さらば面影の夕星
ちょっと飲み物を買ってくる、という言葉とともに向けられた背に「はぁい」とだけ返して、清光は柄杓をバケツに入れた。山を削って作られた墓地の細い通路を、よく目立つ金髪が下りていく。自分の小さい頃の記憶がついて回る土地にはまったく馴染まない後ろ姿だった。少しおかしくて笑うと、清光はまた自分の前にある小さな墓に向き合った。この石の下に、祖母と母と、あとは名前も知らない先祖が眠っている。
背の高い杉に囲まれて、隠れるように段々に立ち並ぶ墓地は昼間も薄暗い。灰色の墓石は窮屈そうに詰め込まれて同じ方向を向いている。あの光を散らすような淡い色の髪はこの土地には眩しすぎる。清光の墓参りについてきて、わざわざ喪服を思わせるような黒い服を着ていたって、ここには則宗は馴染まない。かつて自分の暮らしていた土地は則宗の生きる場所ではない。その分かりきった事実も、なぜか清光の口許を緩ませた。
則宗が去ってしまうと、清光の故郷はようやくよく知ったものだけになった気がした。飲み物を買ってくるという見え透いた方便はおそらくこの時間のためのものだった。別にいいのに、とも思ったが、その気遣い自体がありがたい気がして清光は膝を抱えるようにしゃがみ込んだ。先ほど自分の手によって清められた墓石はまだ濡れている。
小さい頃は父に会いにいこうと言われて墓参りをした。祖母に手を引かれていた時分には分からなかったが、遠洋に出て帰ることができなかった父親の骨はここにはない。そもそもその頃は墓参りが何なのか分からず、祖母と母の真似をして手を合わせていただけだ。ただ、そういう日は母によく父と初めて出逢ったときの話をせがんだ。酒の席で気が合って、よく会うようになって、というありふれた出逢いの話――両親の出逢いという、自分にとっては他に代えようのない話。そういう出逢いに憧れてしまったのは、おそらくそれを話しているときの母親の顔が憶えている限りで一番幸せそうだったからだ。
妙な感慨にかられるのは、今日が最後の墓参りだからかもしれない。かつてその昔話をせがんだ家は、もう清光の帰る家ではない。祖母を看取ってから三年経った。前から考えていたことだったが費用が貯まったのもあって、永代供養を頼むことにした。改葬、墓じまい、他にもやることはまだまだあるから、ここへ訪れるのが最後になるわけではないが、祖母の命日にここで手を合わせるのは今日限りになる。
祖母は生きていた頃から盆が来る度、自分の葬式は仰々しくするな、供養も最低限にしろと言っていた。当時は寂しいことばかり口に出すようになったのに「何言ってんだよ元気なくせに」と笑ってみせたが、こんなにすぐその言いつけを守ることになるとは思わなかった。墓に入った家族はもう一言も語ってくれない。これから自分がやろうとしていることが正しいか、それを満足に思うか、何も教えてはくれない。
当たり前にあると思っていたものはいつの間にか遠く触れられなくなっている。生まれ育ってきた土地に久しぶりに帰ってきたとき、懐かしい潮の匂いにすら驚くように、慣れ親しんだものでさえ気付かぬうちに自分から喪われている。喪われたものの形に穴だけが残って、それすら自分の形として抱えていくしかない。少なくとも清光を育ててきた大人たちはそうして生きていたから、清光もそういう生き方しか知らない。そして自分も同じように生きていくのだ。穴だらけになりながら。
何もかも変わっていく。その中できっと、喪っても喪っても自分に遺るのはそういうものだ。
それだけ思い返すと、清光は抱えていた膝に手をついて立ち上がった。薄暗い山間の墓場でも、左手の薬指にある細い銀色の指輪は確かに光を返していた。
ひとつ伸びをすると、柄杓が入っているだけの軽いバケツを持ち上げる。則宗を迎えにいこうと踵を返すと、彼は淡い金髪を揺らしながら清光の許へ上ろうとしてくるところだった。眼下にあってなお、そこにいるだけで眩しい。
清光が下りていけば、則宗はすぐに気付いて足を止めた。同じ場所まで辿り着くと、さりげなく清光の手からバケツを奪っていく。
「もういいのか」
「うん」
ふたり以外誰もいない墓地で、則宗の歩くのに合わせてバケツの中では柄杓が揺れてカラカラ鳴っている。山の近い土地では日が翳るのが早い。もうほとんど日向はなくなっていて、風の冷たさが秋めいていた。
柄杓とバケツを返してから向かった駐車場で、則宗の愛車は秋のうら寂しい日暮れ時にあってもピカピカしていて、やはりそれが妙に浮いていて清光は笑った。
「今日だって俺ひとりでよかったのに」
則宗は返事をしなかった。その代わり、抱き寄せるように清光の頭を右腕で抱え込むと、こめかみに唇を寄せた。その淀みなさに軽口も叩けないで顔を見上げると、則宗の左手が強がりを諌めるように清光の頬を軽くつねった。
つねったところを軽く撫でて離れていった手には、清光のものと対になる指輪が光っている。則宗は清光のすべてを見透かした、そしてそのすべてを赦しているような笑みを浮かべてみせると、清光より先に運転席へと向かっていった。
やはりその後ろ姿はこの土地にそぐわない。夕空の一番星のように、淡いが確かに光っている。かつて祖母と見上げた明るいはずの星が一瞬、目蓋に過ぎって唇が震えた。それを軽く噛んで抑え込むと、清光も助手席へと向かう。薬指に光る、まだむずがゆいような、くすぐったくなる感覚を確かめながら。
ずっと寂しくて、満たされたくて、例えばすぐばれるような嘘をついてもそれを赦してほしいと思っている、そういうどうしようもない自分がここにいること自体をずっと赦してもらいたかった。開いた穴を塞ごうとするみたいに求めていたそれは今、清光の前を行くほの明るい光をまとった男が、いつの間にか与えてくれていた。
「夕飯、どこかで食べるか?」
「いいね。俺中華がいいなー」
「僕は寿司がいい」
「えー」
則宗の運転する車の外で、懐かしい海は遠ざかっていく。それでも、喪うばかりではなかった。