イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 1 / 1
    しおり
    1 / 1
    しおり
    華月パンフが出る前に妄想馬上の朝はいつも、呼吸が刃先と呼応する時間だった。
    霧は薄く、鎧の継ぎ目から息が白く立ち上る。
    始は鞍に深く腰を沈め、馬の首筋を掌で確かめると、歪んだ都の輪郭を見据えた。
    遠方では貴族が笑い、神殿では香が焚かれている。
    だがその光景の下には、凍った川のように流れない民の声が溜まっていた。
    その光景に、肺を凍らせるほど冷たい空気を吸い込み、白く微睡む息を一気に吐き出した。
    彼の手の中にあるのはただ一つの規律。
    守るべきものを守る、という動かぬ誓いだった。
    稽古場で交わした約束の一つ一つが、今は現実の重みを増している。
    刃は肌に馴染む。
    鞘を抜く所作は体に刻まれており、馬上の一瞬で命が決まることも知っていた。
    だからこそ、始は国のかたちが崩れていくのを黙って見過ごせなかった。
    ボロ家で飯を待つ子どもたちの顔。
    夜道で呼び止められ消えた老婆の背。
    そういうものがいつしか彼の胸を締めつけた。
    天子の前へ赴いたのは、当然の行いだった。
    広間の天井は高く、光は金箔に撥ね返される。
    貴族たちは絹の裾を揺らし、誰も真実の声を求めていないように見えた。
    始は声を整え、仲間とともに列を作って進んだ。
    言葉は研がれた刃のように短く、だが沈黙よりも真実を訴える力を持つはずだった。
    「どうか民の声をお聞き届けください」
    その一言が、ここでは暴挙に等しかった。
    侍従がひそひそと動き、太鼓の音は不穏に高くなった。
    始の言葉は波紋となって広間を渡ったが、返ってきたのは冷笑と役人の書類にしかたどり着かなかった。
    彼らの正義は帳票に宿り、民の苦しみの数はそこに映らない。
    始はその場で孤独を知った。
    誇りは熱を失い、刃は重くなる。
    己の守るべきものが何なのかを、見失いかけた瞬間だった。

    処刑の決定は速かった。
    公の場に立たされると、縄の冷たさが首筋を走った。
    鼓が一拍、二拍と打ち鳴らされ、始はそれに合わせて最後の視線を集める。
    観衆の顔は輪郭しか見えないが、遠くに誰かのすすり泣きがあるように感じた。
    軍配の下で判が押され、天子の威光は皮膜のように厚く広がった。
    始は諦観という静かな湖に沈むように、力を抜いた。
    しかし最後の瞬間、黒々とした世界の中で一つの光が残った。
    それは春の瞳だった。
    稽古場で交わした幼い約束、夕暮れに分け合った干し飯の味、互いに押し合った稽古の悔しさ。
    それらがひとつの小さな窓となって、始の胸を温めた。
    春の瞳は単なる幼なじみのそれではなく、始が初めて抱いた執着でもあった。
    もし世界が滅びるなら、その瞳だけは失いたくないという生の根拠。
    太鼓の音が止まり、刃が振るわれる瞬間、始の周りはとても静かだった。
    まるで周りには自分と、そして、その視線の先の春だけが存在するような。
    刃が肌を裂く前の一瞬の冷たさを、彼は知っていた。
    だがその冷たさと同じ深さで、春の瞳の光が身体を通り抜ける。
    グッと腹に突き刺した刃に、ギリっと奥歯を噛み締める。
    始は自分が守ってきたものの輪郭を最後に確かめる。
    それは国でも天子でもない、一人の瞳だった。
    刃は下り、世界は白く歪んだ。
    痛みは瞬間の粒子となって散り、始はそれをひとつずつ数える暇もなく、ただ記憶の中で春の瞳が、ずっとずっと離れることは無かった。

