かつてすべてが星だったころ【後編/テイリン22新刊Web版】エフミドの丘
はっと気がついたとき、私は草の上にいた。なぜ自分がこんなところにいるのか分からなかった。
「……天国?」
誰の気配もないし、鳥の声や虫の羽音も聞こえる。こういう種類の天国もあるのだろうか。
少し痛む頭を押さえて記憶をたどる。確か、謎の結晶を探して氷海にいた。それで、うっかり氷を踏み抜いて落水したのだ。
自分の体を確かめる。服はさらりと乾いている。鞄もしっかりと持っている。中身は一部なくなっているものもあるが、水と食料は無事だ。金袋といくつかの道具もある。溺れたのが夢だったのか、それとも今ここが夢の世界なのか。
あの女性の顔がよぎる。もしかして、と思い当たる。あの状況から生存したとするなら、彼女が精霊の力か何かで助けてくれたのかもしれない。ここが現実世界だと仮定するなら、その可能性が一番高い。
(それにしても、ここはどこなんだろう)
辺りを見回す。生い茂る草をかき分けるように細い小川が流れている。川があるということは、どこかに人里があるかもしれない。少し向こう側には木々が立ち並んでいるが、以前訪れた大森林のようにむせ返るようなみどりの匂いはしない。川下のほうへの道は背の高い草や木々で埋まっていたが、川上への道は人がやっと歩けるくらいには開けているように見える。
「とりあえず、現在地を確かめるためにも、進むしか」
手持ちの携帯食料と水を摂取して、よろよろと立ち上がる。手足はちゃんと動くし体調におかしなところはない。動くのに問題はないようだ。まだ陽が高い昼間のうちに、ひとまず川上への道を辿って、手がかりを探すことにする。
絶対に死んだと思っていた。むしろそんなことを考える暇もなかった。もし本当にあの女性が私を助けてくれたのだとしたら、お礼を言わなければならないだろう。どこの誰かも分からないまま別れてしまったけれど。
(死んだら、どこに行くんだろうか)
少しずつ上り坂になっていく単調な道を進みながら、ふと考える。死後の世界についてはさまざまな説がある。精霊の御許に召されるのだとか、精霊が魂を世界に還してくれるのだとか、だいたいは精霊に関するものばかりだ。それでも中には、特に精霊と関係のないものもある。
私が気に入っているのは、とても単純な説だ。人は死んだら星の一つになって、空のどこかで瞬き、いつかまた地上に落ちてくる。自分がもし死んでしまったときも、そうであってほしい。
(どうして人は、〈星の欠片〉を天に還してしまったんだろう)
伝承によると、人は星の力を邪な心でみだりに使ってしまった過ちを償うために、地上にあった〈星の欠片〉をすべて天に還したという。その行いを見ていた天が遣わした星の化身として、精霊はこの世界に降りてきたと言われている。
それなら、今でも夜空に輝いている星たちは、いったい何なのか。
私には精霊を見ることはできないが、夜空の月や星ははっきりと見ることができる。太陽だって直接見つめることはできなくても見える。今も頭上の木の葉のあいだから漏れた光がちらちらと降り注いでいる。見えるもののほうが、ずっと信じられる。
(精霊が星の化身だなんて、もしかしたら嘘かもしれない)
そんなことを考えるなんて世界で私くらいのものかもしれない。精霊信仰の強い人に話したらきっと憤慨されるだろう。もし、この世に私と同じような人間がいたなら共感してもらえるだろうか。本当は、星から生まれたのは精霊じゃなくて人のほうで、伝承が書き換えられてしまった可能性だってある。それなら、人は自分の一部の力として〈星の欠片〉を持つ資格があったのではないか。
「おっと」
足元の石に靴が引っかかり、危うく転びそうになる。考え事をはじめると視野が狭くなるのは良くない。漂流(?)してしまったせいで自分がどこにいるのかも分からない状態ではあるが、まだかろうじて生きているし動けもする。死後のことを考えるのは早すぎる。荒唐無稽な仮説に思考をめぐらせるのは、安全な場所に辿り着いたあとでもいい。もしくは生還の望みが絶たれたときか。
道なりにのぼっていくと、だんだんと風が強くなってくる。木々が少なくなって、辺りが開けていくとともに薄暗かった道が明るくなっていく。
開けた場所に出て、私は驚く。青いものが断崖の向こうに広がっていた。空と一体になった雄大な景色が眼前にあらわれる。吹きつける風に、わずかな潮の匂いが混じっている。
「海?」
