遥かなる光 あの交差点に彼がいたのは十八年前、魔界が生まれたばかりのころだった。スライムという悪魔に生まれた彼の体は形が定まらず、不純物を取りこんだような緑の粘液が、彼の意思を頼りに寄りあつまっていた。ひとたび仲間とぶつかったあと、自分の体がすべてそろっているのかと問われるとどこか心許なくなる、そんな不確かさがあった。
彼はいつも体をできるだけ高く持ち上げて、光る目で周囲を見まわした。仲間もみんなそうしている。でも、じゃあその目の周りが頭かい、そこでものを考えているってわけかいと尋ねられると彼は答えに窮してしまう。粘液の体には境目がない。ものを考えているのは右下かもしれないし、全部かもしれないし、ひょっとしたら、どこかほんの一滴だけが考えごとを引き受けているのかもしれない。いずれにせよ、考えごとはそう得意ではなかった。深く考えたいことも特にない。たまに砂粒の上でマガツヒが光っているのを見るとき、月がまんまるに輝くのを見るとき、嬉しい気持ちになれば充分だった。
転機は突然訪れた。
彼と仲間たちが暮らす交差点を先へ進むとガキたちの縄張りにはいる。手足はやせこけ、膨らんだ腹のなかはからっぽで、ずっと腹を空かせている悪魔たちだ。食べものがあったって駄目なのだ。空腹がおさまることは決してない。あたりを埋める砂粒が全部まんじゅうだったならと夢を見て、砂とわかっていながらひとつかみして、底なしの空腹を呪っている。それがガキだ。彼らはいよいよ空腹で、腹立ちまぎれに持ち主を失った自動車の上で跳ねてみた。自動車は魔界の誕生に巻きこまれた人間のもので、いくらでもあった。力いっぱい跳ねるとばん、と大きな音がした。あたりの悪魔が様子をうかがうしんとした気配を気に入ったガキは、気まぎらわしに五度も六度も飛び跳ねた。
スライムは迷惑な隣人が気に食わなくなって、自動車のあいだを縫ってガキたちに近づいた。やがて自分たちの縄張りの端まで来たので、どうしてやろうか決めなくてはならなくなった。彼はうるさくされた仕返しに、うるさくしてやろうと思いついた。体に開いたぽっかりと暗い穴のふちが震える。
「うルせエェェェェェェェェ!」
ガキたちはぎょっとした様子で跳ねるのをやめた。スライムがそれに満足して戻ろうとすると、一人のガキが叫んだ。
「なんだテメー! テメーがうるせえんだよ!」
スライムのほうこそ心底ぎょっとした。体の半分を道に落としそうだった。
(オレ様の言っタコト、わカるノカ?)
大声を出したかっただけで、意味が伝わると思って言ったわけではなかった。彼の言葉を別種の悪魔が理解するとは、これまでまったく思ってもみなかった。自分たちスライムは悪魔のなりそこないのはずなのだ。世界がちかちかした。急いで戻って仲間たちに教えてやったのに、大声で叫ぶなと文句を言った奴がいたきりで、あとはどいつも関心もない様子でへえ、だのそうかよ、だの相槌を打って明後日のほうを向いた。お前もやってみろと誘っても、誰も乗ってこなかった。スライムは外道に分類される。せっかく話しかけてくれたのだからと気をつかって、興味のない話に耳を傾けるような質ではない。
彼は仲間たちに見切りをつけて縄張りの端に陣取った。
(考えてみリャあンな小せエコト、なンデ怒っタんダァ……アァァ、叫んデみテなキャ、気付かナかっタカ……)
スライムはもっと話がしてみたかった。それなのに、初めて交わした会話が喧嘩腰では具合が悪い。きっかけが必要だった。彼は車の陰で辛抱強く待ち続けた。
ついに好機がおとずれた。ガキが苛立って振りまわした細い腕から腕輪がすっぽぬけて、ビルの割れ窓の隙間から中に落ち、そこに流れこんでいた砂の上で止まってしまったのだ。
「ゲー!」
後悔は先に立たず、大きな頭と膨れた腹が邪魔をして、どうしても届かない。窓枠からガラスを外そうとすれば手を切った。窓の向こうの砂を掻きだそうとすれば指を切った。奥の腕輪は少しかたむいただけで、うまくいきそうになかった。腕輪をなくしたガキがほかのガキの腕輪を物欲しそうに見はじめたとき、スライムは彼らの前に出ていった。
「取オっテやルゥゥ」
「ハア?」
はいやいいえを聞く前に、スライムは窓枠に体を押しつけた。鋭く割れたガラスの形に合わせてたやすく変形する。体の上のほうをくぐらせるとき、隙間が縦にばかり長かったので、彼の目は位置を変えて上下に並んだ。最後にぎゅ、と音がして全てが窓を抜ける。そこからは少し体を低く保って進めば簡単に腕輪までたどりついた。手も足もない不定形の体はどこにでも行ける。腕輪を拾うのに少しばかり向いていなくても釣りがくる。彼は口で不器用に挟みあげると、慎重に後ろ向きのまま来たほうへさがった。ガラスにぶつかった体をそのまま押し出すと、上のほうはやっぱり縦長で、同じ窓に戻ったのだとわかった。また上下に向きを変えた二つの光る目が、彼らにとって唯一の独立した器官だ。
「おラヨ」
