夜明けよ、恋人たちのために/闇夜行路夜明けよ、恋人たちのために
残業死すべし、慈悲はない。
ここ三時間はその文句がずっと頭を駆け巡っていた。清光が今年度迎えた繁忙期はようやく、本当にようやく終わろうとしていた。
喜ばしいことだが街は静まりかえっている。それも無理からぬこと、定時からはゆうに五時間を超え、なんなら六時間が見えようとしている。これに対して思うのが「今日は終電余裕で乗れるな」なのだから世も末だ。実際は年度末だが。
パソコンの電源を落としたとき、このクソみたいな二ヶ月を共に乗り切った国広と吉行とは思わず円陣を組むようにして抱きしめ合ってしまった。他部署の同期、蜂須賀と歌仙が見たら少し泣いたりしてくれたかもしれない。ふたりにも本当にお世話になった。主に差入れと愚痴を聞いてもらうことで。
明日は休みだ。明後日も休みだ。どうしてそのことがこんなに嬉しいのか……噛み締めながら乗り込んだエレベーターの鏡には、疲れの浮かんだ目許と襟のよれたシャツが目につく。可愛くない。こんな状態の自分に着られて、シャツも可哀想だ。
手早く前髪だけでも整えると、スマホを取り出す。「今日もコンビニ飯でいいか、早く寝たいし」なんて考えていたから、通知に気付いたのはロックを外してからだった。メッセージアプリについた赤い丸の数字。アイコンをタップして、一番上に来ている名前が名前だったから目を瞠った。
「今大丈夫か」
「家に行っていいか」
「行く」
「いなかった」
「まだ仕事だったか、すまん」
「前で待っている」
ちょうどエレベーターは一階に着いた。乗り合わせていた国広と吉行にあわてて挨拶して駆け出す。メッセージ通り、ビルの前にはピカピカの赤い車が停まっていた。一目で高級車と分かるフォルムにもたれかかる、よく見知った金髪の人影がある。
「よう」
則宗は普段と変わらず、そう言って清光に手を上げてみせた。随分と久しぶりに会った気がする。というか実際久しぶりだ。
「どうしたの、いきなり」
なんてことない距離のはずなのに息が上がってしまった。近くに寄れば、則宗もいつもより険のある顔をしている。
かろうじて笑みを浮かべていたのが清光の問いかけに真顔になる。車に預けていた身体を起こすと、神妙に「坊主」と低い声を出した。
何だよ別れ話じゃないだろうな、と疲労で胡乱な頭は詮ないことを考えた。別れ話ならせめてもっと元気なときにしてほしい。その優美な面に一発、全力でいいのを叩き込めるときに。
疲れで思考が妙な方向へ転がる清光の脳内を知る由もない則宗は、変わらず低い声で切り出した。
「海、見たくないか」
「……いいじゃん」
清光はやはり、疲れていたのである。
車を出したときにちょうど国広と吉行が出てきた。助手席に清光を見つけた吉行は人懐こく笑って手を振り、国広は高校生のように控えめに会釈をした。清光がそれに手をあげて応えると、則宗が「今の同期か」と訊ねてくる。「そうだよ」と返事をして、運転する横顔を窺った。この横顔を見るのも随分久しぶりだ。日中のようにサングラスを掛けていないから、なんとなくレアな気もする。
則宗の車は外装に見合った通りシートも上等で、清光の身体を包み込むように支えている。そこに車の、文句なしの安全運転による静かな振動……ゆっくり息を吐くと、ずっしりと身体が重く沈み込んだ気がした。
「やばい、寝るかも……」
「坊主〜、僕を夜道にひとりにするな〜」
「しねーよ。……でも寝たらごめんね」
「坊主〜!」
ふざけたやりとりにもほっとする。寝るなと言いながら、則宗は信号待ちで停まったときに後部座席からブランケットを取り出すと、清光の膝の上に載っけた。清光も甘えて、のろのろとそれを広げると胸元まで被る。
「……今年は随分と忙しかったようだな」
「うん、そうね……忙しすぎて吉行……さっきの同期の黒い髪の方だけど……痩せちゃったもんね」
「ははぁ、そんなにか」
「うん、国広が『吉行の三角筋がっ』て泣いちゃったからね」
「うん、……うん?」
則宗の疑問を隠さない相槌に、清光は眠気の中に漂いながら記憶を漁り出していた。
