Wavering#02_裸の継承者 デュナン国は、軍指揮官や船員、学者、船匠たちからなる百九十二名の群島諸国連合軍・デュナン国海軍再建支援団を受け入れ、一方で、ハイランド王国の海軍を一度解体する手続きと作業も始まった。しかし、リオウの仕事は国王として国事全般に及ぶので、海軍にばかりかかずらってもいられない。内政も外交も待ったのかからない状況で、やるべきことは山とあり、その一つ一つに障害がある。あのとき戦争が「終わった」と感じたのは、一夜の夢のようだった。
王家が倒れたといって、ただちに、ハイランドの有力な士族・貴族たちの全てが、膝を折りはしなかった。勢力を集め、反乱を起こすことが幾度かに及び、皇妃の身柄を抑えられなかったのが痛手だ、このままでは長い内乱となる、と、国家統一を危ぶむ声がじわり、聞こえた頃に、宰相に就いたシュウから親征の具申。
久しく身に帯びなかった鎧と剣を着け、鐙を踏んで馬を駆り、リオウ自ら戦場に赴いた。人間の集団に対して、完全な形を取り戻した「始まりの紋章」が威を振るい、その一戦で、決戦を期す抵抗勢力は潰滅した。
首謀者の一人を捕らえた夜、無人のはずの屋敷の、バルコニーの窓の奥に、赤い服の少年らしき影があったと、噂が立った。リオウは調べなかった。
戦後、デュナン国の首都となり、零した水が床に広がるような速やかさで城下町を拡大させつつある、元ノースウィンドゥの居城の浴場で一人、ため息をつく。
(まさか、反乱を唆したり、してない……よね。)
そうであってほしくないという気持ちが湧くなら、なおさら調べさせればよかったかもしれない。噂が耳に触れたとき、リオウはテラ・マクドールがそんなところで外を見ているわけがないとは思えなかった。リオウの考えでは彼は恐るべき自由人であり、確たる証拠はないが、デュナン統一戦争時下、リオウに手を貸していた間も、ひょっとしたらハイランド王国に密かに出入りしていたのでは、と疑える節がある。戦争が終わってからハイランド人を一人連れてきて、デュナン国で保護してほしい、と怪ったいな頼み事をしてきたのも、ついこの間である。あの貴族の屋敷、焼尽しつつあるハイランドの、その最後の燃え残りのところにテラがいて、知りたがりの目をして、起きていることを全て見つめていても、おかしくは、ない。
(〝らしい〟な。そのほうが。……きっとそうだ。)
良くも悪くも、自分の損得で動かないのだ。それがシュウなんかに言わせると、利を求めない人間は、信用できない、となる。
(あの人は僕に恩があるはずだ。反乱を手引して、仇で返すようなことはしない。)
……と、思いたい。
しかし、今どのあたりにいるのか探りは入れておこう。噂について、リオウはこれで、考えるのをおしまいにした。もとが、根も葉もないたかが噂だというのに、そのために、どんよりと疲れた。湯べりに両腕を寝かせて頬を押し付ける。すると浴場入口が目に入った。カラカラ……と戸を引いて、下半身を手ぬぐいで覆って誰かが入ってきた。
「あっ……。」
「ん?」
浴場はリオウ専用ではないので、誰かと出くわすことはある。しかし、ひと目でそれが誰かリオウは分からなかった。
「失礼しました。」
「ちょ、ちょっと!」
後から来た人は、カラカラ……と戸を閉めて脱衣所に帰っていこうとしたので、リオウは湯から上がって引き止めた。
「ここ、僕専用とかじゃないんで、ご遠慮なく!」
カラカラ……と三度、戸が引かれる。湯気を押し分けてくる体の方をみて、リオウはひゅっと息を呑んだ。
全身に、ものすごい数の刺青を入れている。
「まさか閣下とは思わず、失礼しました。」
「あ……セルセス、さん?」
声色と「閣下」という呼ばわりから、群島諸国連合の支援団の連絡係、セルセスだと気づいた。鉢巻がないと印象が全然違ってしまうが、他で見たことがないほどの鮮やかな明るいブルーの瞳は、確かに彼のものだ。
「お邪魔します。」