スライムは威張った調子でガキの前に腕輪を置いてやった。彼らは正しい顎の持ち上げかたを忘れたようだ。腕輪のふちを見ると、スライムが落とすまいと力をこめて咥えていたせいか体の一部が緑の塊になって残ってしまっている。しかしそれも体の先で押さえるとつつがなく彼の体に吸収された。
腕輪は傷ひとつなくガキの手元に戻してやった。これであのときの言葉を帳消しにして、話ができるはずだと思ったスライムが、賞賛の言葉を待っていたというのに、腕輪を取り戻したとわかったガキたちの反応ときたらこうだった。
「ギャハハ! 気色わりい目玉だな。見たかよ!」
「ゲエッ。きったねえ!」
「誰か洗ってこいよ!」
礼を言わないどころかスライムのことを汚物のように扱った。せっかく渡してやった腕輪だというのに、持ち主のガキは大層嫌そうに指先だけで拾うとなるべく体から離そうとしている。そのまま近くにいたガキの背に腕輪をなすりつけようとすると、相手のガキは本気で怒ったようだった。
スライムだって怒ってよかった。缶ジュースを求めて自動販売機に向かうガキたちを見て、腐った果物と金属の匂いが混ざった汁ででも洗い流さないといけないくらい自分は汚いかと言ってやってよかった。それなのにひどく冷めた気分だった。
「イィらネェェ」
言葉は通じても、これでは話し相手にはなりようがない。なにしろほかの悪魔と話したいと思ったばかりで、そんなことも初めて理解した。言葉が通じるとわかったときの驚きの続きにあるべきものはどこで得られるのか。スライムの真似をして首を倒すガキたちの笑い声は彼の体に染みこまず、ただ滑り落ちていった。
大通りを進んだスライムは、火を吹く小さな悪魔の縄張りを避けた。オンモラキだ。不完全な体は自然が持つ力にひどく弱い。風、雷、氷、火、どれも駄目だ。注意深く距離を取っていた彼は、遠くにオンモラキと縄張りを重ねているスライムの姿を見た。信じられないほど危険な光景だった。
(馬鹿ガァァ。燃え移ってモ知らネェェェェ)
でももし、あの二人が会話をするのだとしたら? そんなことがふと思い浮かんで、スライムは動きを止めた。彼より先にほかの悪魔と話せると気づいたのだとしたら、話を聞く価値はありそうに思えた。知らず知らず体の前端をそちらに伸ばしかけたとき、遠い砂煙のなかでオンモラキの火の粉が散った。慌てて体をひっこめる。
(しっカりシやガレェェェェ)
なにかの拍子に破裂したオンモラキと、その火の粉を被る二匹のスライムを思い浮かべ、彼は大きく身を震わせた。そんなふうだったから、先へ進む唯一の道にオンモラキが群れていたとき、彼はよほど引き返そうかと思った。簡単には去りがたく、立ち往生したまま時間が経ち、やがて満月が頭上に輝いた。月を見て気が大きくなった彼の会話への憧れは、ついに炎への恐怖に勝り、のろまな体を罵りながらではあっても、オンモラキの縄張りを抜けるだけの勇気をもたらした。体を平たくして、ぴったりと岩に張りつくように進んで切り抜けたのだ。苦労に見合うだけの話し相手がきっとこの先にいるはずだった。
ガキがどこにでもいることにうんざりしていると、知らない悪魔たちが遠くに小さく見えてきた。三人いる。白っぽい体で、頭の上は赤く大きく広がっている。熱そうでも凍っていそうでもない様子を見て、スライムの期待は膨らんだ。近づくと笑い声が聞こえてきた。ガキよりもずっと感じのいい笑いかただ。うるさくもない。話の通じる相手かもしれない。ところがいざとなるとなんと話しかけたものか困ってしまった。名前も知らない悪魔に話せることがない。岩陰から出られずにいると、砂が流れる音に混じって悪魔たちの声が聞こえてきた。
「それもいいけど、誰が見てもひとめで魔女の畑だってわかる場所で花を咲かせるのってあこがれる!」
「おしゃれな毒草に囲まれて?」
「うーん、毒草に見えないのにとっても毒が強いほうがすてきじゃない? あっでもそうしたら魔女の畑なのかわからなくなっちゃうかあ」
「毒きのこは?」
「じめじめしてそうかな……葉が傷むのはイヤ」
「じゃ、見た目だけ毒々しくて、なーんの毒もない薬草にわたしたちの毒を塗っちゃうのは? 賢い人間ほどだまされちゃうの」
「だいたん! 人間が見ていないときに地面から抜け出して塗るってこと?」
「わっ、ステキ! 声でなら間違いなく殺せるけど、毒でもちゃんと死ぬのかなあ」
「やってみたーい!」
「ねね、どこに毒を塗ったら確実? 根元?」
「あっ待って。その植物がわたしたちの毒で枯れちゃうかも?」
「毒の話だナァァ、オレ様を混ぜロォォォォ」
「えっ、なに、だあれ?」
「イヒィィィィ! オレ様はスライム、ちゃァンと毒ガあルゥゥゥ!」
