華月パンフが出る前に妄想馬上の朝はいつも、呼吸が刃先と呼応する時間だった。
霧は薄く、鎧の継ぎ目から息が白く立ち上る。
始は鞍に深く腰を沈め、馬の首筋を掌で確かめると、歪んだ都の輪郭を見据えた。
遠方では貴族が笑い、神殿では香が焚かれている。
だがその光景の下には、凍った川のように流れない民の声が溜まっていた。
その光景に、肺を凍らせるほど冷たい空気を吸い込み、白く微睡む息を一気に吐き出した。
彼の手の中にあるのはただ一つの規律。
守るべきものを守る、という動かぬ誓いだった。
稽古場で交わした約束の一つ一つが、今は現実の重みを増している。
刃は肌に馴染む。
鞘を抜く所作は体に刻まれており、馬上の一瞬で命が決まることも知っていた。
だからこそ、始は国のかたちが崩れていくのを黙って見過ごせなかった。
ボロ家で飯を待つ子どもたちの顔。
夜道で呼び止められ消えた老婆の背。
そういうものがいつしか彼の胸を締めつけた。
天子の前へ赴いたのは、当然の行いだった。
広間の天井は高く、光は金箔に撥ね返される。
貴族たちは絹の裾を揺らし、誰も真実の声を求めていないように見えた。
始は声を整え、仲間とともに列を作って進んだ。
言葉は研がれた刃のように短く、だが沈黙よりも真実を訴える力を持つはずだった。
「どうか民の声をお聞き届けください」
その一言が、ここでは暴挙に等しかった。
侍従がひそひそと動き、太鼓の音は不穏に高くなった。
始の言葉は波紋となって広間を渡ったが、返ってきたのは冷笑と役人の書類にしかたどり着かなかった。
彼らの正義は帳票に宿り、民の苦しみの数はそこに映らない。
始はその場で孤独を知った。
誇りは熱を失い、刃は重くなる。
己の守るべきものが何なのかを、見失いかけた瞬間だった。
処刑の決定は速かった。
公の場に立たされると、縄の冷たさが首筋を走った。
鼓が一拍、二拍と打ち鳴らされ、始はそれに合わせて最後の視線を集める。
観衆の顔は輪郭しか見えないが、遠くに誰かのすすり泣きがあるように感じた。
軍配の下で判が押され、天子の威光は皮膜のように厚く広がった。
始は諦観という静かな湖に沈むように、力を抜いた。
しかし最後の瞬間、黒々とした世界の中で一つの光が残った。
それは春の瞳だった。
稽古場で交わした幼い約束、夕暮れに分け合った干し飯の味、互いに押し合った稽古の悔しさ。
それらがひとつの小さな窓となって、始の胸を温めた。
春の瞳は単なる幼なじみのそれではなく、始が初めて抱いた執着でもあった。
もし世界が滅びるなら、その瞳だけは失いたくないという生の根拠。
太鼓の音が止まり、刃が振るわれる瞬間、始の周りはとても静かだった。
まるで周りには自分と、そして、その視線の先の春だけが存在するような。
刃が肌を裂く前の一瞬の冷たさを、彼は知っていた。
だがその冷たさと同じ深さで、春の瞳の光が身体を通り抜ける。
グッと腹に突き刺した刃に、ギリっと奥歯を噛み締める。
始は自分が守ってきたものの輪郭を最後に確かめる。
それは国でも天子でもない、一人の瞳だった。
刃は下り、世界は白く歪んだ。
痛みは瞬間の粒子となって散り、始はそれをひとつずつ数える暇もなく、ただ記憶の中で春の瞳が、ずっとずっと離れることは無かった。
目覚めは、光の喪失とともに訪れた。
世界は真っ暗で、音だけが輪郭を描いていた。
始は自分の名を呼ぶ声も、胸の鼓動も、すべてを遠くに置き去りにされたように感じた。
