星をつたう【CAUTION‼】
カイトさんルート2部序盤(5-3)の「状況設定の中核部分」だけを我が家のカイすば時空へ適用した話です。事の経緯と顛末は完全に別物になっているのでネタバレというほどのものもありませんが、エッセンス程度は香るやも。
大丈夫だよ!というかたのみどうぞ。
<XXXX日目>
今日はひどく夢見が悪かった。寝間着のシャツがべたべたになるほど流れた寝汗が冷えて、明け方に寒さで目が覚めるなんざ、生まれてこのかた初めてだ。なんの夢を見てたかわからねえのが気分の悪さに拍車を掛けていて、シャワーを浴びてもエロメのチョコレートを食べてもヒナタを眺めても、結局イライラを消しきることができなかった。
気分は最悪だったが今日は朝からボイストレーニングの枠が入っていて、指導担当の俺がコマを放り出すわけにもいかない。稽古に入れば多少は頭が切り替わるかと思ったが、できたのは不機嫌な声で気に食わない音を指摘することだけだった。俺自身がわかっていないイライラの理由を、まわりの連中がわかるわけもない。――それこそ、昴にもだ。あからさまな困惑を含んで軋んだ空気が稽古場に充満しきったところで、堪えきれず「今日はもうやめだ」と言い捨てて稽古場を出た。
行き先も考えずただ稽古場から離れようと足早に歩く俺を、いくらかの間のあとばたばたと騒がしい足音が追ってくる。
「カイトさん、あの、大丈夫ですか?」
「なにがだよ」
聞き慣れた間隔の足音の主が誰かなんざ、振り返って確かめるまでもない。当然のように思い浮かべたとおりの相手の声がして、歩くペースはゆるめないままつっけんどんに問い返す。「なにがって」と、呆気にとられたような声が耳朶を掠めた。
「ボイトレ放り出すなんて、カイトさんらしくないです。曲書き上げたばっかりだし、疲れてるなら一日しっかり休んだほうが」
「るっせえな!」
らしくない。その言葉の響きがなぜだかひどくカンに障って、思わず昴を怒鳴りつけていた。
さすがにはっとして肩越しに振り返ると、驚いてまるく瞠られた瞳と視線がぶつかる。ああくそ、なんで今日はこんなにうまくいかねえんだ。まっすぐなティーブラウンと目を合わせていられずに、すぐに顔を逸らして二、三歩大きく足を踏み出した――が。
稽古用のシューズの底が、突然宙を泳いだ。急激に傾いで回る視界に天井と階段が流れるように映る。手摺は咄嗟に伸ばした腕より遠く、指先は靴裏と同じく宙を掻く。
やばい。
そう思った次の瞬間、何度かの衝撃。痛み。痛み。赤。黒。
「カイトさん!!!」
吠えるみてえな昴の声が、遠くで聞こえた気がした。
***
<一日目>
のろのろと目を開ける。味気ない天井と、消毒くさい神経質なにおいに顔を顰めた。ここは、……病院、の、個室か?なんだこれ。なにがあったんだったか。思い出せない。まわりの様子を確認しようと身じろいだ瞬間全身に走った痛みに、喉が変な音を出した。
「カイトさん!」
不格好に呻いた途端、知らない声が大音量で俺を呼ぶ。んだよ、でけー声出しやがって。座っていたパイプ椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった背の高い男が、足早にベッドの横までやってきて、そのまま床にへたりこんだ。
「カイトさん、よかった、カイトさん……っ」
「……………………、」
「カイトさん、階段から落ちたんです。頭打って、救急車で運ばれて」
……なるほど、どうやら俺がここにいるのはそういう経緯だったらしい。どーりで体があちこち痛ぇわけだ。話しながら目尻に浮いた涙をガキみてえな仕草でごしごしと拭った男が、気を取り直したように立ち上がる。
「……ッオレ、先生呼んできますね!あと、カンパニーに電話しなくちゃ、みんなすっげー心配して――」
「……っ、おい、待て」
「へ?」
明るい茶色の短髪、くるりとまるい目に、ライトグリーンのスポーツウェア。呼び慣れた様子の声色で俺に話しかけてくる男の名前を、俺は呼べなかった。