スライムは悪魔たちが話しているのが自分とも縁がある毒の話だと気がついた。慌てて岩陰を飛び出したときにはすっかり興奮してしまって、盛り上がっていた彼女たちの話に強引に割り込んで困惑させたことがわからなかった。いや、冷静でもわからなかったかもしれない。なにしろ会話をしてみようと思ってからまだ二回目のことだ。伝えるすべだけを手に入れても、まるで赤子だった。悪魔たちは乱入に困惑して誰なのかと尋ねただけなのに、彼にとっては自己紹介をしていいと言われたのと同じ意味になってしまった。これも無理からぬことだ。そしてもう間違いなく会話をしている事実に舞い上がった。言葉は確かに往復したのだから。
「……そうなんだ。わたしたちはマンドレイク。ね、スライム、あなたの体っておもしろい」
マンドレイクの一人が湾曲したスライムの体に自分の顔を映した。かわりばえのない毎日を一変させるなにかがきたと察し、彼女たちはスライムを追い出さなかった。
「毒があるって……もしかしてこれぜーんぶ毒液?」
「そウダァ! 目もクらムゥゥゥ」
「すごーい!」
いい気分だった。マンドレイクが腕のような根を押し当ててきても少しも攻撃しようと思わなかったし、その腕の先にもつれそうな指がないとわかると、ガキの腕輪を咥えあげたときのことを思い出して彼女たちに一層の親しみを覚えた。
「ねえ、遠くから来たの?」
「なにしに来たの?」
「どうして毒があることを秘密にしておかないの?」
「遠くダァ。話しニ来たァァァ。オレ様を知っテ話をシロォォォォ」
矢継ぎ早の質問にスライムは懸命に答えた。一度に三人と話すのは大変だった。なかなか話させてもらえないので、質問を覚えておくのに苦労する。それでもきっとこれが普通なのだと思えば簡単にこなしてみせたくて、ひとつずつ話してほしいとはとても言い出せなかった。
マンドレイクの一人がくすりと笑った。自分自身の思いつきに笑ったのだったが、スライムはこれも彼の話が新鮮で面白いからだと解釈した。
「とっても変わってる! そうだなー、あなたにだけわたしたちのことも教えてあげる。わたしの根をちょっとだけあなたに刺してもいいならだけど」
「刺スだァァァ?」
「ダメ、かな? 痛いよね」
周りのマンドレイクもスライムと同じくらい戸惑った。
「えっなに。なにするつもり……」
「やめなよあぶないよ」
特別扱いされたスライムは断れなかった。断ったらせっかく続いている会話が終わってしまうかもしれない。
「オレ様痛くネェェェ! イィぜェェ。毒があルかラオマエが痛いィィィィ」
スライムが左目の下あたりに体の余分を寄せ集めると、彼女は靴を履くようにそろりと片足を刺した。自分の体の表面を透かして別の悪魔の体を見るのはおかしな気分だった。うっかり体に瓦礫を取りこんでしまったときのような違和感がある。違っていたのは体の中身を吸われる感触があったことだ。その瞬間全身がぞわりとしてすぐに気がついた。わざとなのか自覚がないのかわからず、文句を言って器が小さいと思われるのもいやで、むっと口を閉じてされるがままになっていた。誰もそう表現しなかっただけで、彼はマンドレイクに少しばかり食われていたことになる。
「きゃっ!」
いきなり脚、いや、根が引き抜かれて、先端から緑の液体がしたたった。マンドレイクはなにかに急かされるように、周りが止める間もなく、根のぬめったところを躊躇なく折り取ってしまった。思いも寄らない結果にスライムは声のかけかたがわからずに、勢いでころんだマンドレイクを見下ろしているしかなかった。駆け寄った仲間たちが彼女を支え起こすと、彼女は片足で立って花を振った。
「びっくりしちゃった。悪魔の毒もいろいろなんだ」彼女は自分の脚として機能していたものを見下ろして言った。「あーあ、これ、どうなったのかな?」
スライムは気になって、マンドレイクたちが自分にしたように質問をしてみることにした。言いたいことを伝えるよりも、知りたいことを話させる言葉を考えるほうがもっとずっと難しかった。幸いにもほかのマンドレイクが言葉を失っていたおかげで、質問を組み立てる時間はたっぷりあった。
「何ヲ見たァァァァ?」
「すぐ目の前にいるんじゃないのってくらい大きくなったみんなと、遠くのほうで小さくなったあなたが見えた」
「やだ、なにそれ」誰かが呟いた。
「みんなにわたしが何を見ているのか言おうと思っても、なんでも大きさがおかしかったり、ぼやけてたりで、気分が悪くなってくるの」
「イヒッ! すげェだロォォォ!」
マンドレイクはそれには返事をせずに仲間を見渡す。
「……ねえ。予定とはちがっちゃうけど、全部うまくいくかも」
「え? それって、じゃあこれを使うってこと? いいの?」
「うん!」
「なんダァァ?」
「シーッ!」
彼女たちはスライムを残して静かに移動した。折り砕かれた毒餌が高く高くほうられる。ガキはどこからそれが落ちてきたのかよく考えないまま、マガツヒに惹かれて奪い合うようにむさぼった。考えていたら奪われてなくなってしまう。彼らはこの匂いを知っていた。前に一度同じものを食べたはずだが、いつだったのか、何だったのか、思い出そうとする者はいなかった。きっと鳥か天使が落としていったのだと頭の隅においやるほど、彼らは時間ばかりをむなしく食らっていた。