    目覚めは、光の喪失とともに訪れた。
    世界は真っ暗で、音だけが輪郭を描いていた。
    始は自分の名を呼ぶ声も、胸の鼓動も、すべてを遠くに置き去りにされたように感じた。
    肉と骨のつながりが虚ろになり、そこに残ったのは焦げつくような感情だけだった。
    最初に残ったのは憎しみだった。
    人の姿を見るたび、始の内側で何かが震え、刃と同じ冷たさで反応した。
    だがその憎しみは単純ではなかった。
    人は彼を罵り、石を投げ、逃げる。
    そのとき、憎しみの端にはいつも不思議な柔らかさがあった。
    守りたかったものへの、ねじれた愛惜。
    人間が憎く、しかしどこかで愛おしい。
    愛しさと憎悪が絡まり合い、始の心は濁っていった。
    何度か、始は手を伸ばしてみた。
    煙のように薄れた記憶の欠片に触れるように、誰かの肩に触れ、古い声で囁きかけた。
    しかし返ってきたのは恐怖と悲鳴だけだった。
    幼い者は走り去り、老婆は家の戸を閉ざした。
    始の温度は人々の恐怖によって奪われ、彼の中の残滓はまた一つ黒く染まる。
    そうして日が経つにつれ、始は変わっていった。
    慰めるつもりで差し伸べた手は、次第に罵倒を返す世の情けなさに変わり、やがて刃を振るう理由へと変質した。
    世界を壊すことでしか自分の内の痛みを抑えられないと知ると、始は人を虐げる存在になった。
    夜の村を歩き、火を吐くような怒りで家々を切り裂き、忘却の中で自らを慰めるように人の形を切り崩した。
    それでも、孤独は癒えなかった。
    誰かを探しているという感覚だけが、胸の底で蠢き続ける。
    だがその「誰か」が誰なのか、始は思い出せない。
    名前の欠片が唇の裏に引っかかっては消え、顔の輪郭が心に浮かんでは砕ける。
    やがて、探すこと自体が執拗な行為になり、その鬱憤は人間へと向けられた。
    ある日、空が低く重く垂れこめた朝、幾つかの足音が土を踏みしめる音が遠くから聞こえてきた。
    始はその気配に反応し、深い闇の中で身体を起こした。
    近づく者は一人だけではなかった。
    やがて、影が二つ、祠の前に現れた。
    黒い織物の外套に覆われた人影と、その脇に寄り添うように、冷たい海のような色合いの式鬼がいた。
    人の名は隼。高名な陰陽師だと噂されるその男は、目に余るほどに静かで、そして穏やかな笑みを浮かべていた。
    彼の隣に立つのは式鬼「海」。
    水のようにしなやかで、その背後からは深い静けさが流れていた。
    隼はゆっくりと一歩を踏み出し、始を見据える。
    彼の眼差しには少しだけ哀れみの色が窺える。
    しかし、ただ、事を成す者の冷たい確信もあった。
    始はその視線を受け止め、漆黒の世界の端から低く声を放った。
    「お前が、俺の探していたものか」
    隼は一瞬だけ眉を揺らした。
    それから、柔らかく、しかしどこか遠い調子で答えた。
    「いいや。僕はきみの求める者ではないよ」
    その言葉は刃の縁に触れるように始の耳に刺さった。
    隼の声は子供を諭すようだが、芯は冷たい。
    本意を語らぬまま、隼は術陣を整え始める。
    紋が描かれ、結界符が地に打たれていく。
    海はその周囲を滑るように動き、祠の周縁に湿った霧を撒く。
    術の気配は重く、始の肉体の痛みに対して鋭く届いた。
    「いつか、君が人とともに生きたいと心から思える相手が現れたら、この楔は外れるだろう。その時まで、少しお眠り。僕の愛しい半身」
    隼は静かに言った。
    その言葉に含まれたのは約束かもしれないし、あるいは単なる技術者の保険かもしれない。
    だが術は冷厳で、隼はためらいなく祠の口を塞ぐべく準備を進める。
    始は声を上げた。
    「……お前は、誰なんだ」
    隼は顔を少しだけ上げ、風に揺れる額の髪を払った。
    目の奥に短く火が灯る。
    「僕の名は隼。終わりを司る君の対なる者。そしてまた、封じる者だよ」
    言い終わると同時に、隼は印を結び、海が呪縛の輪を描いた。
    大地が唸り、祠の周りに古い土の香りとともに銀白の光線が走る。
    始はその光に触れると、凍てついた怒りが震え、刃のような手で抵抗しようとしたが、式鬼の水の輪が彼の動きを吸い込み、反撃の余地を奪った。
    隼の術は冷たく、しかし正確であった。
    力尽きる寸前、始は何かを叫ぼうとした。
    だが隼の掌は素早く、始の身体へと楔を打ち込んでいく。
    肉の裂ける音、骨の折れる気配が夜気に混じる。
    「ごめんね。今はこうすることしかできなくて……」
    隼は悲しげに眉を下げ、足の鎖を祠の結界へとつないだ。
    「これでいい」
    隼は囁くように言った。
    「いつか、君を、君たらしめる者が来るだろう」
    だがその言葉は、静かに抵抗と一抹の憐れみを含んでいた。
    始の身体はゆっくりと冷えていく。
    彼の視界が引き裂かれ、意識の裂け目から最後に見えたのは、かすかな誰かの笑い声。
    遠い日の幼い声だった。
    祠はその場で鎖され、楔は打たれた。
    地面の上に残った形は、刃のように硬い輪郭だけだった。
    隼は祠を見下ろし、短く息をつく。
    誰にも見せない顔で、彼は手の甲で額の汗を拭った。
    その後ろで、式鬼「海」は静かに振る舞い、海面のように冷たい面持ちで祠を囲んだ。
    その時、隼は小声で付け加えた。
    それが約束か呪いかは、祠に封印された刀だけが知るだろう。
    「いつか、君が……、心から求める者が、君を救ってくれるはずだから。その時まで、君はこの誇りである刀の中でお眠り……」
    その言葉は風に消え、祠は静寂に戻った。
    始は封じられ、闇は再び深くなる。
    だが胸の奥では、まだ探すような微かな感触が残っていた。
    それは後に、名を知らぬ少年の声によって救われることになるだろう。