「…………誰だ、お前?」
「……、え?」
カンパニーっつったから、十中八九夢色カンパニーの関係者だろう。それはわかる。もっと言えば、それしかわからない。
俺は、こいつを知らない。
***
<五日目>
おおよそ一週間前、俺は夢色カンパニーの劇場の階段から落ちて救急車で病院に運ばれた。そう聞くとダセェことこのうえねーが、問題はそのあとだった。
落ちたときに場に居合わせていた後輩の男――名前は城ヶ崎昴っつーらしい――と医者が言うところによると、いまの俺には「夢色カンパニーに入団する直前」までの記憶しかない。とどのつまりは「夢色カンパニーに入団してから」の記憶がまるごと抜け落ちているんだそうだ。そんなバカなと思いはしたが、カレンダーはたしかに俺の記憶よりもかなりあとの日付で、その言葉を信じるしかなかった。
「カイトさん、ほんとに明日からレッスンに戻るんですか?」
「ああ。……とりあえず、だいたいのことは頭に入れたしな。これ以上引きこもってたらどこもかしこもなまっちまう」
部分的な記憶の混乱以外は順調に快復し、三日目には加療の必要もなくなったってんで、「退院診は一週間後の予約ですけど、変わったことがあったらすぐ来てください。念のため、一日二日はお仕事も様子を見て」という医者の言葉とともに退院になった。
家で飼っているハムスターのヒナタは、入院したその日に昴に頼んでしばらくペットホテルへ預けている。退院した日と今日、その二日間をかけて俺がやっていたのは、「このことは誰にも言うな」と昴に口止めをした記憶障害の件をごまかすのに最低限必要になるであろう情報――記憶にないカンパニーのメンバーの顔だの呼び名だのと、そして当然ながらいま稽古中の、俺が主演の演目について、ホンや音源データをひっくり返しながらひたすら頭に入れ直すことだった。演目そのものに関しては頭より体のほうが覚えていたらしく、存外すんなり落とし込めたのは幸いだったが、とにかくゴッソリ抜け落ちた空白を形だけでも埋める必要があったし、正直なところなにかやってねえと不安でしょうがなかった。
「そ、う……ですか。大丈夫そうなら、いいんですけど」
「おう」
昴はといえば入院中も退院日もそれから今日も、毎日足繁く俺のところへ顔を出しては、なにくれとなく世話を焼きながら今日カンパニーであったことや思い出話をあれやこれやと話して聞かせ、退院後からは読み合わせに付き合い、夜が更けたころにまた自分の家へと帰っていった。カンパニーのほかの連中からも何度かの見舞いや様子見の電話くらいは入ったが、毎日訪ねてきたのはこいつだけだ。
どうやら城ヶ崎昴っつーのはずいぶん俺とウマが合うヤツだったようで、俺の家にも頻繁に寝泊まりしていたらしい。こいつ用のコップと歯ブラシ、数日分の下着に、部屋着らしいジャージ類や私服までひとしきりの私物が置いてあった。
「あー……、だから、もう毎日ここまで、しなくていーぞ。アレコレ情報もらったのは、……その、助かったが」
いくら同僚とはいえ、プライベートなテリトリーの最たるものである自宅にここまで入り込むことを許す相手がいたことに、他人事じみた驚きを感じる。少なくともバンド時代、同僚どころか女とですらそんな付き合いかたをしたことはなかった。抜け落ちた記憶のなかにこの男の全部があるのが、少しバツが悪いくらいだ。
場に居合わせた責任感からか、それともカンパニーのやつらから一任されているのか。日課のようになっているこの時間から、多少なりと解放してやろうと投げた言葉に、玄関でスニーカーを履いていた昴がふいに立ち竦んで俺を見た。
「……どうした?」
「……、今度、一緒にランニング行きませんか?」
「あ?」
「オレ、ランニングが日課なんです。カイトさんにもときどき付き合ってもらってて」
「……まあ、……そーだな。体もなまってるし、ちょうどいいか」