やがてガキたちは、げっ、げっ、と苦しみはじめ、マンドレイクたちは彼らを全員殺してしまった。抵抗しようとしたガキも焦点がうまく定まらないまま、どんどん強くなってくる花の香りをかいだ。
縄張りに戻った彼女たちは輪になって腰をおろした。中央にはスライムがいて、彼女たちの根はときどきその表面近くをさまよっている。
「あのコのことをね、ご馳走だなんて言って嬉しそうに八つ裂きにしたんだよ」
「かたきが討てたの。ありがとう」
一人のマンドレイクが魔界ができたときの話を始めた。スライムも当時の街の姿はくっきりと思い浮かべることができる。悪魔の性質によっておおよその生息地ではまとまって顕現したものの、まだ仲間と寄り集まってはいなかった。群れに属せず命を落とした個体も、属さずにうまくやった個体もいた。それはスライムもこの目で見たから知っている。彼自身が仲間たちとあの見通しのよい交差点を手に入れたのだ。
殺されたガキたちとマンドレイクの縄張りも、当時はやはり十分にわかれてはいなかった。文化圏の違いから、互いが互いを歩く野菜ていどに考えた。そのせいで、近くを通りかかったからとガキに挨拶をした彼女たちの仲間がひとり命を落とした。一部始終を目撃していた彼女たちはほかのマンドレイクたちのところを訪ねていって復讐に手を貸してほしいとたのんだが、新たな犠牲者が出ることを恐れた仲間たちは首をたてに振らなかった。
もっと体が大きかったら。もっと毒が強かったら。ほかのマンドレイクが言うことももっともだと思えてしまったから、彼女たちは余計に悲しかった。嘆きのやり場がなく空想をくりかえした。誰にもおびやかされないマンドレイクの園で、彼女たちはふくよかな土に抱かれる。楽園の一等地はいつも、死んだ彼女の場所と決まっていた。
スライムはこれまで生きてきてこんなに複雑な想像をしてみたことはなかった。土に埋まってみたくはない。どう考えても窮屈だ。小石や腐った葉、糞、そんなものをぎゅうぎゅう押しつけられる。境界を見失わないようにするのは大変だ。自分のにおいだってきっと土のにおいを吸って変わってしまう。マンドレイクたちにうまく共感できなかった。毒の話をしている悪魔となら話ができるはずだったのに、調子が狂っていく。
月の形が変わるにつれて、スライムは軽くあしらわれるようになっていった。
「アァァ? どコに行くゥゥゥゥ?」
「たいした用事じゃないの。すぐに帰ってくるから」
「一緒に留守番してましょ」
彼女たちは確かに戻ってきたが、スライムはただ存在が許容されているだけでは満足できなかった。それだけなら自分たちの群れにいればよい。初めてここに来たときのような関心をもう一度集めたかった。
あるとき彼は前触れもなく大きすぎる声で叫んで彼女たちを飛び上がらせた。マンドレイクたちが見つからないようにする方法を思いついたのだ。
「単純だアァ。花でバレルゥゥゥゥ! でケェ花ァァァ取っちマエェェ!」
なかなかよい提案だと思った。花が植物に繁栄をもたらす重要なもの、生殖器官だと知らなかったから、戸惑う彼女たちに二度と言わないようたしなめられても、彼はどうして派手な飾りを取らないのか納得できずに、体の中身を回した。
またときには彼女たちの真似をして相槌をうってみた。彼女たちを観察する限り、どうやら会話をするにはかなりの数の相槌が必要らしかった。ところが相槌というものは言葉こそ簡単でも、彼が無自覚に望むような自分を中心とした盛り上がりは感じられず、あまりにつまらなかった。対立した意見の両方に同じように「オォォ」と言ってしまうような具合でも彼は気づかなかったし、マンドレイクのほうも自分たちの議論をわざわざ止めはしなかった。
同じ砂を囲んでいるものの、彼女たちにとってスライムはよく言っても飾り台だった。だれも彼を見てはいない。スライムのほうでも薄々勘づいていたのに、それでも言葉を交わす感動の熱が引いてしまうのがいやでしがみついていた。物事はまるでうまくいかなかった。
彼女たちの話題は尽きない。あるとき、マンドレイクを犬に引き抜かせてさらうことを生業とする人間たちの話が始まった。マンドレイクが相手を殺すだけの強力な叫び声をあげられるのは土から無理矢理引き抜かれた瞬間だけだ。ずる賢い人間は犬を彼女たちにつなぐことを思いついた。自分だけは遠く逃げのびて、あわれな獣が土の上に横たわる場所に、下卑た顔をにたつかせて戻ってくるのだ。死んだ犬の命と自分が冒した危険を勘定して、手に入れたマンドレイクの法外な値段に上乗せしては売りさばくのが、刈り入れを行う人間のやりくちだった。多くのマンドレイクは仲買人か金貨が好きな魔女の手に渡り、彼らに富をもたらす高価な薬として流通する。
「犬なんていくら殺したってしかたないよ。人間は犬を増やせるもん」
「よコせェェ、イヌは食えルゥゥゥゥ」