    森は季節を何度も通り過ぎ、木々の年輪は静かに重なっていた。
    人の世の称号も戦の名も、苔の下で少しずつ薄れていく。
    武士は栄誉を極めることなく廃り、ひとり、またひとりと姿を消していった。
    そんな場所に、まだ名の知られぬ少年が迷い込んだ。
    少年の名は弥生春。この森の外れの屋敷に住む少年だ。
    春は、道に迷ったわけでもなかった。
    なにかを探していると言うより、足が勝手に古い小径を辿ったのだ。
    前に進むほどに胸の奥が疼き、風はいつのまにか彼の足を進めた。
    たどり着いたのは必然だったのかもしれない。
    その祠は小さく、屋根の檜皮は剝がれ、柱は苔に覆われていた。
    だが春の目には、そこだけが柔らかに光って見えた。
    「こんにちは」
    返事が来るわけでもないのに、春は自分が声を出したことに驚かなかった。
    誰にも聞かせるつもりのない問いが、口をついて出たのだ。
    もちろん、返事はない。でも誰かがそこにいる気がして、春はやっと背が届くほどの隙間から祠の中を覗き込む。
    そこには一振りの刀が祀られていた。
    不思議なことに、祠は朽ち果て、今にも壊れそうなのに、その刀は、埃に塗れることもなく、そこにあった。
    春は、その刀の美しさに、心を奪われたのだった。