肉と骨のつながりが虚ろになり、そこに残ったのは焦げつくような感情だけだった。
最初に残ったのは憎しみだった。
人の姿を見るたび、始の内側で何かが震え、刃と同じ冷たさで反応した。
だがその憎しみは単純ではなかった。
人は彼を罵り、石を投げ、逃げる。
そのとき、憎しみの端にはいつも不思議な柔らかさがあった。
守りたかったものへの、ねじれた愛惜。
人間が憎く、しかしどこかで愛おしい。
愛しさと憎悪が絡まり合い、始の心は濁っていった。
何度か、始は手を伸ばしてみた。
煙のように薄れた記憶の欠片に触れるように、誰かの肩に触れ、古い声で囁きかけた。
しかし返ってきたのは恐怖と悲鳴だけだった。
幼い者は走り去り、老婆は家の戸を閉ざした。
始の温度は人々の恐怖によって奪われ、彼の中の残滓はまた一つ黒く染まる。
そうして日が経つにつれ、始は変わっていった。
慰めるつもりで差し伸べた手は、次第に罵倒を返す世の情けなさに変わり、やがて刃を振るう理由へと変質した。
世界を壊すことでしか自分の内の痛みを抑えられないと知ると、始は人を虐げる存在になった。
夜の村を歩き、火を吐くような怒りで家々を切り裂き、忘却の中で自らを慰めるように人の形を切り崩した。
それでも、孤独は癒えなかった。
誰かを探しているという感覚だけが、胸の底で蠢き続ける。
だがその「誰か」が誰なのか、始は思い出せない。
名前の欠片が唇の裏に引っかかっては消え、顔の輪郭が心に浮かんでは砕ける。
やがて、探すこと自体が執拗な行為になり、その鬱憤は人間へと向けられた。
ある日、空が低く重く垂れこめた朝、幾つかの足音が土を踏みしめる音が遠くから聞こえてきた。
始はその気配に反応し、深い闇の中で身体を起こした。
近づく者は一人だけではなかった。
やがて、影が二つ、祠の前に現れた。
黒い織物の外套に覆われた人影と、その脇に寄り添うように、冷たい海のような色合いの式鬼がいた。
人の名は隼。高名な陰陽師だと噂されるその男は、目に余るほどに静かで、そして穏やかな笑みを浮かべていた。
彼の隣に立つのは式鬼「海」。
水のようにしなやかで、その背後からは深い静けさが流れていた。
隼はゆっくりと一歩を踏み出し、始を見据える。
彼の眼差しには少しだけ哀れみの色が窺える。
しかし、ただ、事を成す者の冷たい確信もあった。
始はその視線を受け止め、漆黒の世界の端から低く声を放った。
「お前が、俺の探していたものか」
隼は一瞬だけ眉を揺らした。
それから、柔らかく、しかしどこか遠い調子で答えた。
「いいや。僕はきみの求める者ではないよ」
その言葉は刃の縁に触れるように始の耳に刺さった。
隼の声は子供を諭すようだが、芯は冷たい。
本意を語らぬまま、隼は術陣を整え始める。
紋が描かれ、結界符が地に打たれていく。
海はその周囲を滑るように動き、祠の周縁に湿った霧を撒く。
術の気配は重く、始の肉体の痛みに対して鋭く届いた。
「いつか、君が人とともに生きたいと心から思える相手が現れたら、この楔は外れるだろう。その時まで、少しお眠り。僕の愛しい半身」
隼は静かに言った。
その言葉に含まれたのは約束かもしれないし、あるいは単なる技術者の保険かもしれない。
だが術は冷厳で、隼はためらいなく祠の口を塞ぐべく準備を進める。
始は声を上げた。
「……お前は、誰なんだ」
隼は顔を少しだけ上げ、風に揺れる額の髪を払った。
目の奥に短く火が灯る。
