海と希望 半ば砂に埋もれた岩陰で横たわってどのくらいになるだろう。ザントマンの左の足首は風がよこした砂で埋まっている。空気の流れと共に、砂がかすかな音をたてて体を撫でて行く。
砂が体をくすぐるのは心地良い。それでもザントマンは眠れなかった。
(うるさいのう)
風は砂だけでなく余計なものまで運ぶ。近頃ずっと川の方から女の嘆きが聞こえてくる。何を嘆いているのか、内容までは聞き取れない。悲痛な響きのみが頭に入り込み、目を閉じて眠ろうとしても、かえって意識がそちらに向いてしまう。辛抱強く三千ほど数えてから、ザントマンは観念して体を起こした。
周りのザントマンを見回す。昼寝を楽しむもの、向かい合って賭け事に興じるもの、誰の砂が最も細かいか、遠くまで飛ぶかと言って、ひとつまみ風に乗せてみるもの。思い思いに過ごす彼らに、女の声を気にする素振りは見られなかった。
(年寄りどもめ。耳が遠いと幸せぢゃの)
ずっとこのままでは堪らない。ザントマンは体をはたき、枕にしていた砂袋を背負うと川の方へ歩いて行った。
砂袋の中には振りかけた人間を眠らせる魔法の砂が入っていて、ザントマンはいつでもこれを背負って歩く。もしこの砂でザントマン自身が眠ることができたなら、ザントマンと彼女が出会うこともなかっただろう。
砂の上に小さな足跡を付けながら、ザントマンは崖の上まで歩いてきた。この辺りでは川と砂地の間に高低差があり、川は崖の下を流れている。声が聞こえる辺りに行くには、湿った岩肌にしがみつくか、大きく迂回しなくてはならない。
声は聞き取りやすくなってきた。一目姿を見てやろうと思ったが、岩肌が邪魔だった。上から叫んでやろうかと思っても、自分がこの声を聞いたように、何か恐ろしい悪魔の耳に届いては困る。ザントマンは鋭い爪や遠くから飛んでくる魔法が怖かった。大きな砂袋を抱えたまま崖を下ることができるかじっくり考えた後、ザントマンは崖から離れた。どのみち急ぐ用事もない。向きを変えて坂道をゆっくり下って行った。
土地は徐々に低くなって、やがて川と同じ高さの場所に出る。ここからは川岸に移って引き返す方向に歩いていく。見上げると先程下ってきた坂道が段々遠くなり、崖が作る日陰に包まれるようになると空気が冷たくなった。川底は砂が溜まって浅く、幅も狭い。それでももし砂袋をここに落としたら、ザントマンは水をたっぷり含んだ砂袋を背負うことになるだろう。元居た砂地に引き返すだけでもきっと腰を悪くする。足を滑らせないようザントマンは下を向いて歩いた。
しばらく進むとアズミたちがいた。あの声はアズミのものではない。
ザントマンは声を掛けた。
「アズミよ。ザントマンぢゃ。何やら川の奥から声がするので来たんぢゃが、アズミの声ではないのう」
アズミたちは滑るようにザントマンの顔のすぐそばに顔を寄せに来た。ひれの先から垂れる滴まで見える。あごの先まで流れた一滴が砂袋を握りしめたザントマンのこぶしに落ちた。彼女たちは苛立たしげに歯をむき出す。
「アタシたちなもんかね。マーメイドだよ。マーメイド」
「マーメイドはもっと上流をねぐらにしてたんだ、こんなところに居座って何のつもりかね」
「泣いてばかりでうるさくてね。やめるように言っても謝るばかりで結局泣いちまうのさ」
ザントマンはマーメイドを見たことがなかった。しかし、船乗りを惑わせると聞くから、恐ろしい見た目ではあるまいと思った。
「大人しく見ているとは珍しいのう。殺生はやめたか」
「うるさいね。マーメイドは他にもいるんだ。水に棲むと上流にいる方が有利だよ。風上にいる相手に砂をかけることを考えてみな。迂闊に手を出さない方が賢いのさ」
ザントマンは納得した。
「ふむ。困ったのう。ワシも少しばかり話してこよう」
「ややこしいことになったらその袋ごと引き裂いてやるからね」
「ほい、ほい」
しばらく先へ進むと開けた場所に出た。濡れた砂地に草が生え、木々は崖の上へと枝を伸ばしている。川の流れは奥の崖で一度断たれていて、水が岩肌を伝い落ちていた。その崖を背にするようにマーメイドが座り込んで、両手で顔を覆っていた。