腹は空いていない。死んだ犬を本当に食べたいかどうかではなく、彼女たちにとって都合がよいように、注目を集められるように話したかった。でもこれもまたうまくいかなかったようだった。誰の耳にもスライムの言葉は聞こえていたはずなのに、ほんの一言も掬いあげられない。彼は次の言葉を探してだまりこんだ。
「犬をくくりつけに来たときに人間を殺さなきゃ」
「人間はそのときわたしたちにさわる?」
「きっとね」
「毒があったら?」
「つよーい毒……」
毒の話だ。ようやくまた毒についての話が出た。次こそはと口を開く。
「ニンゲン溶かスカァァァァ?」
彼女たちはそろってスライムのことを見ている。ついに彼女たちの耳と口がスライムを放っておけなかった。思わず喉にあたる部分がごぼりと鳴った。誰かそれを笑いだと見抜いただろうか。
スライムはよいことを知っていた。血を止める力を奪い、肉を壊す、冷たい毒があることを。なに、強い悪魔の毒でもなんでもない。人間が脆いだけだ。
「ね、ねえ、スライムの毒でもそれってできるの?」
得意になって話したのに、返ってきたひとつめの言葉で自分が知らないことを尋ねられて、スライムは急に腹立たしくなった。
「……知らネェェェェ! イヒーッ! 知りタきャニンゲン探しテ連れテこいヨォォ。オレ様が呑んデヤルかラ透かシて見ロォォォォ!」
すぐに後悔した。台無しだ。マンドレイクたちの葉を白くくすませる砂粒に焦点を合わせ、ひきつっているであろう彼女たちの表情を見まいとした。口から出てしまった怒声をなかったことにはできない。これではガキのときと同じだと苦々しく思った。
先にものを言ったのは彼女たちだった。
「にっ人間なんかいないのに、ごめんね、気を悪くした? ちがうよ、ちょっと聞いてみただけだから!」
「あなたの毒液のこと、すごいって思ってるよ!」
「おこらないで!」
スライムはあっけにとられた。
(……なァァンダ、そウいウコトかヨォ。急にビビりヤがッタァァァ。ナメらレたカラうまクいかネェんダナァァ)
マンドレイクたちがスライムを囲んで見つめている。まるで初めのころのようだ。正面にいた一人が腕代わりの二本の根を差し出した。根を失ったあのマンドレイクだった。いまは治療が済んで四本とも生えそろっている。
スライムはすべてが元通りに、いや、前よりよくなったような心地がした。
「おねがいおこらないで。もっとあなたから毒のこと教わりたいだけだったの。ねえ、わたしにはわかるよ。説明なんて意味ない。みんなにも触らせてあげて……あなたの毒」
「イヒッ、そンなラァ、そんナラいイゼェ。毒に責任は取らネェェ。せいゼい手足を切り落とサネェェよウにナァァァ」
その了承と同時に、マンドレイクたちが彼に飛びかかって一斉に手足を沈めた。深々と、簡単に抜けてしまうことがないように。
「ウウォォッ」
植物の根だ。水を吸いあげるための彼女たちの根は、砂地のまんなかで乾ききっていた。彼女たちは笑っている。スライムの体が三方から失われていく。
彼の正面で、腰の上まで体をねじこんでいたマンドレイクが苦しみだした。毒が効いたのだ。
「はナれロォォォ」
はなびらの先を黒くちぢれさせながら、彼女は離れるどころかより深く体を沈めていく。おそろしくなって体を振っても、もう食いこまれすぎていた。いよいよ花の変色が進み、抜け落ちた一枚がスライムの体にしっとりと張りついたとき、彼女は震える片腕を引き抜き、しべの奥にかくしていたものをかかげた。毒消しになる薬、アムリタソーダだ。
スライムが目玉だけで見回すと、全員がそうして毒におかされながら毒液を吸いあげ続けているのだった。
アムリタソーダがあらかじめ用意されていたと悟って、彼の動きは鈍くなった。彼女たちが大きくなっていくように見えるのは、彼が小さくなりつつあるからだ。体が痙攣する。
根は奥深く広がり、もう逃すことはないと彼女たちは安堵した。
「お水。きもちいい」
「スライム、苦しくない?」
「ふるえてるの?」
(コイツらァガキをコロしタァァァ。アムリタそーダはピクシーたチのモンだアァ。あのトきかァ。あのトきコロしに行っタナァァァ。オレ様をコロすタめニィィィィ)
「オレ様を……ハジメかラそノつもリデェ……」
「かたき討ちができて嬉しかったのはほんとだよ。スライムはいいアクマ。だからわたしたち、あなたと一緒にいたよ」
「そウダ、オレ様はダれモコロしてネェェ」
「あっひどい。わたしたちと比べてそう言うの?」
「まだ殺してないだけじゃない? さっきのスライム怖かったもん。だからもうおしまい」
「オレ様のセいニすルのカァァァ!」
正面のマンドレイクは温度のないスライムの体に頬をつけた。
「そうだよ。上手なおしゃべりができなくてつまんないのも、弱いから死んじゃうのも、わたしたちに怖いことして殺されちゃうのも、ぜーんぶあなたのせい」
「わたしたち強くなりたい。殺されても、そいつも一緒に死ぬように。いやなやつが減ってどこかのわたしたちがもっと増えるように」