いきなり明るいところに出て、目に映るものが信じられない気持ちだった。海が見えるということは、方角が判断できるかもしれない。自分がここまでどう歩いてきたのかはうろ覚えだったが、太陽の位置から考えると今見えているこの海はだいたい西の方角らしい。双眼鏡をなくしてしまったので海の向こうに何があるか肉眼では見えないが、それだけは分かった。
坂をずいぶん登ってきたから、ここはどこかの山の中腹なのだろうか。私は崖に近づき、海がよく見えるように手近な岩に腰を下ろす。風がそよそよと当たって気持ちよい。足を伸ばしながら休息を取っていると、崖の端、草の奥に変わった小さな岩があるのを見つけた。
それは遠目に見ると、私が腰を下ろしているその辺の岩と変わりないように見える。しかし、周囲を取り囲むように小さな花がいくつか咲いていて、どこか特別な雰囲気を醸している。まるで草花たちに守られているようだと思った。
近づいてみると、細かい傷や擦れはたくさんついているが、目立った汚れはない。それどころか、最近磨かれたような形跡すらあった。この岩――いや、石碑は、誰かが手入れをしてここにある。この場所を守ろうという意思が感じられた。
(こういうのが好きなんだな、私は)
氷海で見た祭壇の像と、それから故郷の広場にあった石像のことを思い出す。岩をそのまま削り出したような不思議な形をしていた像は、ずっと古くからあの街にあって、長い年月のあいだ守られ続けてきたのだという。
皆は精霊がこの街を守ってきてくれた証だと言ってありがたがっていたが、私からすれば、そんな途方もない長い時間、なんとか綺麗な形で像を守ろうとしてきた人間のほうがずっと偉大だと思う。雨風や陽射しにさらされ、無数の傷や汚れがつき、もしかしたら事故や何かで一部が壊れてしまったこともあったかもしれない。長い年月というのは残酷だ。ひとつの文明を完全に葬り去ってしまえるほどに。
それでも、その途方もない長さと戦い抜いた人の意思の強さに、私は尊敬の念を抱く。今ここに存在することが、どれほどの奇跡で、同時に見知らぬ誰かの努力の証であることか。
感慨深く石碑を見つめていると、突如、ヒュッと顔の横を何かが高速で駆け抜ける。驚いて視線を向けると、何かが近くの樹の幹に突き刺さっていた。それは小さな槍だった。
「動かないで」
背後で張りつめた声がぴしゃりと言う。私は振り向くこともできず、その場に座り込んだまま呆然としていた。
「それを傷つける者は、何人たりと許さない」
凜とした声は、怒りに震えて鋭く響く。動けないまま、よろよろと両手を挙げる。
「わ、私は、ただ見ていただけで、傷つけようなんてそんなことは」
「なぜこんな場所に一人でいたの」
「そ、それはちょっと分からなくて……いや、そうじゃなくて、流されて……流されたのか? と、とにかく、いろいろあってこの辺りに迷い込んでしまって、帰り道を探す途中ここで休んでいただけなんです……!」
必死に、今言えるだけのことを話して身を縮める。せっかく助かった命なのに、ここでバッサリ断罪されて終わってしまうのか。でもさすがに命まで取られることはないかと思うも、さっき見た槍は本物だった。あれが刺さっていたら終わっていた。
震えながら待っていると、すぐそばに気配が近づいてくるのを感じる。声の主以外に、何か別の気配もあるような気がする。
「わかった、とりあえず、あなたの言うことを信じる」
その声に恐る恐る顔を上げてみる。立っていたのは、幼い女の子だった。白銀の長い髪と裾の長い白の服が呼応するようにはためいている。女の子のすぐ隣には、一匹の獣がいた。大型の犬、もしくは狼のようにも見える。私がぽかんと両者を見ていると、女の子が口を開く。
「私はここを守る役目があるから、怪しい者は警戒しなくちゃいけないの」
「ここを……じゃあ、この石碑がなにかも知って……?」
女の子は不思議そうに首をかしげる。
「なにかは知らないわ、ただ、とても大事なものだと伝えられているだけ」
「誰に……? あ、ご家族とかでしょうか」
また、同じように首をかしげられる。
「この子は、友だちよ」
そばにいる獣を指し示す。濃い青色の毛並みをしている獣は、犬にしては変わった形の背びれのようなものがついており、尻尾もギザギザと尖っている。まじまじと見ていると、ギンと鋭い眼光を向けてくる。
「うわっ、すみません、じろじろ見てしまって」
女の子が背をぽんと優しく撫でると、獣は大人しく地面に座り込む。野生の獣と意思を交わせる者がいるという話は聞いたことがある。そうした者は山や森に住むこともあるという。人間が縄張りに踏み込んでしまったときや助力を願うときなどに、互いを取り持つ仲介役を務めているらしい。この女の子もそうなのだろうか。