「ねえさま、ねえさまあ」
細くもよく通る声だった。姿は若い人間に似ていたが、腿の半ばから下が魚の尾になっている。このような浅瀬では到底速くは動けまいと、ザントマンはマーメイドに近寄った。見知らぬ悪魔になど、相手が余程機嫌が良くても本来近付くべきではない。ザントマンのような戦闘が得意ではない悪魔ならなおさらだ。踏みつけた川底の砂が柔らかく沈み、舞い上がったものは後ろへ流れていく。そんな感触がやけに強調されて感じられた。
「なあマーメイドよ、ワシはザントマンと言う。オヌシの声はよく通る。ワシの砂地にも声が流れ込んで眠れぬのぢゃ、どうして泣いておるのかの」
マーメイドは、はっと顔を上げて、後ろに逃げるように左手を川底について体をねじった。そこで初めて視界の端に自分を見上げているザントマンを認めた。動きを止め、小さな体を警戒するように見つめたあと、元のように腰を下ろす。ザントマンは戦闘の意思はないことを示そうと、近くの木の幹に砂袋を押し付けるようにしてもたれかかった。
マーメイドが唇を開く。
「ごめんなさいザントマン。私、あなたに迷惑を掛けたのね。どうしようもなく悲しいの。ねえさまたちが、いえ、仲間の様子がおかしくなってしまったの。それなのに私は何もできなくて」
「おかしいとはどういうことぢゃ」
「私のこと、わからなくなってしまったみたい。攻撃してきたわ。何があったのか尋ねても駄目。会話ができる状態じゃなかった。それでここに逃げてきて、悲しくて泣いていたのよ」
ザントマンは少し考えた。
「そこに誰かいたかの。オヌシの知らない誰かぢゃ」
「どうかしら。いなかったと思うわ。だけど私、仲間たちに話しかけるのに精一杯だったから」
「魔法で混乱させられていたということはないかの」
「ずっと私だけを狙って攻撃をしてきたわ。混乱していたなら、仲間たちは互いのことも傷付けようとするはずよ。あの様子、魅了でもないわ」
その時のことを思い出したのか、マーメイドは眉を寄せ、唇を噛んだ。
ザントマンはその姿を見ると、今考えていることを話すべきかどうか迷った。眠りを妨げられたことに腹を立てたし、何か取り立ててやりたい気持ちはあったが、彼女から希望を奪っても良いものだろうか。何を差し出すように言われるより辛いだろう。
一方でこうも考えた。
もしも彼女が嘆きの声を上げなければ、あるいはすぐに泣き止んでいたならば、自分はここに来なかった。
ザントマンの胸の内には眠りを妨げた者に対する非情な気持ちが小さく残っていた。彼の言葉を聞かずに済む未来は、マーメイド自身が潰したのだ。
「厄介ぢゃ。だとすれば実に厄介なことぢゃ、マーメイドよ。複数の悪魔を支配して同族を攻撃させるなど、ワシの知る限りこの辺りに棲む悪魔にはできん。遠くから強い悪魔が来て目を付けられたのぢゃろう。オヌシは幸運ぢゃった」
「そんな。じゃあどうしたら。ほら、聞いて。仲間たちの声が上から流れてくるのよ。ねえさまはこんな笑い方、しなかった」
ザントマンが耳を澄ませると、遠くからかすかに引きつったような笑い声が聞こえてきた。
「諦めよ、マーメイド。何もできんよ」
マーメイドはうるんだ目を見張った。髪が大きく広がり、周囲の水が波立ったかと思うと渦を巻き始める。ザントマンは木の後ろに隠れようか一瞬迷ってから、マーメイドの手を取った。
「落ち着くんぢゃ。何にもならん」
立ち上がりかけた水の壁が崩れて水面を打った。マーメイドはただ一声長く悲しみの叫びを上げた。
マーメイドは静かになった。髪がうつむいた顔に掛かり表情がわからない。彼女の大きく上下していた肩が落ち着いた頃、ザントマンは早くも自分の発言を後悔し始めていた。
「ほかの悪魔なら何か知っておるかもしれん。ワシも訊いてみよう、オヌシは下流へ進んで尋ねてみると良い」とでも言ってやれば良かった。ここより下流にそんな知識を持つ悪魔がいるとも思えなかったが、希望だけは持てただろう。
何もかももう遅い。
やがてマーメイドがぽつりと言った。
