兎の耳 双頭の犬オルトロスが牙を剥き出して迫って来る。タケミナカタは膝を軽く落として待ち構えると、直前で跳んで自分の背中をオルトロスの毛深い背中に滑らせた。オルトロスが勢いがついて砂に脚先を埋めるのをそのままに、タケミナカタはオセたちの方へ突っ込んでいって、剣を構える豹頭の堕天使たちを笑った。タケミナカタは姿勢をさきほどのオルトロスの体高よりもずっと低く下げて、地面を蹴り込むと一気に連中の中央に躍り出る。彼らは同士討ちにならない程度の剣術は十分に身に着けている。四方の刃にタケミナカタのしなやかな体は蛇の性質を思わせて、低い位置を保ったままぬるりとオセたちの間をすり抜けると、一人のオセの脚に横ざまに蹴りを見舞った。
両腕を失ったこの国津神の戦法は定石を外れている。やがて最後の堕天使も降参して剣を下に落とした。
「よく同じ太刀筋ばかりで飽きねえなあ。おい、オマエらがどこかに新しい剣の型を探して修行に行くんなら、留守のあいだ、俺が縄張りを守ってやってもいいぜ」
攻撃が当たればタケミナカタに勝つことなど容易い。オセがそれだけの力を持っているのは双方わかっているだけに、オセは歯噛みした。
しかもタケミナカタは生来両腕がないのではなく、あるとき失くしたのだから、途中ですっかり戦い方を変えた神なのだ。天津神に敗れるまで、その両腕は、人間が動かそうとすれば千人は必要だという大岩をたやすく掲げてみせた、彼の力の象徴だった。
彼は一線を退くことなく、蛇のように体をしならせて、全身にいまだみなぎる膂力をもって敵を翻弄した。カンダの社は木々も多く残っていて、この場所を得たいと思う悪魔もいたが、こうして好戦的な様子で暴れ回るタケミナカタがいるためにうかつに踏み込むことができずにいた。
タケミナカタが体を動かしてから明神の社に帰ってくると、オオクニヌシとスクナヒコナは崩れた瓦屋根の前に腰を下ろして揃って瞑目している。
(まただ。一体いつの時代の言葉でものを考えているのやら。ぞっとするぜ)
タケミナカタが彼らに声を掛けずにこうしてそのままにしておくと、彼らが気が付かないうちにいくつも人間の時代が変わってしまう。タケミナカタはじっとしているのが性に合わないので、二柱があまりに動かず目に余るときには、人の世を見るよう声を掛けてやった。
オオクニヌシたちが見回すと人々の服装や言葉がすっかり変わってしまっていて、慌ててタケミナカタから教わることはよくあった。文字を見るために絵巻物や書状を取りにやらせるとタケミナカタは面倒くさがった。
オオクニヌシやスクナヒコナにとって見れば、タケミナカタは当世風の言葉に詳しい若人だった。初めてタケミナカタが自身のことを「俺」と言い始めたときには心底戸惑ったことをオオクニヌシは覚えている。それは相手のことを指す言葉だったはずだ。自分で調べもした上で、神格にそぐわない表現なので慎むよう言ったが、タケミナカタは改めない。時代が進んだある日、東京から人の姿が消える以前に、オオクニヌシは奉納された絵馬をめくって眺めていた。すると時々は自分のことを「俺」と表現するものがあって、絵馬に書くほど言葉の地位が高くなったと、時代を取り入れたタケミナカタの若々しさに驚いた。
しかし次に何か一つ考えごとをし終えたときには「俺」がまたまったく違う意味になっているかもしれないので、こうも移ろう言葉を取り入れるのはやめておこうと思い、スクナヒコナとともに我、という言葉を使っている。この表現は長い間使われているし、今のところまだ公的な表現であるはずだった。
東京が魔界になってしまって、天使と悪魔が騒がしくするようになってからは、ゆっくり考えごともできなくなった。頭上では戦局が変化しているのだろうが、オオクニヌシやスクナヒコナにはこれもなかなかに目まぐるしいことで、タケミナカタに秋葉権現の符についてせっつかれても性急なことだと感じた。
「タケミナカタ、戻ったのか」
オオクニヌシは瞼を上げる。
「体がなまるぜ」とタケミナカタが言うのでオオクニヌシは少し笑う。
「タケミナカタ、崖下にいる者を連れてくるのだ。あの地形からはそうそう救えぬが、おヌシならできよう」
「……それ、いい加減にしとけよ」
タケミナカタはオオクニヌシの言葉に反対はしたし、場合によっては悪態もついたが、最後には彼の言葉に従った。大股で歩いていって、社の木々の先、オオクニヌシが示した崖を覗き込む。
幅広の谷と言ってもいい。谷底で大きな建造物がいくつも崩れ、残った柱群が暗い水から突き出している。十八年前にできたばかりの遺構の先にはオチャノミズが見えた。さらに奥に目をやれば岩山がどこまでも連なって、かすんだ遠くの尾根はまさに立ち上がって空と共に球を成していた。タケミナカタはこの岩山を見ると魔界にいることを実感するのだった。見上げれば岩山の先に月が浮いている。