「話ができるんですか、この子と」
またまた首をかしげられてしまった。どうしてそんな当たり前のことを聞くのか、とでも言いたげな、少し呆れた顔にも見えた。
「あなたは、どこから来たの?」
「えーっと……ずっと南の大陸の街から……いや、そもそもここがどこなのか分かってなくて……よかったら教えてもらえないでしょうか」
彼女はどこか浮き世離れしたところがあるが、この辺りには詳しそうだ。しかし、本来なら私がこの子を保護しなければいけない立場だ。こんな幼い子が野山に一人でいたら(一匹も一緒にいるが)、住んでいる場所を聞いて送り届けなければいけないだろう。
しかし今はこっちのほうが現在地も分からなくなっている立場である。考えれば、この旅はずっと迷ってばかりだ。思わずため息の一つもつきたくなる。だいたい自分のせいなので仕方がない。
「……わからないわ」
バッサリとそう返答された。
「わか……らない?」
「私にとってはここはよく知っている場所だけど、あなたにどう説明したらいいのか、よくわからなくて」
今度はこちらが首をかしげたくなる立場になってしまった。言われたことを必死に頭の中で整理する。知っているけれど説明できない。地名を知らないということだろうか。
「えーっと……じゃあ、この近くに、人がたくさん住んでいるような場所は知りませんか? 街とか、集落とか」
女の子は考え込むように顎に手を当てる。
「知ってるけど、私は行ったことがないから、詳しい場所はわからない」
「……ということは、とにかく、このあたりに人が住んでる場所があるんですね?」
「そう、前にこの子から聞いたの」
目線を向けられ、獣は小さくワオン、と鳴く。
「あの、もしよければ、だいたいの方角だけでいいので、教えてもらえれば……」
獣に話しかけてみるも、フンと鼻を鳴らされてしまう。私は精霊だけじゃなく、獣とも相性が悪いのかと軽く落ち込む。
「ええ、途中まででよければ、一緒に行きましょう」
「……って、いいんですか?」
「行けるところまでは行く、ってこの子も」
一応了承はしてくれていたのか、と改めてその鋭い目をちらりと見る。やっぱり敵意を向けられているようにしか見えないが、彼女が言うならそうなのだろう。
「ありがとうございます、本当に助かります」
とりあえず、人里まで行けばきちんと休息も取れるだろうし、次の手立ても見つかるかもしれない。偶然の出会いに感謝するしかない。危うく殺されかけるところだったが。
長い髪をなびかせて歩き出す女の子と、彼女にぴったり寄り添う獣のあとをついていく。ふっと振り返って、海を見るように佇む小さな石碑に目を向ける。結局これが何だったのかは分からないが、精霊を祀るものとは雰囲気が違う気がした。信仰よりも柔らかく、親愛よりも切実なものを感じる。何の根拠もない印象だが。
私はそっと祈りを捧げて、彼女たちの後を追った。祈るという行いが本当はどういうものなのか、ほんの少し分かったような気がした。
「ここまでね」
木々深い森の小道の途中で、女の子はそう告げた。
「私たちが案内できるのはここまで。あとはこのまま進めばきっと着くはず」
淡々と言われるが、指し示す先はまだまだ人の気配などなさそうな道が続いている。しかしあとは一人で行けということらしい。
「ごめんなさい、私たちはここから先へは行けないことになっているの。守れる森の広さは決まっているから」
「それは、あなたたちの掟、みたいなものなんです?」
こくりと頷く。彼女たちの役目や出自など、いろいろと聞いてみたいことはあったが、あれこれ問うてみてもほとんど首をかしげられて終わりそうなのでやめた。何はともあれ、人里の情報を教えてくれて案内までしてもらったのだ。見知らぬ旅人には手厚すぎるくらいの親切だ。
「本当に、ここまで来てもらってありがとうございます。あとはなんとかなると思います」
半分くらい虚勢だったが、にこりと笑顔を作って言ってみせた。女の子は私のほうをじっと見つめたあと、なぜか寂しそうに目を細めた。
「あなたの探しているもの、きっと見つかると思う」
突然、脈絡なくそう言われて、私はぽかんと驚く。
「きっと、たぶん、そんな気がする。どうか、無事で」
獣がワフ、と鳴き、一人と一匹は踵を返す。女の子がちらりと振り返ったので、呆然としたまま手を振る。草の上に棒立ちのまま、私はぼんやりと形のない疑念を抱く。
(私が何かを探しているなんて、あの子に話しただろうか?)
