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    夜明けよ、恋人たちのために/闇夜行路夜明けよ、恋人たちのために闇夜行路夜明けよ、恋人たちのために


     残業死すべし、慈悲はない。
     ここ三時間はその文句がずっと頭を駆け巡っていた。清光が今年度迎えた繁忙期はようやく、本当にようやく終わろうとしていた。
     喜ばしいことだが街は静まりかえっている。それも無理からぬこと、定時からはゆうに五時間を超え、なんなら六時間が見えようとしている。これに対して思うのが「今日は終電余裕で乗れるな」なのだから世も末だ。実際は年度末だが。
     パソコンの電源を落としたとき、このクソみたいな二ヶ月を共に乗り切った国広と吉行とは思わず円陣を組むようにして抱きしめ合ってしまった。他部署の同期、蜂須賀と歌仙が見たら少し泣いたりしてくれたかもしれない。ふたりにも本当にお世話になった。主に差入れと愚痴を聞いてもらうことで。
     明日は休みだ。明後日も休みだ。どうしてそのことがこんなに嬉しいのか……噛み締めながら乗り込んだエレベーターの鏡には、疲れの浮かんだ目許と襟のよれたシャツが目につく。可愛くない。こんな状態の自分に着られて、シャツも可哀想だ。
     手早く前髪だけでも整えると、スマホを取り出す。「今日もコンビニ飯でいいか、早く寝たいし」なんて考えていたから、通知に気付いたのはロックを外してからだった。メッセージアプリについた赤い丸の数字。アイコンをタップして、一番上に来ている名前が名前だったから目を瞠った。
    「今大丈夫か」
    「家に行っていいか」
    「行く」
    「いなかった」
    「まだ仕事だったか、すまん」
    「前で待っている」
     ちょうどエレベーターは一階に着いた。乗り合わせていた国広と吉行にあわてて挨拶して駆け出す。メッセージ通り、ビルの前にはピカピカの赤い車が停まっていた。一目で高級車と分かるフォルムにもたれかかる、よく見知った金髪の人影がある。
    「よう」
     則宗は普段と変わらず、そう言って清光に手を上げてみせた。随分と久しぶりに会った気がする。というか実際久しぶりだ。
    「どうしたの、いきなり」
     なんてことない距離のはずなのに息が上がってしまった。近くに寄れば、則宗もいつもより険のある顔をしている。
     かろうじて笑みを浮かべていたのが清光の問いかけに真顔になる。車に預けていた身体を起こすと、神妙に「坊主」と低い声を出した。
     何だよ別れ話じゃないだろうな、と疲労で胡乱な頭は詮ないことを考えた。別れ話ならせめてもっと元気なときにしてほしい。その優美な面に一発、全力でいいのを叩き込めるときに。
     疲れで思考が妙な方向へ転がる清光の脳内を知る由もない則宗は、変わらず低い声で切り出した。
    「海、見たくないか」
    「……いいじゃん」
     清光はやはり、疲れていたのである。

     車を出したときにちょうど国広と吉行が出てきた。助手席に清光を見つけた吉行は人懐こく笑って手を振り、国広は高校生のように控えめに会釈をした。清光がそれに手をあげて応えると、則宗が「今の同期か」と訊ねてくる。「そうだよ」と返事をして、運転する横顔を窺った。この横顔を見るのも随分久しぶりだ。日中のようにサングラスを掛けていないから、なんとなくレアな気もする。
     則宗の車は外装に見合った通りシートも上等で、清光の身体を包み込むように支えている。そこに車の、文句なしの安全運転による静かな振動……ゆっくり息を吐くと、ずっしりと身体が重く沈み込んだ気がした。
    「やばい、寝るかも……」
    「坊主〜、僕を夜道にひとりにするな〜」
    「しねーよ。……でも寝たらごめんね」
    「坊主〜!」
     ふざけたやりとりにもほっとする。寝るなと言いながら、則宗は信号待ちで停まったときに後部座席からブランケットを取り出すと、清光の膝の上に載っけた。清光も甘えて、のろのろとそれを広げると胸元まで被る。
    「……今年は随分と忙しかったようだな」
    「うん、そうね……忙しすぎて吉行……さっきの同期の黒い髪の方だけど……痩せちゃったもんね」
    「ははぁ、そんなにか」
    「うん、国広が『吉行の三角筋がっ』て泣いちゃったからね」
    「うん、……うん?」
     則宗の疑問を隠さない相槌に、清光は眠気の中に漂いながら記憶を漁り出していた。
    「いやね、本当に忙しいから、『俺がこんなに可愛いせいかな』って言ってたんだよ」
    「お、おお」
    「そしたら国広が、『いや清光のせいじゃない、俺が、俺が不甲斐ないから……!』とか言ってさ」
     うん、と吐息混じりの相槌が続きを促してくれる。
    「そこに吉行が、『おんしらのせいじゃないぜよ〜!』て言ってくれるから、よ、吉行……! てなっちゃって」
    「おお」
    「それで感極まった国広が吉行の肩をガシッと掴んで、あれって顔して、『吉行、筋肉落ちてないか』って」
     則宗はもう何も言わなかった。疲れきった人間の話なんて酔っ払いの話みたいなものだ。清光もよく知っている。
    「やっぱり忙しかったからさぁ、普段と食べる量とか動く量も変わっちゃうじゃん、そしたら筋肉落ちちゃったらしくて、もう国広ずっと落ち込みながら吉行の肩揉みしだいてたんだよね」
     清光も「吉行〜!」と言いながら二の腕をずっと揉んでいたのだが、それは言わない。されるがままの吉行をもみくちゃにするふたりに、差入れを持って訪れた蜂須賀と歌仙は完全に憐れみの目を向けていた。控えめな微笑に憐れみの色を加えてしまった蜂須賀なんて、ありがたい観音様にすら見えた。歌仙はといえば、質のいい筋肉を求める国広を抑え込むのに必死そうだった。
     今日の出来事のはずだが、ここ最近はずっと同じようなことを繰り返していた気がする。清光と国広と吉行の健康は蜂須賀と歌仙によって支えられていたと言っても過言ではない。そういう意味では大変ありがたい、ありがたいのだが。
     観音様の背負ってんのが白色灯の明かりなのはやっぱりありがたみねぇな……とまで考えたところで、清光は深く息を吐いた。
    「いや、もう、ほんとダメだわ。人間忙しすぎると頭おかしくなるね」
    「おかしいと分かってくれていて安心したぞ」
    「吉行揉んでたときは大真面目だったけどね、今ちょっと回復してきた」
    「そうかそうか……」
     車はいつの間にか高速道路を走っている。まばらな対向車と一定の間隔で通り過ぎる街灯の明かりが、清光の目蓋を下ろそうとしてくる。
    「正気なんて儚いもんだな……」
    「そうだな、自分の正気を疑わない者こそ本物の狂人だ」
    「はは、それ、クソみたいな仕事の見通し立てたクソ上司に言ってやりてー……」
     則宗が少し笑った気がする。その気配だけを感じながら、清光の意識は夜の海に沈み込むように途絶えた。