「ねえさまたちと海に行くのよ。ずっとそう話していた。海に行って、たくさん船を沈めるわ。大きな岩が船底を突いて、私は流れてくる船乗りの上着に、きれいな船の飾りを包むの」
ザントマンの足元の水は細かく震えていた。
「……海になんか、行くもんぢゃあない」
「ザントマンは嫌なことばかり言うのね! 私、海の歌をたくさん知っているわ。素敵なところ、マーメイドが暮らすためにあるようなところよ」
尾びれが強く砂を掻いた。川底の石に当たったのか、薄青い鱗が一枚剥がれて流れていった。
ザントマンは沈黙した。マーメイドが強い感情に疲れ、ザントマンの沈黙を不安に思い始めたころ、ようやくザントマンは言った。
「ワシが海への道を知っていると言ったらどうする?」
マーメイドはそれほど長く迷わなかった。
「連れて行って。ねえさまたちのそばを離れるのは心配だけど、今のままじゃ何もできない。私、海から帰ってどんなだったかねえさまたちに話すわ。海のことだったら耳に届くかもしれない」
ザントマンは正解がわからなかった。この夢見がちなマーメイドは、このままずっとここで上流の笑い声が元に戻るのを待っているか、仲間のところへのこのこ戻って殺されるだろう。しかしそのことについては何も言わなかった。
「今からアズミの棲む場所を抜けるが、お前さんの声に一番近い場所で辛抱強くしていたんぢゃ。一言謝らんとな」
「ええ、そうね。そうするわ」
アズミの怒りの矛先はどちらかと言えばザントマンに向かった。マーメイドの叫び声に、いよいよマーメイドたちが攻めてくると思ったそうだ。危うく鋭いヒレで顔を削ぎ落とされるところだった。
逃げるように再び砂地の端に出た。坂道と逆側へ、広大な砂地を横切って進むとマーメイドに説明する。
マーメイドが目を凝らすと、遠くにいくつもの赤い布がはためいていた。
「頭の黒いザントマンもいるのね」
「何を言っとる。ありゃケットシー、気位ばかり高い連中よ。ちょっと褒めてやれば怖いことはありゃせん」
ケットシーは見回りをするように忙しそうに動き回っていた。ザントマンとマーメイドを見つけ、一番近くにいたケットシーが片手を剣の柄に引っ掛けて、もう片方の手でひげをしごきながら近付いてきた。ザントマンを一瞥すると、ひげを触っていた手で帽子を取ってマーメイドに声を掛けた。
「美しいお嬢さんだ。私はケットシー。この地を領地として治める一族としてご挨拶に伺った次第」
「初めまして。私はマーメイド。素敵なお帽子ね」
「気に入ってくれたのかッ。私の王国にはもっと素晴らしい帽子もたくさんある。もっとも、君の美しい髪は帽子で隠してしまうには勿体ない……。どうだろう、私は君を王国に招待したい。手先の器用な者に宝石で髪飾りを作らせようッ! 緑色の宝石だ。きっとよく似合う」
「せっかくのお誘いだけど、私行くところがあるの」
(なーにが領地ぢゃ。王国ぢゃ。勝手に岩の裂け目に棲みついて周りをうろついとるだけぢゃろうが)
ザントマンは白けて川で濡れた腿に付いた砂を払った。
「ときにザントマン。なぜこんなところにいるのか知らないが、その袋に入った魚は随分と新鮮な匂いがするではないかッ。結構、結構。王国へ献上すると良いッ」
「魚ぢゃと? そんなものは持っておらん」
と言い終えて、ザントマンはケットシーの勘違いに気が付いた。黙って足元の砂をすくい上げて投げつける。
「馬鹿猫が! とっとと去らんか! 今すぐぢゃ」
ちょっと褒めるどころかケットシーをけなし始めたザントマンのことをマーメイドは困惑して眺めた。ケットシーは剣を抜き、ザントマンに向ける。
「何をするッ! 魚を渡さぬ気だな! ごまかしても私の鼻は……」
ケットシーが急にマーメイドの足元に視線を動かした。マーメイドはその瞬間ザントマンと同じことに気が付いた。ケットシーとマーメイドの目が合ったとき、地中から音がしたかと思うと、あちこちに地下水が上がって水たまりができた。水は広がりケットシーの長靴を濡らす。ケットシーは胸に帽子を当てて後ずさりをした。
