黄色いリボン ラミアという悪魔がいる。上半身は人間の女、下半身は蛇の姿をした悪魔で、彼女たちはディオニュソスやナルキッソスたちと月の下で遊んで暮らしていた。
ディオニュソスはゼウスから産まれたようなものだったが、そんなことになったのも元を正せばゼウスのせいだった。だから協力する気持ちにはならず、街で酒とラミアたちの面倒を見て過ごしていた。ラミアもゼウスのせいで悲しい思いをした悪魔で、ディオニュソスは余計に目をかけた。
あるとき一体のラミアが街の外から来た。ディオニュソスがどこから来たかと尋ねると、ほかの悪魔と一緒にあちこちの街を移動して暮らしてきたと話した。そのうち一行とは別れたので、ラミアがいる街と聞いてここまで来たそうだ。
ディオニュソスは彼女を歓迎しようと、自身で醸造した葡萄酒を振る舞った。
彼女は一舐めして、しぶくて飲みにくいと言った。ディオニュソスはラミアたちの歯に衣着せぬ物言いが好きで、気分を害するでもなく、また飲みやすい酒を用意しておくと言った。
「新しく作るの? そういうのって寝かせたのがおいしいんじゃない?」
「酒をもっと知ってから仰ることですね」
ラミアはこれが気に食わず、残った酒をひといきに飲んだ。
月が満ちる頃に振る舞われる酒はやけに進んだ。
ディオニュソスが管理しているこの街の古い酒なのか、彼の新しい酒なのかはどうでもよくなった。何にせよ、どうにもおかしな気分になる。
自分が変わっていきそうな感覚に抗うラミアもいたが、苦しそうだった。それよりも、月と酒に身をゆだねた方がいい。高く笑って杯を空ける者、恍惚とする者、彼女たちの間を縫って、あのラミアは街の外へ出て行った。彼女が出ていくのに気が付いたラミアは誰もおらず、ディオニュソスが空になった銀色の杯を拾い上げたときには、その姿はどこにもなかった。
ラミアはどこまでも進んでいった。蛇の腹が地面に跡を残した。
やがて月が欠け、酔った気分もどこかに行ってしまった。どこをどう歩いたのか、見覚えのない景色の中にいる。自分が這った跡を振り返る。この跡はどのくらい長く残るだろうか。そのうち風が吹いて、他の悪魔が踏み荒らして、消えてしまうに違いない。人間が作った硬くて黒い路には跡さえ残っていない。
(引き返す理由も特にないわね)
ディオニュソスがいるあの街に辿り着いてからしばらく経った頃、数体の天使が下りてきて何事か喚いたので皆で引き裂いた。その時に自分は他のラミアより強いと気が付いた。街にいたラミアの中にも強い者はいた。天使の翼を叩き折り、いたぶってから殺した。そのラミアは確かに湧き出でたばかりのラミアにはない能力を持っていたが、自分のものとは違った。
とっさに皆と同じことしかできないふりをしたが、ディオニュソスに気付かれた。
物陰で、まるで踊るかのように片手を高く引かれた。距離を詰められると葡萄酒の匂いがした。
「そなたの技について、私はとても興味を持ちました。どうぞここで全て披露してください。さっきは遠慮をなさったようですから」
驚いたラミアが尾でディオニュソスのすねを強く打ってもびくともしなかった。反抗したことが恐ろしくなって硬直していると、そっと手が下ろされた。
「無理にとは言いません。私の無遠慮な振る舞いをお詫びいたしましょう。私に幸運が訪れればいつか機会も……私に背後から攻撃してくださっても構いません。そのくらいなくては、この街は退屈です」
ディオニュソスは背を向けて去って行った。
自分がやっと見つけたと思った仲間がいる街も、ディオニュソスには退屈なのだ。葡萄を育てて葡萄酒を振る舞ってくれて、ラミアやナルキッソスたちを酔わせて楽しんでいると思っていた。
これはディオニュソスの演劇の一場面なのだろうか。
ラミアは仲間に溶け込むふりをし続けた。あるラミアたちはディオニュソスのことを「葡萄親父」と呼び、ディオニュソスはそう呼ばれてもにこやかだった。どこか恐ろしかった。だからといって、仲間に会えて嬉しかったし、偶然月に誘い出されるまでは、あの街を出ようとは思わなかった。
ふと、臭いがした。
気が付くと、ラミアは大きな鉄の箱に囲まれて立っていた。片隅に悪魔が倒れている。
ラミアは好奇心から近付いた。臭いからして存在が消滅するだけの怪我を負っているのは間違いない。天使は少し前に殺したが、悪魔が消えるところはあの街に来てから見ていなかった。初めて来る場所にいる悪魔、ひょっとすると初めて見る悪魔かもしれない。それを一方的に観察できそうだ。