     目を覚ましたのは、バタンと空気の震える音がしたからだ。ぼんやりした視界には見覚えのある後ろ姿が歩いていくのが見える。先には明かりがある、あれは自販機だろう。
     車はどこかのサービスエリアに停まっているらしい。座ったまま伸びをすると血が巡り出すのを感じた。外はまだ暗い。気がつけば朝、とまではいかないがよく眠れた気がする。
     スマホを取り出してみると、時刻は四時半を過ぎたところだった。ということは、確実に四時間ほどは則宗をひとりで運転させてしまったらしい。疲れていたとはいえ、何だか申し訳ない気持ちになる。
     当の則宗は戻ってくる途中で清光の目が覚めたのに気付いたようで、スマホから顔を上げた清光に目尻を下げて笑いかけた。
    「起きたか」
    「うん。ごめんね、ほんとに夜道にひとりにしちゃって」
     ドアを開けた則宗は、運転席には乗り込んでこない。車には朝を迎えようとする冷たい空気が流れ込み、それとともに則宗の手にあるカップからのコーヒーの匂いが漂っていた。
    「なに、気にするな……カフェオレだが飲むか? 他のがいいなら買ってくるが」
    「うおー優しい……カフェオレ、ありがたくイタダキマス」
    「うん。ま、それを飲みながらもう少し待っていてくれ」
     則宗はまた自販機へと向かっていった。手のひらをカップで温めながら、ついていけばよかったと思った。まだ頭がよく働いていない。
     それにしても「海、見たくないか」とは何だったのだろう。これからやはり海に向かうのだろうか。
     今年のクソみたいな繁忙期のせいで、いつもみたいには会えなかった。則宗だって悠々自適の暮らしぶりとはいえ、忙しい時期がないわけではない。ここ二ヶ月はメッセージを送り合うばかりだった。最近はどういうやりとりをしていただろう……そうだ、家に呼び出されたと言っていた。普段おちゃらけがちな文面がそこだけ素っ気ないもので、印象に残っていた。
     則宗の家の事情を、実は清光はよく知らない。知っているのは何だか大きいこと、古いらしいこと、そして面倒臭そうなことくらいだ。「僕はもう家督を譲ったんだ」と、年甲斐もない子供っぽさでそっぽを向く則宗に、溜息をついて肩を落としていたのは南泉だ。苦労性の友人は一家の年長者を半ば呆れたような目で見て、清光を少しぎこちなく見て、「ま、俺は御前がいいならそれでいいし、それがいいとも思う、にゃ」と言った。
     面倒見のいい南泉らしい、思慮深い言葉だった。それになんとなく清光は突っ込んだことを聞くのは今はやめておこうと決め、時々とろけた笑みを浮かべ清光の頬を撫でる則宗に、同じように笑い返すだけだ。
    「うぅ〜、まだ明け方は冷え込むなぁ、やっぱり」
     身体を縮こませて戻ってきた則宗とふたり、運転席と助手席で同じようにカフェオレをちびちびと飲む。時刻は五時に近付こうとしている。
    「そろそろ行くかね」
    「海?」
    「ああ」
     思いの外幼い響きになった清光の問いかけにも則宗はやはり微笑み、車を出す。高速道路を走っているのはトラックばかりだった。
     初めて下りるインターチェンジを通り過ぎ、車は街に入った。日の出はまだだが、街並みは色を取り戻そうとしている。
    「……それにしても、どうしていきなり海なの」
    「うん? ……なんとなくだ」
     はぐらかしているのか、本当に何も考えていないのか、清光には則宗の考えは読めない。通り過ぎたラブホに「海を見たらあそこで休憩するか!」と言うのに「サイテーだなくそじじい」と返していれば、踏み込むタイミングも流れてしまった。
     道をなるべく真っ直ぐ進めば、辿り着いたのは堤防で、薄青いと思っていた空は赤くなりつつあった。朝焼けを見るのなんて、いつぶりだろう。
     海は静かだった。仕事を始めているのだろう船がその通り道に白く跡を残し、それもやがて波に洗われて消えていった。
     寒がる清光をブランケットで包み、それを後ろから抱え込んだ則宗は頬を清光のこめかみにつけて、何も言わなかった。普段通りの回転を取り戻しつつあった清光の頭は、その冷えた頬が自分の熱と馴染んで境目が分からなくなるのを感じながら、則宗のことを、そして自分のことを考えていた。
     正気を疑わない者こそ狂人だと、やけに達観したようなことを言っていた。その達観はどこから来るのか? 訊くまでもなく、これまでの則宗の生、則宗を取り巻いてきた環境がそう言わせるのだ。
     南泉はかつて「それでいいし、それがいい」と言っていた。則宗を御前と呼んで、気安さと敬愛を抱えているのが分かる南泉でさえ、その言葉選びなのだ。則宗が家に呼び出された理由なんて、いくらでも想像できてしまう。
     ただそれは清光の想像でしかなくて、則宗は本当のところを語らないし、清光も今は踏み込む気がないのだ。今はまだ、そのときではない。
     それでも今、清光は自分には正気が残っていると安心しようとしている。雄弁でいてその実何も語ってくれない恋人が、気の滅入るようなことがあったときに会いたいのは自分に他ならなくて、自分を甘やかすと同時にそうやって頼ってくれていると判断しようとしている。そしてそれを、どうしようもなく嬉しく感じている。こんなことを言おうなんてどうかしていると思いながら、伝えずにはいられない。
    「……ねぇ」
    「うん?」
     則宗の声が、清光の身体を震わすように直接伝わってくる。それがむずがゆくて、つい笑ってしまった。
    「俺も、あんたと一緒がいいからね」
     息を飲む気配がする。海から顔を出した太陽はすべてを白々と洗い出し、先ほどまで影を落としていた朝焼けは溶けるように薄れようとしていた。
     則宗は喉を鳴らすように笑って、清光の頬に唇を寄せると、一段ときつく抱き締めた。それでいて「よし、じゃあそろそろ休憩に行くか!」と言うものだから、「やっぱりそれかよくそじじい」と頭を押しつけることで抗議した清光が「まぁいいけど」と付け足したのを合図に、ふたりは並んで車へ戻った。
     夜は既に明けていた。
    闇夜行路


