未知に対するアイ日の終わり、自室のソファに身を投げ出していると、ドアから少年が出てきた。
「あっ、あー……」
少年は気拙そうに声を鳴らす。こちらは舌も頭も動かない。
咄嗟に少年、とは形容したが、そいつは非常に雌雄の判断がし難い容姿をしていた。薄紅の髪と青緑の目は、長さも大きさも曖昧で。露出した肩と平たい胸元だけが男性らしさを主張している。
シャワーを浴びすぎたのだろうか。まさか追憶の一種か?
そいつはリビングとキッチンを隔てるドアから出現した。最初から中にいた? ありえない。ここは俺以外入れない。
常軌を逸した状況に脳がささくれだつ。無意識の内にソファに爪を立てる。
「えっと。おはようこんにちは、もしくはこんばんは」
バツが悪そうに微笑んだ。
キズを発動する。
鍵を鍵穴、心臓に向かって刺す。が、キズは相手の体をすり抜けて霧散した。キズ持ちではないのか? 喉の粘膜が乾いて張り付いた。
「落ち着こうよ。これは不運な事故なんだから、お互いにとってね」
へらりと笑いながら、自然な動作で上着のポケットに手を入れたのを見逃さなかった。相手はふわふわと体を揺らしている。俺は肺を動かすのも辛い。普段は快適な無音の空間が、今は緊張を高める道具に成り下がった。くそ、濡れた髪が気持ち悪い。
「怖いなあ。そんなに睨まないでよ。こっちはまだ子供だよ? キミみたいな大男を前に震えが止まらないよ」
たしかに相手は頭ひとつ分以上小さい。簡単に取り押さえられそうだ。指先がぴく、と動く。
「……子供である前に、侵入者だ」
「事故だって言ったろ? ボクはわざと不法侵入したんじゃないんだぜ」
顔に向かってクッションを投げつける。腕がポケットから離れた。動揺した隙に後ろに回って腕を背中でまとめた。最後に左手を首に添える。
「もう! どうしたら信用してくれるんだ。ほっぺにキスでもすればいいの? それとも靴かい」
指先に力を込める。
「よしわかった、話そう何もかも。まずは名前からだね」
そいつは息を吸い込んだ。
「ボクはカルロッタ・ヴィルガ。カルロって呼んでよ」
覚えのない名だ。治験者にもラボの職員にも、そんな奴はいない。
「キミの名前は?」
「お前に教える必要があるのか」
「人間関係の基本は歩み寄り。相手を知るには名前から、だよ」
無警戒に近づいて刺されても文句は言えないだろうが。どうして自分から傷付きに行かないといけないんだ。
「尋問とかも犯人の懐柔から始まるだろ?」
こちらの名前を明かさない限り、これ以上話を進める気はないようだ。面倒臭い。
どちらの名を教えべきだろうか。言い淀んでいると、相手は焦れったそうに体をよじり始めた。
「パゴダ。パゴダ・ラスコヴニク」
「ふぅん。かわいい名前だね」
上位者の名前に反応がない。街に来たばかりなのか。しかし、だとしたらこの落ち着きようは何だ。嘘か演技か、そんなことをする意味がわからない。
「ファーストネームで呼んでもいいかな?」
「どうでもいい」
名前なんて、呼ばれ方なんて、どうでも。
「じゃあパゴダさん。何から聞きたい? 誰、何処から、どうして、プライベートに関わらないなら何でも答えるぜ」
不可解なことばかりだ。何から聞きたいだと、俺が知りたいのは何もかもだ。いつの間にか会話の主導権を握られていることに苛立つ。
「どこからこの部屋に入ってきた」
「ふむ。前置きしておくけど、今から言うことは妄言じゃないよ。ボクはまったくもって正気だ。キズにも犯されてないクリーンな精神だ」
狂った奴は自らを狂っているとは評さない。先からの捻ったような物言いに、つい踵を上下に揺する。
そいつは余分な間を置くと、よく通る声でこう言った。