「みじめ……」
ラミアは近付いてはっとした。人間の男の上半身に、蛇の下半身を持つ悪魔だったからだ。この悪魔はラミアに似ているがラミアではない。何という悪魔だろうか。
悪魔の腹は大きく横に裂けていて、もう少しでちぎれてしまいそうだった。盾を持ったままの腕も肘近くは斬り飛ばされてどこにあるのかわからない。腕が繋がっていただけ幸運だった。少し向こうには腹と同じように横に断ち切られた盾の一部が落ちている。
(何よこの斬撃、盾ごと斬るなんて)
今や悪魔の視線は定まらず、言葉を発することもない。傷の端からマガツヒが漏れかかっているように見えた。この悪魔を斬った何者かはまだ近くにいるかしら、そう思うと背後が頼りなく感じた。
(ディア)
ディオニュソスもラミアが傷を回復させられることには気付かなかっただろう。ディアは強力な技ではないが、この技のおかげで、ラミアは一人でもあの街まで這ってくることができた。横たわった悪魔の喉がひくりと動いた。
「一度じゃだめね。意識はあるの? 助けるんだから動けるようになっても私のこと攻撃しないでよ」
何度かディアを重ねる。魔力を消耗し、疲れを覚える。悪魔の視線がラミアを捉えた。大人しく体を任せることにしたようだ。腕の傷はとっくに治った。盾を持っていた側の背で、僅かに繋がっていただけの胴体も、今や繋がろうとしている。肉体と言うべき部分が治るにつれ、盾も元に戻っていった。人間が作ったものを使っているのではなく、この悪魔の存在の一部としての盾なのだ。
悪魔が体を起こした。すっかり繋がった腹に手をやると、傷を負わされたときのことを思い出すのか顔をしかめた。今はもう傷痕の一つも残っていない。痛みはないはずだ。
「わりいな」
離れたところに落ちていた槍を拾うと周囲を見回しながらラミアのところへ戻ってくる。
「オレだけか。他にいなかったか」
「あなただけよ」
「そうか」
仲間がいたらしかった。ラミアがここに来るまでに息絶えたのだろう。悪魔はナーガと名乗った。
「死ぬと思ったら咄嗟に命乞いしてたんだよな、オレ。腹裂けてんのに必死で金渡して、もっと出せって言われて、またかき集めて出して。あいつらが後ろ向いてから先は覚えてねえ」
「趣味の良い悪魔ね。あなたを殺してからマッカを拾っても良いのにそんなことさせて。あなたがプライドが高そうだからそうしたんだと思わない?」
「ケッ。ところでオマエの姿、オマエはなんて悪魔だ? オレは初めナーガの天女ってのは蛇の尾を生やしてるんだと思ったぜ」
「私はラミア。こんなに似た姿の悪魔がいるなんて驚いたわ」
ラミアはナーガのことをまじまじと見た。長い黒髪を結い上げた姿で、青白い肌のほっそりとした上半身が同じ色の腹をした尾に繋がっている。尾の背は明るい紫色のまだら模様になっていた。槍と盾を持ち、丸い盾には蛇が絡まった剣が打ち出されている。ラミアはこのような武器を持たない。
「んなに見んな、金取るぞ」
「さっき私のことは随分見たじゃない」
「あー、ありゃあよ、気が付いたらオマエが屈み込んでオレを見てたんだよ。つまり……オレが見たんじゃねえ。オマエが隠してなかったんだ」
「あらそう」
ラミアが髪を肩の後ろに流そうとするとナーガは目を逸らした。
「命の恩人に敬意を表してくれているのかしら」
「体を見せるのが趣味なのか」
「あら、見ては駄目よ」
「なら早くしまえ」
ラミアは消滅しかけた悪魔を見つけただけでなく、その姿が自分と似ていたこと、ディアを使って傷を癒せたことに気持ちが昂って、先程までの投げやりな感情を忘れてしまった。疲労感すら心地良く、自分が命を救ってやったこのナーガともっと話がしたかった。
ナーガはふと思いついたように右腕に槍を挟むと、空いた左手で体にかけた布を探る。
「よし割れてねえ。オマエこれ使えよ。サクラアメ。オレに魔力使ったろうが」
「サクラアメ?」
見るとナーガの手のひらにチャクラドロップが乗っていた。
「知らねえか。珍しいもんなこれ。魔力が回復するんだとよ。オレ、結構やばかっただろ、これで足りっかな。緑のちっせえ悪魔を追い回してこれ取って来たバカがいてよお」
「この辺りではこれをサクラアメと呼ぶの?」
ラミアはチャクラドロップを摘み上げながら尋ねる。