「失敬ッ。私の勘違いだったようだ。そろそろ交代の時間なのでとても残念だが失礼しなくてはならない」
「私、あなたたちの王国になんて、絶対に、絶対に行かないわ!」
後ろを向いて駆け出したケットシーに、マーメイドは水を吸った砂の塊を投げつける。マントの真ん中にそれが当たり、ケットシーは飛び上がった。一瞬前足を地面に付けて駆けた後、誇りを思い出したように立ち上がると一目散に逃げていった。
「ねえザントマン、私、魚みたいな匂いがするかしら。自分では自分の臭いがわからないもの、ザントマン、正直に教えてね」
「川の匂いぢゃろ。ケットシーどもが日頃魚を食ってるとは思えん。川と魚の匂いの違いもわからんようになったんぢゃ」
「じゃあ川の匂いはするのね、嫌な臭いかしら」
「ワシもさっき腰近くまで川に浸かったが臭いかね」
「いいえ、水の匂いが残っているだけよ」
「それならオヌシも気にせんでええ」
ザントマンはまだ足元で地下水がぼこぼこと音を立てる中を、マーメイドをなだめながら歩き続けた。ケットシーのことを恨めしく思った。赤いマントはいくつもはためいていたが、どれもこちらを遠巻きにして二度と近付いては来なかった。
やがてケットシーの縄張りも抜け、ザントマンとマーメイドは高い崖に開いた裂け目の前に来た。ザントマンはマーメイドに耳を寄せるように言うと囁いた。この崖の裏側に海があるが、裂け目の中を巣にしているデーモンがいる。高いところで身を休めていて、いつ侵入者に気が付くかわからない。先に魔法で眠らせて、それから裂け目を抜けるということだった。
「わかったわ。私も悪魔を眠らせる魔法は使えるの」
マーメイドはすぐ先に海があると聞いて熱心だった。それを見てザントマンは顔を曇らせたが、マーメイドには見えていなかった。
裂け目を抜けると崖の高い場所に出た。今まで通って来た砂地より海はずっと低いところにあって、遥か下で黒い波が崖壁に打ち付けていた。
マーメイドの腕が力なく体の脇に垂れた。
「どうして海が黒いの」
ザントマンは黙って背中の砂袋を下ろした。
「船だわ。あそこに船が。だけど船も死んでいるわ。あれは進んでるんじゃない、ただ波に押されているだけだもの。こんな場所、海なんかじゃない。ああ、そう、そうなの、船乗りはもういないのね。大きなクジラが潮を吹き上げることも、トビウオが水面を跳ねることももうずっとなかったんだわ」
マーメイドは小さな声で歌った。船乗りを惑わせるための歌を黒い海に捧げた。彼女の一番お気に入りの歌で、いつか仲間と海で歌うための歌だった。ザントマンは悪魔だったし、人間のための歌に惑うことはなかったが、世界にこのような歌があるとは知らなかった。耳元を流れる砂の音と同じくらいこの歌が好きになった。
「もう一度、歌ってくれんか」
「いいえ一回だけよ。海は死んじゃったのね」
「そうぢゃな」
ザントマンは何か言おうとして、ついに言わないまま袋の口を支え、細く開くと砂を風にまかせて流し始めた。マーメイドは慌てた。
「どうしたの! 駄目よ! 魔法の砂なんでしょう。重たいのにいつも背負って、ザントマンにとって大事なものだってことくらい、私にもわかるわ。その砂を捨てては駄目!」
袋を押さえようとすると崖の縁でザントマンが危なっかしく身をかわすので、マーメイドはうかつに手が出せず、指を胸の前で組み合わせ、声を掛け続けることしかできなかった。ザントマンはマーメイドの声が聞こえないかのように砂を流し続ける。
「さっきの歌、私もう一度歌うわ。だから待って。手を止めて」
袋はどんどんとしぼんでいく。ザントマンはマーメイドを見てはいなかった。風が砂を運び去る先を見ていた。
「どうして。どうして」
ザントマンがだらりと下がった袋を手に立ち上がったとき、マーメイドは取り返しのつかないことになったと思った。ザントマンはマーメイドのそばまで来て左手で袋の口を持ち、右手で袋の底の方を握る。すると一番下にマーメイドの片手で握れるほどの砂が残っているのがわかった。
「これがワシの未練の量じぢゃな」
