嫉妬の腕飾り 丘の起伏がなだらかになった場所に、一本の欅が立っていた。まっすぐに伸びた幹はところどころひびわれていて、何枚かの鱗は剥がれ落ちないまでもなかば浮きあがっている。これを汚れた丸い爪で剥ごうとする小さな人間も長く絶えて、妖精ばかりが飛び交っていたところに、どうしてまた若い人間ばかり幾人もあらわれたのか、欅のほうから尋ねてみることはなかった。ただ人間が来ても妖精が身を隠さずにいるので、欅の周りは変わらず妖精の集落のままであるのを、葉をかすめる小さな羽の感触と共に喜ばしく思った。
欅に手をついた者があった。妖精の女王ティターニアだ。四枚の翅は、丸い体を花粉に沈めた花虻や、胸まで光を透かす糸蜻蛉のように澄んで透き通っていた。女王は丘を愛おしんでよく地を踏み、草木をみつめた。
彼女は楽しげにピクシーを追いながら、梢から落ちる木漏れ日をそっと片手ですくっていて、名残惜しそうに光を手放すその仕草に、なびいた髪が一本、欅の樹皮にはさまれてぷつりと切れた。女王はこめかみのあたりに手をやって、そのまま欅を見返らずに去っていった。
あとには長い金の髪が奔放にうねって、細い光を跳ね散らしていた。
しばらく経って、欅はだれかが自分の樹皮を一枚剥いだことに気がついた。背の高い栗色の瞳の少年が、慎重な手つきで樹皮を剥がして脇へ捨て、手の内に金の髪を隠して去っていった。欅は皮を失った赤茶けた部分を見ることはなかったが、新しくふれる空気の流れに懐かしいくすぐったさを味わった。
妖精王オベロンは小川近くの大岩の上で、このできごとを静かに見ていた。少年は物陰に身をよせて、服の袖に隠すように左の手首に金の髪を巻きとめた。美しい髪は結び止めるにはよくすべって、うまく結べない少年が業を煮やして唇で髪の端を咥えたとき、オベロンは胸をざわつかせて、小さく息をのんだ。少年は結び目から先の髪を輪にからませて安堵の表情を浮かべる。
それからの彼はいつも片手を袖口に重ねていて、ときどき袖の中に指を這わせた。オベロンは誰にも気付かせず、何度少年が袖に触れたかまですべて目で追った。
ピクシーがオベロンの胸元に飛んできたときも、少年の右手はゆるやかに袖の中で動いていた。
「どうしました」
「ねえ、オベロン。あのね」ピクシーは迷うように言葉を切った。「どうしてオベロンの翅は黒いの?」
オベロンは麝香揚羽の翅を持ち、見る方向によると少し光を透かした。それを初めは透明だったのではないかと思ったピクシーは、自分の次の言葉が待たれている沈黙にしどろもどろになった。
「だってわたしも、ハイピクシーも、ティターニアだって翅は、透明で、だから……訊いてみようって思って……オベロン、いやだった?」
「いいえ。私はあなたが利発であることに感心していたのです。では一緒に触ってみましょう。煤のような塗りものであればあなたの手はまっくろになるはずですね」
ピクシーは怒られずに済んでほっとした表情を見せた。
「いいの?」
「ええ、さあこちらへ」
うながされてオベロンの後翅に近付くピクシーは、オベロンの赤い上着から漂う甘い香りに頭がじんとした。小さな手をぺったりと翅に押し当てると、その手を返す前にオベロンの手が上からやさしくピクシーの手を隠した。
「さあ、手を表に返してご覧なさい。どうでしょうね」
ピクシーがオベロンの手の向こうで言われた通りにすると、オベロンはするりと自分の手をどけた。元気よく指先まで広げられた小さな手のひらは白いままだった。
「あれ?」
「どうしてでしょう」
考え込んだピクシーの頭が堂々巡りを始めたころに、オベロンは優しく笑った。
「私の翅には小さな黒い鱗があるのです。鱗はわかりますか?」
「そんなの。バジリスクの脚や尻尾くらい見たことあるも……」
「前にお話ししましたね。この丘から遠くへ行く妖精は危ない思いをするかもしれませんよ。しかし、鱗の話をするには都合が良いようです。鱗ですから、簡単にあなたの手にはつきません。もしも大きな悪魔が来て、振り回した尾がこの翅を打ったなら、きっと翅は折れて、悪魔の尾が黒く染まるでしょう」
オベロンは里から出歩いてしまうピクシーにほんの少しこわい想像をする機会を与えた。ピクシーは先ほどオベロンに触れた手を胸の前でにぎりしめていた。丘はいつも安全な場所であると彼女は信じている。王が討たれたらと考えなくてはならないのは陰気なことで、妖精にとって重い罰だった。
現実としてあり得ることだった。人間を匿ってこの丘の価値は変わった。なにが忍び寄ってもおかしくはない。彼女が想像した巨大なバジリスクが王や女王に傷を与えることはできない。ただし、人間の体や心はいまやどのような宝石をもってしても贖うことができない価値を持つ。若い人間の匂いが、彼らより強大な悪魔の鼻腔にとどいたなら、丘は血に濡れ、その一滴すら地に染みる前に舐めとられる。