「あのガキたちが死んだから、あなたのことはいつでもよかったの。もっと一緒にいられたかもしれないのに、あなたがダメにしたんだよ」
スライムは二つの目玉が窮屈になるのを感じた。体がそれだけ小さくなったのだ。マンドレイクたちの根の刺さりも浅くなりつつある。
「ヴアァァァァァァァァ!」
緑色の体を力任せにねじきって、スライムは逃げ出した。目玉を横に保って移動するのに精いっぱいの体格になってしまった。飛び散った粘液が砂に吸われていく。マンドレイクは二人がスライムを追い、残りの一人が砂上に散った毒液をあわてて集めている。
体が小さくなっただけ身軽に動けた。突き立てられた根が二度ほど体の端を裂いた。目の前がひらけ、左右に目を走らせる。左には行けなかった。マンドレイクが群生している。右へ曲がるとき目の端に見えたのは、体の先にスライムの体だった塊を垂らしたままの恐ろしい悪魔たちの姿だった。
手懐けたはずの愚鈍な悪魔が飼い主の手を噛んだ。彼女たちは許せなかった。もし追いつかれていたらスライムの大きな目玉にも怒りとともに鋭い根が突きたてられたにちがいない。
スライムは幸運だった。右に急いだ先に側溝があり、格子のはまった蓋が地面の下に通じている。なかはよく見えないが、砂がずいぶん入りこんでいることだろう。すがるように蓋に乗り格子をすり抜けていく。
(はヤク落ちロォォォォォ)
体のなかを金臭い塊が通過する。最後に二つの目玉が四角く切り分けられて、少しのあいだ何も見えなくなっているうちに、小さくなった彼の体は桝の中におさまった。
目玉が寄りあつまって視力が回復すると、あたりは薄暗かった。
新月ではない。彼女たちが側溝の蓋に覆い被さっているのだ。根の先が格子につかえる。スライムは蓋を外されはしないかと気が気ではなかったが、どうやら彼女たちの根では難しいようだった。
「あー! いいよ。どうせもう小さいもん」
蓋の向こうが明るくなり、根が砂に沈むざくざくという音が遠ざかると、砂粒が吹き寄せて落ちてくる微かな音が聞こえるようになった。
彼はずっとうずくまっていた。
マンドレイクたちの笑い声がどこかから届く。それが追ってきた彼女たちのものなのか、逃げながら見た別の一群のものなのか、スライムにはわからない。すぐそこに足音を忍ばせて待ちかまえているのではないかと思うと動く気にはなれなかった。
(なンデ、あイツらはハなセル? なンデ、オレ様はハなセナイ?)
いつも彼を惹きつけていたマガツヒの光もここからは見えない。
ついに人間の時間にして十七年、彼は沼底のよどみのように側溝にとどまり続けた。
あるとき、急に上が騒がしくなった。スライムがここに逃げこんだあの悪夢のようなときでさえ今よりは静かだった。はじめはマンドレイクたちが自分たちに不都合な悪魔たちに襲いかかったのかと身を縮めた。それから気をつけてよく聞くと、響いている悲鳴は彼女たちのものだった。仲間割れだろうか。いかにもありそうなことだ。ところが騒ぎがおさまっても一人のマンドレイクも勝ち誇って笑わない。彼は意を決して外を窺うことにした。ひょっとしたら待ち望んだときがきたのかもしれなかった。
いない。
赤い花がひとつも見えない。
スライムが声だけを知っている悪魔たちが落ち着かない調子でなにか囁き交わしていた。彼が側溝に逃げこんでからこのあたりに流れ着いた悪魔たちだ。あんな姿をしていたのか。
スライムは彼らには一声もかけずに、マンドレイクたちの縄張りから遠ざかるほうを目指して去っていった。世界は前より砂をかぶって古ぼけていた。
高い建物と岩壁が先を塞いでも、小さなスライムの障害にはならない。体が大きかろうが小さかろうが、スライムたちには細い隙間や割れたガラスがあれば十分だ。むしろ狭ければ狭いほど、背後からマンドレイクに追われるのではないかという恐怖が遠ざかる。いまだ堅牢な廃墟に心を励まされ、休むことなく体をうねらせた。
ようやく月明かりの下に出たとき、彼は自分がいた交差点がもう二度と戻れない遠い場所になったように感じた。高い岩壁に囲まれた広大な砂地に四角い大きな建物はない。それどころか、悪魔の姿さえまるでなかった。彼は先へ進む理由を失って、探索を兼ね目についたマガツヒの結晶を集めて回ることにした。ちかちかするものも、きらきらするものも、光るものは好きだ。誰に邪魔されることもなく黙々とマガツヒを体に取りこんでいくと、彼の体は少しずつ膨れていった。
ようやく元のとおりに大きくなったスライムは改めて砂地を見回した。広い場所だ。マガツヒが枯れているわけでもないのに、どうして悪魔がいないのか。問題のある場所なのか、それともこれが普通で、自分たちがいた場所が悪魔が多い場所だったのか。スライムが不思議に思っていると、突然そこかしこに悪魔が湧き出した。
赤い帽子の毛むくじゃらが、早速口論になった。もつれあうような早口、刃がぶつかりあう金属音、囃し立てる周囲の喧騒。
