未明終わりのリバイバル◆
ひたり、と、明け方のひややかな空気が頬を撫でる。
寝室のカーテンの裾からわずかに漏れている光はまだ白みはじめたばかりの空のいろをしていた。低く喉を鳴らしながら緩慢な目瞬きを幾度か繰り返し、拓真は意識を覚醒へと向かわせる。
身じろぎとともに視線を窓際から戻していくと、こちらを向いた白い背にふと行き当たる。拓真のものよりもいくらか小柄な背中は、けれどもしなやかな筋繊維に覆われて華奢な印象は感じさせない。ステージに立つために織り上げられた、美しい後ろ姿だった。
静まり返った寝室で、穏やかに眠る彼の規則的な息遣いが聞こえる。サイドテーブルに置いてある眼鏡を取ってベッドから抜け出すには、さすがにまだ随分と早い時間だ。愛用している眼鏡を求めて持ち上げかけた指先を、起き抜けの思考回路と同様に少しばかりさまよわせて、結局もう一度シーツの上へ戻した。うす明るいひかりになぞられた彼の後ろ姿の輪郭を茫と目に映しながら、細く長い息をゆっくりと肺から押し出す。
久方ぶりに、あの会見の夢を見た。
夢色カンパニーとの対決公演、その勝敗を決した一票についてを揺るぎない口上で語りおおせた彼の姿と声が、対決公演からいくつかの季節が巡ったいまでもなお拓真の記憶の底に焼きついて離れずにいる。
夢、という生理現象が記憶の整理のためにおこなわれるものであるのなら、あのときの彼の姿は自身にとってどれほどの衝撃をもたらしたのか――少なくとも、目の奥に焼きついたあざやかさを持て余し、いまだに夢に見る程度には、鮮烈であったといえる。
居並ぶ記者団を前にただひとり向かい合い、圧倒し、そして一片の淀みもない「黒木崚介」をつらぬいて語り終えた。彼が何を語るかなどジェネシスのメンバーであればおそらく皆予想がついていたし、会見場がどうなるかも予想はついていたというのに――彼があの場の支配権を自らのものとせしめた瞬間の高揚を、あの眩しさをただ強烈に、覚えている。
自身が彼を、いつからか目を細めて見るようになっていたことに気が付いたのはあのときだった。彼の持つ正しさと強さは、自分の目には過ぎるほどあざやかで眩しい。
その彼がこうして拓真の自宅の寝室で無防備な寝息を立てていることが、あるいは腹の上を明け渡しさえすることが拓真にはふとした瞬間にひどく不思議に思えてならず――いまでもそのときには決まって、彼にふれることを少しだけ躊躇いたくなる。
彼という人間を前にすると、うつくしい刃物を見ているような心地がするからだ。下手にふれれば、研きあげられた彼を曇らせてしまいそうで、かつてはそれが怖ろしかった。
「……仕方ないですね」
言い訳じみてこぼしたそれは、自身と彼とどちらに向けてのものかわからない。先ほど下ろした指先をそっと持ち上げて、無防備に晒された彼の背にシーツを掛け直す。そのついでに、うなじに掛かった夜色の髪を払ってやると、掛け直したばかりシーツのなかで彼が短く身じろぎした。
「…………、」
規則的だった呼吸のリズムが若干乱れる。体軸の移動にベッドのスプリングが軋む音がして、寝返りをうった彼の瞳と視線がぶつかる。
「…………なんだ」
「……背中が冷える、と思いまして。起こしてしまったならすみません」
「べつに、かまわないが」
起き抜けの掠れ声が耳朶を擽る。寝返りをうったことでまたわずかに乱れたシーツをそのままの姿勢で整え直し、隙間を埋めるようにこちらへ身を寄せる。
「目が覚めたならそう言え」
瞼を伏せながら呟かれたそれに目瞬きを返しているうちに、穏やかな寝息が再び聞こえ出していた。首元をやわく掠める吐息と、シーツが含んだ体温はあたたかい。
きっと彼の行動に、シーツの隙間を埋める以上の意味はないのだろう。いくら起き抜けとはいえ、彼は褥で身を寄せて甘えてくるような男ではない。けれどもその無防備さにこそ胸裡を揺らされるのだから、可笑しなものだ。
「…………、そう、ですね」
彼の静かな寝息を聞きながら、小さくこぼす。
下手にふれれば、うつくしく研きあげられた彼を曇らせてしまいそうだと思っていた。かつて感じていた怖れを、いまはさほど感じなくなったのは、彼の温度を知ったからだ。
「次からは、そうします」
すでにすっかり寝入っている彼からの応えはない。
夜の匂いを含んだ黒髪にそっと唇を落として、もう一度目を閉じた。
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20180607Thu.