王が暗い思いを胸中に抱きながらもうち笑むと、ピクシーを縛めた恐怖はほとんどがほどけて消えた。
「さあ、あなたの疑問は解決したでしょうか」
「ありがとうオベロン。それから、遠くに行ってごめんなさい」
「好奇心は妖精の長所です。私はあなたからの問いを嬉しく思いました。それを忘れずにお戻りなさい。……ああ。そうだ。あなたに一つ頼み事をしたいのでした」
オベロンはガラス片をなめらかに整えた小刀を取り出した。柄には円い葉をつけた蔓の上で翅を休める小さな蝶が彫り込まれている。ピクシーが受け取ると、手によくなじんで吸いつくようだった。
「きれーい」
「刃に触れてはいけませんよ。……欅の木から南に行ったところに栗色の瞳の少年がいます。少年がうたた寝をしたら、左の手首に巻かれた髪をその小刀で上手に切っておいでなさい」
まじないめいたことは日頃の宴で慣れていたピクシーは、気安く請け負って、今度の宴には人間も来るのだったら、踊りの輪の中に連れだすつもりになった。ところが少しも飛ばない間に、名前を呼ばれたと思えば大きな翅の影が頭上に落ちて、大事に手に持っていた小刀を取り上げられてしまった。きれいな小刀を与えたと思ったらすぐに奪うなんてと抗議しようとして、ひょっとしてオベロン王の手に刃を突きはしなかったかと、自分の手の中の感触に不安をおぼえた。
「オベロン! いま怪我したんじゃ……!」
「いいえ、まさか」
ピクシーはオベロンの指をつかんで広げさせたが、黒い手袋はどこも裂けていなかった。
「やはりあなたに頼むのはやめておきましょう。驚いてお互いが怪我をしてはいけません。私がいずれ」
「もう! 驚いたじゃない!」
いつもであればオベロンといるのは心地が良いのに、叱られて驚かされて、ピクシーはすっかりいやになって飛び去った。王の黒い翅に触れた感触も、小刀の冷たさも妖精をわくわくさせるには十分だったはずなのに、心のなかからこぼれて返ってこなかった。
ピクシーが遠ざかったのを見て、オベロンが隠すのをやめると、小指のつけ根から手袋に血がにじんだ。すると間をおかず、どこからかティターニアが彼のそばに現れて手を取った。
「いけないわ。血が……どうなさったの」
彼女が両手でオベロンの傷のある手をにぎると、傷はたちまちに消えた。
「手慰みに小刀を作っていて、うっかり折ってしまいました」
「あら惜しいわ。とてもきれい。これ、私にいただけるかしら」
オベロンは理由をつけて断った。自分のよこしまな気持ちから生まれたものをティターニアに渡したくなかった。
嫉妬だ。
王は高潔であらんとしても嫉妬深い己の性質から逃れられない。かといって少年の腕に巻かれた髪を切ろうとしても、ティターニアの髪に刃を入れることがためらわれて直前でやめてしまった。
オベロンは口に出せはしない。
(少年があなたの髪に指を這わせる度に、私はあなたが情を交わす幻を見ます)
それから丘の上では七つの宴があった。オベロンはつつがなく執り行って、妖精たちの歓声はジャックランタンの篝火とともに空にのぼって火の粉を散らした。踊るピクシーの影は丘に長く伸び、草の上に落ちる光を繰り返しさえぎった。
妖精が宴を開いているあいだ、人の子たちはいつも懐かしいかつての日常の夢を見ていた。涙をにじませながら目を覚ますと、草の上に妖精が踊った跡をみとめたが、それがなにかはわからなかった。
七つめの宴が最高潮に達し、炎がひときわ高く燃えあがったとき、その風に巻かれたティターニアの髪がオベロンの翅をなでた。ティターニアは髪をおさえる。
「ごめんなさい、オベロン……」
ティターニアは言葉を継ぐことができなかった。オベロンの顔は炎に明るく照らされて、見まごうはずはなかった。彼は唇を固く結んで、苦しげな目線をティターニアに注いでいた。その表情は火の粉が一つ爆ぜる間にたちまちかき消えていつもの穏やかなほほえみに覆われる。ティターニアは宴の終わりがいつまでも来ないような感覚におちいった。
ジャックランタンが作った焚き火がくすぶって、踊り疲れた妖精たちが眠りにつくころ、人払いを頼まれたシルキーは目が堅い妖精たちを集めて寝物語をしに行った。そのうしろ姿が斜面の向こうに消えると、ティターニアは翅がこすれあうほどにオベロンに近付いた。
「あんなに苦しそうになさって、どうして何も教えてくださらないの」
オベロンは何も言わずに、ティターニアの顔に掛かった髪をすくって肩の後ろに流した。
「……あなたの髪を持つ者がいます」
「髪?」
目線だけで示された先にはよく眠っている少年がいた。腹の上に乗せた両手が、呼吸とともにゆっくりと上下している。
ティターニアは戸惑った。オベロンが目を伏せる。