「おいおい、アイツ適当教えたのか。魔力は? 回復しねえの? オレ持ってたけど槍ばっか振り回してっから魔力いらねえし、珍しいって言われたから使ったことねえんだよ」
ナーガは慌てて早口になった。
「魔力は回復するわ。名前はチャクラドロップだけど」
「チャクラドロ……あーヤベ。サクラアメっての忘れろ。それだわ」
どうやらこのナーガにチャクラドロップを手渡した悪魔は正しい名前で説明したらしかった。ラミアが身をかがめて笑うと、ナーガは決まりが悪そうに左手を腰の辺りで拭いた。
「もらっておくわ」
「足りるか?」
「足りないわね」
「……そうかよ、どうすっかな。オマエ、チャクラドロップ持ってる悪魔知らねえ? オレそいつ殺して取ってくるわ」
「そんなの待ってたら退屈よ。これでいいわ」
ラミアは盾の脇をすり抜けるといとも容易くナーガの尾に結ばれた黄色いリボンをほどいた。鈴だけを外してナーガの胸に押し付ける。
「ハァ? いやオマエそれがないのはナーガとしてヤベえよ」
「じゃあこれ、あなたが拾った命より大事?」
ラミアはリボンを左の手首に巻くと右手と口で上手に蝶結びにした。
「なかなか素敵な色」
ナーガは何か言いたかったが諦めた。ラミアはナーガより数段強い。相手が弱ければ恩くらいいくらでも仇で返しただろうが、今の動きを見ただけで勝ち目がないことは明らかだった。不意を突くことに成功しても、一撃で絶命させられなければ回復して反撃してくる。
ラミアは何度か手首を返してリボンの形を眺めた。それから手首を髪や尾の上にかざし、色の組み合わせを楽しむ。その姿だけならば全く隙だらけに見えた。彼女は振り返って笑った。
ナーガは鈴をこれからどうするか考えることにした。
ぼんやりしているナーガにラミアはぽつりと声をかけた。
「ナーガ、私は他のラミアと違う技が使えるの。ラミアは本来回復のための技を覚えないわ」
「ナニソレすげえじゃん! オレもそういうのがあったらオマエに勝てるくらい強かったかもな! 待てよ、うわ、オマエ以外のラミアが来てたらオレ死んでたじゃねえか」
「うらやましい?」
「相手がどれだけオレらナーガの戦いを研究して挑んできてもオレだけは違うなんて有利すぎてサイコーじゃね? 残念でしたー、って言ってやりてえ」
「あなたは調子に乗って死にそうね」
「強いからって好き放題言いやがって」
「事実よ。さあ、私はそろそろあの街に帰るわ。月の光がめぐれば新しいナーガも湧き出でることでしょう。あなたも寂しくないわ。今度は死なないことね」
ラミアは街に帰ってもいいと思うようになっていた。ナーガは一人では退屈だとラミアを倉庫街の度胸試しに誘ったが、すげなく断られてしまった。周囲を案内すると申し出たところ、ここに来るまでどこもひっそりとして、ほとんどの悪魔は消滅しているようだったと言われ、これも取りやめた。また悪魔で賑やかになったら来てほしいと伝えると、ラミアは気が向いたら来るかもしれないとだけ言った。
ラミアの無事を街の仲間たちは喜んだ。ディオニュソスに挨拶に行くと、ひと房の葡萄をくれた。葡萄酒のためのものとは別に栽培した甘い葡萄だそうだ。
「もしこの葡萄をおいしいと思ったら、そなたの技を見せていただけませんか。先日は怖がらせてしまったでしょう。私はそなたの戦力を暴こうというのではありません。どうか私にひと時の享楽を」
ラミアはその葡萄をそのまま仲間たちのところへ持って行って、自分は一粒も口にせずに仲間にあげてしまった。葡萄は取り合いになった。見たところ食べた仲間にもおかしな様子は見られない。考えすぎたかもしれない。ラミアは葡萄のことが惜しくなる前に一人で壊れたビルに入って行った。
窓際にもたれかかり、手首のリボンを撫でる。意識は葡萄からナーガへと移っていく。あのナーガはどうしているだろうか。リボンの内側にはチャクラドロップが包み込まれ、ごろりとした感触がある。結局魔力が必要な場面もなかったので、ここまで持って帰って来た。
(もしも、もしも誰かが天使の攻撃に傷付くことがあったら、きっと私、ためらうことなくみんなの前でディアを使えるわ)
もう一度リボンに指を這わせようとしたその時、リボンはなかった。初めからそこになかったかのように消えてしまった。
チャクラドロップが手首を滑り落ちて床で跳ね、転がっていく。
ラミアはしばらく床に落ちたチャクラドロップを眺めていた。それからゆっくりと体を起こし、それを拾う。
「あなた、弱いのよ」
ラミアはチャクラドロップを使った。