羅紗
「リウビアさん、第三特殊実験室の一週間続けての使用許可をお願いします」
特に特筆すべきこともない業務の最中、部下が俺に言ってきた。
「実験の内容は」
「キズ持ちの長期に渡る負荷に対する強度を調べます」
申請書を受け取り、中身を軽く確認する。
「わかった。他の研究員との予定が兼ね合っているなら許可を下ろそう」
「と、いうわけでまた会える日が遠ざかりますね」
膝に載せた俺の頭を撫でながらエゴロワが言う。
「やはりそうか……」
申請書の文章に不備はなかった、実験の内容にも問題はなかった。ただ危惧していることがひとつあった。実験の期間だ。ある程度の休息は取れど、ほとんど自室にも帰らず付きっきりらしい。寂しいなんて理由で却下などするわけにもいかない、俺にできるのはより深い交わりを求めるだけだった。
「不安ですか?」
「君に触れられない日々に耐えられるか分からない」
寝返って細い腰に手を回し、薄い腹に鼻面を押し付けた。いまは少しぬるい、彼女の体がひどく冷えるときを俺はいつも待っている。
「じゃあこれを貸しますよ」
エゴロワが何か布製のものを俺の体に掛けた。起き上がって確かめると、それは白衣だった。バニラと花の香りが鼻腔をかすめる。
「私の代わりにしてください。洗う必要はありませんけど、汚さないでくださいね」
「君の……代わり、か」
それを前にして奇妙な気分にさせられた。触れていると汚してしまうような、乱雑に丸めて抱きしめたいような。呆けていると、エゴロワが白衣を俺の手から取り上げた。相手の方を向かせられ、唇を重ねられる。俺の顎を掴む指先が冷たい。
「いまは本物に集中しましょうよ。それがいらないくらい、痕を残してあげますから」
エゴロワが怪しく微笑む。喉を鳴らして唾を飲んだ。俺は迷いなく、エゴロワに向かって体を倒した。
エゴロワのいない日々は過ぎていった。あの鮮やかな髪が視界を彩ることも、あの香水の香りが鼻腔をくすぐることもなく。刺激が不足し放置された肉体は、熱を蓄積して持て余していた。
今日もつまらない仕事を終えて自室に帰る。バレッタを外し、すぐにソファに体を投げ出した。些事に勤しんでも褒美がないのは辛い。
今頃、エゴロワの実験は最終段階に入っているのだろう。長期間に渡るキズ持ちの強度実験か、その間彼女の意識は被験者に釘付けになっている訳だ。彼女の手で被験者を嬲るのだ。場合によってはキズで被験者を落ち着かせることもあるだろう。俺を壊し、溶かしているあの手で。
嫉妬と寂寞で狂いそうだ。
ふとソファに掛けた白衣が目に入った。触れると彼女の残滓が消えてしまいそうで、そのままにしていた。その白さが思考を乱す、脳内をマゼンタに染めていく。
震える指で白衣を引き寄せた。皺がつくほど強く抱きかかえ、顔をうずめる。深く息を吸って、鼻から肺までエゴロワの匂いで満たす。いつものバニラと鈴蘭の甘い香り、薬品と消毒液の棘のある臭い、そしてエゴロワ自身の汗と皮脂の匂い。
麻薬でも喫したかのように、脳内が快楽で蕩けた。いや、ようにではない、これは薬物だ俺にとっては。
同時に肉体的な欲望が鎌首をもたげて来た。体が熱くなり、その熱が中心に集まる。腰の辺りが疼き、布の擦れですらもどかしい。
下着に手を掛けるまで、そう時間はかからなかった。硬く隆起したペニスを握る。手を動かすごとに甘い痺れが下半身から伝わる。カウパーが溢れて指に粘付き汚した。白衣に鼻を押し付けたまま、エゴロワの匂いに溺れる。
目を閉じて、彼女の姿を思い浮かべる。これまでに重ねた情事を想起した。どう触れられて、何を囁かれたか。如何にして嬲り、犯されたか。
長らく精子を排出していなかったそこは、通常より早く多量の精を吐き出した。
射精後の倦怠感は薄く、依然として熱は引かない。頭もはっきりとせず眩んだままだ。
顔を起こすと白衣の汚れに気がついた。唾液が付着してシミができている。また叱られてしまうな。
ある愚かな考えが浮かんだ。いや、それは駄目だろう、今度こそ何をされるか分からない。
