番外:feat.4様 三百年も生きていると、人の性情に変わりはなくも、世の中の方にはいくらかの変化が起こるのを見るものだ。
国が滅び、また興り。山崩れや洪水で地形が変わり。地図が描き換えられ、人が子供につける名前が趣を変えていき、突拍子も無い法律が敷かれて廃され、道具が便利になる。
テッドが今腰の後ろに提げている剣は、テラと二人の旅に出る時に、グレッグミンスターで買った。木の枝を払ったり、薪を割ったり、鹿くらいの動物を捌いたりするのに使い勝手の良い、やや短めの剣だ。同じようなものを、最後に旅していた時も持っていて、グレッグミンスターに仮居を決めた時に、売って手放した。二十年ほども使い込んだ後だったので、二束三文の価値にしかならなかったが。
二十年ぶりに道具を買い換えると、世の中の移り変わりを強く感じる。同じ用途の、同じ名前で呼ばれている種類の剣なのに、刃は薄くて軽いし、かつ丈夫であるというし、柄は持ち易い。マントに隠して後ろ手に握る剣把に、そんな思い返しをした。
誰かが、テッドの存在を気にかけたような気配がしたのだが──まあ、よくあることだ。
ところは、群島諸国のある島の酒場である。群島は昼が長いので、日暮れまではまだもう少し時間があり、昼から酒場に屯ろするような、生粋の呑んだくれは家族のご機嫌を伺うためにはけていて、一日の務め終わりに酒を飲み出すものはまだやってこないので、人はあまりいない。身なりから、テッド同様、旅を生活の一部にしている者の方が多いとさえ見えた。
テッドが群島全土を巻き込んだ戦争に加わってから、百五十年が経つ。その間に、海底火山が噴火して、新しい島ができていた。歳月と自然のなせる大技だ。大陸と近かったので、噴火が収まるや早々に人の入植が始まり、交易の拠点として育ちつつある。まだ森林がないので、群島では珍しく、若い草原に馬や羊がぽつぽつと放たれていた。
赤月帝国から短い航海を終えて、ひと心地ついたところだった。
帝国領内をほとんどまっすぐ南に縦断したが、その間に、国内に不穏分子の暗躍があるのを知った。帝国解放運動は、これまでにもささやかに存在していたが、近年、指導者を改めてから急速に過激化してきているらしい。テオは恐らく知っているだろう、とはテラの談である。災いの種は、王宮の中にばかりあるのではない。国が荒れるかもしれぬ、と思ったればこそ、息子を遠ざける期と理由に乗じた。テオには、七年前の継承戦争で、子に戦禍の及んだことを悔やむ気持ちがある。
……と、真面目くさった顔で語っていた当のテラであるが、帝国を南に抜けて群島へ船で出たところ、凄まじい船酔いをして、今はほぼ死体となって宿で転がっている。嘔吐の激しさは誰がどうみてもかわいそうだったので、同じ船に乗り合わせた人はテッドの姿を見れば、彼は大丈夫か、と声をかけてきた。あのように鎖骨まで、青白いを通り越して緑色になってしまっている親友の姿は見たことがない。群島行きを決めたのはテッドなので、港に着くまで気を揉み通しで、船が止まっても起き上がることさえままならないテラを、他の旅客が荷物を運んでくれるのに助けられて、背中に担いで宿まで連れていき、揺れないベッドで寝付いたのを確かめて、ようやく詰まった息を吐き出せたことだった。
まさかあんなに船に弱いとは。二人で旅する経緯にならなければ知らずにいただろう。テッドは全く酔わないので、自分の身に起きない不遇には無頓着だった自分を省みたりもした。今はとにかく休ませることだ──と、部屋に灯火をともすのを憚って、こうして出てきた。
しかし、この先当面の間は、移動手段は船、ひたすらの船だ。船上でのてんやわんやを思い返して、不安の暗い雲が胸に湧いてくる。船酔いで死にはしないが、安らかな気持ちで見てはいられない。かわいそうだ。
