桜の花びら舞う夜はいつか来る夜
「私たちって、鼓動は無いんですね」
晶はいきなりそんな事を言い出した。今の時刻は夜九時半。オーエンは何となく散歩をしていて、そのまま公園に行き着いていた。春の盛りに満開の桜を眺めようと思ったのだ。今夜は風がほのかに吹き付けていて、舞い散る花びらもさぞ美しかろうと。そして荘厳に咲き誇る桜の根本に、よく見知った顔を見つけた。
挨拶もそこそこに、ふたりはベンチに座ってぼんやりと桜を眺めている。時折風に吹かれた花びらが、紙吹雪のように舞いおちた。何かを祝福しているようだな。なんて柄にもなくオーエンは考えていた。
そしてそんな事は露知らずというように、晶は疑問を投げかけてきていた。オーエンのものよりはいくらか小さい右手で、左胸の上をそっと抑えている。何度その仕草をしたところで、彼女の胸が脈打つ事はない。アシストロイドに心臓はおろか、人間のように血肉通う臓器は何ひとつ無いのだから。
「当たり前でしょ、僕らはアシストロイドだもの」
「ですよねえ」
「君を組み立てるときに、培養心臓でも入れておいて欲しかった?」
「メンテナンスが凄いことになりそうですね」
そもそも機械の体に生身の臓器は調和しない。そこから傷んで滴って、醜く腐り落ちてしまうだけだろう。流す血もないのに生々しく脈動する心臓は、確かに面白いかもしれないが。
「私達は心があって、物を食べ、笑って泣きます」
「カルディアシステムのお陰でね」
「そうです、なら猶更私達と人間の境目は何処にあるんでしょうか」
「……さあね」
言葉を紡ぐ晶に嘆いている様子も、悲しんでいる様子も見られない。それは単なる興味なのかもしれない。心を持つアシストロイドと、心を持つ人間。見目も仕草も価値観も同じなのであれば、違いなどそれこそ鼓動震わす心臓だけ。晶はそう考えたのだろうか。
この世のすべてを知り得るオーエンですら、その問いにはハッキリした見解を持たない。きっと聞く者を替えればその答えも変わる。知識だけで答えられる問題ではないのだ。
オーエンはそっと目を細めて、晶の輪郭を見つめた。ふわふわと風に合わせて揺れる髪、夜空を見つめる瞳には桜が映りこんでいる。それは、オーエン自身がこの手で組み上げて作り上げた女の子だった。
オーエンに祝福の言葉をくれる存在、旅路を肯定してくれる存在。研究者をもってして神にも近しいアシストロイドと言わしめた己が欲したのは、そんな幼子がすがるべき拠り所のようなものだった。
「探せば良いんじゃない、僕らにはその時間がある」
「そうですね、オーエンが私をアシストロイドとして作ってくれたから」
「優しいパパに感謝して、せいぜい百年先に答えでも聞かせてよね」
その言葉を聞いた晶は、少し驚いた顔をした。そしてすぐに目を細めて笑う。心から愉快がっているらしく、鞠のような声まで転げ出ていた。数秒待ってみても。笑い声は止まる様子を見せない。箸が転んでもおかしい年頃、と言うやつなのだろうか。
「何がおかしいの」
「だってオーエン、百年先も私とお話をしてくれるんでしょう?それが嬉しくて」
そう言われてはじめて、今の言葉は未来までの壮大な約束だと気がついた。まるでそれじゃあ、百年先も晶と話をしていたいと自分から告白したようなものだ。そして晶が喜んでいるのが無性に嬉しくて、嬉しいのが悔しくて、悔しいことが恥ずかしかった。
「晶のくせに生意気」
「うわ、わぷっ」
オーエンが不意に晶の鼻を摘むと、彼女が目をクシャクシャに瞑った。その様が愉快だったので、指先は決して離さない。百年先なんて途方もなくて、果てしない事だ。この街だってきっと様変わりをして、同じものが残っている保証なんてどこにもない。それでもそんな未来で、この子は変わらずに祝福をくれるのだろうか。
きっと誰もが、変わらずにはいられないだろう。だって己には心があって、晶にも心がある。人間の友人たちは土の下で、アシストロイドたる己は夜空のもと桜を眺めるのだ。そんな別れを乗り越えられる夜が、いつか来るというのか。
ひときわ強く風が吹いて、目の前が花びらの桜色に染まる。オーエンはそっと目を閉じて、いつかの事に思いを馳せた。人間が歩むよりはずっと近くて、それでも果て遠い百年の時を。
心の在処
