桃色の氷 とある街はずれから谷と洞とを抜けた先にその妖精の里はある。妖精王オベロンと女王ティターニアには、銀器が並ぶ食卓も、凝った彫刻を施した玉座もない。領地は草の繁る傾斜地で、城壁の代わりに一筋の小川が流れている。二人はせせらぎにほど近い大岩の上からいつも里を見守っていた。
妖精は強い種族ではない。里に興味を持たれないことが、里を守ることだった。それでもオベロン王は魔界に引きずり込まれた人間達を匿うことを引き受けた。怪我をした者に薬が行き渡り、人間達は徐々に落ち着きつつあった。
ある時、岩の上に佇むオベロンとティターニアの元にジャックフロストが走ってきた。里の入口の方向から来たようだ。しかし近付いてくるにつれ歩調が弱まり、少し離れたところで立ち止まる。二人はいぶかしく思ってジャックフロストを眺めた。体はところどころ汚れ、右手を握りしめている。
小さな雪の妖精は遠くから声を上げる。
「オイラのこと、おこるホ?」
オベロンとティターニアは顔を見合わせる。オベロンはジャックフロストがいつまでも近くに来ようとしないので可笑しくなった。
「叱られるかもしれないと思いながら、それを隠さずに伝えようとするのは勇気がいることです。よく決断しましたね、ジャックフロスト。どうしたのですか」
怒らないとは言えないわね、ティターニアは妖精達のいたずらを一つ一つ思い返した。
ジャックフロストはオベロンの含みある言葉には気が付かず、すっかり気を良くして近寄ってきた。冷気が漏れる右手を開いて二人に見せる。赤い粒が桃色の氷の中に閉じ込められている。その形は薄く、手のひらに合わせて曲がっていた。
「これとっても甘くておいしいんだホー!」
「このキラキラしたものは何かしら。初めて見る氷だわ」
「東京でニンゲンにもらったホ! 本当はもうちょっとあったけど、我慢できなかったホ……。でもオベロンとティターニアの分はちゃんと残したホー」
ジャックフロストは奇妙な氷を三つに割って、手のひらを二人に差し出した。
少しだけ間があって、二人は岩から下りる。オベロンがまず氷を取った。続いてティターニアが。伏し目がちに口に氷を含む動作はよく似ていた。
赤い粒は干した果実で、桃色の氷はこれまで二人が口にしたどの果実よりも甘かった。
(口の中が冷たい。甘くておいしいわ)
ティターニアは氷に注意が向いていて、二人に続いて氷を口に放り込んだジャックフロストが小さく震えていることに気が付くのが遅れた。
「どうしました、ジャックフロスト」
「……オイラ……オイラ、ちゃんと運べなかったホ! あいすくりーむ、カチカチになっちゃったホ! 本当はもっと柔らかくて、あれを食べてほしかったんだホー!」
悔しそうに地団太を踏むジャックフロスト。真っ白なハンカチで口元を拭い終えたオベロンがゆっくりと話し掛ける。
「ジャックフロスト、大儀でした。なぜあなたの体が汚れているのかわかりました。とても遠くまで行ってきたのですね。持ち帰った菓子も完全な形ではなかったにせよ、非常に珍しい。花の蜜より甘く、霜のように冷たい。冷気が満ちた体でなければ到底為し得ないことです」
オベロンは言葉を切った。
「しかしながら、東京で『もらった』という言葉、聞かなかったことにはできません。あなたは東京に入り込んだ上に人間とモノのやり取りまでした。あなたと同じことを、里中の妖精がしたらどうなります。あなたは無事に帰ってこれましたが、これも運が良かっただけのこと」
ジャックフロストは握り込んだアイスクリームが完全な形ではなかったこと、オベロンに叱られていることに両手を垂らして項垂れている。
ジャックフロストの落ち込みようにティターニアがオベロンを見ると、その視線に気付いたオベロンは彼女に向けていたずらっぽく微笑んだ。
「ジャックフロスト、あなたは今回の行いに対し、私が言いつける役目を果たさなくてはなりません。いいですか、まずは……」
数日後、ナホビノが龍穴を抜けて里を訪れた。
なぜか龍穴のすぐ前にジャックフロストが座り込んでいるので、危うく躓きそうになる。ジャックフロストは弾けるように立ち上がって目を吊り上げた。
「おっっっそいホー!」
状況が掴めないまま、ナホビノは屈み込み、氷結の小秘石を一つ取り出すとジャックフロストに握らせた。
「ええそう。私達が言いつけました。あなたが里に現れたら知らせなさいと」
「言いつけどおり役目を果たすことができましたね、ジャックフロスト。ここでもう少し私達の話を聞いていきなさい」
「ヒホ?」
オベロン達の話はこうだった。ジャックフロストは完全な状態のアイスクリームを持ち帰れなかったことを後悔しているが、同じことをしては今度こそ道中で命を落とすかもしれない。
「正直なところ、私もティターニアも本当のアイスクリームを食べてみたいのです」
「あなたに護衛を頼めたら心強いのですけれど、引き受けてはくださらないかしら」
ナホビノは彼らもまた好奇心旺盛な妖精族なのだと悟った。
耳元でアオガミの声が響く。
(我々は先を急がなくてはならない。だが、妖精の王たるオベロン、女王ティターニア、彼らとの親密な関係が役に立つこともあるだろう)
「アイスを食べたらすぐ里に戻るのであれば」