     少しだけ飲もうと行きつけのバーへ向かっていると、見慣れた路地の奥から呻き声が聞こえてきて則宗は足を止めた。
     苦しげな声と、何か水音――おそらく嘔吐する音だろう――を背に、路地の影から浮かび上がるように黒髪の男が現れた。乱れた衣服を手で払いながら、口を拭って出てきた男は少年とも見間違うような線の細さで、突っ立っている則宗に気付くと不機嫌そうに睨みつけてきた。
     すっと細められた目は涼しげで、不躾な見物人に萎縮する色はなかった。何を見ているとは言いたげだったが、こちらに喧嘩を売る態度ではない……どちらかといえば、飲屋の立ち並ぶ真夜中の街で、物珍しげに路地を覗いていた則宗をただ軽蔑しているように感じられた。
     冷たい蔑みは不快というより、瞳に薄暗い影を下ろして危うかった。だから、その黒子のある口許が動けばどうなるのかを見てみたくなった。
    「――坊主、水はいるか?」
    「は?」
     返ってきた声は見た目と同じように少年じみていた。やはりそれが瞳の影とアンバランスなのを面白く感じて、則宗は初めて会った青年をこの時点で気に入っていた。
     バーに行く道を折れて、自販機で水を買い求めると青年は「どーも」と無愛想に礼を言った。口をつけて顔をしかめる。下唇が切れているのだ。
    「……警察はいるか?」
    「え? あー、いいよ。凍死するような時期でもないし、転がしといても自力でそのうち帰るでしょ」
     青年への心配だったのだが、青年は自分が伸してきた男への配慮と受け取ったらしい。それがおかしくて笑うと、不可解そうなものを見る目で則宗を見上げてきた。
    「ふふ、すまんな」
    「いや、いいけど……物好きだね、あんたも」
     これアリガトーゴザイマス、と既に中身の少なくなったペットボトルを振ってみせる。たぽたぽと音を立てる水の横で、自販機の白い明かりでも頬は赤らんでいた。青年も酔っているらしい。
    「痴情のもつれか?」
    「違う。向こうのが一方的だったの。そもそも今日初めて会った奴だし」
     ペットボトルを空にすると、青年は早口で語り出した。最近飲みにいくバーができたこと、今日はそこでさっきの男に声をかけられたこと、適当にあしらっていたがしつこいので帰ろうとしたらついてきて、路地裏に引っ張り込まれたこと……思わず叩き込んだ肘鉄がうまく鳩尾に決まったらしい。
    「やだよね、俺が可愛いからって」
    「お前さんが可愛いのと、あの男が狼藉を働く馬鹿者なのとは、関係あるか?」
     思わず口をついて出た疑問に、青年は目を丸くしたあと、ニヤリと笑った。
    「ないね、全っ然!」
    「そうだろう」
     頷いてやると、尖った犬歯を覗かせて、どこかすっきりしたような少年じみた顔を見せた。ゴミ箱にペットボトルを押し込みながら「あーあ、もうあの店行けなくなっちゃったな」と呟いていたが、大して残念そうには聞こえない。湧いてきた興味は、抑えられなくなっていた。
    「坊主、まだ飲み足りないか?」
     眉毛を怪訝そうに持ち上げているのににっこりと笑ってやる。面白そうな青年だから、もう少し一緒にいたい。
    「不快なことを訊いたお詫びだ。僕の行きつけでよければ一杯奢ろう」
     首を傾げて一思案した後、青年は小さな声で「じゃ、奢られよっかな」と応えた。それに楽しくなった則宗が「じゃあ行くぞ、こっちだ坊主」と案内しようとしたのを、青年は綺麗に爪の整えられた手で制した。
    「坊主じゃない。清光」
     不満そうな顔も妙にあどけなくて、則宗はますます清光を気に入った。
     飲みに連れていった先で、この春から大学四年生なこと、就職は早々に決まったのであとは卒業まで単位を落とさないだけでいいこと、恋人が欲しくてバーに通うようになったということを聞いた。
    「お前さんの大学には僕の親族もいるなぁ」
     家で一番年少の青年の名前を出せば清光の友人でもあったらしく、それで気が緩んだのか、清光はよく話すようになった。それに危なっかしさも感じながら、則宗は話すがままにさせておいた。
     恋人探しにバーを選んだことを突っ込んでみれば「だって愛されたいじゃん」とよく分からない理由を応えた。大した理屈はないのか、それとも酔いが回っていたのかもしれない。「愛されたい」とこぼした横顔は無垢にも見えたが、則宗を睨みつけてきたときとは違う影も差していて目が放せなかった。
     その日は二回目の約束をして帰し、二回目も同じ、三回目で一緒に倒れ込んだホテルのベッドで則宗の手の動きに笑うような泣くような声をあげたのと、見つめてくる目の濡れた色がたまらなくて、手放したくなくなった。髪を撫でてやればはにかんで、笑ったときにたまに覗かせる犬歯が鋭いのも好きだった。
     その日も、微睡む清光の髪を撫でていた。心地好さそうにしていた清光はふと、「これじゃあ俺、恋人ずっとできないよな」と自嘲じみた苦笑いを浮かべた。
    「僕じゃあ不満か?」
    「いやぁ、不満がないから問題でしょ」
     離れらんねぇ、と言いながら清光は身を起こし、頭を掻いた。先ほどまで則宗の指が通っていた髪は乱され、また清光の手で整えられる。
    「それじゃあ、お前さんはどうしてこんなじじぃを相手にしてくれるのかね」
     今日はもう帰り支度を始めるのだろう。一緒に出ようと則宗も起き上がった。そのときにぐっと伸びをした則宗の仕草に清光は笑って、こう応えた。
    「だってあんたは、俺のこと愛してるなんて言わないでしょ」
     こう言われるからには、自分が清光にどういう関係を求めて手を出したのか見透かされている――手放したくないとは確かに思いながら、実際突きつけられてしまうと曖昧に微笑むことしかできなかった。そういう自分の姑息さにも似た分別を毛嫌いしながら、どこかで仕方がないとも感じていた。