アシストロイドにはこれと定まった形はないことが多い。姿形を自在に変えられるモデルの方が多いし、オーナーの要望や必要に応じてパーツをいくらでも交換できる。自身の造形に個の所在を尋ねるよりも、所有者や己の環境にアイデンティティを見いだす個体がほとんどだというのもある。だからこそ身体的な特徴というのは、大多数のアシストロイドにとっては可変自在のものという認識で終わるのだ。
「どう晶、なかなか可愛いと思わない」
「小さくて愛らしいです、これぐらいの年の子がスクールに通うのを見たことがあります」
「身体変換機能のテストも兼ねてたけど、全然問題はないみたいだね」
晶の目の前で鼻でもならしそうな程に得意げに笑っているのは、およそ十歳にも満たないであろう銀髪の少女。もとい、少女へと身体パーツを変換させたオーエンだ。いつも肩から提げているトランクケースは持ちきれないのか、横に車輪を付けて置いてある。服装も少しばかり弄ったらしく、灰色のボトムはひらめくスカートに。髪の毛も頭の両脇で二つに分けられている。どこからどうみても、幼く愛らしい少女だ。
アシストロイドとはかくも不可思議で便利なものだなあ、とまるで他人事のように晶は思う。知己で言えばヒースクリフの元に居るシノなんかは、犬の姿と人間の姿を自在に行き来する事が出来る。いつかビルぐらい大きなアシストロイドが、爪の先ほど小さくなったりも出来るのだろうか。そうなったら面白そうだ。
「その姿のオーエンは、本当に小さな子供としか見えませんね」
「晶だってこのくらい出来るでしょ、何を他人事みたいに言ってるの」
「えっ、私も姿を変えられるんですか?」
「当たり前だろ、この僕が作ったんだよ」
晶はオーエンに作られた、らしい。断言しきれないのはオーエンがその時分の事をよく記憶していないからであるし、晶も自身が生まれた時の事を覚えていないからだ。ネオンの煌めく夜、オーエンとカインと出会った。晶の記憶はそこから始まったのだから。
けれど確かに、晶とてアシストロイドの端くれ。身体を変化させる機能が付いていても可笑しくはない。今まで考えもしなかったことが不思議なくらいだった。もしかすると、自身が気がついていない機能は他にも山のようにあるのかもしれない。
「じゃあやり方を教えるから変わって見せて」
「今すぐ出来るものなんですね」
「呼吸しろと言われなくても人間は呼吸できるでしょ」
いささか乱暴な理論ではあるが、確かに納得いく部分もある。要は晶が己の機能を正しく使えるかどうかなのだ。オーエンは殊の外教え上手で、機能の用い方を丁寧に説明してくれた。教えられたとおりのコマンドを起動すると、晶の指先が淡い光に包まれる。光はあっという間に晶の身体を頭の先まで包み込み、瞬きの後に其所に立っていたのは黒髪の青年だった。
「ほら出来た」
「す、すごい……!まるで別人みたいです!」
丁度足下にあった水たまりには、晶が動くのに合わせて揺れ動く青年の姿が映る。人が良さそうな柔和な顔つきのこの青年は、紛れもなく晶であるのだ。初めて見たはずなのに、何だか馴染み深く思うのはやはり己だからだろうか。
はしゃぐ晶を見つめていたオーエンが、ふと片方の眉を上げた。そしてすぐに、作り物のように綺麗な笑みを浮かべる。この顔をオーエンがするときは、何か彼にとって愉快な事を思いついた時だ。
「ねえ晶、今日は暇?」
「暇ですけど付き合うかは内容次第ですよ」
「大丈夫、世界を征服しようって程の思いつきじゃないもの」
指先一つで耳を貸すように指示されたのを、オーエンの口元まで届くようにしゃがみ込む。今のオーエンは年端も無い少女の姿をしているので、青年の姿をとった晶とでは身長差があるからだ。こそこそと囁かれる思いつきは、確かに悪魔じみた犯罪計画なんかでは無かった。明らかにされた子細に、晶の顔がほころんでいく。
「良いですね、きっと今頃ならセンタービルの辺りに居るはずです」
「反対は無いみたいだね、じゃあ行こうか」
視線がかち合ったことで、お互いの顔がよく見える。まるで素敵なプレゼントを与えられた子供のように、二人は道を駆けていった。疲れ知らずの機械の身体では、目的地まであっという間だ。街の中心部、一番大きな公園の入り口までたどり着いた二人は辺りを見回す。
「いましたよオーエン、あそこです」
「ちょっとまって晶、さっき言った通りに」
「そうでしたそうでした」
