三昧
「でも何故お館様があの鬼のお嬢さんを確保するんですか、ねえ、冨岡さん?」
「どういう事なんです?」
「何を知ってるんです?彼らのこと」
「教えて下さいよ、ねえ」
今さっき自分に刃を向けてきた女の顔を水柱は見返した。
今度はしかるべく簡潔に。言葉を選んで。
「あれは人を守る鬼だ」
「あの少年はこう言った」
「鬼は人だった。鬼は哀れな生き物だと」
そして感情を気取らせない青い目でじっと胡蝶を見る。
「お前の姉と同じに」
「師範」
短い袴の少女が隠の一団を率いて姿を現した。その淡々とした報告を胡蝶は頷きながら聞いてゆく。
脇に控える一団の中に見えるのは怪我をして気を失った少年と心配そうに寄り添って見守る小柄な鬼の少女。
それを見て蟲柱は今一度水柱に疑義を呈した。
「本当に、あれが…?」
「そうだ」
遠目にはごくごく普通の仲の良い兄妹にしか映らないその情景。
隠に連れられて彼らが去ったあとも、しばしの間胡蝶しのぶはその方向をじっと見つめていた。
「鬼になったのにあれだけ自我を保ち家族を思うとは驚くべきことです」
「家族のため、たとえその身が変わり果てても」
「その思いこそが真実… なのでしょうかね」
「あんな鬼を私は今まで見たことがありません」
「あんなことが、本当に…」
大切な人の思いをただ遂げるため、そのためなら。
あるはずもないと思っていたその事を見て、
だからその時そんな言葉がふと口から洩れたのか。
「誰かのひたすらな思いを自分のために使う、そんな事も世にはあるでしょうか」
「いえ、いいんです。うん」
「それじゃあ私たちも最後に検分して帰投しましょうか」
くるりと蝶の翅脈の羽織を翻し胡蝶は今しも東から射し始めた陽の光に眩しそうに目を向けた。
答えなどあるとも思わなかった女の耳にそれは不意に届いた。
「ある」
声が、少しの掠れを滲ませて。
「してもらわなければならないことが、ある」
「俺では成せないことを」
「俺ではない誰かに」
体が慄くのがわかった。
頸を、切ってもらわなければ。
喰われて、弱らせたその後に。 ……誰かに。
そう、ずっとずっと誰かを求め続けている。
いつも、誰かを。やり遂げてくれる必死な誰かを。
目の前のこの人もそんな誰かを探していたのだろうか。ずっと?
私のように。
まさかね。
でも。
「そうなんですか。それは思いがけず」
胡蝶はもう一度振り向いて冨岡のそれ以上語らない目を見つめ、くすっと笑った。
よく見ればかすかに震える目で、かすかに震える声で。しかしそれを殆どぎりぎりと自分の奥底に抑え込んで。
前へ。それでも。足を動かして。前へ。
そうしてゆったりと大きな笑みを顔じゅうに広げて蟲柱は水柱に言い掛ける。
「それじゃあ同志ですね?私たちは」
「ね、冨岡さん」
接食
「あら、冨岡さん」
見るともなく捲っていた本を手に椅子を回して後ろを振り返った胡蝶しのぶは入ってきた珍しい男に声をかけた。
素早く上から下までその身を見定めてもう一度口を開く。
「どうしました?怪我… でもなさそうですが、見たところ」
「まあ座って下さい。どうぞ」
自分の前の椅子を手で示した胡蝶に、しかし男は立ったままで言った。
「傷薬をもらいたい」
「…?」
「鴉に」
「……???」
眉をひそめて胡蝶は疑問符を顔に浮かべる。
それからはーっと頭を左右に振って。
「つまりこういうことですか。私に鴉用の傷薬を処方してほしい、と」
「そうだ」
冨岡はさも当然だと言わんばかりに頷く。
「あのですね冨岡さん」
胡蝶は年若い生徒に言い含めるように続けた。
「鴉なら鴉の先生に相談して下さい。お薬もそちらでどうぞ」
男はその答えを意に介さず言葉を継ぐ。
「この間手持ちの俺の薬を塗ってやったら治りが早かった」
「また同じ薬をもらいたい」
胡蝶は少しばかり表情を緩めた。
「まあそういう火急の場合もあるので鴉にも害のないように調合はしていますが」
「それはあくまで応急の処置であってですね」
「ちょっと、聞いてますか冨岡さん?」
男は聞いていなかった。
明後日の方を向いて石のように動きを止め、そこにあるものから目が離せない。
血。いや。
まるで白い雪に霞んだ血のように見える紅い水、その中に深く沈んだ小さな実が。そこに。
薄暗い棚でしずかに煌めく幾つも並んだ大きなガラス瓶の中の一つ。
紅く満ちた液体に沈む果実を見つめたままの男を胡蝶はいぶかしげに見やった。
「冨岡さん?」
「ガマズミを酒に漬けているんですよ、それ」
「植物の薬効が酒精に溶け出して様々な効能が期待されるんですが」
「今はまだ確認半ばですけどね」
胡蝶は棚に歩み寄ると華奢な両の手でそのガラス瓶を挟み、ゆっくりと揺らして見せた。
中の液体もたゆたゆと波打ち、厚く沈んだ実の粒もそれに合わせて液の中を揺れ落ちる。
血と呼ぶには透明に過ぎる液の中で。
「そういえば」
胡蝶は瓶を置いて隣に置かれた小ぶりな蝿帳を開け、中から何かの載った皿を取り出した。
「これ、試食してみます?」
冨岡は胡蝶が目の前に差し出した皿の上のものを見つめた。
拳ほどの丸い麺麭だ。茶色の焼き色の中に点々と紅いものが散っている。
「糧食と療養食に使えないかと。ガマズミを入れて焼いてみました」
「西洋式の製菓を甘露寺さんにみっちり手ほどきしてもらったんですよ」
「なかなか上手にできたと思ってるんですが、如何ですか?」
目の前に差し出された皿の上の麺麭。
その中に顔を覗かせる小さな紅い点。
一つ手に取り割ってみれば酸味のある酵母と焼けた穀物の良い香りがふんわりとあたりに漂う。
千切った一切れを冨岡は口に入れた。
「!」
何か驚いた様子の冨岡の顔を胡蝶が下から覗き込んで尋ねる。
「どうです?」
その一口を飲み下して徐に冨岡は口を開いた。
「酸っぱくない」
「それだけですか?」
「うまいな」
そう言うとまた麺麭を口に含み冨岡は時間をかけて噛んで味わった。
それを見てちょっと満足げに胡蝶が言う。
「そうでしょう」
「まだ改良の余地はありますけど」
「干した葡萄などを入れても風味が良いかもしれません」
返事はない。
無言でゆっくりと一切れずつ麺麭を口に入れ続ける冨岡を胡蝶はどこか不思議そうに眺めた。
しばし訪れた沈黙。胡蝶は皿を横の小机に置き、自分の椅子にまた腰を落ち着けた。
それから手持無沙汰そうに最前開いていた本を手に取り目を落とす。
横に立った冨岡が無言のままその様子を目で追い、胡蝶はその視線に気が付いた。
「ああ、これですか」
胡蝶は男に本のページをぱらぱらと繰って見せる。
「沙翁のハムレットです。逍遥訳の」