ザントマンはマーメイドの隣に腰掛けた。
「ワシはここまでの道を知っていたぢゃろ。あるときワシが散歩の途中で崖の方を眺めていると裂け目があるのが見えての。ワシだけが見つけたと思うたから、誰にも言わずに調べに来たんぢゃ。ここに立って黒い海を見たとき、オヌシと似たようなことを考えた。もうワシが眠らせる人間はどこにもおらん。砂を捨てるのはあのときでも良かったんぢゃ」
言葉を探すマーメイドを見てザントマンは続ける。
「この袋にワシはこれから香りがいい草や枝、柔らかな布、きれいな石、そういうものを詰めようと思うんぢゃ。良い枕になるぢゃろ。人間がおらんとなると暇ぢゃ、昼寝でもせんとやってられんわい」
ザントマンはいつもの作り笑いのような笑顔を浮かべてみせた。
「ワシはこの海のことを仲間の誰にも言わん。オヌシはどうする」
マーメイドはよく考えてから、決意を込めて言った。
「私も言わないわ。いつか呪いが解けたなら、私はそれからもずっと仲間と共に海に憧れるの。私お芝居は得意よ。いつまでだってできるわ」
「どうやって力ある悪魔の支配を解くつもりぢゃ」
「誰かに頼むしかないわ。私も同じマーメイド、かないっこないもの」
「ワシはオヌシが夢ばかり見て死んでしまうだろうことに腹が立った。それで連れてきた節があるんぢゃが、要らぬ悲しみを与えただけだったかもしれんのう」
「いいえ、今初めてそう思えたのよ」
ザントマンとマーメイドは砂地と川の境まで連れ立って帰った。マーメイドがザントマンの袋を膨らませるのを手伝うと言うので、川底で角が取れた丸い石を岸で乾かしたり、木の葉を嗅ぎ比べて香りが良いものを選んだりしているうちに随分と時間が掛かった。宝石もいくつか入れた。その中にはケットシーがそそくさと持ってきた緑色の宝石が嵌まった髪飾りもあった。マーメイドが嫌ったのでザントマンの袋に収まることになったのだ。
こうして元の砂地にザントマンが帰ったときには、すっかり死んだことにされていて、お気に入りの岩陰に別のザントマンが寝そべっていた。
あるときザントマンが仲間たちから離れて干し草を作ろうとしていると、珍しいことにマーメイドがやってきた。ザントマンは手を止めて彼女を迎えた。坂を越えて来たマーメイドは息を弾ませながら、ある悪魔が呪いをすっかり解いてくれたので、これから仲間がいる池に戻るのだと言う。
いつか池まで遊びに来てね、そう言ってマーメイドは川の方へ入って行った。流れを遡れば池まで時間はかかるまい。ザントマンは干し草を作るのをやめ、その上で寝転んで昼寝をすることにした。風は優しく砂を運んでザントマンの腹に一さじ残していった。
ザントマンは結局マーメイドの池に遊びに行くことはなかった。
それから長く経たないうちに、悪魔が若い人間をたくさん連れてきたという噂が砂地まで届いたからだ。ザントマンは枕にしていた袋をひっつかむと、仲間がどこに行くのかと尋ねても返事もせずに駆けて行き、それきり帰って来なかった。
ザントマンの小さな体は崩れたビルの隙間を抜け、前より小さくなった袋を担いで崖にも登った。途中で岩の隙間に挟まれば袋の中の干し草を捨て、珍しい形の石を捨てた。鳥の卵の形をした白い石も、魚の骨の形が焼きついた石も、マーメイドが自分の尾びれに似ていると言って拾った石も捨てた。身軽になったザントマンはより険しい道も登ることができたし、小さくて素早いザントマンをわざわざ捕まえにくる悪魔も滅多にいなかった。たまに暇を持て余した悪魔が仲間にザントマンを捕まえるようけしかけたが、ザントマンは振り返ってもみなかった。
ザントマンは実際に人間たちがさまよっていた街も通った。悪魔たちがどこかざわついていた。黒いマントの妖精が明かりを持って岩陰を覗いていたので遠くから声を掛けた。
「人間は変な悪魔と行っちゃったホ。でもオイラ、もしかしたら人間が隠れてるかもしれないから探してるんだホー」
ザントマンは次の街を目指した。あまりに急いでいたので、人間たちが妖精の里に向かったという密かな情報を耳にする機会もなく、その街もまた通り過ぎてしまった。