あからさまに話題を逸らすような応え。ぎこちない声と笑顔に違和感を覚えたが、いまの俺はその理由を推測できない。だからとりあえず「昴」と名前を呼んで、話を戻そうとした、はずだった。
「…………ちがう」
俺に呼ばれた昴は駄々をこねるガキみたいにちいさく首を横に振って、それからはっとした顔で半歩後じさる。
「……っ、……ッ、ごめ、なさっ……、」
そうですよね、毎日押しかけて、スミマセンでした。明日から、またレッスンお願いします。……おやすみなさい。
そのまま逃げるみてえに早口に言い連ねて、最後のひと言は、ドアが閉まる音とほとんど同時だった。
「……なんなんだよ、……あいつ」
玄関に取り残され、追いかけることもできずにただ呟く。防音性の高いマンションのドア越しには、遠ざかっていく足音も聞こえなかった。
違うって、なにがだよ。返事がおかしかったのは、どう考えても俺じゃなくてお前のほうだろうが。
頭に思い浮かべたはずの正論が、どうしてか空回りして声にならない。あいつの浮かべた怯えの理由が隠れてやしないかと、携帯での昴とのやり取りを遡る。残っているのは、トークアプリで交わした他愛ない応酬。それから、何件かの通話履歴。
発信にも着信にも、それぞれ数件の履歴が残っている。この履歴が示した時間、俺とあいつがなにを話したかを、遡る方法はない。
忘れちゃならねえなにかを、取りこぼしているような気がした。
***
<六日目>
「なあ、カイト」
翌日夕方、全体レッスンを終えたあと。少し前に書き上げた劇伴のことで話がある、とレコーディングルームへ俺を呼び出したジュニアが、作業用のパソコンの電源をつけることもなく口を開いた。
「んだよ」
「昨日、昴となにかあったか?」
「……べつに」
劇伴について、っつーのは単なる呼び出しの口実だったらしい。ひどく真剣な顔で真っ先に切り出されたのは案の定あいつのことで、昨夜のやり取りの本当の意味がわからないままの俺には、それしか返す言葉がない。そもそも俺がいま置かれている状況を打ち明ければ解決のためのなにがしかのとっかかりが見つかるのかもしれないが、次の公演の主演は俺だ。主演がこんな状態だとまわりに悟られるわけにはいかねえからこその現状で、問題だった。
ジュニアは俺が答えるのを渋っているとでも思ったのか困ったように表情を曇らせて、細い息をひとつ吐いた。
「お前が復帰するまでは気が気じゃなくて不安だったのかと思ってたけど、それより今日のほうが昴の様子がおかしい。……ただでさえ、このところあんまり眠れてないみたいだったのに」
「…………っ、」
だから、わかんねえんだよ、と叫びたくなる衝動をどうにか喉元で噛み殺して飲み下す。
いまの俺は、いつものあいつとどこが、どういうふうに違うのかすら、指摘することができない。当たり前だ。『いつものあいつ』を、忘れちまったんだから。
「毎日顔を見に行ってるとは聞いてたし、プライベートなことだから、本当は、口を出すつもりじゃなかったんだよ。でも、主宰としても仲間としても、そろそろ見てられない。みんな、お前たちのことを心配してる」
ジュニアが、意志の強そうな両目でまっすぐに俺を見ながら言う。こいつの親父の朝日奈に、良く似た目だった。
「もちろん、お前の怪我が大したことなく済んでよかったって思ってる。……けど、調子が戻ってきてるなら、もうちょっとパートナーのことも見てやれよ。カイト」
押し黙った俺をよそにジュニアが言い放った言葉に、今度こそ思考が止まる。
「…………、……は、」
「カイト?」
「ッ、いや、…………なんでもねえ」
……、ダブル主演とか、主演と準主演とか、とにかくそういう意味じゃねえってことだけは、どうにかわかる。そもそも今回の演目の俺たちはそういう役どころじゃねえからだ。にも関わらずこれだけ大真面目に言い切られるってことは、それが冗談でもなんでもなく向けられた、真剣な忠告だっつーことにほかならない。
パートナー?
あいつが?