迷ってしまったので人の住んでいる場所を教えてほしい、彼女にした話はほぼそれくらいのものだったはずだ。けれど、まるで私の旅の目的を知っているような言い方だった。不思議な雰囲気の子だったから、気まぐれな物言いを私が大げさに受け取っているだけかもしれない。
女の子と獣の影は、とっくに木々の向こうに消えて、もう目を凝らしても見えなかった。
一人と一匹と別れてから、私は森の中を道なりに歩き続けた。もしかしたら、どこかで道を外れてだんだんと奥地へと迷い込んでいるのではないかという不安と戦いながら進んだ。辺りは冴え冴えとあかるく、図鑑でしか見たことのない珍しい植物があちらこちらに生えていて、その光景がのどかで穏やかに思えて、同時に不気味だった。知らないうちにどこかへ誘い込まれているような、そんな恐ろしさがよぎる。
(弱気になるな、大丈夫)
きっともうすぐ、看板か何かがどこかにある。海を眺めていた時間帯を考えると、陽が落ちる前にはたどり着ける。
そう自分を励ますも、増大する不安と蓄積する疲れと戦うのに限界を感じ始めていた。そのとき、どこかから人の声が聞こえた。
「ぐ、ううっ……」
苦しんでいるような、痛みに耐えているような、ただ事ではないうめき声に聞こえた。私はとっさに声のしたほうへ早足で駆ける。
草むらをいくらかかき分けると、茂みの脇に黒髪の少年が倒れていた。体を震わせて、苦悶の表情で足を押さえている。
「大丈夫ですか⁉」
私の存在に気づくと、少年は驚きと戸惑いの混じった表情でこちらを見上げた。少年が押さえているふくらはぎの辺りには赤い血がにじんでいる。傍らに大振りの剣が転がっているのに気がつく。何があったのかは分からないが、少年は足を怪我して動けないようだった。
「ちょっと待ってくださいね」
鞄の中を探る。漂流したときに荷物の大半をなくしてしまったが、まだ役立つものはあった気がする。水筒を取り出し、少年の手をどけて傷口を洗い流す。それから自分の替えの服を底のほうから引っぱり出し、布地の薄い部分から引き裂く。細長く裂いた布地をぎゅっと巻きつけて結んだ。
「とりあえず、しばらく動かないでこのままでいてください」
「あ、ありがとう……」
少年はおずおずとお礼を口にした。まだ痛みはあるようだが、先ほどよりも表情が緩んだように見える。
「動けるようになったら、ちゃんと手当てをしてもらえるところまで一緒に行きましょう。本当は私が精霊の祈りで治癒できたらよかったんですけど」
軽い怪我なら、精霊に祈ることでもう少しちゃんとした治療ができるはずだった。この場に私が居合わせたことはよかったかもしれないが、人選が悪い。
少し落ち込む私に、少年はぽかんと目をまたたかせて、言った。
「セイレイ……って、なに?」
不思議そうに、そう尋ねた。