悪魔が死んでも、時が経ち月がめぐれば、その悪魔が生まれ落ちた地に同種の悪魔が生まれる。仮にスライムがこの大砂原で死ねば、彼が生まれた場所、おそらくはあの交差点に、マンドレイクなどという悪魔の存在をまるで知らない新たなスライムが現れることになる。
わっと声があがる。砂を被った別の赤帽子がブーツを投げた。
(こンなニ死んダのカ……! だレ、ガ……)
悪魔を数えきれなくなっていたスライムの目が赤い帽子と赤い花を見分けた。なんてことだ。彼は体がちぎれそうなほど伸びあがって驚くと、彼女たちに背を向けた。慌てるあまり体の底が砂を巻きこむ痛みも感じない。側溝ですごした長い歳月で、粘液のすみずみまで彼女たちの仕打ちが行き渡ってしまったにちがいない。
来た道まで引きかえして体を止めた。先へ続く砂地と、確認済みの隘路。この中に隠れるべきか。あの格子が頭をよぎる。
(前モ後ろモ塞がレルゥゥ)
マンドレイクがいない土地に行きたかった。どこに行ってもあの赤い花がちらつくような気がしたが、少なくともここにいるわけにはいかない。岩壁に沿って花たちから離れ続ける。
やがて深い砂のなかで岩壁は右に折れた。もう振り返っても誰も見えない。彼はそれでもまだ安心できなかった。もしかしたら高い岩の上で退屈しているマンドレイクがいるかもしれないと思い浮かべ、次の瞬間には体の下で砂をかぶったマンドレイクが引き抜かれるのを待っているかもしれないと想像した。
正面に現れた砂の浅い一帯に這い上がって、彼はようやく一息ついた。なにしろ十七年のあいだ、小さな体を少しも動かさずに四角くしていたのだ。大きくしたばかりの体が重かった。
「い……おお……い……おおいったら!」
ぼんやりとしていた。驚いてそちらを見ると、空色をした小さな四人の悪魔が各々金の壺にはいって宙に浮いていた。
「やあっと気づいたよ、おおい、そこのじいちゃん!」
「そこのおっちゃん!」
「そこの兄ちゃん!」
「そこのボク!」
四人は同時にスライムに呼びかけて、顔を見合わせた。
(なんダァこイつラァァ?)
疲れていたスライムが返事をせずにいると一人が手を振る。
「わるいけどさ、ちょっと待っててよ」
ぼそぼそと話し声がするが、いつまでもスライムには声が掛からないので、放っておいて先へ行くことにした。線路を乗りこえていると、慌てた様子で悪魔たちが叫ぶ。
「待って待って! 待ってよ!」
「おセェェ。オレ様はモう行クゥ」
悪魔たちは物怖じしない様子でわらわらと近寄ってくる。
「待ってって。待たせて悪かったよ、だからさ、自分で決めちゃってよ。ええと、ほら、あー、なんて呼ばれたいか」
「さっきの四択でさ」
「じいちゃん、おっちゃん、兄ちゃん、ボクの四つだぜ」
「くッダらネェ」
「頼むよ、ねえ。まだ訊きたいことはひとつも話してないんだからさ。その前に決めてくれなきゃ話をするのに困るんだ。いっつもこうなんだ、もめちゃうんだよ」
(ハナシ……ハなシヲすル……)
こんな仲のよさそうな悪魔たちに憧れたのはもうずっと昔のはなしだ。違う種類の悪魔とはどうしたってうまくいかないのだ。他者に親しみを持たず、外道らしく過ごしていれば苦しまずにすんでいた。
だというのに、口から出た言葉は彼の後悔を裏切った。
「アァァ」
「助かるよ!」
なりそこないにしては長生きをしたような気がした。一方で、ただうずくまっているうちに年寄りになったというのは気にいらなかった。
「……オイ。おっチャんダ、そレでイイィ」
悪魔たちは壺をおどらせた。
「決まりだ。おっちゃんだってさ! みんな文句はなしだぜ。おっちゃんが自分で決めたんだからな」
「すっげえ、もう決まったよ」
「オイラたちアガシオン」
「おっちゃんはちょうどいいところに来てくれたんだ!」
「……なンだヨ」
「もしもの話だよ。オイラたちの壺の中にきれいな水と宝石のどっちかが入ってるとしてよ。人間はどっちが嬉しいと思う?」
「水があれば人間は砂のなかを遠くまで歩けるだろ? でも壺の水がなくなって、あたりに水がないなら結局死んじゃうし、ちゃんと水場にたどりついたらもうその水はなんの価値もなくなっちゃうんだ。壺のなかでぬるくなった水なんてね」
「宝石は新しい宝石が見つかったって悪くはならないよ。ぬるくなったりもしない。だけど人間が一人ぽっちじゃ持ってたってしょうがないんだ。だれかがその人間が見せびらかした宝石を見てすごいって言ってくれなきゃね」
「オイラたち、手に入れるのが同じくらい大変なら、価値があるほうを手に入れたいんだ。そしたら得だろ。同じ苦労で力がある悪魔ってことになるんだから」
スライムは自分が好きな光る宝石を贔屓してもよかった。どうせお遊びなのだから。考えるのだって好きじゃない。まじめに決めてやるのも馬鹿らしいじゃないか。見れば呆れたことに二派に別れたアガシオンたちは片目をつぶって合図をしたり、祈るように手を合わせたり、なかには口だけを動かして自分が望むほうを言わせようとする者までいた。