    始は、暗闇の中、長く、深く眠りについていた。
    もうずっとずっと長い時間、眠っていた気がする。
    封印された祠は、外を伺い見ることはできない。
    なのに、外に人の気配を感じた。
    小さな子供の声だ。
    何を言っているのかまでは聞き取れないが、柔らかなその声は、返事もしない始にずっと向けられている。
     だが春は毎日来た。
    雨でも雪でも、ちいさな足で祠の前に立ち、飽きもせずに毎日、始に話しかけ続けた。
    子供の無垢な心の言葉に、封じられたものを少しずつ揺り動かした。
    始の眠りは深く、欠片の意識だけが時折揺れる程度だったが、春の声は徐々にその欠片へと届いていった。
    聞こえるか聞こえないかの境で、暖かい言葉が心の縁に触れるように入り込む。
    初めはただの風のようだったものが、やがて夜ごとの訪れを待つ灯火になる。
    春が来ることは、祠の中で当たり前になった。
    なお始は返事をしなかった。
    刃は鞘の中で時折呟くように震え、夢の断片が指先を過ぎるだけだった。
    しかし、春の声はやがて始の耳に少しずつはっきり届くようになった。
    「こんにちは。今日はいいお天気で、気温も暖かくてお昼寝日和だね。なんだか俺も眠くなっちゃうなぁ」
    声は記憶の縁を擦り、名前の欠片や稽古場の木の匂いを引き出す。
    春の言葉は、断片同士の断絶をつなぐ糸だった。
    その声が、愛おしくて、心を震わせる。
    ずっとずっと待っていたのだ。
    始の意識が徐々に浮上し、記憶が蘇り始める。
    出会いの日。約束の日。そして別れの日。
    あの日の、彼の瞳を。
    後悔はしていないはずだったのに、会いたくて、会いたくて。どうしようもなく会いたくて、希った存在が、すぐそこにいる。
    刀を封印している鎖が、キンっと高い音を立ててヒビが入った。
    始本人も、そのことに気づいてはいなかった。

    「あのね、俺は春っていうんだけど、隼っていうこの国一番の陰陽師のお屋敷でお世話になってるんだ!」
     聞けば、帝に仕える多くの陰陽師の中の最頂点に君臨するのが、隼という陰陽師らしい。
     思い出せば、始を封印した男も、そんな名前の男だった気がする。
     朧げな記憶の中、あの日の白い絹衣を思い出す。
     春は生まれてすぐに隼の屋敷の前で捨てられていたらしく、幼いころから屋敷で育てられていた。
     この都で、隼の名を知らぬ者はいないが、そのほとんどが畏怖の存在として、誰も彼に近寄ることはしなかった。
     やれ、化け狐の化身である。
     やれ、神の権化である。
     そんな噂が流れ、かつ隼の連れる式鬼も相まってか、誰も屋敷には近づくことがなかった。
     おのずと、その屋敷で育てられている春も孤立するわけで、いつも一人であった。
     日々、春のことを知っていく。昔の記憶がよぎる。
     降り積もる。また、新たな記憶が増えていく。それが始にはこの上なく、愛おしかった。
    しかし、そんな祠の静寂がある日、破られた。
    幾人かの陰陽師が小径を塞ぎ、式符と呪文が森の空気を締め上げる。
    噂は早かった。
    「この祠に悪鬼が棲み、子供を惑わしている」 そう主張したのは、隼と張り合う一派の若き陰陽師たちだった。
    彼らの目は飢え、顕示欲に塗れていた。
    祠の結界符を無造作に剥がし、封じられているものを白日の下に晒そうと言う。
    春はその場で飛び出した。
    小さな体は転げるように駆け、声は震えながらも力強かった。 「彼をいじめないで!」
    しかし、大人たちの術は容赦ない。
    放たれた呪術は、狙い澄ました弧を描いて春の身体を襲った。春は祠の石に叩きつけられ、そのまま動かなくなる。
    地面に伏した幼い姿を見下ろして、始の胸の奥で何かが、久しく忘れていた感覚が跳ね上がった。
    ゆっくりと、だが確かに脈打つもの、それは生の音だった。
    長い間、何もかもがどうでもいいと凍り付いていた始の心が、血の鼓動で一度だけ大きく揺れた。
    驚きはすぐに別の感情に変わる。
    憎悪が深く、鋭く、とどめどなく湧き上がった。
    世界が不条理で、愚かで、そしてどうしようもなく憎らしい。
    始を封印していた鎖が、音を立てて弾ける。
    封印の楔をただちぎるのは、儀式を破るような力業だった。
    鞘の中の刃身が震えて膨らみ、結界が軋む。
    始は自分が抱えてきた冷たい断片を一斉に解き放った。
    突然、姿を現した鬼の姿に、若い陰陽師たちがざわめく。
    ある者は、怯え腰を抜かし、ある者は、発狂し、走り逃げた。
    始は力を解放すると、動かぬ春を抱きしめた。
    抱え上げる手は粗く、だがどこか不器用に大切さを量っていた。