     則宗の朝は毎日仰々しい挨拶を伴った報告から始まった。則宗はそれを聞き、適切に判断し、仕事を早急に処理していった。そうしていれば、則宗が遅くまで飲み歩いたり知らない誰かと寝たりするのに文句をつける者はいなかった。
     求められていることは分かりきっている。地主として代々受け継いできた土地の運用を適正に行い、損なうことなくそれを次代に受け継がせること――決してつまらないことでもなければ取るに足らないことと言うつもりもないが、家長であることに息苦しさを感じているのも事実だった。
     だから、言ってしまえば息抜きだったのだ。たまたま夜道で出会った青年と酒をともにしたのも、その青年と寝るようになったのも……清光と寝る心地好さを手放したくなくなって何度も約束を重ねていれば、寝ていなくても居心地がいいことに気付いてしまった。
    「……うーわ、お高そうな車」
    「正解だ、坊主。それなりにお高いぞ」
     則宗の赤い愛車を見た清光の軽口に笑って応えてやると、「えーなんか乗るのも緊張するんですけど」とぼやきながら、清光は助手席に乗り込んだ。
     お、おー……とよく分からない感嘆の声をあげておずおずシートに腰掛けるのについ笑いながら、則宗は車を出す。何かの話の弾みで、たまには飲むのではなくドライブしようということになったのだった。初めて会ってから気温は随分と上がり、半袖になった清光の腕の内側の白さが眩しかった。
     滑らかに走っていく車の中で、清光は強い日差しに色も影も濃くなった窓の外を眺めていたようだが、ふと気配がしてちらりとだけ横目で窺うと目が合った。
    「運転する僕がそんなに面白いか?」
    「うーん、いつもタクシーで帰っていくからさ」
    「そりゃ飲んでいたら運転できないだろう」
    「そうだけど」
     笑う気配がする。気の置けない、安心しきった吐息の音だ。
    「なんでそんな胡散臭いサングラスも似合っちゃうのかなぁ」
    「うはは」
     瞳の色が薄いせいか日中の運転でサングラスが欠かせないのは事実だった。特に今みたいな夏場はその日差しの強さもあって、外に出るときはほぼ掛けっぱなしだ。いつも会うのは夜だったから、初めてサングラス姿を見た清光は面食らったらしい。確かに派手な容姿をしている自覚はある。それにサングラスを加えたら、怪しく見えるのかもしれない。
     特に行き先のないドライブだった。隣県に入り、海が見えたところで清光は歓声をあげた。
    「海、好きか」
    「いや、そういうわけでもないんだけど」
     少し逡巡した素振りを見せてから、諦めたように笑った。
    「久しぶりに見たからさ。実家は海が近かったから」
    「そうだったのか」
     そういえば出身地なんて聞いたことなかった。ここで「どこなんだ」と訊ねることもできたが、清光の逡巡が気になって訊くことはできなかった。そもそも、自分だって清光に何も話していないのだ。知っているのはきっと、大学の友人である南泉の親類で、初対面で酒を奢ってくれた物好きということ程度だろう。そしてもしかしたら、年齢差のある青年に手を出す駄目な大人くらいには思われているかもしれない。
     よく知っているようで大して何も知らないふたりが並んで座って、車は滑らかに道を進んでいく。晴れた海は白く光を散らしていて、水平線は広かった。
     そろそろここらで引き返すか、という頃合いになり、車を適当に見つけたコンビニに停めた。
    「今日のお礼にコーヒーくらい奢らせてよ」
     殊勝なことを言い出した清光に遠慮する気も起きず、「それじゃあカフェオレで」と言うと「高いやつかよ、いいけど」と笑われた。ふたりでドアを潜って、真っ直ぐレジに向かおうとする清光の前を横切りパンを見にいくと、清光も後ろからついてきた。
    「……車でもの食べるの気にならない方?」
    「ん? そうだな、特には」
     あとで掃除はするが、と付け足すと清光も一緒に棚を眺め出した。菓子パンの並んだ中からひとつ入ったドーナツを掴むと、あとは則宗を待っているようだった。
    「僕もそれにしよう」
     つられて同じ袋を掴むと、手を差し出される。寄越せということらしい。
    「今日は僕が奢られる日か」
    「いつも俺が奢られてるからね。これくらいは」
    「別に気にすることないんだぞ」
    「俺が気にするの」
     そう言われては何も言い返せない。差し出された手のひらに大人しくドーナツを渡すと、清光は満足げに笑ってレジへ向かった。
     空はまだ明るいが日は確かに傾いていた。隣で袋を開ける音を聞きながら、則宗は車を出す。
    「……夕飯、どこかで食べるか?」
    「あー言ってなかったっけ、俺今夜バイトあるんだよ」
     だから多分一緒に夕飯食べてる時間ない、と言って清光はドーナツにかじりつく。円はかろうじて、清光の歯が届かなかった分だけで繋がっていた。
    「そういうことは先に言え、時間は大丈夫なのか」
    「大丈夫大丈夫、どうせバイト先でまかないも出るし」
    「そうか」
     やはり「どこでバイトしてるんだ」と訊くこともできない。なんとなく時間やまかないという言葉から居酒屋かと目星をつけるだけだ。
     二口めでドーナツの円を崩した清光は、則宗に「袋開けよっか?」と訊いてきた。素直にお願いして、少しだけ中身が出るように調節された袋を受け取る。則宗のは一口でただのきつい弧を描く曲線になってしまった。
    「……穴だけ残してドーナツを食べる方法なんて話があったな」
    「は?」
     思いついて言葉が出てしまったのは、踏み込んだことを訊けない関係へのばつの悪さからかもしれなかった。疑問の声をあげた清光の手の中では、ドーナツはいつの間にか半分ほどになっている。存外食べるのが早かったらしい。
    「そういう思考実験があるんだと。前に本で見た」
    「シコージッケン」
    「そう、シコージッケン」
     ぎこちないおうむ返しを同じように繰り返してやると、清光は不可解そうに首を捻った。
    「……で、どうやって穴なんか残すの」
    「知らない」
    「知らねーのかよ!」
    「本のタイトルと紹介を見ただけだ、中身まで読まなかった」
     えー気になるんですけど、と不満げな声を出す清光の手の中には、もう穴どころかドーナツ自体がなくなっていた。