「いやね、本当に忙しいから、『俺がこんなに可愛いせいかな』って言ってたんだよ」
「お、おお」
「そしたら国広が、『いや清光のせいじゃない、俺が、俺が不甲斐ないから……!』とか言ってさ」
うん、と吐息混じりの相槌が続きを促してくれる。
「そこに吉行が、『おんしらのせいじゃないぜよ〜!』て言ってくれるから、よ、吉行……! てなっちゃって」
「おお」
「それで感極まった国広が吉行の肩をガシッと掴んで、あれって顔して、『吉行、筋肉落ちてないか』って」
則宗はもう何も言わなかった。疲れきった人間の話なんて酔っ払いの話みたいなものだ。清光もよく知っている。
「やっぱり忙しかったからさぁ、普段と食べる量とか動く量も変わっちゃうじゃん、そしたら筋肉落ちちゃったらしくて、もう国広ずっと落ち込みながら吉行の肩揉みしだいてたんだよね」
清光も「吉行〜!」と言いながら二の腕をずっと揉んでいたのだが、それは言わない。されるがままの吉行をもみくちゃにするふたりに、差入れを持って訪れた蜂須賀と歌仙は完全に憐れみの目を向けていた。控えめな微笑に憐れみの色を加えてしまった蜂須賀なんて、ありがたい観音様にすら見えた。歌仙はといえば、質のいい筋肉を求める国広を抑え込むのに必死そうだった。
今日の出来事のはずだが、ここ最近はずっと同じようなことを繰り返していた気がする。清光と国広と吉行の健康は蜂須賀と歌仙によって支えられていたと言っても過言ではない。そういう意味では大変ありがたい、ありがたいのだが。
観音様の背負ってんのが白色灯の明かりなのはやっぱりありがたみねぇな……とまで考えたところで、清光は深く息を吐いた。
「いや、もう、ほんとダメだわ。人間忙しすぎると頭おかしくなるね」
「おかしいと分かってくれていて安心したぞ」
「吉行揉んでたときは大真面目だったけどね、今ちょっと回復してきた」
「そうかそうか……」
車はいつの間にか高速道路を走っている。まばらな対向車と一定の間隔で通り過ぎる街灯の明かりが、清光の目蓋を下ろそうとしてくる。
「正気なんて儚いもんだな……」
「そうだな、自分の正気を疑わない者こそ本物の狂人だ」
「はは、それ、クソみたいな仕事の見通し立てたクソ上司に言ってやりてー……」
則宗が少し笑った気がする。その気配だけを感じながら、清光の意識は夜の海に沈み込むように途絶えた。
目を覚ましたのは、バタンと空気の震える音がしたからだ。ぼんやりした視界には見覚えのある後ろ姿が歩いていくのが見える。先には明かりがある、あれは自販機だろう。
車はどこかのサービスエリアに停まっているらしい。座ったまま伸びをすると血が巡り出すのを感じた。外はまだ暗い。気がつけば朝、とまではいかないがよく眠れた気がする。
スマホを取り出してみると、時刻は四時半を過ぎたところだった。ということは、確実に四時間ほどは則宗をひとりで運転させてしまったらしい。疲れていたとはいえ、何だか申し訳ない気持ちになる。
当の則宗は戻ってくる途中で清光の目が覚めたのに気付いたようで、スマホから顔を上げた清光に目尻を下げて笑いかけた。
「起きたか」
「うん。ごめんね、ほんとに夜道にひとりにしちゃって」
ドアを開けた則宗は、運転席には乗り込んでこない。車には朝を迎えようとする冷たい空気が流れ込み、それとともに則宗の手にあるカップからのコーヒーの匂いが漂っていた。
「なに、気にするな……カフェオレだが飲むか? 他のがいいなら買ってくるが」
「うおー優しい……カフェオレ、ありがたくイタダキマス」
「うん。ま、それを飲みながらもう少し待っていてくれ」
則宗はまた自販機へと向かっていった。手のひらをカップで温めながら、ついていけばよかったと思った。まだ頭がよく働いていない。
それにしても「海、見たくないか」とは何だったのだろう。これからやはり海に向かうのだろうか。
今年のクソみたいな繁忙期のせいで、いつもみたいには会えなかった。則宗だって悠々自適の暮らしぶりとはいえ、忙しい時期がないわけではない。ここ二ヶ月はメッセージを送り合うばかりだった。最近はどういうやりとりをしていただろう……そうだ、家に呼び出されたと言っていた。普段おちゃらけがちな文面がそこだけ素っ気ないもので、印象に残っていた。
