ドーナツの穴から未来が覗く 首の傷は、程なくして抜糸を迎えた。
完治したと考えた患者をよそに、ケアを大切にする主治医は毎日獅子神邸を訪れた。
忙しい外科医がだ。止めても聞かない為、獅子神は風呂を準備し、食事を与え、寝るなら自宅がいいだろうと車を出した。
その甲斐あって、首の傷は綺麗に消え、村雨の顔色は改善の一途を辿った。
「愛人みたいっすねー」
世話を焼く獅子神に、園田が言った。失言の多い男だ。とりあえず獅子神は頭を殴っておく。誰が愛人だ。
「痛いっ! だって毎回食事出して。そう見えますよ」
「仕方ねえだろ。腹減ったって言うんだから」
仮にも怪我を診て貰ったのだ。無下には出来ない。
人の良いことで、と園田は頭を撫でて思った。制限を課す自身とは別に、獅子神は豪華な食事を村雨の為に用意していた。
本日もその長所は発揮され、真経津のドーナツ作り要望を叶えるべく、型や材料を買いに出ている。
普段使いとは違う、少し遠出した大型のショッピングモール。ここを選んだのは、医師を送り届ける際に目に入ったからだと、獅子神は言う。
「やべえな、色々買いたくなる」
品揃えの多い店に、獅子神が目を輝かせた。園田は微笑ましく思う。と同時に、お菓子作りコーナーに金髪の男がいると客が寄って来ない為隠れている姿、に再び愛人感を見てしまう。
そんな考えでいた為、似た人間に目が行った。
「あれ? 村雨さん?」
よく見ると医師本人だった。目敏く見つけた園田に指差され、獅子神も通路の向こう側を見た。
村雨は、女性と女の子を連れて歩いていた。
「家庭持ちでしたっけ?」
村雨の自宅に、家族がいる気配は無かった。が、他に家を構えていれば分からない。
「……そりゃ賭場に行ってる身なんだから、最低限しかオープンにしねえだろ」
胸の痛みは友人の秘密が寂しいのか、それとも。
村雨が隣に話しかけた。女性は自然な笑みを返した。あの村雨と合うのだからきっと知的な人間なのだろう。小柄で、綺麗で、並ぶとバランスが良い。
思わず、目を逸らした。
「あんま見んなよ、失礼だ」
「はいはい……獅子神さん。あなた、どれだけデカいドーナツ焼くつもりで?」
獅子神が手に持ったのは、シフォンケーキを焼く大きな型。うるせーとまた殴り付けて、焼きドーナツ用の型と取り替えた。
ドーナツ作り当日。従業員達は休みの為(週休2日)獅子神が全員を出迎えた。
寝かせておいた生地を取り出し、焼き型もあるぞ、と真経津に声をかける。叶はホイップが楽しいらしく、延々と泡立て器を回している。村雨は持ってきた本を片手に、困惑顔。概ね獅子神の予想通りだ。
しかしその後、食べたいに真経津が進化した。
「冷蔵庫漁るな! 今揚げるから待ってろ!」
叶のクリーム量がドーナツを上回る。
「ショートケーキでもそんなに使わねえわ!」
村雨の読む本がまさかの肉系。
「テメーは斜め上すぎんだよ!」
お腹空いた、飽きた、肉を焼け、と予想の遥か上を行ってくれたおかげで、急遽おウチ焼肉となった。
ドーナツ片手に、ホットプレートで肉(村雨用最近は常駐)を焼く自由な面々に、獅子神はせめて野菜も食えと焼き野菜を用意し、余ったホイップでチョコムース(お土産)を製作した。
食後、満腹で動けない3人を横目に、獅子神は洗い物に奮闘する。
ゲームしたい、でも動けない、他愛ない会話の中、不意に村雨の話題が聞こえた。
「村雨さん、結構甘い物食べるよね」
「糖分は脳に必要だ」
「言う意味分かる。点滴で取ってるイメージあった」
「どうせ摂取するなら、味覚を喜ばせた方がいい。それにこう言ったドーナツ類は、姪が好きでな。偶に作り過ぎたからと頂く」
「礼二君だから2番目だよね。お兄さん家族とは?」
「仲は良い方だ。先日も甥の誕生日プレゼントを選びに行った。何が好きかコロコロ変わるから、義姉と姪にアドバイザーに……」
獅子神の手から皿が滑り落ちた。ドーナツを乗せていた大振りの皿は、シンクから床へと滑り、ガシャン! と派手な音を立てて割れた。
「敬一君、大丈夫?」
「……おう、破片あるから、今、こっち来んな」
叶の声に何とか返事を。しゃがみ込んで、獅子神は長く息を吐いた。兄の家族。それを嬉しいと思った。
ここまで来てようやく、獅子神は自覚した。
そうか……惚れてんのか、と。
指先を破片が掠めたが、安堵の方が強くて痛みを感じなかった。声も出ていない。だと言うのに、頭上から気配がした。
「皮膚を裂く趣味が? なら言え。専門分野だ」
敬一君指切った? 救急車ー! 衛生兵ー! ケルシー!(アクナイ)バタ子さーん! 顔だ敬一君の新しい顔を探すんだ! と真経津と叶が救急箱と掃除機を取りに行った。
場所を把握されている事よりも、獅子神は目の前の男を恐れた。洞察力の化け物だ。やっと自覚に至った獅子神の心など、とうの昔に看破されているだろう。
「頼むから……何も言うな」
獅子神が絞り出したのはこれだけ。何か言われたら心臓が破裂する予感がした。
俯き怯える男を、村雨は静かに見下ろした。普段は見ることのないつむじが、手の届く位置にあった。
「なぜ私が黙らねばならんのだ?」
心底不思議そうに村雨が言った。
「村雨……っ」
「とりあえず手を出せ。ん、深くはないな」
薄らと赤を滲ませた傷は、絆創膏で充分だと判断し、医師は破片を片付け始めた。
ここで胸の内を打ち明け、甘く溶け合うのも良い。
しかし、村雨はそんな気にならなかった。やっと気付いたかマヌケと告げるのは、腹を開く行為に等しく思えた。強引に暴いてもいいが、暴かれるを待つだけのこの臆病者が、自らの口で吐き出す様を想像した。
その告白は、チョコレートでコーティングされたドーナツよりも、きっと甘い。
「まぁ、美味い物に免じてやろう。次はシフォンケーキがいい」
その言葉に、獅子神は絶句する。結局思い直して、シフォンケーキの型も購入していた。
ちなみに洗い物は、アンパンマン新しい顔よ! とウサギの剥製を投げ付けた罰で、真経津と叶が行った。