深い谷底はうっすらと霧がかかって、たたえられた黒々とした水が流れているのか澱んでいるのかも定かではない。水底は見えない。得体の知れない水が体に触れるのは避けたかった。誰も近付かないのだから、国津神にとって有害かどうかもわからない。
タケミナカタが立っている側の崖の中腹に、月の光を照り返す赤い塊が見えた。狭い岩棚か崖の隙間にうまく引っ掛かってはいるが、身じろぎすればすぐに落ちてしまうだろう。
崖は切り立っていて、掴まるところもほぼない。タケミナカタはためらいなしに裸足のまま崖を滑り降りていった。
崖が上から崩れないよう、赤い塊の様子が確認できる範囲で最大限の距離をとる。握り潰した紙のように崖に引っかかっているのは天使で、意識を失っている。近付くにつれ、状況が悪いことがわかってきた。横目で怪我の状態を見たタケミナカタは身をひねって崖を蹴る。一番近い太い角柱に背を向けたまま接触し、両の足で柱を挟み込んで体を支えた。背を反らせ、鎌首をもたげた蛇さながらに、天使の周囲の崖を眺める。崖に足場はない。近くで見れば小さな岩棚の一つでもあるのではないかと思ったのだが、当ては外れた。
(うまくひっかかったもんだな)
乱れた翼が岩壁の凹凸に食い込んだのが幸いした。左の翼は大きく開いて肩から上に押し上げられ、右の翼は尺骨が折れているのか歪んで体の脇にある。最初にぶつかった場所から少しずり落ちたらしく、足先が崖に引っ掛かって片膝を曲げている。
この天使は谷の向こうのオチャノミズから来た。彼は周囲に生息するアンズーに警戒はしていた。しかしアンズーの影に死神マカープルが潜んでいるとは気付かずに、背後から呪殺の力がこもった一撃を受けたのだ。谷をようやく渡っても高度は下がり続け、あがいた末の姿だった。
タケミナカタは呼ばわった。
「よお、そこの天使、磔になってるオマエだ。おい、パワー」
タケミナカタたち国津神は一時はベテルの軍門に降ったため、外見から天使の呼称を判断することができた。
待っても返事は返ってこない。それでも消滅していない以上生きているのは確かだった。厄介だ、天使が死んでもオオクニヌシは何も言わないだろうが、できると見込まれたことをし損なうのはタケミナカタにとって気に食わないことだった。
タケミナカタは柱から両足を外し、崩落させかねないほどの力で蹴った。向かいの崖、パワーのすぐ下だ、ひねった体を戻す力で右から左へ、硬い岩壁を左の足で蹴り割った。できた割れ目の内に残した足先に力を入れる。右足の指は岩壁のわずかな凹凸にかけざるを得なかった。体を岩壁に預けてどうにか体勢が安定した。うまくパワーの持ち上がった左の翼の下、腰のあたり頭を持ってきたタケミナカタは、衣を汚しながら崖に胴を這わせる。
(ったく、金気臭え)
額の角がパワーの腹を刺し貫かぬように頭を傾け、口先でパワーの鎖帷子をたぐって咥えた。布地はどこが裂けているかわからない。崖を上がる反動で破れては意味がない。細かい鎖が口中を傷付けることはなかったものの、この金気は堪らなかった。つばきが顎を垂れる。
鎖帷子を引かれて傷に障ったのか、パワーがうっすらと目を開けた。
タケミナカタは咄嗟の判断を迫られた。
十の悪魔がタケミナカタの姿を見たとして、この状況では九の悪魔が彼が天使を食い破ろうとしていると見ただろう。口を離して弁明したところで痛みで朦朧とした者が果たして信じるか。タケミナカタは一言も口を利くことなく鎖帷子を強く噛みしめた。右の足で強く崖を蹴る。何枚かの羽が崖に残った。天使は何か呻いたが、タケミナカタには聞き取れなかった。
タケミナカタの強靭な顎と首は天使の体を支えた。腹を支点に吊るされた天使はまた痛みに気を失ったのかぐったりとしている。崖の向かいの柱を蹴り飛ばすとき、タケミナカタは天使が反動で柱にぶつからないように身をひねらなければならなかった。鎧が重く、一度では高さが出せない。それでもタケミナカタは時間を掛けてその蹴りだけで谷から脱して見せた。あの石柱には大きなひびが入って、もう一度同じことをすればきっと崩れるだろう。
(腕が二本に翼が二枚。つまるところ四本腕とは贅沢なことじゃねえか。重たくてしかたねえ)
崖を上がりきるとようやく天使の重みから解放されて、タケミナカタはあごを上げて首を鳴らした。本当はすぐにでも咥えなおしてオオクニヌシの元に届けてやらねばならないのだが、流石にこの崖上りはこたえた。
下草を踏んでオオクニヌシが自らやって来た。
タケミナカタがかがみこんでもう一度パワーを咥えようとするのをオオクニヌシが手で必要ないと示したので、タケミナカタは天使から数歩下がった。天使は動かない。オオクニヌシがその姿を見下ろす。