     誰だって多かれ少なかれ、穴の開いた人生だ。穴を埋めたくて生きるのか、穴を抱えて生きるのか……それぞれの違いはあれ、誰もが寂しいということは似通っている。
     すっかり日が落ちてから街で清光を降ろしたが、則宗は自宅へ向かうのではなくもう少し車を転がすことにした。ひとり車であてどなく走るのも、則宗の息抜きのひとつだった。
     道筋と車間と、対向車や交差点の様子から判断してアクセルを踏み、離し、極力車体に無駄な力をかけることなくカーブを曲がり、加速しすぎることなく真っ直ぐに走る……運転するという行為は複合的な判断を求められるが、走ること自体はシンプルだった。前に進むだけだ。その効率を追い求めて動けば、日々降り積もる雑事に息を詰まらせる自我も削ぎ落とされて、ただ走るためのシンプルな生き物になっていく。
     いかに滑らかに車を走らせるかを追い求めて自分もパーツのひとつであるかのように没入するのを息抜きにしながら、家業を円滑にこなすための組織の部品のようにふるまいきれないのは皮肉だった。一日、二日、一週間とどうにかこなせても、自分が軋む音がするのが分かる。いつか軋みは限界に達して、壊れる――そうならないための息抜きだったが、気休めでしかなかった。
     このわずかな逃避の終着地である埠頭では、建物の明かりが黒い海にまばらに映って波音も頼りないほど不安定だった。都会の夜の海は、穴のように則宗の目の前に横たわっていた。
     ――あんたは、俺のこと愛してるなんて言わないでしょ。
     ふといつか言われた言葉がよぎった。愛されたいという青年が、自分と一緒にいる理由だった。奇妙な理屈になぜかドーナツの穴が重なった。甘いもので腹を満たすことを願いながら、彼が今口にしているのは穴ばかりなのだ。
     しかしきっと、彼が本当にドーナツにありつくときには、則宗の知らないやり方で見事に穴を残してみせるだろう。そうして穴は穴のまま、取り残されるに違いない。
     空との境目も分からないほど黒い、先の見えない海が広がっているのを、則宗はぼんやりと眺めている。夜のあてどない疾走はいつも海に辿り着いた。そうして短い旅の終わりに夜の海を眺める度、漠然と自分の行く末に似ていると思った。
     その日から、清光に会えなくなった。