とはいえ、少なくとも両足が地面を踏んでいる限りは、気を休めなければならないのは、テッドも同じである。少し、酒をやりたく思った。今出されているのは、椰子の実の酒にスパイスを加えて煮立てて、わざわざ酒精を飛ばした飲み物である。半割した椰子の実に、葦のストローが差してある。見た目が子供なのは認めるが、そこまでしなくても、と思う。群島の酒は、豊富な果実を原料に造るものが色々あるが、風土の人心がおおらかなので、人々は醸しもそこそこに飲みだしてしまう。ために、酒精よりも果実味が多く、おやつみたいなものなのだ。本物の船乗りが御用達の、どぎつい蒸留酒ももちろんあるが。
そういう、濁りのない琥珀色の液体が縁まで満々と注がれたグラスが左隣の席に置かれて、不意に、そこの席を占める人があった。
「旅の途中ですか。」
テッドは頭を下げて葦のストローをずず、と吸いながら、横目で素早く観察した。
得物は剣を右腰に吊っている。ちょうどテッドが腰の後ろに佩いているのと同じくらいの短い刀身。利き手が左なのか、それとも腰の反対側にもう一本提げているのか。顔を見るまでの間にこうしたことを思案した。正解は、その両方だった。
「誰だっけ、あんた。」
「ひっどいなー。」
「百五十年も前の知り合いの顔なんて、忘れちまったよ。」
ふふ、とさやかな笑声があった。こんなところで出くわすとは思わないが、出くわすとしたら群島のどこかだっただろう。テッドが旅の途中で行き合わせた、太陽暦三〇七年の群島解放戦争で、抗クールーク諸島連合軍を率いていた少年……その頃の姿のままでこうして再び会ったということは、27の真の紋章の一つ、「罰の紋章」はいまだに彼と共にあるのだろう。テッドがさっきやっていたように頭を下げて、グラスの縁から浮くほど注がれた酒をずず、と吸う。
「セルセス。」
「テッドさん、お久しぶりです。」
セルセスは習慣的に握手を求めて右手を差し出しかけて、途中で意思によって手を止めた。テッドは自分の方でも少し躊躇ってから、右手を差し出した。セルセスが驚いて目を開きがちにしている。二人は手を握り合った。
「今おれのとこにないんだ、あの紋章。」
先回りして、そういう事情を伝える。セルセスは半ば得心がいったものの、連鎖的に湧く別の疑問のどれから尋ねるか吟味している。彼には、余計なことは言いたがらない、口に出す言葉を惜しむところがあった。はずなのだが。
「昼間おんぶしてたきれいな人は?」
「なんだよ、“きれいな人”って。宿で寝てるよ、船でひどく酔ったんだ。」
テラをおぶっているのを見られていたということは、セルセスがテッドを見つけたのは今この時ではなかったのだ。それか、人に情報をもたらされたのである。相変わらず、どこに目と耳がついているのか知れない。
「鈴までつけてるから、よっぽど近くから離したくない人なのかと思って。」
最初に聞かされた報告が“駆け落ち者らしき若者”だったのだ。セルセスは酒盃を唇に持っていって怪しい笑いを隠しながら、テッドさんのコレですか、と謎の手つきをした。
「いやらしい想像するなっ。男だし、……友達だよ。」
それを聞いたセルセスの胸中の感慨は、うまく言葉にならない。あれだけ人を遠ざけていたテッドが、誰かを臆面もなく友達と言うのは、かなり勇気が必要だったに違いないと思う。
「鈴は……あいつがおしゃれでつけただけで……あと武器か……。」
断じて猫の首輪のような意味で自分がつけさせたのとは違う、とテッドは主張した。一方で、近くから離したくないのはどうも否定しないので、セルセスは幸せのお裾分けを頂戴したように思われて顔がほころんでしまう。
「ニヤニやするのやめろっ。」