「僕の名は隼。終わりを司る君の対なる者。そしてまた、封じる者だよ」
言い終わると同時に、隼は印を結び、海が呪縛の輪を描いた。
大地が唸り、祠の周りに古い土の香りとともに銀白の光線が走る。
始はその光に触れると、凍てついた怒りが震え、刃のような手で抵抗しようとしたが、式鬼の水の輪が彼の動きを吸い込み、反撃の余地を奪った。
隼の術は冷たく、しかし正確であった。
力尽きる寸前、始は何かを叫ぼうとした。
だが隼の掌は素早く、始の身体へと楔を打ち込んでいく。
肉の裂ける音、骨の折れる気配が夜気に混じる。
「ごめんね。今はこうすることしかできなくて……」
隼は悲しげに眉を下げ、足の鎖を祠の結界へとつないだ。
「これでいい」
隼は囁くように言った。
「いつか、君を、君たらしめる者が来るだろう」
だがその言葉は、静かに抵抗と一抹の憐れみを含んでいた。
始の身体はゆっくりと冷えていく。
彼の視界が引き裂かれ、意識の裂け目から最後に見えたのは、かすかな誰かの笑い声。
遠い日の幼い声だった。
祠はその場で鎖され、楔は打たれた。
地面の上に残った形は、刃のように硬い輪郭だけだった。
隼は祠を見下ろし、短く息をつく。
誰にも見せない顔で、彼は手の甲で額の汗を拭った。
その後ろで、式鬼「海」は静かに振る舞い、海面のように冷たい面持ちで祠を囲んだ。
その時、隼は小声で付け加えた。
それが約束か呪いかは、祠に封印された刀だけが知るだろう。
「いつか、君が……、心から求める者が、君を救ってくれるはずだから。その時まで、君はこの誇りである刀の中でお眠り……」
その言葉は風に消え、祠は静寂に戻った。
始は封じられ、闇は再び深くなる。
だが胸の奥では、まだ探すような微かな感触が残っていた。
それは後に、名を知らぬ少年の声によって救われることになるだろう。
森は季節を何度も通り過ぎ、木々の年輪は静かに重なっていた。
人の世の称号も戦の名も、苔の下で少しずつ薄れていく。
武士は栄誉を極めることなく廃り、ひとり、またひとりと姿を消していった。
そんな場所に、まだ名の知られぬ少年が迷い込んだ。
少年の名は弥生春。この森の外れの屋敷に住む少年だ。
春は、道に迷ったわけでもなかった。
なにかを探していると言うより、足が勝手に古い小径を辿ったのだ。
前に進むほどに胸の奥が疼き、風はいつのまにか彼の足を進めた。
たどり着いたのは必然だったのかもしれない。
その祠は小さく、屋根の檜皮は剝がれ、柱は苔に覆われていた。
だが春の目には、そこだけが柔らかに光って見えた。
「こんにちは」
返事が来るわけでもないのに、春は自分が声を出したことに驚かなかった。
誰にも聞かせるつもりのない問いが、口をついて出たのだ。
もちろん、返事はない。でも誰かがそこにいる気がして、春はやっと背が届くほどの隙間から祠の中を覗き込む。
そこには一振りの刀が祀られていた。
不思議なことに、祠は朽ち果て、今にも壊れそうなのに、その刀は、埃に塗れることもなく、そこにあった。
春は、その刀の美しさに、心を奪われたのだった。
始は、暗闇の中、長く、深く眠りについていた。
もうずっとずっと長い時間、眠っていた気がする。
封印された祠は、外を伺い見ることはできない。
なのに、外に人の気配を感じた。
小さな子供の声だ。
何を言っているのかまでは聞き取れないが、柔らかなその声は、返事もしない始にずっと向けられている。
だが春は毎日来た。
