸血鬼だ。既に白薔薇公にこの教会に捕らえたことをご報告し、犯人の身柄をここで管理する許可もいただいた。お前の役目は果たされた。ゆっくり休むがいい」
    「……ありがとうございます、夜露の神様」
     祭司が笑う。吸血鬼は用は済んだと言わんばかりに踵を返し、退室する。閉ざされる扉。静かな部屋に遠ざかる靴音が届く。祭司が布団の下でシーツを握り締める。俯く祭司の口元は固く閉ざされていた。

     がちゃり。周囲に人気が無いことを確認し、数日前から立ち入り禁止になっている部屋の鍵を回す。キイと高い音を立て、鉄の扉が開いた。後ろ手に扉を閉め、鍵をかける。銀の鎖に繋がれたライセン・ゴルト・ゲシュプが目だけをこちらに向けた。ミットライトの血を満足に飲めなかったからか、血が足りていないのか。金の光に鋭さは無い。石の床を音を立てず歩み寄り、恭しく礼をとった。にこやかに笑みを浮かべる。
    「深くお礼を申し上げます。貴女がこの一帯を荒らし回り、存在を知らしめたこと。そしてそんな貴女を我等が捕らえたことで、貴女を助けにレイツ・ロート・ゲシュプが此処を訪れることでしょう。お礼と言っては何ですが、死ぬ前に弟君の頭部とお別れくらいはさせて差し上げますよ。その時までどうぞゆるりとお寛ぎください。なに、そんなにお待たせしません」
    「……随分、回りくどいことをしますのね」
     ライセンが笑う。聞けば、この教会はこの男が建てたものだと言う。銀製の拘束具の備わった牢がある時点で、レイツを捕らえるために建てられた事は明白だ。男は一度目を見開き、口の端を吊り上げた。
    「奴にとって普通の死というものは苦痛ではないでしょう?それに、最後に奴の命を摘むのが我等であれば、それでよいのです」
     窓から月明かりが差し込む。光は男の白い肌と髪を照らし、瞳は朝露に濡れる葉のよう。腰の刀がカタカタと揺れる。光る梟と本の鍔。長い夜が明けたことを喜ぶかのように、男は、カイメン・ウミノは晴れやかに笑っていた。
    ========
    三冬さん宅スファレさん・オズウェル君お借りしました!色々とすみません…

    そしてハートありがとうございます
    「なんか二人が灰になりそうだな…」と没になった色を弄る前の画像
    碧_/湯のお花 Link Message Mute
    2016/04/03 20:53:41

    崩れる砂の城

    【吸血鬼ものがたり】雨だから仕方ないね ##吸血鬼ものがたり ##復讐編
    話リスト(http://galleria.emotionflow.com/20316/537486.html

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