「ほんなひひょなもは、すほふひょういはあいまふ。」(どんな人なのか、すごく興味があります。)
テッドに両頬を引っ張られながら、酒の追加を頼む。テッドが手を離したら、ぱちんと戻った。
「テッドさん見た目子供だし余所者だし、舐められてるんですよ、それ。子供が夜寝られない時に飲むやつです。」
テッドの前にある、葦のストローの刺さったヤシの実を指差した。
「お酒飛ばしてありますよ。」
「わかってるよ。連れが伏せってるんだ、酔っ払うつもりはない。」
「……じゃあ付き合いで一杯だけおごられてください。」
テッドの前にもガラスの酒器が置かれる。中身は透き通った無色で、卓上にあるだけで芬芬たる酒精の香気が鼻腔に届いている。
セルセスは新しく注がれた蒸留酒のグラスを取って、テッドを待った。テッドは少し躊躇ったものの、器を持ち上げて静かにぶつけた。
「三百年、お疲れ様でした。」
「……違うって、そうじゃないんだ。」
セルセスはテッドが紋章の重荷から解き放たれたのだと思ってお祝いする気だが、テッドは、テラが紋章と勝手に話をつけて自分が宿してしまった経緯をごく短く伝えた。いずれ返してもらうつもりでいる、ということも。
「呪いのことを知った上で?」
「そうだよ。」
「随分、向こう見ずなお友達さんなんですね。若さってすごいなー。」
「めちゃくちゃなんだよ、あいつ……。揉め事にすぐ首突っ込むし。売られた喧嘩は絶対買うし。物乞い全員にお駄賃あげようとするし。女子供と、老人と、貧乏人と病人と、カタワとめくらと唖には施すものだって思ってやがる。」
テッドは指折り数えながら酒に口をつけた。喉が強く灼ける。
「向いてないんだよ、ソ──」
紋章の名前を口から出しそうになって、テッドは咳払いした。どこに誰の何が潜んでいるやら、分かったものではない巷であった。
「おれは、心配だ……。」
と言って、肩もずっしりと落として、古さびたため息をついた。
聞いているセルセスは、途中から酒盃を持つ手が湯呑で茶をしばくときの形になっていた。ずず、と琥珀色の酒を啜る。
「テッドさんめちゃくちゃ優しい……。」
「今おれの話してないだろ!」
拳骨でカウンターを叩きながらテッドは口をとがらせた。
「会ったこともない人のことを、とやかく言いませんよ。紹介してくれないんですか?」
ちら、と投げかけられた視線に含まれた陰影に、テッドはぞわりとした悪寒を覚えた。
「……なんでだろうな。そうすると、とんでもなく面倒な事態に巻き込まれそうな気がするよ。」
ソウルイーターと長い年月をともにする中で嫌でもわかるようになった、戦乱の気配とでもいうべきものが、ひやりと触れたように思ったのである。
「さすが、鋭いです。……南の大陸に渡るなら、用心を。」
「また、旗頭でもやってんのか。」
「いやいや。誘われて、ちょっと手伝ってるだけです。でも歳の近い人がいなくて寂しいから、テッドさんがいてくれたら楽しいかも、って思ったんですけど。」
「近くね―よ。倍生きとるわ。」
セルセスは擽ったがるように笑った。
だんだん悪い酒になってきた。一杯だけのはずだったのに、話もやめられなければ、自然、酒杯も数えることになった。
「……いいんだけどな。困ってる人をほっとけないのは、あいつのいいところでもあるんだろうし。でもな放っておくとな、人の作った砦がなんか知らんが吹っ飛んでたり、町の中で三十人の武闘派から追っかれられたりしてるわけ。ほんの数か月で、おれの人生でいったら十年分くらい……。」
「それは濃ゆいですねえ。」
「自重してくれって、言ってんだけど。謝っちゃくれるんだけど、もう少し、申し訳なさそう〜にしてくんないかなって、おれは思うわけ。」