    ああ。ずっとずっと見たかった春の顔が。
    ずっとずっと直接聞きたかった、声が。
     鼓動が、何も聞こえない。

    嗤いが口元を裂いた。
    それは人を嘲る笑いでもあったが、同時に救いを求める叫びでもあった。
    「さぁ、すべてを終わりにしよう」
    その嗤いが森に不協和音を放つと、始は力を解き放つ。
    破壊は凄まじく、深い怒りが刃となって燃え広がる。
    祠を襲った者たちが次々に始の怒りの炎の前に倒れていった。
    夜は血の匂いで充たされ、森の生き物は怯えて樹上で動かなくなった。
    だが、暴力は完全な解答を与えない。
    やがて、始の前に一人の影が現れた。
    かつて相まみえた隼の姿だった。
    封印したはずの者を見下ろす目は穏やかな光をたたえていた。
    隼は微かに笑い、始に優しく呟いた。
    「あぁ、君はそこまで感情を動かされる存在に出会えたんだね」
    始は剣を振るい、隼に襲いかかった。
    隼の術は速く、正確で、刃の衝突は音を立てて跳ね返される。
    始の胸は貫かれ、血が重く流れ出る。
    おもむろに、隼は始の胸から一つの珠玉のような核を取り出した。
    それは生の残滓であり、始の一部を宿した言わば魂の欠片だった。
    隼はその核を厳かに春の胸元へと埋め込んでいく。
    春のその胸に新しい鼓動が小さく宿るのを見た。
    始は力尽き、血に濡れた土に倒れこんだ。
    二人は互いに寄り添うように、祠の前で眠りに落ちる。
    眠りは深く、長い時間の流れを一度に織り直すようだった。
    森は再び静かになった。
    だが祠の中には、二つの魂が結ばれた痕跡が残る。
    始の怒りはやがて伝説となり、隼の名は一方で栄光を手にし、他方で問いを投げ続けることになる。
    春は目を閉じたまま、胸の中で微かな鼓動を抱き続けている。二人は眠りについたが、世界はまだ目を覚ます準備ができていなかった。



