月夜にしずむ ととのったかたちの指先がしなやかに動き、艶めいた空気を纏いつかせながらやわらかく畳に降りる。三つ指をついて上客を送り出し、その足音が聞こえなくなってなおしばらく経ってから、緩慢な速度でおもてを上げる。垂れていたこうべをゆっくりと上げていくさまは、つぼみが花ひらいていく軌跡のようだった。夜の花が清廉な朝顔に戻る瞬間の、息を呑むような美しさだ。品の良い所作で立ち上がった花魁の背中を、畳のかすかな軋みと衣擦れの音が追っていく。物憂げな溜息をひとつ残して、障子が滑り、そして閉じた。
しんと静まり返ったレッスンルームにいるのは、自分と男のふたりだけだ。畳も、障子も、着物さえありはしないこの空間で、けれども男の立ち回りを黙して見つめる伊織にはたしかにそれらの存在が感じられた――否、正しくは「男」と呼ぶべきではないのだろう。男が演技をやめるまでは、いま目の前にいるのはひとりの「花魁」なのだから。そしてまた、「彼女」は伊織の一部でもある。
ひとつ息を吸って、吐く。場面転換。夜露に濡れるあでやかな花を愛でるのは、昨夜とは別の男だ。
腰を下ろし、気だるいしぐさで煙管をくゆらせながら、皮肉な笑みを浮かべて背後を仰ぐ。愛する女へ向けて紡いだ傲岸不遜な睦言は、当の彼女の曖昧な笑みひとつにくるみ取られて行き場を失くした。いつものことだと自嘲しながら、その笑顔さえ独占できない事実に焼けつくような嫉妬を覚える。
胸を焦がされるまま立ち上がり、たおやかな後ろ姿に手を伸ばす。真面目なだけが取り柄の兄にも、顔も知らぬようなほかの客にも、指一本ふれさせたくない。いっそ身請けしてしまえば、すべて解決するだろうに。彼女さえ頷いてくれるなら、金に糸目はつけるまい。
「だから、俺の嫁になりなよ」
花魁、と、吐息に織り交ぜて呼ぶ。しかし籠の外へと誘う言葉にも、彼女はただ静かに微笑み続けるばかりだった。所詮は他愛のない寝物語なのでしょう、信じてなどいないわ、と、そう言われている気がした。
「楽しいよ、俺と暮らしたら……」
熱い体を背後から抱き込み、首筋に顔をうずめる。愛しくてにくらしくて、どうしようもなく、いとしいおんな。
「毎晩寝床で抱きしめて『愛してる』ってささやいてあげる」
片時も離れることなく、望むままのくちづけと抱擁を。女として生まれた悦びと幸せを、この身で以て教えてやりたいというのに、……やはり彼女はそのぬくもりと笑顔以外、なにも返してはくれぬのだ。
「――うん。いいんじゃないか」
数拍の間を置いて、耳慣れた調子の声が耳朶を打つ。顔を上げれば、わずかに汗ばんだ金糸の先が頬を掠めていった。
「一郎と次郎の演じ分けもはっきりできてるし、特に次郎は仁兄の指導の成果が出てると思う。さすがだな。……あ、そうだ俺のほうは?どうだった?」
背後から抱きすくめられたまま顔だけで伊織を振り返った男が、忘れぬうちにとばかりに矢継ぎ早に問いを投げてくる。稽古場の明かりを映してひかる榛色のひとみの近さに気が付いて、勢いよく身を離した。「うわっ」と、急な動きに驚いたらしい男の、間の抜けた声がする。
「なんだよ急に」
「う、うるさい、いつまでも凭れかかるな!」
「え?ああ、ホントだ。ごめん」
それで、俺のほうは?花魁の演技、どうだった?
謝罪の言葉もそこそこに、男はくるりと身を返して伊織に向き直る。講評を求める真摯な瞳を無下にする理由が見つかるはずもなく、伊織はゆるく息を吐いてから答えを継いだ。
「……悪くない。細かい所作まで板についてきたと思う」
「本当か?よかった、特訓の甲斐があったよ」
「はじめはどうなることかと思ったがな……」
「うーん、はは、まあ……あれはどう見ても別人だったよな」
次公演『牡丹桜』では、伊織が一人で花魁、花魁を奪い合う兄と弟の、三役を務める。伊織が兄弟どちらかを演じているときの花魁を、響也が代役として演じることになったわけだが、舞台の上では同じ「花魁」というひとりの人間だ。ひとつひとつの仕草の細かなニュアンスや、テンポのすり合わせが必要だった。
同じ役であっても、演者が変われば解釈も、表現も変わる。花魁の台詞がないシーンだからこそなおさらに、動作の齟齬に気を払わなければならなかった。ああでもないこうでもない、ここはこうだから――と、いままでにないほどふたりで時間をかけて役作りをしてきた。それがどうにかかたちを得てきた手応えを、声には出さず噛みしめる。「よし、」
「じゃあ、次行こうか。三幕二場ラスト」
楽しげな笑みを浮かべた男の瞳が、いろを変えて柔らかく細まる。こちらへ伸ばされた手は、すでに花魁のものだ。息をするように役に入り込んだ榛色の双眸に誘われるまま、その指先にくちづけた。
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20170210Fri.