ありふれた日々の幸福な小話まとめ帰宅してからもう一杯
寝苦しくって目が覚めた。目を開けてみれば、デュースの長い腕が絡みつくようにこちらの頭を抱きかかえている。そりゃあ石に押しつぶされる夢を見るはずだ。
デュースを起こさないようにそっとベッドを抜け出した。そうして、まだ眠り呆けている彼の顔をじっと見る。ムニャムニャと寝言にもならない喃語を呟いているのが可愛くて、吐息混じりの笑い声が漏れた。朝から良いものを見た。
昨日は後始末もそこそこに寝てしまったから、あらぬ場所がカピカピしていた。備え付けのバスローブを着るのも何だかおっくうで。裸のままペタペタと足音を響かせて、シャワーに向かった。
優雅な朝風呂を決め込んだ髪からは、嗅ぎなれない高いシャンプーの匂いがする。ラブホテルの良いところは、やたら高級な備え付けのアメニティ。
サラサラと揺れる髪の毛は、昨夜この部屋でそういう事をしましたと主張しているようだ。少し恥ずかしかったりもするけど、もうとっくに慣れてしまった。
薄くて光沢のある生地のパジャマを着て、ひとりソファでルームサービスの蕎麦をすする。つるつるとした麺を飲み込んでいると、後ろから近づく足音が聞こえてきた。振り返ると、あくびをしたデュースが立っている。
「おはようデュース」
「おはようユウ、蕎麦食べてるのか?」
「うん、1杯目は無料だって」
「一口くれないか」
「デュースの一口大きいじゃん」
嫌々と首を振るのも気にもとめず、ユウの手首が掴まれる。箸でつまんでいた蕎麦を食べれられてしまった。人の食べかけをつまむなんて、とんだいやしんぼだ。
むぐむぐと咀嚼して満足したのだろう。デュースがリモコンを操作して、自分の分の蕎麦を注文しだす。最初からそうすれば良いのに。
蕎麦が来るまで手持ち無沙汰なのか、デュースがソファの隣に座る。ズボンを引っ掛けて上裸という、およそアツアツの蕎麦を食うにはチャレンジャーな出で立ちだ。声を掛けようとも思ったけれど、裸の上にテロテロの薄いパジャマを着ただけの自分が言えることは何もないと口を噤んだ。
蕎麦を啜りつつも、横目で彼をチラリと見る。肩甲骨の辺りに、生々しく赤い引っかき傷が通っている。爪を切ったつもりだったけれど、もっと短くしておけば良かったなあと後悔がよぎる。ふと見下ろした己の首に散らばった噛み跡と赤い跡を見て、少し考えを変えた。お互い様だろう。
そうこうしているうちに蕎麦が来て、ローテーブルにならぶ器は2つに増えた。ようやく二人揃っての朝ごはんの時間だった。ツルツルと喉を通る麺は安っちい味がして、いかにもなインスタントの味わいだ。それでもお出汁は美味しいし、お腹はふくれる。朝ごはんには十分だった。
「ラブホのお蕎麦ってさ、なんか美味しいよねえ」
「二人で食うからだろ、今度美味いとこにも食いに行こう」
「うん」
二人で食べるから、それは本当にそのとおり。通り掛かるといつも良い匂いのする近所のお蕎麦屋さんでも、部屋で食べるカップ麺だって。きっとどっちも美味しいんだろう。
ローテーブルの端の方には、ぞんざいに置かれた車のキーがある。少し下を見れば、乱雑に投げ出されて絡み合った二人の服が落ちていた。
あともう少し時間が経つ頃には、二人とも支度を終えて二人の家へと車で帰る。ドライブからの朝帰りなんて時間の過ごし方を覚えたのも、デュースと恋人になってからだ。
「ほっぺにハネてるよ」
「悪い、ありがとう」
「どういたしまして」
頬に飛び跳ねてついた蕎麦のつゆをティッシュで拭う。食べる手を止めない横顔が、ああ好きだなあなんて思った。
アワータイム
ぱちゃぱちゃ、ちゃぷちゃぷ。バスタブを覆い尽くす泡の下で、お湯が揺れる音がする。それにしても量がすごい。視界に飛び込んでくるのは真っ白な泡ばかり。雑貨屋で何の気なしに買った入浴剤のポテンシャルを思い知った気分だ。
「それで、念願の泡風呂のご感想は?」
「思ったより泡すごいな、ユウが埋もれそうだ」
「そうだよ、だからデュース絶対離さないでね」