と言って、温かく微笑む。少なくとも、新兵の指導教官でない時は、穏やかで物腰の柔らかな人物だと思っていたが、そうした印象を全く裏切る凄まじい彫り物に、リオウはかけ湯をするセルセスの顔と体を交互に見つめてしまう。
湯船にざぶと入ったセルセスは、長く息を吐いて、長めの前髪を濡れた手でかきあげた。
「すごいですね、それ……。」
このときまで、リオウの不躾な視線には気づかなかったようだ。
「恐縮です、閣下。」
「群島の人ってみんなそうなんですか? えと、悪い意味じゃなくて。」
「そんなことないですよ。これは、まあ僕個人の趣味……みたいなもので。」
湯から出ている部分の刺青をリオウはあちこち見た。鎖骨の下、両胸を突っ切るように、読めて意味のある言葉が彫ってある。
「あれ、字……文章書いてる……? このした……〝死体〟!?」
リオウはお湯の中で飛び退いた。そのまま固まるリオウに、セルセスは一度にこりとして続きを読んだ。
「〝この死体を見つけた人へ。近くに罰の紋章がまだいるかも知れない。早くこの場を離れて。〟……って彫ってあります。」
「な、なんでセルセスさんが死体……!?」
「なんで……僕が死んだ時のためのものなので?」
「なんで死んだ時のことわざわざ体に彫ってるんですか……!?」
「それはですねえ。」
セルセスは、簡潔に説明するにはどうすればいいか少しの間考えたが、すっ飛ばしてしまった前提を伝えないわけにはいかないと思った。
同じ真の紋章持ちであるリオウには、いずれ話すつもりではいたことだ。
「僕は真の紋章を持ってまして、それが罰の紋章っていうんですけど。」
「ん、……えっ?」
「ついでに、本当の齢は百七十くらいなんですけど。」
「えっ?」
「この罰の紋章は、」
セルセスは湯の中から左手を上げてリオウに見せた。体の刺青がすごすぎてこれまで目に止まらなかったが、暗色のとげとげしい巻き貝とでもいうべき紋章の姿は、リオウの目に明らかに禍々しいものとして映った。
「……使う度に持ち主の命を削るという性質がありまして、」
「え、……それは。」
「この頃はそんなことはないんですけど、基本宿しているだけでいつ死んでもおかしくないっていう厄介なやつなんです。で、さらに悪いことに……」
「あの、ちょっと待って……。」
「……持ち主が死んだら、近くにいる人に望むと望まざるに関わらず勝手に宿るという、とっても迷惑な紋章なんですね。なので……」
「わぁーもう、待って!!!」
リオウは、木桶を掴んで湯船の湯を掬い、思い切りセルセスに浴びせかけた。ばっしゃあ、と見事な飛沫が散る。
「多いです!」
いっぺんに渡されたものが色々と多かったので、無理やり止めたのであった。髪から雫をぽたぽた落としながら、セルセスは目を瞬いてぺこりと頭を下げた。
「すみません。」
「あと、ついでに、風呂場でまで『閣下』はやめてください。……百七十歳ってほんとですか。」
「……、本当です。」
拾われっ子だから正確には分からないけど……と、セルセスが言葉を濁して言ったとき、リオウは胸の中である思いが勢いよく膨らむのを感じた。
この人は自分と似ているのではないか。
「えぇ……。じゃあ敬語もやめてください。リオウって呼んでくださいね、様とか殿とかなしで。」
と、セルセスに言ったとき、リオウの頭に瞬間的によぎったのは、テラが「リオウ殿」をやめてくれるまでの時間の長さだった。
「わかりっ……わかった、リオウ。」
「お湯ぶっかけちゃってすみません。」
まじめくさって謝るリオウがおかしく、セルセスは両手で顔を拭う仕草で笑っているのを隠した。
「僕の方こそ、ややこしくてごめんね。……謝るの変かな?」
「変だと思います。」
「じゃあ……お湯ぶっかけられたけど、許した。」
セルセスは、いっぺんに語ると多いとリオウが言うので、自身の来歴の半分の半分くらいを薄めて語った。戦争を率いていた事ははっきり言わなかったので、彼が群島の英雄として知られた人であることを、リオウが知るのは、まだしばらく先だ。