割らない酒の小さな盃が底で天井を仰いだ。押し寄せるひと波の酔いが、テッドの頭を束の間ぼんやりさせる。その瞳の色の移ろいを横から見ていれば、言葉とは裏腹、彼は倦んでも疲れてもおらず、綿に沈むような重みのある陶酔と、幾許かの憧れのようなものをさえ含んでいた。困ったことに巻き込まれた一瞬一瞬のことを追想してテッドはそんな目をする。これは愚痴ではないなとセルセスは思った。
むしろ惚気だ。
「テッドさんが幸せそうで何よりです。」
「お前、おれの話聞いてた?」
「聞いてましたよー。」
姿勢がじわじわと崩れて、テッドはほっぺたをカウンターに押しつけて苦味の滲むため息をついた。
「……船酔いなんておれはしたことなかったから、どうしてやったらいいのか全然わからないんだ。自分のことしか考えないで生きて、無駄に年ばっかり食っちまった。」
三百年も生きていては、後悔の思いも人が一生で抱えられる分を優に越してしまうというものだ。こうした場合、そんなことはない、テッドはかなり物知りだし、人を思いやる方だ、と言ってやることに意味はない。
「体質と運ですよ……その辺のもので酔い止め作ったりとかしますけど……おまじないみたいなもので。」
「えっ。」
テッドはがばと起き上がってセルセスの方へ身を乗り出した。そのぶんセルセスがちょっと下がるくらいの勢いがあった。
「それ、教えてくれ! 頼むっ。」
といって、頭まで下げる。セルセスは目を丸くしてテッドにそれをやめさせて、民間療法だからあまりあてにならないとなんども断りを入れて、聞く気のテッドにいくつかの植物で作る煎じ薬のことを教えた。テッドは、興奮に頰を紅潮させて、諒解が済むや否や、会計をしようとする。奢るからといってそれもやめさせて、席を立とうとする慌しさに「大事な人なんですねえ。」と言ったら、ようやく照れが来た様子でさっと顔を背けながら、
「そうだよ。」
──と返されてしまい、一人、残された。
百五十年ぶりに再会したことはほとんど奇跡だというのに、もう再び会うことはないかもしれないのに。
妬けることだ、と思いながら、しかし、酒がことのほか美味かった。
本当なら、世界を旅するとはこういうことだったのかも知れない。テッドは人と関わりを避けたかったから、およそ知識は人から盗んだものばかりだが、行く先行く先で少しずつ人と親切を分け合いながらするのが、本当の旅だったかも知れない。船の上でもそうだったし、薬のこともそうだ。
祈ることが肝心、とセルセスは言っていた。群島の人は、酔い止めの煎じ薬の処方を各家庭に持っていて、仔細に違いはあるけれども、一定に、祈らないと効き目はないのだと信じている。
そうしたものの存在を教わってから見れば、薬の材料となる植物は店でも売っているし、軒先に干している家もある。それらを求めて集めながら、テッドはこれまでの人生で、祈ることが自分にとってどれだけ甲斐がなかったかを思い返していた。呪われた身とはまさにこのことで、誰かのために祈るような事態では、ほぼ例外なくその人は死んでしまった。だから、テッドは祈るのが怖かった。
果肉を除いて種子を潰し、木の根を根気強く刻んで、花をむしり、小鍋に煎じて、立ち上る奇妙な臭気の中に、心をたっぷり右往左往させて、身に覚えた恐怖を力の限りどかす。
「……りますように。旅の道連れの人たちが、港まで、その後もずっと、幸運でありますように。」
とってつけたように両手を組んで、頭を垂れた。テッドが祈るせいで悪いことが起きないようにとこそ、祈りたいほどだったが、それは口にはしなかった。心を安んずるつもりで、効くかどうか定かでないもの、ほんのおまじないだと自分に言い聞かせたが、三百年の累徳が験を顕したか、作った煎じ薬は、テラには抜群に効いた。