    森は昼下がりの蒼を透かしていた。
    春は歩きながら符の並びを思い返す。
    調伏の所作はいつもなら指先の延長のように流れるものだが、今日はどの印もどこか芯を欠いていた。
    隼に育てられ、術の数式と礼式はすべて身についている。
    誰もが式鬼を調伏し、手に入れられる年齢になったにもかかわらず、どうしてもこの一節だけが噛み合わない。
    できるはずの所作が、どこかで空転しているのだ。
    考えが濃くなるほど足取りは無意識に森の奥へ向かい、いつしか知らぬ小径に入り込んだ。
    木漏れ日の角度が以前とは違い、風の匂いが少し古びている。見覚えのない風景なのに、胸の奥に薄い懐かしさが広がる。
    春は立ち止まり、ゆっくりと前に進んだ。
    遠くで苔の匂いと朽ちた檜皮の香りが混じり、祠が姿を現す。
    それは小さく、崩れかけて口を半ば閉じた古い祠だった。
    柱に刻まれた結界符はひび割れ、紙垂は色を失ってぶら下がっている。
    妙に馴染みのある輪郭。
    ドクリと、心臓が大きく跳ねた感覚に、春はそっと胸元に手を寄せる。だが、応えは何も返ってはこない。
    祠の戸を押すと、石の匂いと古い血の微かな香りが顔を撫でた。
    内部は薄暗く、土と苔の匂いが折り重なっている。
    刀だ。
    土埃に埋もれて、苔むしてはいるが、間違いなく、これは刀である。
    春は鞘の端を掘り出した。
    そこにあるのは、細長い鞘、そしてそこに眠る刃だった。
    鞘を引き抜くと、冷気が指先を走り、胸が震えた。
    刃の形は古く、長年の眠りにも関わらずその輪郭は鋭い。
    掌に伝わる金属の冷たさが、春の内側で何かを触発した。
    遠いところで、幼い日の囁きが耳鳴りのように蘇る。
    だがそれはまだ朧げな音符で、完全な旋律にはなっていない。春は刃を胸元に抱える。
    二つの物の間を、見えない糸が引き結ばれる感覚が走る。
    鞘の縁で、かすかな金属音が鳴った。
    刃身の表面にうっすらと人の輪郭が浮かび、影が伸びる。
    月影のように冷たい光が、その輪郭が徐々に人の形をなしていく。
    祠の空気は圧が変わり、時間がゆっくりと動いた。
    「お前が、俺を喚んだのか?」
    声は刃の端から零れ落ちた。
    鋭く、濁りのない音だった。
    春は、答えることをためらわなかった。
    「こんにちは。俺の名は、春。君の名は?」
    その瞬間、胸元が熱く、そして強く光った。
    光は刃の刃身へ走り、冷たさが指先を貫いた。
    刃はぐっと膨らむように、あるいは伸びるようにして鞘を離れ、黒い衣の影がゆっくりと現れる。
    刃に宿っていた記憶の断片が、破片のように舞い上がる。
    瞳は深く、美しい烏羽色のように澄んでいた。
    春を見据える視線は、判断でも攻撃でもなく、試し見るような驚きと、微かな震えを伴っていた。
    「春……」
    影は言った。
    言葉に過去の痛みと刃の冷たさが混じる。
    「そうか、春、か。俺の名は始」
    「はじめ……」
    春は刃を胸に抱きしめ直し、胸の中で欠けていた鼓動が、微かに呼応する。
    これまで失われた記憶を埋める説明は何もなかったが、感覚は確かだった。
    なんだか、とても懐かしい気がしていつの間にか涙が頬を伝っていた。
    刃はゆっくりと人の姿に近づき、始は一歩、前へ出た。
    足取りはまだ不安定で、刃と皮膚の境界が瞬時に揺れる。
    彼の声は低く、刃の縁の冷たさを残しつつも、人に向けて命じるような響きを持っていた。
    「春、俺と契約しろ」
    その言葉は単なる命令ではなかった。
    刃としての宿命、鬼としての残滓、武士としての誇りが混ざり合った誘いだった。
    契約は陰陽師と式鬼を結ぶ古い所作であるが、二人だけの約束として成り立った。
    春は目を閉じ、胸の中の鼓動に耳を澄ませる。
    過去の全貌は見えない。
    だが胸の確かな感触が、選択を促した。
    「もちろん」
    春は小さく、しかし確かな声で言った。
    「契約する。始、俺の式鬼になってくれる?」
    言葉が終わると、祠の古い結界符がかすかに震えた。
    始は歯をわずかに見せ、薄く嗤った。
    その嗤いは刃物の冷たさを孕んでいたが、どこか柔らかさも含んでいた。
    「あぁ、俺のことを上手く使ってみせろよ、ご主人様?」
    二人の身体(と刃)は互いに近づき、世界の一枚をそっとずらすように、歩みを進める。
    春は刃を帯び、始の肩に一瞬手を触れた。
    刃の感触は冷たいが、その鬼は温かった。
    祠の外の森は静かに息を詰め、風がゆるやかに動き始める。
    「少し疲れた。俺はまた少し眠る。お前の力を後で寄越せ」
    そう言うと、人影がまた刀へと姿を消していく。
     そっと春が胸に手を当てると、刀と共鳴するように二つの鼓動が脈打つのを感じた。
     こうして、二つの魂が宿る力が、運命が、動き出した瞬間だった。

    ohinarisann Link Message Mute
    2025/11/03 7:48:34

    華月パンフが出る前に妄想

    #二次創作 #始春
    出る前に書きなぐる。

    more...
    Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    200 reply
    転載
    NG
    クレジット非表示
    NG
    商用利用
    NG
    改変
    NG
    ライセンス改変
    NG
    保存閲覧
    NG
    URLの共有
    OK
    模写・トレース
    NG
  • CONNECT この作品とコネクトしている作品