    「ちょっと忙しいからしばらく会えないかも」とメッセージが届いたのは、初めて昼間に会ってから三日後だった。「分かった」とだけ返して、気付けばひと月ほど経ち、いつまでも暑いと思っていたがようやく秋めいた匂いも感じるようになっていた。
     元々こうなっておかしくない関係なのは、自分が一番分かっていた。馴染んだものを手放さなければいけないとき、どうしたって惜しさ、もっといえば寂しさはついて回る。
     自分の中に新しい穴ができるのを感じながら、撫でた髪、吸った肌、聞いた声を想った。濡れた目がこちらを見るときの腹の底の震えはすぐによみがえったが、ただ指先の距離にいないのを確かめるばかりだった。
     バーには清光の思い出がまとわりつく。自然と足が遠退いて、則宗は息が詰まると車を乗り回すばかりになった。
     夜には肌寒さを覚えるようになった頃、則宗は愛車のキーを持って玄関へ向かっていた。
    「……あ、御前、また走りにいくのか」
    「ん? おお」
     和室からひょっこり廊下へ顔だけ出して、南泉が訊いてきた。こちらも卒業を控えて、気ままな時間を過ごしているらしい。学業について茶々をいれてやりたくもなるが、根が真面目なのはよく知っているから聞くまでもなかった。今のんびりしているのも卒論についてそこまで焦る必要がないからだろう。
     車を走らせにいこうとしている則宗はそのまま通り過ぎようとしたが、南泉が視線を泳がせ、口を開こうとしているのに気付いて足を止めた。
    「あー、あのさ、御前は清光と知り合いなんだよな?」
    「うん」
     最近は会っていないが、とは飲み込んで相づちだけ打つ。南泉が自分と清光の関係をどこまで勘付いているのかは、則宗もよく知らなかった。
     南泉は一度唇を噛んでまた口を開いた。子どものときと変わらない、大事なことを言おうとするときの癖だった。
    「清光、大丈夫なのか?」
     その言葉に何も返せないでいるとすぐに事情を察したのか、南泉はそれまで廊下へだらりと伸ばしていた姿勢を改め、正面に向き直って話し出した。
    「家族が倒れたからって、ちょくちょく実家に帰ってるって言ってたんだよ。授業はもうほとんどないから単位とかは大丈夫だっつってたけど、今日はゼミもとうとう休んだらしくて、忌引きだって……」
     そこからどうやって立ち去ったのかはよく覚えていない。則宗はただ車を走らせ、いつもの埠頭に辿り着いた。
     やはり波に浮いては砕かれるばかりの明かりを見て、ポケットからケータイを取り出してみれば、波の向こうよりずっと強い光が則宗の顔を照らした。
     手は勝手に動いた。アドレスから名前を見つけ、タップし、番号を押す。思えば、電話を掛けるのは初めてだと、コール音を聞き始めてから気付いた。
    「……はい」
     電話越しの声は懐かしくも感じたが、これじゃない、とも思った。直接顔を合わせて、声を聞いて、触れたかった。
    「久しぶりだな」
    「ん、そーね」
     外にいるのだろうか? 車が通り過ぎていく音がする。ほのかに笑ったらしい声の漏れる息を聞くと、呆れながらも赦すように少し目を伏せる顔が思い浮かんだ。
    「南泉から聞いた?」
    「ああ」
    「心配かけちゃったなー。もう明日……は無理だな、明後日くらいにはそっちに戻るつもりなんだけど」
     聞きたいのはそういうことではなかった。だから電話を切らせる前に先手を打った。
    「お前さん、実家はどこだ」
    「は?」
    「今からそっちへ行く。教えてくれ」

     則宗の有無を言わさぬ空気に圧されたのか、それとも突然の申出に混乱していたのか、清光はすんなりと場所を教えた。ふたつ隣の県で、高速を使えば二時間ほどで着けそうだった。
     近くに着いてからもう一度連絡すればいいと思ったが、電話を切ってからメッセージが送られてきた。マップのアドレスで、開いてみれば海沿いのとある地点を示していた。
     運転している間、もどかしくはあったが空しくはなかった。いつものあてどない逃避とは違い目的地があり、そこには清光がいる。
     高速を下りて進めば山が近くなり、そのうち海へと開けた土地に出た。道は低い堤防沿いに続き、やがてひとつの人影が、その堤防に腰掛けているのが見えた。
     影は則宗の車に気付くと軽やかに道へと飛び下りた。
    「やっほー」
     則宗が車を降りるなり、清光は手を上げた。一見、以前会っていたときと何ら変わりない様子だったが、街灯に照らされた顔は白かった。
    「まさかほんとに来るとはね」
    「お前さんが場所を教えてくれたんだろう」
    「まぁそうだけどさ」
     力の抜けた喋り方も笑いながら目を逸らしてしまう顔も、ずっと求めていたものだった。清光は堤防に手をついたかと思うと、慣れた格好でそれによじ登り、則宗を待っていたときのように座り込んだ。
    「話しちゃうとわりと簡単なんだけど、俺って家族はばーちゃんしかいないの」
     波音は埠頭とは違い、規則的に響いていた。波打ち際は近く、かすかに寄せては引くのが見えた。
    「中学までは母親もいたんだけどねー、そっちは事故。で、ばーちゃんは病気。本当に危なくなるまで黙ってたんだから困るよね、心配かけたくないからってさ」
     そろそろ日付を跨ぐ頃だろう。ふたり以外には誰も、何もなかった。清光の声は波音にも邪魔されず、堤防に寄りかかった則宗はその少し痩せたようにも見える横顔を見つめながら彼が語るのを聞いた。
    「俺が大学ちゃんと卒業するの楽しみにしてたんだけどね、わざわざ頑張って貯金なんかしちゃって。なんか、大学への信仰っていうか、大学ちゃんと出とけば大丈夫って信じてる人だったし。そういう世代ってやつなのかな……まー俺も頑張ったんですけど」
    「……いいばあさんだったんだな」
    「いや、喧嘩してくそばばあって言ったこともある」
     そう言って一瞬則宗を見た顔は、少年じみたあどけなさで笑っていた。
    「言ったときは茶碗投げられた。当たらなかったけど」
    「元気なばあさんだったか」
    「そーね、じいさんが女作って出てくってときも下駄で横っ面はっ倒して歯折ってやったらしいし」
    「おっかないばあさんだな……」
    「そうなんだよねー、俺になぁんもさせないで勝手に死んじゃった」
     言葉が続けられなくなったのは則宗の方だった。慰めにきたとか、支えになりにきただとか、そういうつもりはなかった。ただ則宗が会って、何でもいいから話をしたかっただけだ。しかし、こういうときにかける言葉が見当たらない。
     則宗の沈黙をどう思ったのか、清光は仕方ないとでも言うようにまた笑った。
    「あんまり気にしないでよ。俺だって聞かれなかったから黙ってたってだけだけど、俺たちってそんな感じだったでしょ。それに俺は愛されたいのであって同情されたいわけじゃあないし」
     ぐっと伸びをすると、清光は堤防から飛び下りた。道の方ではなく海の方だったから、則宗はぎょっとして身を乗り出しかけた。
     地面は案外近かったらしい。すぐ下で、則宗を見上げて笑っていた。
    「来てくれてありがとね。ついでに、俺のジジョーを知って気まずいなら、もうちょっとだけわがまま聞いてくんない?」
    「なんだ」
    「一回夜の海でめちゃくちゃに遊んでみたかったんだよね」
     則宗の返事を待たず、清光は海へと歩き出した。
     真っ直ぐ伸びた背中が、吸い込まれるように夜の海へと邁進するのに則宗は呆然としていた。距離も深さも分からない、ただ黒い固まりは清光の足の動きに合わせて水音を立て始めている。膝まで浸かり出したのに気付いて、ようやく則宗も堤防を飛び下り、清光を追いかけ出した。このまま清光が頭の先まで海に浸かってしまえば、もう戻ってこない気がして必死だった。夜の海に彼が飲み込まれるなんて、あってはならない。
     水の重さにうまく足を動かせず、清光の手首を掴めたときには水面の高さはもう腰ほどまで来ていた。早く連れ戻そうと強く腕を引いたとき、暗い中でも分かるほどに赤い目はいたずらに光った。
     腕を引かれた清光は抵抗どころか、その力に乗じて身体いっぱい、則宗の胸に飛び込んできた。
     水の下の足場は安定しない砂利で、勢いに負けて則宗の足は滑った。尻餅をつくには深すぎるところまで来ていたから、ふたりは大きな水音を立てて倒れ込んでしまった。
    「……うぇっ」
    「いって、鼻に入った……」
     もがきつつどうにか立ち上がると、鼻も痛いわ塩辛いわで則宗はしばらく目を開けられなかった。元々目許に長くかかっている髪がべっとりと顔に張りついている感触がある。
    「はは、しぼんだ犬みたい……」
     その髪を掻き分けてくれる手があった。前髪を選り分け、耳にかけ、頬に張りついている髪を剥がしていく手。このところずっと、想ってきた手だった。
     ようやく目を開けて、塩水で痛むのを何度もまばたきしていると、清光は眉を下げて則宗を見つめていた。海に引き込んでおきながら、謝ろうとしている顔だった。
     額に張りついた黒髪と、濡れて光る肌と、苦しげに細められた目の寄る辺ない色が則宗の眼下にあった。身体は勝手に動いていた。
     腰に腕を回して見つめると、ほんの短い時間だったが清光も分かったのか、目を伏せて顎を少し持ち上げ、自分から口を開いた。
     赦されるまま、唇に噛みついて舌を捩じ込む。塩辛かった口は歯を舐めて舌を吸っている間に、海の味はしなくなった。いつの間にか掴まれていた腕が温かく、ようやく清光が触れられる位置にいることを実感できて、これだけがずっと欲しかった、と今更のように思い知った。これを喪ったままで、どうして生きていけると思えたのだろう。
     波音と水音と、時々漏れ出る吐息を聞きながらひとまず気が済むまで貪り尽くすと、乱れた息のまま言葉が一緒にこぼれ落ちた。
    「愛している」
     目が見開かれるのが見えた。張りついたままだった黒髪を指で剥がし、その頬に自分の頬を寄せると、また懇願するような声が出た。
    「一緒にいてくれ」
     柔らかい頬も、薄い背中も温かかった。確かめるように抱き締めていると、笑う気配がした。
    「いいよ」
     同時に両腕が則宗の背中に回されたから、その短い返事に安堵を聞き分けられたのは、きっとうぬぼれでも願望でもない。