雨でも雪でも、ちいさな足で祠の前に立ち、飽きもせずに毎日、始に話しかけ続けた。
子供の無垢な心の言葉に、封じられたものを少しずつ揺り動かした。
始の眠りは深く、欠片の意識だけが時折揺れる程度だったが、春の声は徐々にその欠片へと届いていった。
聞こえるか聞こえないかの境で、暖かい言葉が心の縁に触れるように入り込む。
初めはただの風のようだったものが、やがて夜ごとの訪れを待つ灯火になる。
春が来ることは、祠の中で当たり前になった。
なお始は返事をしなかった。
刃は鞘の中で時折呟くように震え、夢の断片が指先を過ぎるだけだった。
しかし、春の声はやがて始の耳に少しずつはっきり届くようになった。
「こんにちは。今日はいいお天気で、気温も暖かくてお昼寝日和だね。なんだか俺も眠くなっちゃうなぁ」
声は記憶の縁を擦り、名前の欠片や稽古場の木の匂いを引き出す。
春の言葉は、断片同士の断絶をつなぐ糸だった。
その声が、愛おしくて、心を震わせる。
ずっとずっと待っていたのだ。
始の意識が徐々に浮上し、記憶が蘇り始める。
出会いの日。約束の日。そして別れの日。
あの日の、彼の瞳を。
後悔はしていないはずだったのに、会いたくて、会いたくて。どうしようもなく会いたくて、希った存在が、すぐそこにいる。
刀を封印している鎖が、キンっと高い音を立ててヒビが入った。
始本人も、そのことに気づいてはいなかった。
「あのね、俺は春っていうんだけど、隼っていうこの国一番の陰陽師のお屋敷でお世話になってるんだ!」
聞けば、帝に仕える多くの陰陽師の中の最頂点に君臨するのが、隼という陰陽師らしい。
思い出せば、始を封印した男も、そんな名前の男だった気がする。
朧げな記憶の中、あの日の白い絹衣を思い出す。
春は生まれてすぐに隼の屋敷の前で捨てられていたらしく、幼いころから屋敷で育てられていた。
この都で、隼の名を知らぬ者はいないが、そのほとんどが畏怖の存在として、誰も彼に近寄ることはしなかった。
やれ、化け狐の化身である。
やれ、神の権化である。
そんな噂が流れ、かつ隼の連れる式鬼も相まってか、誰も屋敷には近づくことがなかった。
おのずと、その屋敷で育てられている春も孤立するわけで、いつも一人であった。
日々、春のことを知っていく。昔の記憶がよぎる。
降り積もる。また、新たな記憶が増えていく。それが始にはこの上なく、愛おしかった。
しかし、そんな祠の静寂がある日、破られた。
幾人かの陰陽師が小径を塞ぎ、式符と呪文が森の空気を締め上げる。
噂は早かった。
「この祠に悪鬼が棲み、子供を惑わしている」 そう主張したのは、隼と張り合う一派の若き陰陽師たちだった。
彼らの目は飢え、顕示欲に塗れていた。
祠の結界符を無造作に剥がし、封じられているものを白日の下に晒そうと言う。
春はその場で飛び出した。
小さな体は転げるように駆け、声は震えながらも力強かった。 「彼をいじめないで!」
しかし、大人たちの術は容赦ない。
放たれた呪術は、狙い澄ました弧を描いて春の身体を襲った。春は祠の石に叩きつけられ、そのまま動かなくなる。
地面に伏した幼い姿を見下ろして、始の胸の奥で何かが、久しく忘れていた感覚が跳ね上がった。
ゆっくりと、だが確かに脈打つもの、それは生の音だった。
長い間、何もかもがどうでもいいと凍り付いていた始の心が、血の鼓動で一度だけ大きく揺れた。
驚きはすぐに別の感情に変わる。
憎悪が深く、鋭く、とどめどなく湧き上がった。