デュースの胸板にもたれるようにしてゆったりと背中を預ける。やはり遮る布が無いと、体つきだとか肌の柔らかさはハッキリとわかるものだ。しっかりと筋肉の付いた身体の安定感は凄まじい。ユウの濡れた髪の毛が首を擽ったらしく、少しむずがったことすら明白だった。
「こういうの小さい時に憧れなかった?」
「石鹸を丸々バスタブの中に溶かして、母さんに叱られた」
「経験者でしたかあ、あれ泡立たないでしょ」
「知ってるって事はお前もやったんだな」
まあ子供の頃というのは、根拠の無い自信と思いつきとが体中に満ちている物だ。きちんとその後に風呂掃除の罰も受けたので、とっくに時効の罪だとは思う。ごまかすように泡を両手ですくって、吹いてとばした。まるで雲のようにふわふわと浮かんでは、そのまま泡の海にまた落ちていく。色つき入浴剤の方を買っても、綿あめみたいで楽しかったかもしれない。
「明日もお休みだからさ、綿飴つくろうよ」
「アレって専門的な技術とか要るんじゃ無いのか」
「この前エースがくれたやつで出来るよ」
「酔っ払いが押しつけてきたにしては、良い物貰っちゃったな」
先週の中程に、勤め先での忘年会を終えたエースがふたりの家に遊びに来た。手土産だと渡された機械は早々にしまい込んで、後は二次会だとばかりにリビングに場を移してしまったから。ユウだって手渡されたそれが綿飴作成機だと気がついたのは、翌日の夜に包装紙を剥がしてからだ。多分ビンゴ大会か何かの景品なのだろうけれど、楽しい物をもらったには違いない。
話の途中にデュースの手が横からぬっと現れる。ユウの前にかざされたそれは、何か三角形を模した泡が乗っていた。おそらく話の流れからしても食べ物だろう。これは答えを外せないぞ、気合をいれて答えを考える。
「おにぎり?」
「もっと甘い方だな」
「わかった、かき氷!」
「惜しい、ソフトクリームだ」
改めてデュースの手のひらを見ると、先端の部分は指でちょいちょいと調整されていた。渦巻きを描いたソフトクリームの先、に見えない事もない。なるほど、そうなると手はカップだったのだろう。横にスプーンでも添えてくれていれば正答率も上がったはずだ。
「なんか冷たいの食べたくなってきたね」
「もうそろそろ出るか」
「うん、遊びすぎた」
随分と長い間湯船で話しこんでいたお陰で、指の先まですっかりホカホカだ。今晩はぐっすり眠れるに違いない。デュースの手のひらから泡を払って、下に落とす。さて出る前に栓を抜いておこうか。立ち上がろうとしたユウの腰に、後ろから回される手があった。何のつもりかと聞く暇もなく、そのままもう片方の手で上を向かされる。逆さになった瞳と視線があって、そっと触れるだけのキスをされた。流石に風呂場だけあって、リップ音すらよく響く。
「そういう雰囲気だったっけ」
「泡の中でもユウが可愛いなとは、ずっと思ってた」
「すけべめ」
とにもかくにも、名残惜しかろうともこのバスタブを去らなければ。脱衣所にはバスタオルと着替えがあったはずだから、きちんとそれを身に着けて、その後に部屋にたどり着いたなら。ふたりが夜をどう過ごすかなんて野暮だろう。
大人の季節
とにかく暇だった。休日の午後に、ユウは居間のソファで溶けていた。昼ご飯は先ほど食べてしまった。掃除も毎日少しずつやっているので、特に目立って汚い場所も無い。テレビのチャンネルを忙しなく変えてみたりもしたが、興味もさほどひかれない。
意味も無くクッションを抱きしめても、返ってくるのはふわふわとしたさわり心地だけだ。最近へたってきたからと、詰め物を増やしたのが功を奏している。昨夜干したばかりのクッションカバーからは、柔軟剤の良い香りがしていた。
背もたれに身を預けて身体を伸ばすユウの横では、デュースが雑誌を読んでいる。クッションを一度横へと置くと、ユウはデュースの方へと転がっていった。勢いづけて膝を指先で軽く叩くと、太ももの上の雑誌が退けられる。空いた太ももの上へと遠慮無く頭を滑り込まると、固い筋肉の感触が服越しに伝わってきた。
「暇だよお、デュースくーん」
「買い物でもいくか?」
