親愛なる裏切り者さんへ水溜りを泳ぐ ビリー+タチアナ
泳いだ事がないの、と不安げな声が言った。
目の前には、深いプールが待ち構えている。水深7メートル。機器の性能を試す実験用だ。
闇競売から救出され、メンバーに加わるべく訓練に励んでいた少女は、拘束装甲具の球体の中で小さく身を震わせた。
水中テスト直前での告白に、ラボメンバーが目を丸くする。が、きっと言い出せなかったのだろうと、理解を示す。責めはしなかった。
しかし、無言が少女を追い詰めた。
付き添っていたサングラスの男が、少し屈んで目線を合わせた。
「タチアナ」
優しく呼び掛けると、アイカメラが声に反応する。
「必要な実習だ。それは分かるかい?」
「はい……ビリー様」
「怒ってはいないよ。誰もね。ただどうやって進めようか悩んでいるんだ」
海にでも落ちたら、誰も引き上げる事が出来ない。自力で戻って貰うしかないのだ。
タチアナとて、この体で泳ぐ必要性は感じていない。脳波コントロール。頭の中だけ。だが、水の中。それも7メートルと聞いて、足が動かなくなった。
未知の、頭まで沈む感覚。閉ざされた球体の中、更に水の壁に覆われるいう。怖くて、タチアナはぎゅっと強く両目を瞑った。
こんなんじゃきっと嫌われる。
浮かんでくる不安に、胸が締め付けられた。円卓に座れなくなったら、ここには居られない。離ればなれになるという懸念が、一番、痛かった。
硬直したタチアナに、ミコが仕切り直そう、後日にしようと伝えようとした。
遮るようにして、男は間に入る。
「悪い、ちょっと待ってくれ」
「何か方法あるっすか?」
「ボクが一緒に入るよ」
上着を落として、ビリーが言った。
うえ? とミコが驚く中、次いでリボルバーのホルスターを。靴と靴下。ネクタイ。シャツのボタンを上から順に外していく。
肩を晒して、腕を抜く。銃以外は基本的に全て雑に手放した。
上半身裸だ。下は悪いがこのままで許して貰う。
縁に立って、両手を広げた。
「タチアナ、見てて」
少女に恐怖を感じさせないよう、無防備に後ろに倒れて行く。聴覚では水面までだ。
その先も見えなければ、柔らかな壁としか受け取れない。
正直、怖さはある。
反面、楽しみでもあった。
プールで泳ぐなんて、何年ぶりだろう。
派手に水飛沫を上げて消えた体が、数秒後に文字通り顔を出した。ぷは、と息を吐き、ビリーはズレたサングラスを直す。
掛けたままだった事にようやく気付いて、一人で笑っている。
「ハハ、忘れてた」
「ビリー様! 大丈夫?!」
突然の行動に恐怖を忘れて、タチアナはプールサイドぎりぎりまで進んでいた。
ビリーは上には何も身に付けていない。髪はセットの面影なく乱れている。少女が初めて目にする男の姿だ。
助けようと伸ばしたマニピュレータの手に、両手が差し出されて。
「おいで」
誘われるまま、指先を繋いだ。
泳ぐのを止めたらしく、男の体はそのまま沈む。追い掛けるよう、球体が水中へ落ちた。
着水しカメラに被った水に、タチアナはビクリと球体の中で肩を跳ねさせた。
どうして伝わったのか、ビリーが手を伸ばして来た。指先で落ち着かせるよう、レンズを軽く撫でる。
反射的にだ。
タチアナは、目の前の男の体を掻き抱いていた。溺れる様に似た、すがり方。
特殊金属の装甲は、空も飛べるから基本的に浮く力は出力調整。潜る際は、浮力よりも重い自重で。
男を抱き締めたまま、一気に沈む。足元が抜けるような感覚がようやく底で止まった。
ぶつかる衝撃に、身を竦めたタチアナだったが、カメラが捉えた映像に思わず目を見張った。
透明度の高い水。
照明は底まで届いて。
煌めき、ゆらゆらと揺蕩う光の中。
生身で、酸素も伴わない男が、笑っている。
落下速度に耐え切れなかったのか、サングラスが無くなっていて、表情が良く見えた。
カメラレンズに手を添えて、額をコツリと押し付けて、ビリーは喉を鳴らして笑っているのか、微かな振動を響かせた。
水中が楽しくて仕方がない。年甲斐も無くはしゃぐ心を抑え切れないようで、時折苦笑がよぎる。