則宗の家の事情を、実は清光はよく知らない。知っているのは何だか大きいこと、古いらしいこと、そして面倒臭そうなことくらいだ。「僕はもう家督を譲ったんだ」と、年甲斐もない子供っぽさでそっぽを向く則宗に、溜息をついて肩を落としていたのは南泉だ。苦労性の友人は一家の年長者を半ば呆れたような目で見て、清光を少しぎこちなく見て、「ま、俺は御前がいいならそれでいいし、それがいいとも思う、にゃ」と言った。
面倒見のいい南泉らしい、思慮深い言葉だった。それになんとなく清光は突っ込んだことを聞くのは今はやめておこうと決め、時々とろけた笑みを浮かべ清光の頬を撫でる則宗に、同じように笑い返すだけだ。
「うぅ〜、まだ明け方は冷え込むなぁ、やっぱり」
身体を縮こませて戻ってきた則宗とふたり、運転席と助手席で同じようにカフェオレをちびちびと飲む。時刻は五時に近付こうとしている。
「そろそろ行くかね」
「海?」
「ああ」
思いの外幼い響きになった清光の問いかけにも則宗はやはり微笑み、車を出す。高速道路を走っているのはトラックばかりだった。
初めて下りるインターチェンジを通り過ぎ、車は街に入った。日の出はまだだが、街並みは色を取り戻そうとしている。
「……それにしても、どうしていきなり海なの」
「うん? ……なんとなくだ」
はぐらかしているのか、本当に何も考えていないのか、清光には則宗の考えは読めない。通り過ぎたラブホに「海を見たらあそこで休憩するか!」と言うのに「サイテーだなくそじじい」と返していれば、踏み込むタイミングも流れてしまった。
道をなるべく真っ直ぐ進めば、辿り着いたのは堤防で、薄青いと思っていた空は赤くなりつつあった。朝焼けを見るのなんて、いつぶりだろう。
海は静かだった。仕事を始めているのだろう船がその通り道に白く跡を残し、それもやがて波に洗われて消えていった。
寒がる清光をブランケットで包み、それを後ろから抱え込んだ則宗は頬を清光のこめかみにつけて、何も言わなかった。普段通りの回転を取り戻しつつあった清光の頭は、その冷えた頬が自分の熱と馴染んで境目が分からなくなるのを感じながら、則宗のことを、そして自分のことを考えていた。
正気を疑わない者こそ狂人だと、やけに達観したようなことを言っていた。その達観はどこから来るのか? 訊くまでもなく、これまでの則宗の生、則宗を取り巻いてきた環境がそう言わせるのだ。
南泉はかつて「それでいいし、それがいい」と言っていた。則宗を御前と呼んで、気安さと敬愛を抱えているのが分かる南泉でさえ、その言葉選びなのだ。則宗が家に呼び出された理由なんて、いくらでも想像できてしまう。
ただそれは清光の想像でしかなくて、則宗は本当のところを語らないし、清光も今は踏み込む気がないのだ。今はまだ、そのときではない。
それでも今、清光は自分には正気が残っていると安心しようとしている。雄弁でいてその実何も語ってくれない恋人が、気の滅入るようなことがあったときに会いたいのは自分に他ならなくて、自分を甘やかすと同時にそうやって頼ってくれていると判断しようとしている。そしてそれを、どうしようもなく嬉しく感じている。こんなことを言おうなんてどうかしていると思いながら、伝えずにはいられない。
「……ねぇ」
「うん?」
則宗の声が、清光の身体を震わすように直接伝わってくる。それがむずがゆくて、つい笑ってしまった。
「俺も、あんたと一緒がいいからね」
息を飲む気配がする。海から顔を出した太陽はすべてを白々と洗い出し、先ほどまで影を落としていた朝焼けは溶けるように薄れようとしていた。
則宗は喉を鳴らすように笑って、清光の頬に唇を寄せると、一段ときつく抱き締めた。それでいて「よし、じゃあそろそろ休憩に行くか!」と言うものだから、「やっぱりそれかよくそじじい」と頭を押しつけることで抗議した清光が「まぁいいけど」と付け足したのを合図に、ふたりは並んで車へ戻った。
夜は既に明けていた。