「特に今必要なものがないよ」
「そうか……」
せっかくの提案だったが、本当に買うものがないのだ。日用品は先のセール日に買い込んでしまったし、晩ご飯の材料も冷蔵庫に揃っている。本日はパスタの予定なので、手間な下ごしらえも無かった。何か一品ものすごく手間の掛かるおかずを増やしても良いが、食べきれる自信もない。デザートは冷蔵庫にアイスが冷えているので抜かりなかった。
どうにも頭の位置が悪くて、何度か首を置き換える。そもそもが鍛えられた男の腿であるので、後頭部に伝わるのはゴツゴツとした感触なのだが。
「僕の膝、寝心地悪そうだな」
「引き締まってるから、デュースの成長は感じられます」
「やっぱり固いんだな?」
「そうとも言う」
呆れたように笑ったデュースが、ユウの首後ろにクッションを差し込む。頭のおさまりもだいぶ良くなった。ふかふかの綿越しに、仄かな体温が伝わってくる。
ユウの視界に映るのは、天井とデュースの上半身。肘掛けに置いた雑誌を眺めている顔が、ユウと視線を交わらせることはない。出会ったときより幾らか引き締まって、大人びた顔つき。昔に比べて短くなった髪の間から、額が見えた。まん丸でつるつるしている。
「デュース、大人になったね」
「酒も煙草も法に反しなくなった、ユウもだ」
「そうなんです、大人になりました」
ユウだって学園にいた時とはいくらか変わった。邪魔だからと短く保っていた髪の毛は肩甲骨に届くようになった。式典以外の時も化粧をするようになったし、口寂しいときに甘い酒に手を伸ばすことを覚えたのは何時だったか。
全力で走りぬける爽快感と達成感は尊いことだろうけれど。ほんの少し手を抜く事の必要さも、今では知っている。だから今日のように何もしない日というのは、ユウの人生に必要なことなのだ。
「戸棚にね、この前買っといたワインがあるんだ」
「それは奇遇だな、僕も昨日会社で貰ったクラッカーがあるんだ」
「じゃあサングリアでも……ううん、今日はホットワイン作ろう」
顔をデュースの腹に寄せて、胎児のように丸まった姿勢をとる。鼻孔いっぱいに満たされた恋人の香りは、勝手知ったるものだ。天に向かって晒されたユウの耳を、優しく撫でる指がある。
あんまりに心地いいので、うとうとしていたのを気づかれたのだろう。端に置いてあったデュースのカーディガンがそっと肩に掛けられた。あたたかくて、優しくて、幸せだ。閉じられた瞼に抗うこともせず、ユウの意識は眠りへといざなわれていった。
約束は未来に
「ユウ、ただいま」
玄関に立って挨拶をしても、返事が返ってこないのをデュースは訝しむ。靴は置いてあるし、居間のほうに気配もある。彼女がこうした挨拶を欠かす性格ではないのを知っているからこそ、輪をかけて不思議だった。首を傾げながらも居間に足を運んでようやく合点がいった。スマートフォンを耳にあてて、話しかける姿。どうやら通話中だったらしい。
「デュースママ、この前はお野菜ありがとう!白菜すごく大きかったね」
会話をしたユウとふと目が合って、ちいさな「おかえり」と共にひらひらと手を振られる。デュースが帰宅したことに今気が付いたようだ。かしましい話し声を後ろにして、ジャケットをハンガーに掛ける。汗をかいていたので、シャツはそのまま洗濯機に放り込んだ。
「デュースも今帰ってきたよ、電話替わる?いいの?」
部屋着に着替えたところでご指名かと身構えたが、特に話すことは無かったらしい。ユウが指で小さなバツを作り、デュースの方へと向けてきた。母はユウがお気に入りなので、出来るだけ彼女と話をしていたいのだろう。この年齢になって娘が出来たようだとはしゃいでいるのも見たことがある。
恋人の親というのは関係も難しいとは思うのだが、ユウはデュースの母親との距離が近い。元々ふたりともが人好きだというのもあるし、生きるために苦労をしてきた女性たちだ、何か通ずるところがあったのかもしれない。
「うん、美味しそうだね……今度食べたいな」