何をされるのだろう。指の関節を念入りに潰されたことはある、舌を食いちぎられたこともある、失神するまで首を絞められたことも。次はエゴロワに何をしてもらえるのだろう。
股間の痛みで我に帰った。ペニスははち切れんばかりに勃起していた。
構うものか。もう叱られることは確定しているんだ。少し自分の欲に従ったとしても、罰が重くなるだけだ。
エゴロワの白衣で俺のペニスを包んだ。そのまま布越しに扱く。袖の部分は鼻にくっ付けて。
その後の興奮は凄まじかった。背徳感と期待とほんの少しの不安、それらが性感を高めた。カウパーも助力して、繊維のさらついた感触が全体を刺激する。
ひとり吐息をこぼし、喘ぐ。何度も彼女の名前を呟いた。白衣の中にぶちまけた。されど手は止めず、さらに白衣を汚しにかかる。
誰がドアをノックした。
全身が硬直する。耳をすますと、俺を呼ぶ声がドア越しにくぐもって聞こえた。
顔の汗を拭き、ズボンの位置を戻して、訪問者を出迎えた。
「こんばんは。リウビアさん」
「エゴロワ……どうして」
「予定より早めに終わってしまったんですよ。せっかくなので様子を見に」
ドアを閉じて、こちらに迫る。大きな手で両頬を挟まれた。
「寂しかったですか?」
彼女の手が冷えている。いや、俺が火照っているんだ。
「ああ、辛かった」
「白衣は代わりにならなかったようですね。まさか、くしゃくしゃにして床においてはないでしょうね」
エゴロワが俺から離れて部屋を見回した。俺がさっきまで使っていたそれは、すぐに見つかった。どろどろに汚れた白衣を、エゴロワは無言で広げる。
白衣が床に落ちる。エゴロワは俺の腕を引っ張った。テーブルの上に俺の右手を置くとナイフを突き刺した。
刃が俺の手を貫いてテーブルに刺さっている。新鮮な痛みと異物感が、否応なしに意識を現在に引き戻す。
「ねえリウビアさん。私、白衣を貸すときなんて言いました?」
親指を摘んで、しきりに擦っている。
「汚すな、と」
「そうですね。じゃあ、アレはなんですか?」
エゴロワは親指の爪に手をかけると、缶のプルタブのごとく一気に剥がした。爪が剥がれるときの音を初めて聞いた。爪が開きかけの蓋のように指と根元だけ繋がっている。そのまま爪を引っ張られると、ぶちりと音を立てて完全に分離した。剥がした爪をテーブルに置く、裏側には肉片が付着していた。
あまりにも滑らかな一連の間、俺は声も出せなかった。爪を失った親指の赤黒い痕を見て、ようやく痛みが込み上げた。
手探りに背もたれを掴み椅子に座る。エゴロワの様子を伺えば、彼女は無表情で俺を見下ろしていた。その冷たい視線に射すくめられたとき、脊髄に甘美な痺れが走った。
「たしかに私もそういう使い方は想定していましたよ、でも汚すことはないでしょうよ……洗う大変なんですよ、臭いが残ったらどうするんですか?」
人差し指の爪に手をかける。
爪が剥がれる瞬間は無感覚だ、その後すぐに眩むような痛みがやってくる。最後には血が滲みジクジクと焼かれるような感覚になる。剥がれるごとにその部分は広がっていく。
額に脂汗が浮かぶ、左手で膝小僧を握りしめた。痛い、痛い。でも辛くはない。君の手から与えられるものは全て享受したい。
右手の爪が無くなるまで、最大限の苦痛は続いた。
ナイフが抜かれる。手の平に膠のように血がこびり付いていた。エゴロワが俺の右手を両の手で包む。
「痛かったですか?」
「これ以上ないほど堪えた」
エゴロワは満足そうに微笑んだ。
「あの白衣は捨てますよ、予備はいくらでもあります。それよりも」
艶めかしく指を絡めてきた。顔をこちらに近づけてくる、頬と頬を擦り合わせた。
「あんなことをしてしまうくらい寂しかったんですね。放っておいてしまい、ごめんなさい」
右腕を背中に回してきた。血の循環が加速する、彼女に触れられている箇所が傷より熱い。理性が分解されて崩れていく。
「今夜はお詫びをします。貴方がされたいこと、なんでもやってあげますよ」
最後の囁きで脳幹が溶けた。
粘度のある欲望の原液が頭蓋を満たす。まず相手の唇に吸い付いた。