     清光の実家は小さな平屋だった。ずぶ濡れのふたりはまず玄関横の水道で頭から水をかぶって潮を落とすと、すっかり冷えきった身体を寄せ合って震えながら風呂が沸くのを待った。
     一緒に湯船に浸かり一息ついてから、ふたつめの布団を敷こうとする清光を則宗はどうにかなだめすかして、自分に用意された客用布団に引きずり込んだ。
    「……ゴムないんだけど」
    「僕が持っている」
    「すけべ」
     腕の中でそう笑う口許が憎らしかったので、そのそばにある黒子に吸いついてやると背中を叩かれた。

     久しぶりに滑らかな髪を撫でながらの微睡みにありつこうとしていた。気怠い空気の中で清光もされるがままだったが、ふと則宗の顔を見ると、うつ伏せになって上体だけを起こした。
    「あんたの靴、明日までに乾くかな」
    「あー……ま、お前さんがいいなら乾くまでいるんだがな」
    「俺明日も結構忙しいんですけど」
     ふたりしかいない部屋には別の部屋で洗濯機が回る音がかすかに響いている。古い家にはそぐわない、比較的新しいドラム式洗濯機は乾燥機付きで、数年前に清光のバイト代も使って新調したのだという。おかげで則宗は朝には着るものに困らず済みそうだ。
    「葬式とかはご近所さんが手伝ってくれてそれに甘えたんだけどさー、この家、借家でさ。なんか手続きがいっぱいあるんだろうけどよく分かってないんだよね、俺」
     苦笑いすると、清光は枕に沈み込む。髪の間から見える目には、年相応の青年の混乱や心配が覗いていた。
    「借家の……」
     後始末か、という続きは飲み込んだ。なんとなく、今は使いたくない言葉だった。
    「……それなら僕がいた方がよさそうだ」
    「え?」
    「そういう手続きは慣れている。……まぁ、任せておきなさい」
     抱き寄せると、清光の顔が歪んだ。
    「甘えていいわけ?」
    「もちろん」
    「はは、助かる……」
     押しつけられた額の下で肩が濡れていくのを感じながら、則宗もその小さな頭に頬擦りした。