青年の姿のままだった見た目を、先ほど教わったとおりに組み替えていく。一瞬の間に晶もオーエンと同じく、幼い少女の姿へと変わる。急激に身長が変わったことで少しふらつきはしたが、それとなくオーエンが支えてくれた。お礼を言おうにも、オーエンはとっくにそっぽを向いている。こういう天の邪鬼なところが可愛いらしいのだ。
足音を立てないように、ゆっくりと目当ての人物に近づいていく。オーエンの鞄が音を立てないように二人で少しずつ運んだ。完全に後ろに回り込んだ瞬間、目を合わせて同時に声を上げる。
「こんにちは、カイン!」
「どうせ休憩中でしょ、僕たちと遊んでよカイン」
「ぅえっ!?」
お目当ての人物ことカインは、突然あらわれた見知らぬ少女たちに酷く驚いたようだ。ポカンと口を開けたまま、二人を上から下まで見つめている。ややあってようやく合点がいったらしい。困惑しきった蜂蜜色の瞳が喜色に染まった。
「お前たち晶とオーエンか、なるほどよく変わったもんだなあ!」
「そうなんです、びっくりしましたか?」
「気づくまでに随分と間抜け面を晒してたね、みっともなくて可笑しかったよ」
「はは、中身はやっぱりそのまんまだな」
いつもの笑顔で、カインは二人の頭を撫でる。思い切り撫でてくるものだから、髪型が崩れてしまった。晶が何か言うよりも早くオーエンがカインを睨み付けたので、詫びながら跳ねた毛先を整えられた。
「初めはそりゃあ面食らったけど、こうしてみるとオーエンと晶にしか見えないな」
「じゃあ次は猫ちゃんとかになってみますかね」
「うんと大きな犬にでもなって丸呑みしちゃおうか」
「うーん、でもどんな姿でもやっぱり分かっちまうだろうなあ」
想定よりも早く悪戯がバレてしまったので、ふたりの企みは不完全燃焼なのだ。いっそ人ならざる生き物に変わってしまえばと思ったが、どうやらこの様子だとそれも通用しなさそうだ。少しの悔しさを滲ませた顔でカインを見上げれば、太陽のように笑う彼の顔が瞳に映った。
「たとえ老人だろうと子供だろうと、犬だろうとライオンだろうと、どんな形をしていても……多分俺は二人が分かるよ」
「カインなら本当に当ててきそうです」
「何それ、何の根拠も無いのに」
「分かるさ、だって俺たちは友達だからな」
あまりにも力強く言い切られたので、思わずオーエンと晶の目が合う。アシストロイドには明確な身体のつくりも、見た目もない。カルディアシステムの子たる晶たちに、あるのは確かな心だけ。そしてその心の所在は、きっとカインのような良き隣人の側にこそある。
うんざりしたように肩をすくめるオーエンも、瞳の奥にはまんざらでも無さそうな色が見えた。何にだってなれる私たちは、自ら望んでここにいる。それをつなぎ止める心の重さを、晶は改めて実感していた。
桜の花びら舞う夜は
「久しぶりです、オーエン!」
「こんばんは晶、墓参りにアイス食べながら来るなんて非常識じゃない?」
「それオーエンが言いますか?」
フォルモーント・シティの外れに有る墓地で、晶とオーエンは偶然居合わせた。今日は星の綺麗な夜だから、なんて約束をしていたわけでは無い。ただ墓参りをしようと思い立ったタイミングが、たまたま二人とも今夜だったというだけだ。
その証拠に晶は片手に掃除用具を掲げ、もう片方の手には食べかけのアイスを握っている。かくいうオーエンも片手には小さな花束と、もう片方の手にはおそらく食べかけらしいフルーツサンドを握りしめていた。久しぶりに会うにしては気が抜けた持ち物だ。
アシストロイドに血縁関係は無いが、晶とオーエンの繋がりはいささか特殊だ。忘れがたい一夜の出会いを果たした友人で、被造者とその被造物。特に甘いものが好きなオーエンに、知らず知らずのうち晶が影響を受けた可能性は全く無いとは言い切れない。子は親に似るというものだろうか、なんて考えていた晶に声がかかる。
「ここ以外にも墓を周ってきたの」
「私たちも随分と友人を見送りましたから」
「百年、存外に呆気なかったね」
「ええ本当に」
不思議で波乱に満ちた出会いの夜から、もう百年の月日が経った。栄華と発展を極め尽くした街は、案外変わらずに今日もネオンが輝いているけれど。街に生きる人ばかりは、晶たちを置いていってしまった。
「あっちにはラボの人たちが眠ってるんですけれど、お参りする人が多いからか結構綺麗で」
「双子やらクロエやら律儀に来てるらしいからね」
「そうなんです、掃除用具も必要ないぐらいでした」