子供みたいだなと、タチアナは驚いた。
泳ぐのが好きだったのだろうか。
見えていた頃は潜っていたのかも知れない。
今は、暗闇の中にいる人間だ。
まともに自分の位置すら掴めていない。だから、腰を支える手だけが頼りだと、気付く。
先程は離れていく手を恐れた。
今は手を離すのが恐ろしい。歳上の男が、何故かあっさりと死んでしまいそうに思えた。
そしてそれは、きっと正解。
男は生身で、目も見えなくて、こんな風に沈んだら、一人では戻って来られない。
『泳ごうか』
唇の動きだけで、ビリーが言った。
少しだけ推進力を。最初は上手くいかず、くるりと横に回転する。慌てて男の背を支えて、タチアナは深呼吸を一つ。
浮け。その思考だけに絞ると、イルカが泳ぐように、スムーズに進んだ。空中よりも重力を感じさせない浮遊感。好きかもと思う。
恐怖が消えると、世界が開けた。競売の檻の中とは違う。この球体の中は、こんなにも自由だ。腕を増やして沈むサングラスを拾った。
「っ……」
不意に、ビリーが口元に手をやった。
眉を寄せ苦痛を飲み込む仕草に、頭の芯が冷える。
服を脱いでいるから、筋肉の動きが良く見える。限界まで我慢していたのか、ぐっと喉が引き攣り、息苦しさを押し殺すよう、腹筋に力が込められて。空気を求めた口元が、上に、と弱々しく綴った。
タチアナは慌てて浮上する。
どうしてそんなになってまで……。浮かんだ疑問はすぐに打ち消された。楽しそうだった。でもそうじゃない。全部、全部、私の為だ。
タチアナの恐怖が消えるまで、待っていてくれたのだ。
底から水面まで。素早く的確な動きに、モニターしていたラボメンバーから拍手が沸くが、タチアナはそれどころではない。
「ビリー様っ……ビリー様!」
荒い息を吐く、男の背をさする。ビリーが大丈夫大丈夫と、手を振って、
「泳いだ事ないなんて、嘘だろう?……ボクより上手いじゃないか」
息も整わない内にそんな事を言うから、ぎゅっと肩を抱いた。
「もう、怖くないかい?」
「うん」
「もし、いつか機会があったら、海に潜ってごらん。綺麗だよ。見渡す限り青い世界で、少し怖いけれど……今の君なら大丈夫。どんな所にも行けるから」
世界を広げてくれた男は、皮肉にも閉ざされた暗闇にいて、胸が苦しくなった。
この頃からだろうか。せめて、目になろうと決めたのは。
ふと、カメラに映る男の上半身が、裸だと思い至って、タチアナは慌てた。
綺麗に付いた胸筋や、広い肩幅、割れた腹筋から目が離せなくなった。反対に、心配になるほどウエストはくびれがあって、見てはいけない気がするのだ。
ドキドキと心臓が煩い。プールサイドに上げて、借りたタオルで拭い、大急ぎでシャツを羽織らせた。
その余りの慌てっぷりに、ビリーは勘違いしたようだ。
「ああ、ごめん。見苦しいね、こんなおじさんの体」
「違っ……そんなことないの。ただ、か…風邪を引いて欲しくなくて……」
適当な言い訳をしながら、目を逸らす為に、髪を拭きにかかった。男はシャツのボタンを下から留めて行くが、何故か1つズレて。
「ビリー様、掛け違っているから……私にやらせて」
タオルを肩に置き、留め直していく。すると、ビリーが済まなさそうに眉を下げた。服も着れないタチアナに、着衣を手伝わせて申し訳ないと思っているらしい。
そんな事はないと、言いたいのに言葉が出なかった。
ボタンを留めるなんて久しぶりで、でも思う通りに機械の指は動いてくれた。泳ぐのも、ボタンを留めるのも、全て頭の中で行える。
「私はどこにでも行ける」
小さな自信だった。
「ありがとう、助かったよ」
「助けて貰ったのは私の方だけど……」
「ボクはプールで泳いだだけだ」
「……ビリー様」
「いつか、一緒に行こうか……ああ、ちゃんと見られてもいいようにウェットスーツを着るから、心配しないで」
一緒に。それは生きる意味にすら感じた。
サングラスを外した男の表情は、凄く豊かで、金色の瞳が美しくて、タチアナは眩しげに目を細めて答えた。
数年後、男はタチアナを残して消えた。
裏切り者という汚名と共に。