深海から見上げた月は 1珊瑚
カサついて節くれだった指先が前髪を掠める度に香るのは、あの人がいつも吸っている煙草の香り。あの人の手に馴染んだ、硝煙の匂い。
追えば追うほど離れて行く、決して手の届かない人だと知っていながら、…恋い焦がれた。
ーーー数日前に遡る
燃え盛る巨大な賭場客船、炎は直ぐそばまで迫り、人々は逃げ惑う。青年は人を掻き分け、ある人物を探していた。毛の短な赤い絨毯が敷き詰められた幅広な廊下。その先にある中央階段でやっと見つけたその人は、天井から落下した様々な瓦礫に押し潰され、息も絶え絶えだった。
「ーー親父様!誰かッ、誰か助けて!」
身軽に障害物を避けた青年は、柱の下敷きになり身動きの取れない人物、鉄竜会組長の側に膝をつき、必死になって太く重い柱を退けようと身を動かす。柱の隙間から力なく腕を投げ出した壮年の男は、動揺しすっかり血の気の引いた青年を、珊瑚と呼んでその身を突き放した。尻餅をついた青年は男の腕に縋り、己の無力さを嘆いてひたすらに涙を流す。
「よせ、無理だ…どうにもならん」
「いやだ!助けます、そんな事言わないでッ!誰か、誰か!!ーー五ェ門ッ、五ェ門どこにッ!」
早く逃げろと言わんばかりに、再び身を押された青年は、力なく後ろに倒れる。するとすかさず背後から誰かに支えられた。珊瑚の横目に入ったのは黒の袴と真っ白な紋付の羽織、ハッと息を呑んでその人を見上げた。
「五ェ門!助けて、親父様が死んでしまう!」
「…、…五ェ門、儂に構うな…珊瑚を連れて行け、約束を果たせ」
依頼人の窮地に駆けつけた五ェ門は、いつかの会話を思い出した。珊瑚は組長と妾の間に生まれた子であるという事。後継者問題では正妻との息子と、珊瑚とで派閥が二分化している事。相続の云々で馬鹿息子が珊瑚の命を狙うかもしれないと言う事。
『儂にもしもの事があれば、珊瑚だけはその命に代えても守ってくれ』
ーーーお前と云う男を見込んで頼む。
そう言って両の手を付き、頭を下げた御仁の姿が脳裏をよぎった。
「…珊瑚、お前は儂の宝だ…珊瑚、行け…五ェ門」
珊瑚の指が、五ェ門の着物の併せを握る。その指先は倒れた柱を無理矢理に起こそうとしたせいで、無数に傷が付いていた。ほんの数秒、五ェ門と男の視線が交差する。僅かに頷いた五ェ門の動きは早かった。震えて髪を振り乱し涙する青年の腹に、柄頭を一つ落とすと気を失った身体を抱え上げ、御仁に深々と頭を下げた。
「…頼んだぞ、」
その一言を受け止め、身を翻した五ェ門は足早に客船を後にした。