墓地の入り口からは少し遠く、真ん中から道二本ばかり外れた端の墓石。この下には二人の生涯の友が眠っている。アシストロイドにも人間にも交流を事欠かない人だったから、やはり墓石は晶が磨くまでも無く綺麗に保たれていた。
トランクを地面に置いたオーエンが、墓石の前に生い茂る芝生に座る。そしてそのまま、片手に持っていた小さな花束を添えた。晶もそれにならい、オーエンの横に座って墓石を見つめる。刻まれた名前を目にする度に、頭が少し焼け付くように揺れる。
「こんなに静かになっちゃって、お得意のお喋りもできないんだものね」
「昼でも夜でも明るいお日様みたいな人でしたから」
「まあ精々おやつが食べられないのを羨ましがってもらわなきゃ」
そう言うとオーエンは、未だ手に握りしめたままだったフルーツサンドを食べ始めた。晶もそれにならい、大分溶け始めたアイスを頬張る。人は声から忘れていくのだというけれど、アシストロイドである晶はまだ何も忘れていなかった。目を瞑れば、快活にこちらの名を呼ぶ声も鮮明に思い起こせる。
墓は遺された人の為にこそあるのだと、聞かされたことがある。たとえそこに死者が本当の意味ではいなくとも、弔いのための標を生者は必要とする。忘れていくことを謝りながらも、いつか同じ場所に行く心構えを培うのだと。教えてくれたのは、ラボに遊びに行った際に応対してくれた研究員だった。
生き物としての死を知らぬこの身は、忘却すらも縁遠い。寂寥の念は勿論あるのだけれど、少なくとも晶とオーエンにとって墓参りは死者を悼む行為とは少しずれる。約束もない友人との待ち合わせに、訪れては会話をしていく場というのが近い。返事が無いのは寂しいけれど、記憶の中の彼はいつだって笑いながら二人を出迎えた。
「そういえばオーエン、しばらくぶりでしたね」
「ここ半年ぐらいは街の外に行ってたんだよ、海沿いの街を歩いたりしてた」
「海……錆びたりとかは……」
「お前、アシストロイドをそこら辺のぽんこつ機械と一緒にしないでくれる?」
少し呆れたように目を細めたオーエンは、それでも少しずつ旅の話をしてくれた。陽射しを受けて輝く白石造りの家々、たくましくも海に出て行く漁師たち、砂浜の上で星のように落ちていた貝殻。あまり街の外を出歩かない晶にとって、オーエンの話はいつも目新しく煌めいて聞こえる。オーエンの旅路が海から川へと切り替わった所で、彼はぴたりと話すのを止めた。一体どうしたのか尋ねるよりも早く、オーエンは晶に問いを投げかけた。
「いつかに晶が聞いてきたことの答え合わせを、今しようよ」
「答え合わせですか」
「そう、人間とアシストロイドの境目は何処なのか、晶の答えを聞かせて」
百年前に、確かに己がオーエンに投げかけた問いだ。あのころは目に映る何もかもが新鮮で、色んな事を考えていた。だからその問いも、そんな思考の一つだった。
人間とアシストロイドの違いならば、いくつだって言える。生まれるために胎を要する人間と、部品をつなぎ合わせるアシストロイド。怪我も病気も無ければ、身体が成長することも無い。それでも晶はこう思う。
「人間とアシストロイドに、境目は有りません」
「無い?」
「私たちが心をもって生きているように、人間も心のままに生きている……ならばそこに生き物としての差は、きっとないんです」
ふうん、と呟いたオーエンは晶の答えをただ黙って聞いていた。晶が見いだした答えに批判もないが肯定も無い。ただ確かめたいから確かめた、それだけのようだった。
「僕はお前ほどには、その境目とやらに興味はないんだよね」
「そんな気がしてました」
「けれど、あの日約束を叶えたカインと、今日こうして約束を叶えた晶に違いは無い」
百年前の約束も、日常で起きたほんの小さな出来事も、機械のこの身が忘却することはあり得ない。数多の知識と記憶の奔流の中でアシストロイドは心によって生きている。
「だから、僕はそれだけ理解していれば充分」
オーエンはそれだけを告げると、ふと夜空を見上げた。墓地の端に植えられていた桜の花びらが、風に乗って運ばれてくる。舞い散る桜色の中、晶は思う。アシストロイドは被造物である事実は変わらない。だけれど友人と交わした約束を尊ぶ心を、一体誰が作り物だと断じることが出来るのだろう。
目を閉じて夜風を受けるオーエンの姿を、晶は見つめる。そうして、空に舞う花びらの音をいつまでも聞いていた。