「ボクはこことは別の世界から来た」
予想とはズレた回答。考察する間もなく二の句を告げられる。
「この『街』の外じゃないぜ。もっと別の、遠い場所から」
「……は?」
何度も言葉を噛み砕くが、まったく消化できない。せいぜい疑問符を口からこぼすのが良いとこだった。
「意味が不明? それとも不信? 証拠を見せるからこの手を解いてよ」
「断る」
「ボクがキミに勝てないのはもうわかったでしょ?」
ため息をついて、片腕だけ解放した。
そいつは「グラッツェ」と呟き、腕の自由を確かめるように揺らす。そして俯くと顔に手を当てた。ぱこん、と奇妙な音が鳴った。左腕を掲げる、その手には先刻までこちらに笑いかけていた「顔」が握られていた。
「仮面、だよひどく精巧な。付けたまま食事も会話もできる」
キズ、ではない。ならば、人の技術によって作られたものなのか? 眼前のこいつは本当に人間なのだろうか。
「素顔は見ない方がいいかもね。キミが惚れたら困るから」
俯いたままくつくつと笑う。
「何が目的だ」
掠れた声でそう言うのが精一杯だった。
「そうだなあ。いい加減ボクら顔を向かい合わせるべきじゃないかな。喋るタイミング掴めないし……お互いの嘘も見抜けない」
そう言って、仮面を元の位置に戻した。
度重なる刺激に晒された脳を絞っても大した考えは出たかった。
どうしてこいつの言うことに従っているのだろうと思いつつも、首にかけていたタオルで両腕を拘束し、放した。立っていることにすら疲れてきたんだ。
「キミってばずっとしかめっ面をしてるんだね。せっかく綺麗な顔なのに」
容姿を褒められて無反応を貫きこそすれ、不快感を抱いたのは初めてかもしれない。
自分はソファに、そいつはテーブルに腰を据える。
ライトを着けていないことに今更気がついた。消し忘れたままのテレビの映すテストパターンの光だけが、部屋の輪郭を浮かび上がらせていた。
光はもうひとつあった。そいつの目だ。こちらの表皮から内面、裏まで覗き込むような眼差しが気味悪くて、真正面から合わせるのは無理だった。
「それで、ボクの目的がなんなのかって話だっけ」
そいつの足元に視線をやったまま、頷く。
「ボクはこの世界を調査しに来たんだ」
「調査……なんの為に」
「半分は仕事で半分は趣味」
「…………趣味だと」
「キズとは何なのか? 街の仕組みは? キミはどんな人なのか? ボクはそれが気になって仕方ないんだよ」
目線だけ動かして、そいつの顔を凝視する。陽気に、陽気に笑っていた……
気狂いと断ずるには理知的すぎる。こいつは埒外の存在だ。
こいつが何者にせよ、去れと伝えるつもりだった。
「そうか、わかった」
けど、頭の裏にある想いが湧いた。
「君をラボに迎え入れよう。侵入の件は不問だ、俺が知ってる限りのことも話す」
馬鹿げているとは思う。でもあいつの顔が浮かんでしまったんだ。
「ただ条件がある。君も俺に教えろ、別の世界とやらのことを」
相手は驚いたようにしばらく固まっていた。
「いいよ」
老成した大人のように目を細めた。
「ボクの好奇心を満たしてくれるなら、キミの知識欲に報いよう」
足元にタオルが落ちた。いつの間に解いたのか。だが、そいつに逃げる気や危険がないことはもう理解していた。
「しばらく、よろしくね」
こちらに近寄って、手を差し出した。
何秒かの逡巡の後、相手の手をとった。かさついた、皮の硬い手だった。
「まずは、今夜の宿になりそうな場所を教えてくれないかな」
こいつが来たのが、外からだろうと荒野からだろうとどうでもいい。願わくば土産を置いて早く帰れ。
そんなことを考えながら、俺は大義そうに立ち上がった。