ユウはラグの上で、膝にクッションを抱えて座り込んでいる。デュースは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、ソファに座ってそれを飲んだ。視界の下のほうに、ユウの背中がちらちらと見えている。特に用があるわけではないが、その背中をジッと見つめた。
ローテーブルに飲みかけのペットボトルを置いて、少し湿った指先でユウの背中に触れた。ただ戯れに肩甲骨を触れる手が、甘えているだけだと分ったのだろう。首と肩にスマートフォンを挟んだユウが、肩越しに片手でデュースの指先を握った。人差し指と中指をまとめて握った手が、関節を往復していく。そういえばこういうマッサージがあったな、何て言うのだったか。ぼんやりと考えるまま、それを制しもせずにそのままにしておく。
急にユウの手が離されて、デュースの指先は宙に浮いた。開いた手が寂しいが、することもないのでユウの肩に乗せる。惰性でつけていたテレビからは、明日の天気を伝える声が聞こえてきていた。明日は休日に相応しく一日晴れなのだそうだ。ここのところ曇りが続いていたし、シーツをまとめて洗うのも良いかもしれない。明日の予定がなんとなく決まったころ、ユウも電話がひと段落ついたらしい。気が付けば別れの挨拶をしているのが聞こえてくる。
「うん、うん、デュースママも身体に気を付けてね、それじゃあまた」
電話を切ったユウが、ローテーブルにスマートフォンを滑らせる。そして前を向いたまま、デュースの足元へと身体をねじ込んできた。ソファに座るデュースと、床に座り込んだままのユウ。まるでひな壇のように縦に並ぶ形だ。
「改めておかえり、デュース」
「ただいまユウ、母さん何て?」
「この前送ってくれた野菜の話と、あと白菜のレシピ教えてくれたよ」
ユウが手を伸ばしてくるのを、上からやわやわと握り込む。他者の口から聞く身内の話は、いつ迄経っても感慨深いものがある。大切な恋人と大切な家族が、電波を通して交流を楽しんでいる。そのことが何だか不思議で仕方ないのだ。
「そういえば言われちゃった」
「相談事でもあったのか?」
ユウが繋がれた手を振り払い、後ろを向いてきた。そしてそのままソファの上まで登ってくると、デュースの隣に腰掛けた。楽しそうに頬に触れてくる指を、そのままにさせておいた。
「もうそろそろデュースママじゃなくてママって呼んでほしいし、法律上も養娘になってほしいなって」
その言葉を聞いたデュースが、何も口にはしていないのに咽る。つまりプロポーズはまだなのかと、ユウを通して実母がせっついて来たのだ。
ユウがこの世界で生きると決めた時に、異世界からの旅人であった彼女には、戸籍や経歴と言ったものはなかった。それを聞いた周囲が色々と便宜を図ってくれたのだ。流石に数多の王族や豪商が集まる学園だけあったし、そこまでの好意を受けるのはユウの人徳でもあった。
つまり今のユウは、この世界に生きるごく一般的な住人で。ふたりが一緒になることに何の障害も無い。デュースの母はユウの事情を知っているので、おそらく彼女なりに心配してくれているのだと思うが。それにしたって気が早すぎる。目の前が眩む心地だった。
「まあでもねえ、きちんと言っておいたよ」
「な、何を」
「きっと息子さんが格好良くキメてくれる筈なので、もうちょっと待っててねって」
にまにまとした笑みを崩さないユウは、デュースの頬を指先で突き続けている。何だか全て見透かされているようで悔しい。
ああそうだ、本当は今すぐにだって一緒になりたい。この子は自分の愛する人なのだと、世界中に知らしめてやりたい。けれど今はまだ、二人とも身の回りが落ち着かない時期でもある。不安定な時期に事を急いて、振り回したくはなかった。
「その、その通りで、今はまだ言えないけど、」
「うん」
「すぐにプロポーズするから……待ってて欲しい……」
「はあい」
楽しそうな声が聞こえて、ユウがデュースの膝の上に頭を乗せる。笑う度に振動が伝わってくるのがむず痒い。こんなにも格好悪いプロポーズの予約ってあるんだろうか。顔を見られるのも恥ずかしくて、熱くなった瞼を手の甲で覆った。