世界が不条理で、愚かで、そしてどうしようもなく憎らしい。
始を封印していた鎖が、音を立てて弾ける。
封印の楔をただちぎるのは、儀式を破るような力業だった。
鞘の中の刃身が震えて膨らみ、結界が軋む。
始は自分が抱えてきた冷たい断片を一斉に解き放った。
突然、姿を現した鬼の姿に、若い陰陽師たちがざわめく。
ある者は、怯え腰を抜かし、ある者は、発狂し、走り逃げた。
始は力を解放すると、動かぬ春を抱きしめた。
抱え上げる手は粗く、だがどこか不器用に大切さを量っていた。
ああ。ずっとずっと見たかった春の顔が。
ずっとずっと直接聞きたかった、声が。
鼓動が、何も聞こえない。
嗤いが口元を裂いた。
それは人を嘲る笑いでもあったが、同時に救いを求める叫びでもあった。
「さぁ、すべてを終わりにしよう」
その嗤いが森に不協和音を放つと、始は力を解き放つ。
破壊は凄まじく、深い怒りが刃となって燃え広がる。
祠を襲った者たちが次々に始の怒りの炎の前に倒れていった。
夜は血の匂いで充たされ、森の生き物は怯えて樹上で動かなくなった。
だが、暴力は完全な解答を与えない。
やがて、始の前に一人の影が現れた。
かつて相まみえた隼の姿だった。
封印したはずの者を見下ろす目は穏やかな光をたたえていた。
隼は微かに笑い、始に優しく呟いた。
「あぁ、君はそこまで感情を動かされる存在に出会えたんだね」
始は剣を振るい、隼に襲いかかった。
隼の術は速く、正確で、刃の衝突は音を立てて跳ね返される。
始の胸は貫かれ、血が重く流れ出る。
おもむろに、隼は始の胸から一つの珠玉のような核を取り出した。
それは生の残滓であり、始の一部を宿した言わば魂の欠片だった。
隼はその核を厳かに春の胸元へと埋め込んでいく。
春のその胸に新しい鼓動が小さく宿るのを見た。
始は力尽き、血に濡れた土に倒れこんだ。
二人は互いに寄り添うように、祠の前で眠りに落ちる。
眠りは深く、長い時間の流れを一度に織り直すようだった。
森は再び静かになった。
だが祠の中には、二つの魂が結ばれた痕跡が残る。
始の怒りはやがて伝説となり、隼の名は一方で栄光を手にし、他方で問いを投げ続けることになる。
春は目を閉じたまま、胸の中で微かな鼓動を抱き続けている。二人は眠りについたが、世界はまだ目を覚ます準備ができていなかった。
森は昼下がりの蒼を透かしていた。
春は歩きながら符の並びを思い返す。
調伏の所作はいつもなら指先の延長のように流れるものだが、今日はどの印もどこか芯を欠いていた。
隼に育てられ、術の数式と礼式はすべて身についている。
誰もが式鬼を調伏し、手に入れられる年齢になったにもかかわらず、どうしてもこの一節だけが噛み合わない。
できるはずの所作が、どこかで空転しているのだ。
考えが濃くなるほど足取りは無意識に森の奥へ向かい、いつしか知らぬ小径に入り込んだ。
木漏れ日の角度が以前とは違い、風の匂いが少し古びている。見覚えのない風景なのに、胸の奥に薄い懐かしさが広がる。
春は立ち止まり、ゆっくりと前に進んだ。
遠くで苔の匂いと朽ちた檜皮の香りが混じり、祠が姿を現す。
それは小さく、崩れかけて口を半ば閉じた古い祠だった。
柱に刻まれた結界符はひび割れ、紙垂は色を失ってぶら下がっている。
妙に馴染みのある輪郭。
ドクリと、心臓が大きく跳ねた感覚に、春はそっと胸元に手を寄せる。だが、応えは何も返ってはこない。