聞いてねえぞそんなん。
だって、あいつは、ンなこと一度も言わなかった。
慣れた調子のトークも、通話履歴も、俺んちに一頻り揃った服も、隣に並んだ歯ブラシも、あいつ用のマグカップも。「仲良くしてもらってたんですよ」のひとことで、全部まとめて片付けやがったじゃねえか。
「…………帰る」
ああ、とかなんとか、ジュニアが言ったような気はしたが、よく覚えてねえ。
廊下ですれ違ったヒナタとまどかに、昴は、と聞くと「今日は居残りせずに帰ったよ」「走り込みしてくるって言ってました」っつう返事が返ってきた。舌打ちをひとつ。この俺が探してるっつーのに、なんでいねえんだあのバカ。
「……カイトくん」
「カイトさん、」
ああ、くそ、どいつもこいつも心配そうな顔しやがって。それでも鬱陶しいとはカケラも思わねえのが本当に不思議だった。ただ、心臓のあたりがずっとザワザワして落ち着かない。
トレーニングウェアのまま劇場の関係者通用口から出て、引っ掴んできた携帯で昴の番号を鳴らす。味気ないコール音が数回繰り返し続いたあと、結局繋がらないまま留守電対応メッセージに切り替わった。発信を切る。
ちくしょう、あいつの家のハッキリした場所くらい聞いておくんだった。俺が知ってるのはこの何日かのあいだに交わした会話で聞いた、あいつの家がこの劇場から徒歩圏内にあるってことと、ランニングを日課にしてることだけだ。
「……、ランニング」
ウォーミングアップがてら走りに行ったときに通った、劇場からほど近い場所にある運動公園。走り込みに行ったってんなら、もしかしたらそこにいるかもしれない。携帯を鳴らすことは移動の合間にでもまた試してみるとして、あたるとしたらまずそこからだ。
部活動中と思しき学生や、犬を連れて散歩中のじーさんばーさんとすれ違いながら、公園の外周に沿ってぐるりと周る。いない。ランニングコースになっている敷地内の道を探しても、犬の耳みてえに跳ねながら揺れる赤茶の髪は見当たらない。
……発想が安直すぎたか。大体、もしあいつがここにいたとして、これだけの広さのある公園で鉢合わせるほうが難しいだろう。
つっても、ほかに心当たりがあるわけでもない。この付近でこの公園のほかにランニングコースになりそうな場所を頭のなかでピックアップしながら、顔を顰めてそっちへと歩き出す。平坦で信号と人通りの多い大通り沿いよりは、起伏のある住宅街のほうがトレーニングには向いてるかもしれねえ。相変わらず繋がらないままの携帯に軽く苛立ちながら、来たときとは真逆の、住宅街方面へ抜けていく小道をフェンスに沿って進んでいると、――視界の端、敷地から少し外れた歩道。夕焼けのオレンジに染められたガードレールの向こうを、見覚えのある長身がちらついた気がした。
「ッ」
いた。あいつだ。
あの日も病室で見たグリーンのスポーツウェア。走る動きに合わせて跳ねるくせ毛が、夕日を浴びてあかるく滲んでいた。
アスファルトを蹴りつけて走り出す。
着替えて来ねーで正解だった。いつもの革靴ならともかく、これなら追いつける、と思ったが、直後に自分の読みが甘かったことを理解する。
認めるのはシャクだが、要するに単純に走るのが速い。多少の傾斜だろうとペースが落ちる気配もまったくねえ。おい待てこの野郎そこで曲がられたらまた見失うじゃねーか!「……っくそ、このッ……」
「おいコラ待ちやがれそこの体力バカ!」
背に腹は代えられないと、恥も外聞も投げ捨てて――っつーより、勝手に喉がそう叫んでいた。バンド時代からずっとステージで戦ってきた声帯は、そうして今回も期待通りの成果を掴み取る。
「な、に、してんすか、あんた」
「そんなん、……なにしてようが、俺の、勝手だろ、」
見失う直前、俺の声に気付いた昴はその場で立ち竦んだまま俺を迎えた。
薄く汗に濡れた額。俺より確実に走ってるだろうに、さほど息を乱した様子もないのが腹が立つ。お前も少しはこっち来るとかしろよ、と思ったが、逃げ出さなかっただけマシかもしれない。呼吸を整えながら見た昴の顔は、迷子になったガキみてえだった。とにかくまずは逃げられねえように手首を捕まえて、数センチ上にある両目と視線を合わせる。
「お前の家。どこだ」
「どこ、って」
