凪には遠く 机に広げたノートパソコンのディスプレイライトが、傍らに置いた晩酌用のグラスを無機質に照らして透かす。茫と白い光を帯びた画面を眺めだしてからどれほどの時間が過ぎたかはもう、分からない。
観客特別賞。『The AUDITION』。
夢色カンパニー。
――二年前の事故で世を去った創設者とともにこのまま消えていく名前だと、そう思っていた。
先代主宰亡きあと苦難の日々を乗り越え、華々しい光のもとに見事返り咲きを果たした新生カンパニーの門出。トミー賞の授賞式が行われてからというもの、各種メディアの至るところでそんな文章と、その名を目にする機会が増えた。そして、その度に喉元へ込み上げる苦々しい思いを飲み込むことも。
酒杯に口をつけながら、何度読み返したかも分からぬインタビュー記事をもう一度緩慢に辿る。
喜びと各方面への謝辞、そして亡き両親への思いがまっすぐな言葉で綴られた受賞コメント。文章の隣に添えられた写真のなかで、「朝日奈真」の息子が輝くような笑顔を見せている。
知らぬ間に、奥歯を噛み締めていた。
今回の受賞作である『The AUDITION』は、息子の手元にあった朝日奈真の遺稿を、いまの座付き作家が引き継いで完成させたものだという。そういった意味でも、所謂美談としてメディアに取り上げられることが多かった。
「……本当に、なにも知らないのか」
ぽつりと、喉から低い声が漏れる。
「朝日奈真」に、最後の舞台に立つことを許されなかった友がいたことも。未完成のまま永い眠りについている、かつての友とのプロットがあることも。――おそらくこの「息子」はなにひとつとして、知らぬのだ。
晩年を迎えた父の姿が脳裏をよぎる。かつて眩い熱で溢れるフロアに堂々と立っていた父とは、別人のようなか細い背。
このままでいいのかと、いつからか胸の奥で燻り続けていたなにかが確かに揺れた。
***
「初めまして。灰羽拓真と申します」
ニューヨーク州、マンハッタン。ブロードウェイからやや外れた通り沿いにひっそりと建つジャズ・バーの一席で、崚介を迎えた男は先ずそう言って軽い会釈を寄越してみせた。
「……黒木崚介だ」
「よろしくお願いします」
平静の内側にどこか硬質な光を潜ませた双眸が、黒縁の眼鏡越しにこちらを見ている。背丈は崚介より頭半分ほど高いだろうか。日本人としては長身の部類に入るだろうが、ジャケットスーツのシルエットからはどちらかといえばやや細身の印象を受ける。
最低限の簡素な挨拶を済ませ、奥まった位置にある席に向かい合って腰を下ろす。それぞれグラス一杯ぶんの注文を通し、運ばれてきた酒杯が机に並ぶまで、店内に響く演奏だけが沈黙を埋めていた。
「……正直、こうも早々に会っていただけるとは思いませんでした」
「ここまで来ておいてか?」
「それは、そうですが」
応える声の端に微苦笑が載せられる。手元へ届いたグラスをもう一度だけ傾けて、男が再び口を開く。
「今日の舞台、拝見しました。その上で、改めてお願いします」
「…………」
「先日お伝えした通り、日本に戻って私の劇団へキャスト……いえ、看板俳優として、加わっていただきたい」
近々日本で新しくミュージカル劇団を立ち上げようと考えている。ついては、メインキャストの筆頭、看板俳優として崚介を迎えたい。
崚介の手元へ、そんな旨を記した封書が海を越えて届いたのは一ヶ月ほど前のことだった。立ち上げに係る資本金や運用計画、劇団の規模、主要な拠点とする劇場の候補地などの仔細な資料とともに、「灰羽拓真」という男の名刺が添えられていた。
「答える前に、聞いておきたいことがある。構わないか」
「ええ。どうぞ、もちろんです」
手元へ届いた資料類には、大きな粗は見受けられない。離れて久しい母国にある伝手を辿り、男の身元や現在所属している劇団についても調べたが、そちらも特に不審な点は挙がらなかった。――ひとつの違和感を除いては。
「君について、こちらでも一頻りのことは調べさせてもらった。君の所属する劇団の作品についてもな。その上で君の話を聞く気になったということは、先に伝えておく」
「……、ありがとうございます」
「……君はこれまで、ストレートプレイの作品を主体に活動してきた。長年ミュージカルに携わってきた人間と比べれば、ミュージカルに関するノウハウの不足は否めないだろう。その部分を主宰としてどう補うつもりなのか、意見を聞きたい」
淀みなく続けた問いに、男の瞳が二、三、目瞬く。思考のためか、間に空白が落ちたのは数瞬。
「自己研鑽を重ねることは当然として、その件については劇団のメンバー構成次第で充分補えると考えています」
「……ほう?」