祠の戸を押すと、石の匂いと古い血の微かな香りが顔を撫でた。
内部は薄暗く、土と苔の匂いが折り重なっている。
刀だ。
土埃に埋もれて、苔むしてはいるが、間違いなく、これは刀である。
春は鞘の端を掘り出した。
そこにあるのは、細長い鞘、そしてそこに眠る刃だった。
鞘を引き抜くと、冷気が指先を走り、胸が震えた。
刃の形は古く、長年の眠りにも関わらずその輪郭は鋭い。
掌に伝わる金属の冷たさが、春の内側で何かを触発した。
遠いところで、幼い日の囁きが耳鳴りのように蘇る。
だがそれはまだ朧げな音符で、完全な旋律にはなっていない。春は刃を胸元に抱える。
二つの物の間を、見えない糸が引き結ばれる感覚が走る。
鞘の縁で、かすかな金属音が鳴った。
刃身の表面にうっすらと人の輪郭が浮かび、影が伸びる。
月影のように冷たい光が、その輪郭が徐々に人の形をなしていく。
祠の空気は圧が変わり、時間がゆっくりと動いた。
「お前が、俺を喚んだのか?」
声は刃の端から零れ落ちた。
鋭く、濁りのない音だった。
春は、答えることをためらわなかった。
「こんにちは。俺の名は、春。君の名は?」
その瞬間、胸元が熱く、そして強く光った。
光は刃の刃身へ走り、冷たさが指先を貫いた。
刃はぐっと膨らむように、あるいは伸びるようにして鞘を離れ、黒い衣の影がゆっくりと現れる。
刃に宿っていた記憶の断片が、破片のように舞い上がる。
瞳は深く、美しい烏羽色のように澄んでいた。
春を見据える視線は、判断でも攻撃でもなく、試し見るような驚きと、微かな震えを伴っていた。
「春……」
影は言った。
言葉に過去の痛みと刃の冷たさが混じる。
「そうか、春、か。俺の名は始」
「はじめ……」
春は刃を胸に抱きしめ直し、胸の中で欠けていた鼓動が、微かに呼応する。
これまで失われた記憶を埋める説明は何もなかったが、感覚は確かだった。
なんだか、とても懐かしい気がしていつの間にか涙が頬を伝っていた。
刃はゆっくりと人の姿に近づき、始は一歩、前へ出た。
足取りはまだ不安定で、刃と皮膚の境界が瞬時に揺れる。
彼の声は低く、刃の縁の冷たさを残しつつも、人に向けて命じるような響きを持っていた。
「春、俺と契約しろ」
その言葉は単なる命令ではなかった。
刃としての宿命、鬼としての残滓、武士としての誇りが混ざり合った誘いだった。
契約は陰陽師と式鬼を結ぶ古い所作であるが、二人だけの約束として成り立った。
春は目を閉じ、胸の中の鼓動に耳を澄ませる。
過去の全貌は見えない。
だが胸の確かな感触が、選択を促した。
「もちろん」
春は小さく、しかし確かな声で言った。
「契約する。始、俺の式鬼になってくれる?」
言葉が終わると、祠の古い結界符がかすかに震えた。
始は歯をわずかに見せ、薄く嗤った。
その嗤いは刃物の冷たさを孕んでいたが、どこか柔らかさも含んでいた。
「あぁ、俺のことを上手く使ってみせろよ、ご主人様?」
二人の身体(と刃)は互いに近づき、世界の一枚をそっとずらすように、歩みを進める。
春は刃を帯び、始の肩に一瞬手を触れた。
刃の感触は冷たいが、その鬼は温かった。
祠の外の森は静かに息を詰め、風がゆるやかに動き始める。
「少し疲れた。俺はまた少し眠る。お前の力を後で寄越せ」
そう言うと、人影がまた刀へと姿を消していく。
そっと春が胸に手を当てると、刀と共鳴するように二つの鼓動が脈打つのを感じた。
こうして、二つの魂が宿る力が、運命が、動き出した瞬間だった。