いよいよザントマンは魔界の端まで辿り着いた。まばゆく光の柱が立つばかりで、人の子が来るとは思えない。結局人間には出会えなかった。どこかで追い越してしまったのだろうか、それとも食い意地の張った悪魔が食べてしまったのだろうか。手近な木切れや小さな瓦礫を袋に放り込みながらザントマンは考えた。砂地に戻る気力はない、そんなことをすればまた人間たちとすれ違ってしまうこともあるかもしれない。
(そうじゃ。人間を連れて来るとしたら強い悪魔じゃ。強い悪魔が多い街で待てば、それだけ可能性があるわい)
それからザントマンは、気持ちよく昼寝をする生活を忘れてしまった。いつ人間が来るかわからなかったので常に辺りを見回していた。
ザントマンは袋の中にある砂が本当は僅かであることが気になって堪らなかった。袋を再び魔法の砂で満たしたかった。睡眠の秘石さえあれば砂を増やすことはできたが、なにしろ強い悪魔ばかりの街だったので、一度足を止めた今、恐ろしくて物陰からほとんど動くことができなかった。
そんな時、足元の影から一体の悪魔が現れてザントマンに声を掛けた。悪魔は大きな鎌を持っていて、自分のことをマカープルと名乗った。
「このような場所にザントマンとは珍しい。危険な場所にいるのは、その袋の中身と関係があるのでしょうか。その袋、砂がほとんど入っていませんね」
ザントマンはあまり熱心に袋に詰め物をしなかったので、外から見るとあちこちが角ばっていた。マカープルが心配そうな声音を作ると、心細かったザントマンはすっかり気を許した。睡眠の秘石を集めたいと伝えると、マカープルは自分なら影に潜むことができるから難しくないと言って、試しに一つ拾ってきてみせた。
「これは差し上げましょう。しかしもっと必要だと言うのであれば、危ない仕事ですからただというわけにはいきません。何か私にとって価値があるものをお持ちでしたらそれと引き換えに集めてきましょう」
「この黄色い宝石はどうぢゃ」
ザントマンは袋から宝石を取り出した。マカープルは満足して秘石をいくつも集めてきた。細かく砕いて袋に入れるとずっしりとした重みがザントマンを喜ばせた。宝石はマーメイドと集めたものがいくつかあったが、やがて全てマカープルに渡してしまった。袋は随分重たくなった。
最後に残ったのはケットシーがマーメイドに作った髪飾りの宝石だった。ザントマンはこれも砂ほしさにマカープルに差し出した。
これでザントマンの宝石は全てだったので、もうマカープルは秘石を取ってきてはくれなくなった。他に持っていたものをマカープルの前に並べてみたが、どれもほしくはないと言う。砂はまだ少し足りなかった。自分で街に出てもすぐ元の場所に逃げ帰ってばかりで秘石は集まらなくなった。
ザントマンは親切なマカープルがその様子を楽しんでいることに気が付かなかった。
マカープルには初めから、袋いっぱいに砂を詰めてやるつもりはなかったのだ。初めの秘石を粉にする様子を見て、必要な秘石の量に見当を付けた。最後に髪飾りを受け取って、マカープルはこの宝石は飾りがついているからと秘石の量を変えた。丁度ザントマンが諦めきれないくらいだけ袋は満たされた。
「早く集まるといいですね」
「ああそうぢゃのう。ここまで集まったのは全部オヌシのおかげぢゃ」
そんな返事をするから可笑しかった。
さっぱり秘石を集められないザントマンをマカープルが見飽きたころ、見慣れない悪魔が現れた。まっすぐな青い髪を長く垂らした悪魔で、若い人間のような背格好をしていた。
ザントマンがこの悪魔に頼んでみると、悪魔は報酬も聞かずに既に持っていた秘石を取り出した。どうやらまだ持っていそうな素振りまでする。ザントマンは袋の中に残っているうちで一番価値のあるだろうものを手渡した。悪魔はそれを喜んで、他にもあると伝えるとまた秘石を取り出した。
ついにザントマンの袋は再び魔法の砂で満たされて、彼はそれから魔界の端にほど近い街で人間を待っている。風はもう随分前に、ザントマンを砂でくすぐるのをやめてしまっていた。