夜明けの歌血のように紅い闇が、俺を襲う。
紅い闇は人の手の形となり、振り払おうとする俺の腕に脚に、何本も何十本も絡みつく。悲鳴をあげようとする俺の顔に喉に、幾百本も幾千本も絡みつく。
身体中に纏わりついた紅い手は俺の全身を締め上げ、もうまともに息をすることもできない。そのうちに足元の地面がぐずりと崩れ、俺の身体は紅黒い沼の底へと沈んでいく。もがけばもがくほどに紅い闇は絡まり、纏わりつき、俺の身体は沈んでいく。
嫌だ、嫌だ、ああ、ああ、誰か、誰か、助けてくれ。紅い闇にまみれた腕を伸ばし、昏い闇に塞がれた口を開き、俺は、声にならない悲鳴をあげる……
――そして次に意識が戻った時、最初に俺の目に映ったものは、心配そうに俺を見つめている蒼い瞳だった。深い湖のような蒼い眼をした仲間は、その瞳に安堵の色を浮かべて俺の顔を覗き込み、額に浮かんだ冷たい汗を拭ってくれた。
―……ラルフ――
俺は思わず彼の名を呼ぶ。その声は惨めに掠れ、震えていた。
―アルカード。
―大丈夫だ、アルカード。
惨めな姿を晒す俺にも彼は動じず、未だに震えが止まらぬ背中を優しく撫で、擦ってくれた。
―大丈夫だ、アルカード……
彼の声を聞きながら、優しく背中を撫ぜられる感触に浸りながら、俺は固く目を閉じ唇を噛み締め、体内に未だ揺蕩う紅の残滓が消えるのをひたすらに待った。それは幾度経験しても慣れる事ができぬ、悪夢のような時間だった。幾度も幾度も繰り返し俺を苛む、紅く昏い拷問だった……
―……俺も昔、幼い頃。よく悪夢を見た。
俺の背を優しく撫でながら、彼が呟いた。
―嫌な夢を見て飛び起きて、目が覚めたと言うのに闇はまだ終わらない。……何故だと思う?
―……部屋が暗かっただけであろう。
―その通りだ。調子が戻って来たみたいだな。
蒼い眼を微笑ませ、彼は続けた。
―俺の母はそんな時、いつも歌を聞かせてくれた。
―歌、を?
―ああ。曲名もわからない、短い歌なんだが、な……
そう言って彼が小さな声で歌った曲は、全部で数小節も無いような、短く単純なものだった。光を望み、朝を信じる。幼い子供に歌い聞かせるような単純な、陳腐な内容の歌だった。
だが、彼が歌うその曲は、紅い闇に穢され、散々に引き裂かれた俺の魂に染み入り、その傷を優しく癒やしてくれた。彼は決して見事な歌い手とは言えなかったが、心地の良い低い声が、背中を撫ぜる優しい感触が、闇に引き裂かれた俺の魂を癒してくれた。
―アルカード……?
彼がふと歌うのを止め、深い湖のような蒼い瞳で俺を見つめた。俺は大きく息を吐き出すと、漸く震えが収まった身体をゆっくりと彼から離し、口を開く。
―……悪くはない。
その声は、もう震えてはいなかった。
―なかなかに良い歌だ。悪くは無い。
……歌い手の実力は、まだまだのようだがな。
愚かな男の、己の醜態を誤魔化す為の見え透いた取り繕いに、彼は動じなかった。
―すまない、歌は、苦手なんだ。
自分の歌を貶されていると言うのに腹を立てた様子もなく、照れたように微笑んでいる。まったくこやつは本当に阿呆なのではないだろうか。屈託なく笑うその態度に、闇から救ってもらった恩も忘れてそう思ってしまう。だが、
―また、その歌を聞かせてくれ。
思わず口をついて出たその言葉に、偽りは無かった。
―俺の歌で良ければな。
言いながら、彼は笑う。
―夜は必ず終わる。俺が終わらせてみせる。
彼は言う。紅い闇に惑わされる事などなく、蒼く、強く、輝きながら。
―必ず朝は来るんだ――アルカード。
偽りの己の名を呼ばれ、だが、俺は頷いた。永久に続く、明けぬ夜など無いのだと。太陽は必ず昇るのだと。
――まるで幼い子供に言い聞かせるような、単純で陳腐な言い草だ。だが、そう思いつつも心の奥底で彼の言葉を信じている自分に気がつき、唖然とする。
深い湖のような蒼い眼を見つめながら、俺は思った。彼の言葉を信じてみることにしよう。朝は必ず来るのだと。闇の中で強く輝く蒼い光。その光がある限り、俺は、紅き闇になど呑まれはしないのだと。
俺は思った。理由も無く、思ってしまった。
俺の中で牙を剥き暴れていた紅い闇は、俺の魂を穢し、引き裂いていた昏い闇は。
今はもう、消え失せていた。