「現段階でスカウティングの目星を付けているキャスト・スタッフとも、それぞれの分野で一定以上の経験と実績があり、且つ上昇志向の強い実力層がほとんどです。私自身を含め、ミュージカル界出身ではないメンバーもいますが……多様性のなかにこそ生まれるものもあるでしょう。そしてそれは、多様性の坩堝とも言えるこの国の舞台に立ち続けてきたあなたのほうがよくご存知のはず」
流れるような口上に、わずかな牽制が絡みつく。予想通り、純粋な熱意に溢れているだけの男、というわけではないらしい。応えの代わりに目を細める。
「キャスト、スタッフを問わず、実力のある人材を引き抜いてくるということだな」
「ええ。……そのつもりです」
一定以上の経験と実績を持っているとなれば、元いた集団のなかで少なからず主軸を担ってきた、或いは今後担っていく人材のはずだ。無駄なトラブルは避けて立ち回るだろうといえ、業界内に多少なりとの余波を生むことは想像に難くない。そしてまた、崚介が男と交わした少ないやり取りのなかですら、目の前の男がその程度の想定ができぬとも思えなかった。――自らの行動が引き起こすであろう影響をすべて理解した上で、この男は崚介に誘いの声を掛けたのだ。
「私はこの劇団で、日本ミュージカル界のトップに立ちたい。そう考えています」
「……」
「そしてそれは結果的に、現在のあなたを取り巻く環境の変化にも資することになるものだと思いますが。……違いますか?」
憶測まがいの問いには答えない。静けさを装った声と視線の奥で、焦げつくようななにかが燃えていた。胸に覚えていた違和感が、そこでするりと解け落ちるのを感じる。
十年以上ストレートプレイの舞台に立ってきたこの男が、独立に際し敢えてミュージカルへの転身を決めたことが崚介には不可解だった。手紙やメールの文面から滲む計画的で几帳面な人物像と、ある種の危うさを孕んだ選択の熱量に、齟齬ともいえる違和感を感じていたのだ。――いまの言葉を聞くまでは。
おそらく、この男はなんらかの理由で「現在の曰本ミュージカル界」へ固執している。理由や目的がどうあれ、これまでの動向の礎にその執着の熱があるとするなら、崚介にとっても手を組むに異論はなかった。
「ひとつ、条件がある」
***
黒木崚介。
ミュージカル劇団の立ち上げを決めたとき、拓真がその名前を思い出したのはまったくの偶然だった。所属している劇団の同僚が話していたのを、どうやら無意識に記憶の隅に留めていたらしい。
ショービジネスの聖地、ブロードウェイ。そのステージに立つことを許されつつも、顔を隠した「仮面のダンサー」としてフリーランスな活動を続ける日本人。主要な役柄に就くことがないためか、日本国内や現地メディアへの露出はほぼないが、それでも実際に彼のパフォーマンスを目の当たりにした一部の層にはすでに強い支持を受けているようだった。
……もし、彼のような存在を劇団の顔として引き込むことができたなら。
幾つかの計算を脳裏に巡らせながら彼の出演している作品の全景映像を探し当て――画面の前で、言葉を失った。
はじめに群舞のなかから彼を見つけることは、別の意味で容易かった。ステージメイクで顔が隠されていても、夜の色をした黒髪と、周囲よりひとまわりほど小柄な体躯から、東洋人であることは即座に見て取れる。そうして彼のパフォーマンスを視線で辿りだしたあとは、同じステージ上でひときわ強いライトを浴びているはずのメインキャストの存在など完全に忘れきっていた。
ステップ、ターン、他のキャストとの立ち回り。振り付けに込められた意味を表現する芝居の、指先や視線の角度すべてが最適解と言っても過言ではない。構成する要素のひとつひとつがメインキャストに匹敵するレベルでありながら、しかし彼は決して「彼ら」と同じ種類のライトを浴びることはない。舞台上にいるのは、『本物』が演じた「完璧な脇役」だった。
「ひとつ、条件がある」
「……なんでしょう」
そうしてその『本物』はいま、ブロードウェイのネオンを望む街の片隅で拓真の前に座している。
「劇団運営に必要なスポンサーに関してはこちらからも手を回しておく。その代わり、スタッフやキャスト、活動拠点の選出について、共同設立者という形で関わらせてもらいたい」
「……、共同設立、ですか?」
「そうだ」
「……わかりました。そのようにしましょう」
思わぬ申し出に思考を巡らせかけたのは数瞬。彼の意見を取り入れるメリットこそあれ、デメリットはほぼ皆無に等しい。首肯を返せば、まっすぐに手のひらが差し出される。
「――では、いまから君と俺は劇団創設におけるパートナーだ。よろしく頼む。灰羽」
「……ええ。よろしくお願いします」
復讐の熱を胸に秘めたまま、差し出された手を掴む。
初めて映像で彼を見たときとも、今日の日中に客席から見たときとも違う距離。舞台に立つための衣装もメイクもないというのに、その眼差しはひどくあざやかで強いひかりを帯びていた。
***
20190411Thu.