「話がある。連れてけ」
言っとくがこんなとこで立ち話する気はねえぞ。
有無を言わさずそう続けて睨みつけると、茜色を溶かしたまるい瞳がゆらりと揺れた。
うすく汗ばんだ手首を捕まえたまま連れて来させた先は、そこからほど近い閑静な住宅街の一角に建つ小さなマンションの一室だった。
ぱたん。ドアが背後で閉まる音がする。外の世界から俺とこいつを切り離すその音を聞いてから、靴を脱いだだけの玄関先で立ち止まる。
「お前、なんか俺に言うことあるんじゃねえか」
「……、なんの、ことですか」
「ンなもんお前が一番わかってんだろ。……なにが『仲良くしてもらってた』だ」
「…………ッ」
「どうして言わなかった」
こんなぼかした、カマかけるみてえな言い方されただけで、そんな痛そうな顔するくせに、どうして。
「……言えるわけないだろ」
「あ?」
思わず投げた詰問に、返されたのはこの数日間で一度も聞いたことのない低い獣の唸り声だった。かすかに、背筋がざわつく。
「オレがあんたの特別ですって、オレのことなんて全然覚えてないあんたに言って。あんたはそれを、すぐに信じてくれますか」
「――、」
「『誰だお前』って言われたときだって、心臓がつぶれるんじゃないかってくらい、……くるしかった、のに」
感情をギリギリまで圧し殺した掠れ声。捕まえた手の、指先がわずかに持ち上がって、行き場を見つけられずに握り込まれる。「……いきなり変なこと言うなよって言われたらどうしようって思うのは、おかしいんですか」
「ぜんぶなかったことになるのが怖くて、なにが悪いんですか!」
掴んだままの手首を伝って、昴が握り締めた五指が軋んだのがわかる。圧し殺しきれなくなった激情が、男の喉から溢れて鼓膜と肌を打った。ぞくりと、知らないはずのなにかが背を抜ける。
「……っ、怪我して痛かったのも、不安で大変なのもカイトさんのほうなのに。あのときあんたのこと助けられなかったオレが、こんなこと言っていいわけないって、ちゃんと、……わかってたのに。なんで、追いかけてくるんですか。なんであんなふうにオレのこと呼ぶんですか」
かいとさんの、ばか。
そこまで言ってきつく唇を噛み締める表情は、さっきこいつを見つけたときに見た、迷子のガキみてえな顔だった。
「昴」
あんなふうにってなんだよ、だの、なに勝手にわかったようなフリしてんだ、だの、言ってやりたいことは山ほどあったが、……ひどく苦しげに歪んだこいつの顔を、ただ見てることしかできねえのがなによりどうしようもなく悔しくて、手を伸ばす。泣き出すんじゃねえかとすら思ったひとみの、目元に触ろうとしたところで、昴がちいさく首を横に振って身じろぎした。
「いまのカイトさんは、オレのことそういうふうに好きじゃないでしょ」
だから、無理、しなくていいんですよ。
ぽつりと続いたその声と、ふれようとして届かなかった指先に、思考回路がカッと熱を持つ。「……な、んだよ、それ」
「ンなもん、お前だって同じだろうが!」
込み上げた衝動のまま、トレーニングウェアの胸ぐらを掴んで怒鳴りつける。あからさまに戸惑って、俺の苛立ちをわかっていない男の両目にもっと腹が立った。
「お前が好きで、世話焼いて、帰ってきて欲しいのは『記憶をなくす前の俺』なんだろ!!お前は、……お前はいまの俺のことなんざ見ちゃいねえくせに!」
「なッ……」
「ああくそ、いまの俺がお前のこと欲しくなったらおかしいのかよ!なんなんだよお前!」
「カイトさん、あんた、さっきからなに言って」
自分勝手に握り締められていた昴の指先がほどけて、胸ぐらを掴む俺の手にふれる。熱い。困ったように揺れていたひとみが、やっとまっすぐに俺を見た。ちくしょう、どうしようもなく腹が立つのに、ぞくぞくする。「──だからッ、」
「俺といるときに俺以外を見んなっつってんだ!」
「…………!!」
いまここにいる俺を見ろ。ここにいる俺を通して、いまここにいない俺を見るな。俺がこんなに、お前を見ようとしてるのに。お前は、そうじゃないのか。
「カイトさん、」
「うるせえ、黙れ、俺だけ見てろ」
「……ッ」
ガキみてえなまるいティーブラウンが、ゆがんで、潤む。は、とふるえた息の音を聴くのと同時に唇に噛みつかれて、喰らいあうように噛み返した。