「……水だァ」
「なんでさ!」
宝石派であろうアガシオンが抗議の声をあげる。
「そノハナシ、宝石は一度も役にタッてねェェ」
アガシオンたちはそうかな、そうかも、とざわついた。
「あざやかなもんだね、三対二で文句なし」
「オイラたちって四人だろ? 考えてることがみんな一緒なら困らないんだけどさ、そうでもないんだ。三対一なら決まりだよ、でも二対二ってのも出てくるのが四人の困ったところでさ。けんかしたって、最後にはそんな話はほったらかすしかない。今回そこに通りかかったのがおっちゃんだったわけ」
「一人ィィ殺しチまエェェェェ」
スライムはのそりと去っていった。残されたアガシオンたちは彼を見送る。
「行っちゃった」
スライムは砂地の終わりまで来た。高い崖のふちに立つと、波が砕ける音がする。崖下は黒い海だった。詰まった波のとんがりが海一面を覆う鱗になってゆったりと泳いでいる。マンドレイクたちが来ても飛びこめると彼は安堵した。ぎらぎら光る水面が招く。体はきっと水に沈むだろう。海は興味もなさそうに彼を食べるのだ。開いた彼の口のなかをまっくろに満たして言葉を奪う。それで構わなかった。言葉がこれまでなんの役に立ったのか。黒い海に落ちればもう誰もいやしない。いたとしたって、体が海水とひとつになる前に、それと出会うような偶然があるものか。もうなにも悩まなくてすむ。残った目玉がうねりの下から見上げる月は、いったいどんなふうに光るだろう。
崖のそばには海が見える小さな建物がひとつ残っていた。階段つきで、のぼればもっと高くから海が見渡せる。スライムも一本か二本かでも脚があったらそうした。いまは体をこぼさないよう苦労するには疲れすぎていた。
糸が切れるように意識が途切れ、それからどのくらい経ったのか、スライムは何か聞こえた気がして目を覚ました。
「おっちゃーん!」
「なんだぁ、寝てるよ」
スライムが暗がりで身じろぎをすると、建物の外のアガシオンたちはこづきあった。
「あー! 起こしちゃったよ」
「悪いヤツだなー」
ほうっておいても静かになりそうにない。へどろのように休めていた体を持ち上げる。
「うルせエェェェェ!」
彼は思い出した。いつもこうだ。怒鳴り返してきたガキに動揺した自分。マンドレイクに追われた自分。桝で過ごした長い時間。交差点にとどまっていたならば、好ましい光の数々が彼の目に射しこんだはずだった。代償を支払った末にまた同じことを繰り返した。
(オレ様はコうデきテいル)
波の音が大きくなる。
「おっちゃーん、そんなに怒らないでくれよー」
「オイラたちちゃんと反省するからさ」
「頼みがあるんだ」
「オイラたち考えたんだ。……なあ、これってもう話してもいいのかー?」
「反省するはずだろー。ぺちゃくちゃやっておっちゃんを起こすのはなし、しゃっきり目が覚めるまで待たないとな!」
ふりそそいだ声は身構えたものとはちがっていた。能天気な調子で止む様子がない。スライムはへの字の口を困らせたあと、建物から這いだした。見上げると金の壺の丸みが光のすじを作っている。壺の数は四つのままだ。
「あ、おっちゃんだ!」
「悪かったよ」
「悪気はなくてさ」
「それ言い訳だぜー」
アガシオンたちは言いたいことを好き放題に話す。順番待ちなど知らずにいる。
「教えてもらったやつ、やろうとしたんだよ。公平にね。オイラが死んでもいいと思うかい、って訊くルールにした。でもだれがやっても三対一になっちゃってさ。自分が死ぬのは反対なんだ」
「で思いついたんだよオイラたち」
「三人じゃなくて五人でもいいってことだろ」
「これは四対〇」
「頼むよおっちゃん、困ったときしか来ないからさー」
スライムは考えはじめるのに時間がかかった。ほかの悪魔に言葉が通じるとわかったときの衝撃はあまりに遠く、気怠さのなかに色褪せていた。
突飛なことを言うアガシオンたちをしげしげと眺めると、彼らの壺には星の模様がついていて、光の帯はその段差に小さく引っかかっては垂れさがっていた。その光を悪くはないと思った。
「ソノ壺だァァ、オレ様のモンダァァァァ」
「えっ、そりゃさすがに困るよおっちゃん!」
「壺まで全部でオイラたちなんだ」
「貸しテやルゥゥ。キレいニ磨いトケェェェェ」
アガシオンたちは大きな目をぱちくりさせた。
こうして、アガシオンたちは借家住まいを始め、金の壺はいつでも砂にくすむことなく輝くようになった。
だれも損はしなかった。形だけの所有権と、貴重な五票目を交換して、アガシオンたちは得をした。形のない言葉と、光る壺を磨く器用な手を交換して、スライムのほうでも得をした。
スライムはすっかり見識ある隠者として扱われて、ぶっきらぼうな言葉は小さな悪魔たちのあいだで勝手に謎めいた。彼はくだらない質問にわからないなりに答えをくれてやっただけだ。それなのに、彼を誘う波の音は少しずつ遠ざかっていくのだった。