ティターニアが少女のような笑顔をオベロンに向け、少年の姿をした王は満足げに微笑んだ。
ジャックフロストがおずおずと口を挟む。
「オイラも行きたいホー」
オベロンはジャックフロストがそう言い出すとわかっていた。
「ではジャックフロスト、道案内はできますか」
悪魔によって死者や行方不明者が出ても、東京の雑踏は変わらない。
ナホビノは龍穴を抜けるために仲魔として行動することを提案し、三者の承諾を得た。これならば召喚せずに目的地に向かうこともできる。だがそれを妖精たちが了承するはずもない。連れ立って歩くリスクを理解してくれたのはアオガミだけだった。近くに気配はするがうまく隠れているようだ。
ジャックフロストが人間に見えてしまうことはわかっていたので、ナホビノに抱えられてぬいぐるみのふりをしている。少し不満げな表情のぬいぐるみだ。重たくはないが腹が冷える。
(思ったより大変だ)
雑踏に出た瞬間、視線が集まってしまったのだ。ジャックフロストではなく、隣にいるティターニアに。写真には写らないだろうが、それはそれでまずい。ナホビノは慌てて人目のない細い路地に妖精達を誘導する。
「ティターニア、人間からあなたの姿が見えています」
「あらあらあら、どうしてかしら。私達はジャックフロストのことを咎めたのに私がそれではいけないわ」
ジャックフロストも不思議そうにしている。オベロンの表情は読み取れない。恐らくは気が付いているだろう。
「あなたは魔力が強すぎます」
ティターニアは驚いた顔をしてオベロンを見る。
「誇るべきことです、ティターニア」
妖精王の魔力は姿が人から見えるほど大きくない。ティターニアはそんなことを明るみに出したいわけではなかった。頬に手をやり、見るからに狼狽えている。
オベロンは羽一枚分前に出た。
「さて、私達が街を歩くにはどうすれば良いでしょう。良案はありますか」
ティターニアは幸い人間にかなり近い容姿をしている。問題は彼女が羽を羽ばたかせて宙に浮いていることだ。ナホビノは女王に羽を下ろして服の一部のように振る舞えるか尋ねた。ティターニアはむずむずするわ、と言いながらも品良く地面を歩いてみせた。オベロンがそれを見て口を開く。
「ティターニア、足が汚れますね。ナホビノよ、私達が所有するマッカや金銀、宝石では人間の靴が買えないことはわかります。この宝石を人間の貨幣と交換し、彼女に靴を贈ることはできますか」
ナホビノは宝石を換金するには学生という自分の身分では難しいことを説明した。靴は高価で、ティターニアのドレスに合うような靴を買うには今の持ち合わせではとても足りないことも。
「どんな靴でもいいなら、足を汚さないだけの安い靴なら買えます」
オベロンは首を縦には振らず、しばらくしてこう言った。
「ティターニア、私の靴を履いてください。その緑のドレスに合うとは言えませんが、女王が人前に姿を現すのです。こちらの方がまだ良いでしょう。なに、私は飛べばいいのだから」
ティターニアは言葉少なに
「オベロンはそれでよろしいの?」
とだけ言った。己の失態に恥じ入っているようだった。
「思慮深いティターニア。私達は今日、アイスクリームを食べにここまできました。その場所まで皆で行きたいと思うのは私のわがままでしょうか」
「いいえ、いいえ。私も」
オベロンは屈み込んでティターニアの足を拭った。
アイスクリーム屋の前は空いていた。ジャックフロストが出歩けるこの気候では客は少ない。
ショーケースの中にはアイスクリームがたっぷりと詰まった箱が十ほど並んでいた。
ナホビノは悩む振りをしながら囁く。
「あの絵のように、この箱からアイスクリームを丸く取り出します。せっかくの機会なので、三種類のアイスクリームをまとめて一つの器に盛っても足りるだけのお金は持ってきました」
オベロンは見えないのを良いことにあれこれ覗き込んではティターニアに興奮気味に囁きかける。
「ああ、右端がジャックフロストが私達に持ってきたアイスクリームですね。ティターニア、私はその隣の黄色と白が波のような模様になっているものを是非とも食べてみたい」
店員が一度奥に引っ込んでまた出てくる頃、ようやく全員がアイスを選び終えた。予め目星を付けておいた公園にはアオガミがいた。利用者の姿はない。そこからは妖精達の宴が実に賑やかだった。
「本当に、素敵な柔らかさ!」
オベロンとティターニアが示し合わせた通り半分ずつ六種類のアイスクリームを味わっていると、自分の分をすっかり食べ終えたジャックフロストが羨ましそうに指を咥えた。彼らは笑ってジャックフロストにも少しずつ分け与えたので、ジャックフロストは一度に九つも食べたことを後々まで自慢にしては話して回った。
「あの牛乳集めを得意とする妖精は、今どこに遣いに出していたでしょうか。これほどアイスクリームに詳しいジャックフロストがいるのです。牛乳を持って帰らせれば、里でアイスクリームを作ることもできるでしょう」
「皆で食べるのね。ジャックフロストは作ったアイスクリームを私達に残してくれるかしら」
小さな宴の陽気さの中で、白いタイツの爪先と、短いブーツの足首が、静かな木漏れ日に照らされている。