「どうして欅の木にあなたの髪を残したのです。彼の手首に巻かれた一本の美しい髪が、はじめて撫でられたそのときから、私はずっと目を逸らせずに見ていました。このような醜さをあなたに知られることを恥じながら、隠しとおすことができません」
「ひとことご命令なさったらあの子どもが逆らったとは思いませんわ」
「私の弱みがあなたであってはならないのです。臆病な王でなければ、もうあなたと丘は守れません」
「……それでも人の子を匿うのだから、私だって妬けてしまってよ」
少年がふと目を覚ますと、低い視界のさきに足輪を傾けた素足が伸びていた。緑のドレスの裾が厳かに足首から先の脚線を隠している。跳ね起きてとっさに左腕を確かめれば、服越しにティターニアの細い髪を感じた。
「お返しなさい」
ティターニアは体の横に垂らしたままの腕の指先で何かを摘まむ仕草をして、軽くうしろへ引いた。彼女の指のあいだに一本の金糸が揺れる。
「妖精が与えたもののほかは、妖精のものを持ち去ってはいけませんわ。取り返しにくる誰かがいるならそれは、あなたが上手に隠れられなかったか、盗んではいけなかったなにか……ときにはその両方かもしれないわね」
弁解をはじめようとした少年は、すみませんのひとことも喉から押しださないうちに、あらがいがたい眠気にさそわれた。金の髪がもう遠くになびいてとどかない。まぶたが重い。欅の幹をかすめて小さくひるがえる裾を見たように思った。木肌を撫でるやわらかな指先。順序も思い出せない朦朧とした記憶を最後に、まっくらな眠りに落ちていった。
大岩に戻ったティターニアは、指先の髪をもう片方の手の上で輪にする。光をこぼす金の輪を差しだされたオベロンは当惑した様子を見せた。
「目の前にしてわかりました。少年が肌身はなさず身につけ、何度も指を絡めたあなたの髪を私が手に取れば、胸にわだかまる薄暗い感情は狂暴な興奮をもって私の剣に口づけるでしょう。しかしあなたの手のなかにあれば、髪を伝って情念の毒があなたを侵すようで落ち着きません。どうしたものでしょう、風や水の流れに手放して、誰かの手に渡ることがあってはならないのです」
偉大なる妖精王は心を乱されて剣の柄を握りしめていた。
「困ったかたね」
たくさんの篝火を作った疲れでまだぐっすりと眠っているジャックランタンの前に二人は屈み込んだ。ランタンの中の小さな炎をおどろかせないように、静かに覆いをずらす。
まどろんでいた炎は突然の来訪者にランタンの底にいっそう身をちぢめた。
丘を統べる女王が唇に指を当てたので、炎は努めて静かにした。
金の髪が差し入れられる。月夜の香りを残して、ランタンの内側で無音の星が散った。炎はジャックランタンがいたずらに注いだ人間の鉄の箱の燃料や、勿論そのときはひどいめにあった、あるいは草の根や枯れ葉を長い付き合いのなかで燃やしもしたけれど、こうも美しい火花をまとったことは一度もなかった。
それから月がひとめぐりしたころ、だれも大岩の二人に注意をむけていないひとときがあった。ひそやかにティターニアが言う。
「オベロン、手を出してくださいな」
オベロンははっとした。手袋がずらされて結わえられたのは細く編まれた金の髪だった。二本の蔓が実をつけて絡まりあう繊細な意匠だ。繰り返される図柄には少しの乱れもない。傾けると腕の曲線にそって複雑に光った。女王が自ら編みあげた特別な贈りものだということは言葉に現れる必要はなかった。蔓は王と女王を、実は丘の繁栄を願っている。
王は少年の手首を思い出したが、彼と自分の姿が同じだとは感じなかった。気づかわしげに女王の髪に目を走らせる。どこから失われたのかわからずにいると、窺うような目をする彼女と目が合う。
「どうかしら。この腕飾りはいつまでもあなたのおそばにいられて?」
オベロンは結び目を確かめて手袋を直した。誰の目にもふれさせず自分だけのものにしておきたかった。腕飾りがすべって完全に手袋の内側にすべりこむ。ティターニアはオベロンの慈しむような目を見た。
「私が丘に立つかぎり、あなたは傷を負わされることはなく、回復を必要とすることもありません」
なにか傷を癒せば、欅の木にはさまって切れた髪も、オベロンに贈られた髪も癒される。だからといって、ティターニアは身を挺して守ってほしかったわけではない。正式に贈った髪を気に入ってほしかっただけだ。王の嫉妬の深さを頼み、このときだけは心からのわがままを言った。少しばかりの優越感さえ伴った。王の望みと違っていても、ティターニアのために承諾してほしかった。
「いやですそんな仰りかた。丘に立つかぎりだなんて。ねえオベロン。それでは私の望みは半分しか叶いませんわ。二人で里を守りましょう。この丘があるかぎり、ずっと二人で」
オベロンはしばらく困ったように彼女を見つめた。
「あなたの望みならば叶えましょう」
星のない空の下で妖精が誓いあうとき、欅の枝先は風に乱れていた。