「哀れな兎よ。救うてやろう」
オオクニヌシの力がパワーの傷を癒す。折れた翼や凹んだ鎧兜があるべき姿へと遡る。タケミナカタはオオクニヌシが微かに眉を下げたのを見たが、理由がわからなかった。命が助かり、全ての傷が治ったにも関わらず、どうして顔を曇らせたのか。
パワーの意識が戻り、乱れた翼が畳まれていく。目が開いて、自分を見下ろしているオオクニヌシを見た。話しだそうとする天使を遮ってオオクニヌシは口を開く。感情を殺した声だった。
「兎よ、傷は癒えた。どこへなりと跳ねていくがいい。二度は助けぬ」
起き上がった天使はオオクニヌシとタケミナカタを交互に見て、やがて言葉を飲み込んで静かに飛び去った。
「頭上を飛ぶな馬鹿が」タケミナカタは天使が飛び去る方向を目で追うオオクニヌシに問いかけた。「さっき何か引っ掛かってたろ。なんだったんだ」
オオクニヌシがタケミナカタに見せる表情はいつもの通り厳しくも優しく、声音も感情をたっぷりと含んでいた。残念そうに言う。
「傷を治してやっても槍と盾が戻らぬのを見たか。どちらもこの近くに無事であるのだ。あわれなことよ。長くは生きられぬかもしれぬ。そう思うてな」
「おい。近くっていやあ」
「水底であろう。捜す術もなし、我もあの兎も何も言わなんだ」
「いい加減にしろよ。兎、兎って自分を誤魔化さないと治せねえならやめちまえ。弱え天使なんて放っておけばいいだろうが」
「おヌシが守ろうとする平穏を、我は踏みつけにしているか」
タケミナカタは鼻で笑った。
オオクニヌシが天使を治すのはこれが初めてではなかった。崖にということは例がなかったが、あちこちで暴れて回るタケミナカタの名が轟いて、社の上空を飛ぶ悪魔の姿はなく、木々まで生い茂って目立つものだから、境内に吸い寄せられるように負傷した天使が落ちてくることがあった。オオクニヌシはその度に大きな耳をした兎を治療した。そうして他言するなという意味を込めて天使たちにも兎と呼びかけ、空に帰してやった。すると多くの場合、しばらくしてタケミナカタが「散歩」から帰ると石段か鳥居の隅に宝石や香がぽつりとおいてあるのだった。オオクニヌシやスクナヒコナも境内でそのことに気が付いていないはずはないのに、自分からこれを取りに出ることはなかった。
オオクニヌシは自らの神域に傷付き死にゆく者が迷い込んだなら、それが彼を威嚇する黒い兎でも治療する。痛みと怒りの区別がつかないのも、獣であれば仕方がない。その上で回復したダイモーンがオオクニヌシを殺そうとするのなら迎え討てばいいだけの話だ。
「……次にあそこに兎が引っ掛かったら自分で行けよ、俺はごめんだ」
「難しいことを頼んだな。よく休むといい」
「難しかったとは言ってねえ」
「足と、食いしばったのだな、口が傷付いていた」
「承知で俺をやったんだろうが」
「さすがに肝が冷えた。兎のために子を失うては甲斐なし。さあらば水中にも求めんとて、ここに立っておった」
「見てたのかよ。見てなかったようなふりして出てきてんじゃねえ。安心しろ。そうなる前に兎だけが沈んでたろうよ」
傷があったのは確かだが、パワーを回復させたときに同時にタケミナカタの傷も塞がった。
オオクニヌシはタケミナカタにあれこれと言い付けながら、怪我をして戻ってくればひときわ気にかける。いかな傷を負っても、人の子の絶えたこの魔界で、これ以上姿が変容して顕現することもあるまい。かの神は顕現したままの姿であるタケミナカタを治す術を持たないがゆえに、もどかしさを抱えきれずにいた。
当人にしてみれば、過去の経緯はどうあれこれがタケミナカタの姿だった。蛇がどうして自分に鉤爪の無いことを嘆こうか。
(懲りねえんだろうなあ)
タケミナカタはこれまでにも何度も天使を助けるのをやめるように言ったが、オオクニヌシは聞かなかった。あのベテルを永らえさせて何になるかとタケミナカタとスクナヒコナは思っている。
オオクニヌシとてベテルの存続のために天使を救っているのではない。もしも天使の誰かが社でのことを喋ってしまったなら、治療所としてベテルが利用する臭いを嗅ぎ取ったなら、オオクニヌシは兎を見つけるのをやめてしまうつもりだった。
そこから先、白や赤の兎が現れることはなく、ただときどき彼の前でベテルの天使が力尽きるようになる。
オオクニヌシはタケミナカタにスクナヒコナもいるところで活躍の一部始終を話すようにと言って嫌がられながら、そうしたことを考えたが、結局そのようなときは来なかった。天使にとって意を汲んで約束を守るなど性質からいって当然だったので、ナホビノがこの地を訪れたときもまだ、全ての兎は口を閉ざしていた。天使が滅びるそのときまで、兎たちはひとつも鳴きはしないだろう。