     清光の手助けだけでなく、この夜は則宗のこれからも決めてしまった。翌日南泉に連絡を入れると、電話口では「ぎにゃー!」と悲痛な声をあげていたが、なんだかんだうまくやったのだろう、家に戻った則宗は腹心の部下ふたりから怖い顔で三時間ほど小言を聞かされただけで済んだ。その話が三時間に及んだのだって、則宗が途中で家督を譲るつもりであることを切り出したからだった。
    「――本当に、本気なのだな」
    「ずっとそうだと言っているだろう」
     後継者に指名した山鳥毛は、ただ旅行にでも向かうだけのような量の荷物をまとめた則宗にまだ固い顔をしていた。この男の堅実な仕事ぶりは、どこか浮わついた印象を与えがちな則宗より慕う者も多いだろう。突然の家長の交替には反発もあるだろうが、そこは日光もうまく補佐するはずだ。
     周りからすれば、突然家長を退いて無責任に映るのかもしれない。事実そう受け取られてもおかしくないと則宗自身も思っている。
     まだまだできることを放り出して去っていくと、周りには見えるのだろう。それはある意味で正しい。則宗は家業を正しくこなせていたという自負はあるし、まだ続けることはできただろう。
     しかしそれは、自分を磨り減らして成り立っていた仕事だ。何の仕事であっても多かれ少なかれそんなものかもしれないが、できるからといってそれが性に合っているとは限らない。
     つまりは、向いていなかったのである。
    「それではな、僕の小鳥」
     最後の軽口に、柄でもない大きな溜息を聞かせてくれたのはこの男ならではの餞だったのかもしれない。
     勝手にそう受け取ることにして、則宗は笑い声をあげながら家を去った。

    「……荷物これだけ?」
    「うん、あとはぼちぼち揃えるさ」
    「ふーん」
     引越しを手伝ってもらうという名目で新居であるマンションに連れてきた清光も、則宗が車から出したのがスーツケースひとつなのに目を丸くした。
    「……俺手伝うことある? これ」
    「冷たいことを言うな坊主~」
    「いやそういうんじゃなくて、この量ほんとに手伝う必要ないでしょ」
    「これを置いたら買い物に行くから付き合ってくれ」
    「ああ、そういう」
    「うん、お前さんの就職祝も選ぼうな」
    「どーも」
     部屋の窓から見下ろせば、街は桜に埋もれるようにしてあった。とっくに春になっている。もうすぐ、清光と出会って一年が経とうとしていた。
    「……お前さん、本当に一緒に暮らさないか?」
    「いやー今はいいわ。俺もまだひとり暮らししたいし」
     大学を卒業するのに合わせて清光も新しい部屋を借りていて、それは通勤にも便利な、そしてこの則宗の新居からもそう遠くない場所にあった。
     何度めかのふたり暮らしの打診をはね除けられて、則宗は今回も大人しく引き下がることにした。そう焦ることではない。
    「……あ」
     何かを思い出したように清光が小さく声をあげる。カバンから何やら取り出すのを、則宗は何も言わず見守った。
    「前にさ、ドーナツの穴だけ残す方法みたいな話したじゃん」
    「あったな」
    「これ見たら思い出しちゃってさ」
     出てきたのは、砂糖をまぶされた小さなドーナツの駄菓子だった。子どものときよく食べたんだよねー、と言いながら清光が袋を開ける。
    「あのあと穴開いてないドーナツもあるじゃんとか色々考えたんだよね。ま、そんなのもうとっくに考えてる人がいるんだろうけど」
    「ふむ」
    「で、色々考えてたら、穴残さなくてもいいじゃんってなっちゃった」
    「うん?」
     元も子もないことを言い出した。思考実験としてはご法度だ。
     しかし、則宗の目の前で照れ臭そうに笑っている清光は実験でも何でもない、紛れもない確かな、今触れられる現実だった。
    「これなら一口でしょ」
     指でつまめる小さなドーナツは、穴ごと清光の口に放り込まれた。呆気に取られていた則宗がじわじわと笑い出すと、清光も応えるように笑う。
    「食べる?」
    「もらおう」
     差し出されたドーナツは則宗にとっても一口、問題なく納まった。



     適当に入った店でドーナツをかじる清光を眺めながら、則宗は懐かしいことを思い出していた。
     呼び出された家で少しごたごたに付き合わされ、則宗が家督を譲ったことをよく思っていない有象無象の嫌味をまともに浴びせられた。そういう家業について回るいざこざが久しぶりだったためか、それだけで簡単に荒んでしまった。その結果が深夜四時間の逃避行である。帰り道の決まりきった小旅行と言っても差し支えなかったが、久々にどこかへ行ってしまいたかった。それも助手席に乗せた恋人の寝顔を見たら、どうでもよくなってしまったのだが。
     残業明けに則宗のストレス解消に付き合わされた清光は、案外小旅行を楽しんでいるらしい。繁忙期で家と職場との往復だったから、結果的には気分転換できているのかもしれない。
     春の終わりの夜に出会ってから三年になる。そろそろ同じ部屋の鍵を持ってくれないか、もう一度訊いてみたいのだが、それとは別の思案が則宗の頭に浮かんでいた。
    「……食欲ない?」
     自分のドーナツを片付けた清光が、少し心配そうに訊ねてくる。則宗に比べて食べるのが早いのは相変わらずだった。
    「いや、そういうわけじゃあない」
    「そう? 無理すんなよ」
     皿に置きっぱなしだったドーナツを手に取り、その穴を見る。則宗と清光にとって、穴は食べ残されなくてもよかったのである。
     穴を埋めようと生きるか、抱えて生きるか――則宗は今、違う穴をひとつ埋めてもらおうとしている。
     きっと驚いた顔をするだろう。それを楽しみにしている。そしてどうか、応えてほしい。
     手に取っても食べられる素振りのないドーナツに清光は怪訝な顔をしている。それがどうしようもなく愛しくて、則宗は微笑んだ。
    「なぁ清光……指輪を買いにいかないか」
    真白/ジンバライド Link Message Mute
    2023/04/22 0:42:03

    夜明けよ、恋人たちのために/闇夜行路

    現パロ、則清です。
    台詞も名前もないですが無体を働いたりキャラクターと関わりが深かったりするモブがいます。

    本にしたときの年齢制限部分は外したのですがデータが手を加えたあとのものなのでおそらくピクシブに掲載していたときと細かい言い回しが違うところがあります。話の流れや結末自体は変わっていません。
    表紙のデータは見つからなかったので装丁カフェさん(https://pirirara.com/)で作成しました。ありがたい〜。

    #則清 ##則清

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