「……そういえば、どうしてわかったんですか?」
「わかったってなにが」
「オレたちのことです。思い出したからじゃ、ないんですよね?」
湯上がりの癖毛を濡らしたまま、風呂場から戻ってきた昴がぽそりと聞いてくる。
声と視線に、自分自身をなじるような、悲しむような張り詰めた色はもうなかった。それでも、どう答えるのがこいつを無駄に傷つけずに済む正解なのか、いまの俺にはわからない。
俺が答えを探しているあいだに、昴はテレビの前にあるソファを通り過ぎて、俺が座っているベッドへ寄ってくる。体が動くまま、隣に座った男の首筋にかかっているタオルを抜いて、濡れた頭にわさりとかぶせた。どうにも勝手に手が伸びてたんだが、目の前の幼獣はなにも言わずに目を細めて大人しく身を預けただけだった。
「……、ジュニアにどやされたんだよ」
しばらく迷って、結局正直なところをそのまま呻くと、昴が驚いたように目瞬きをひとつした。
「響也さんに?」
「んだよその顔」
「え、いや、……一応カンパニーのみんなにはカイトさんとそういう関係なの、内緒にしてたつもりだったんだけどな、と思って」
「……そうなのか?」
「後ろめたいとかそういうのじゃなくて、自分たちのオンオフのけじめ、みたいな感じでいたんですけど……そっかあ、知ってたんだ……」
「つーか、たぶんあれジュニア以外もだいたい知ってる空気だったぞ」
「えっマジですか?!」
こいつの行き先を俺に教えたときのヒナタとまどかもそうだが、見舞いのときや全体レッスン中にも感じた、妙に慎重に気遣うみてえな雰囲気から考えると大体のメンバーにそういう共通認識を持たれているような気がする。
「いつからだろ、うわ、なんか急に恥ずかしくなってきた……」
「バレてねえと思ってたのは当事者だけだってんなら、まあそうだよな」
「カイトさんも当事者ですよ!?」
手のひらで顔を覆って呻いた昴が、髪を拭くタオルを押しのけて顔を上げる。拗ねたように口をへの字に結んでやがるのがまんまガキみてえで、つい肩を揺らして笑っていた。
病室で目を覚ましたときに見た顔、あれこれと思い出話を話して聞かせる顔、それから、ついさっき見た熱に濡れた顔。単純そうなクセして、俺の想像よりもくるくる変わるあざやかな表情から、いつの間にか目が離せなくなる。こっちを見ろって、噛みついてでも振り向かせたくなる。……記憶をなくす前の俺も、もしかするとそうだったんだろうか。
「なあ、昴」
「へ?」
「ジュニアが俺に、お前のことなんて言ったか教えてやろうか」
「……?」
「パートナー、だとよ」
周りにそーやって見られてたなら、ばれてても、べつに悪くねえだろ。
ぱちり。まるい両目が何度かゆるいまばたきを繰り返して、それから、筋肉質な腕に思いっきり抱き締められた。
「っおい、コラ、苦しいっつうの」
「だ、だっていきなりそんな、ずるいこと、言うから!カイトさんのばか!」
筋力にものを言わせてぎゅうぎゅうと抱き竦めてくる腕は若干息苦しいくらいだったが、ダイレクトに伝わってくる体温が心地好くて、振りほどこうとは思わなかった。しばらくそうしてからそのまま犬みてえに首筋に額を擦り寄せた昴が、ちいさく息を吐いて言う。
「明日みんなに会ったら、お礼言わなくちゃ」
「……おう」
「オレ、カイトさんの手伝い、全力でやります。手伝えることとか、疲れたときとか、教えてください」
「…………、おう」
いままでだって充分すぎるくらいだったけどな、と、喉から出掛けた本音は上手く形にできずに、代わりにまだ水気を含んだままの髪をわしわしとかき混ぜる。大型犬がくすぐったげに肩を竦めて、ゆるりと身じろぎした。
「だからそのぶん、歌ってください」
「っ……」
「いままでのこと覚えてなくても、カイトさんはカイトさんです。……だから、歌ってください。カイトさん」
短い前髪と熱い額が首筋をくすぐって、喉にそっと唇が押し当てられる。やさしく撫でるみてえなキスを喉元へひとつ落とした昴が、すぐ近くでまっすぐに俺を見た。
──朝日奈真。
それが、俺がこの世界に踏み込んだ最初の理由だった。俺のなかにあった、夢色カンパニーに入団する直前までの記憶。……だから、それだけは覚えていた。俺がバンドで手に入れた何もかもを置いて、音楽だけ持って夢色カンパニーのステージを選んだ理由。
カンパニーに来てから自分がどういうふうに過ごしてきたのか全然思い出せねえってのに、――それでも、自分の作った曲と、歌を聴いたら、わかっちまった。
たぶん俺はここで、俺の頭から抜け落ちた時間のなかで、『最初の理由』以外のなにかを見つけた。
だって、そうじゃなけりゃ、こんな曲は作れない。こんな歌は歌えない。それを思い出せないままの俺に、この音楽がつくりだせるのか。一瞬でもそう思っちまったことが腹の底から悔しくて、……同じくらい、不安だった。
なにも言えないまま、たったいま腕を離したばかりの昴の体をきつく抱く。
「くるしいですよ、かいとさん」
「うるせえ大人しくしてろ、この、ばか!」
はい、と薄い笑み混じりの声が返ってくる。ほとんど加減なしに抱き締めてるはずなんだが、わりと平気そうにしてやがるのが少し悔しい。生意気な、と思いはしたが、それでも。
悩んで、迷って、噛みついて。そうやっていま真正面から俺を認めて受け入れたこいつの温度を、手放したくなかった。
***
<七日とXXXX日目>
瞼を透かす朝日の気配に、ゆるゆると意識が浮かぶ。いつものボンレスはむの抱き枕を探して無意識にさまよった指先が、慣れた温度にぶつかってそのまま遠慮なく腕をまわした。あー、あったけえ。
いま俺が目を覚ましたベッドは、自分の家のそれよりいくらか狭い。持ち主の体がでけえからそのぶんくらいのささやかな配慮はあるが、それでもこんなとこにでけぇ男がふたりも潜り込んで、よく落っこちなかったもんだと思う。いや、昔はわりとよくあったことだし、なんならいまでもたまにあるが、それはそれだ。
オフの日なら少しのあいだガキみてえな寝顔を見たりすることも、まあ、なくはねえが。とりあえず、今日は朝から稽古が入っている。条件反射でまわしていた腕を離して、珍しく俺よりぐーすか寝てる男の肩を掴んで揺さぶった。
「おい、起きろ、昴」
「……?」
「ランニングに行く時間過ぎてんじゃねーのか。今日は休みか?」
「ん…………きょう、は、カンパニー行ってから…………、え?」
目を瞑ったままむぐむぐと喉の奥で呻いていた男の両目が、ぱっと開いた。起き抜けの紅茶色に俺だけが映っているのが見えて、たまらなく気分がいい。
「…………、かい、と、さん?」
「おう」
「おれ、いつもランニング行くじかんなんて、」
「言ってねえな。それがどーした、体力バカ」
「──……ッ!!」
声と視線と仕草が噛み合うリズムが心地好い。
どこからも聞かされてなかったはずの情報が、頭の引き出しから自然に出てくるってことは、要するにそういうことだ。
もともと真ん丸の目が、ひときわまるくなって、くしゃりとゆがむ。あふれた涙を手のひらで無理矢理拭こうとしたもんだから、その手を捕まえるついでに仰向けに押し倒す。無防備に濡れて揺れるティーブラウンが、カーテンの隙間からさした朝日に溶けて、ひどくきれいだった。目を細める。
「つーか、お前、言ってないっつったらなんで自分のあだ名言わなかったんだよ。ほかの連中のは教えたくせに」
話の流れで、休養中にこいつが俺に教えた諸々の情報のなかにこいつのあだ名だけがなかったことを思い出す。文字列としてはトークの履歴にちらりとあったような気もするが、あだ名として呼んでいたことを教えなかったのは、明らかになにかの理由があったからだろう。
昴が落ち着くのを待つあいだ、ほどけずに残っていた些細な疑問を投げかけると、ゆるんだ涙腺をじわりともう一度にじませた昴の涙声が「だって、」と応える。
「……前みたいに呼ばれたら、さみしいの、がまんできなくなるって、おもって……っ」
「………………ッ!」
――ああ、くそ、聞くんじゃなかった!
「ッお前、今度の休み前、覚えとけよ……っ」
「っ、へ、?」
「なんでもねえ!」
俺のパートナーは、相変わらず腹が立つほどいじらしくてけなげな大型犬だった。愛おしくてぐらぐらする頭からどうにか衝動を蹴り出して、記憶のなかのカレンダーを引っ張り出す。
次の休みは、ちょうど一週間後だ。
***
20181128Wed.