嘘とオムレツ アイトワラスがふうふうと息を乱すと、炎がくちばしの端から漏れて空に散る。翼は重く、尻尾も脚も痛かった。それでも歓喜は彼の頭を熱く痺れさせ、気力が果てることなどないように思わせた。恋い焦がれた卵がついに手に入ったのだ。せっかくの卵を自分の熱で固めてしまわせはしないと、くちばしを引き結ぶ。
大きな卵を全身で挟み込んで飛ぶ彼の姿を正面から見るものがあれば、羽の生えた卵だと思っただろう。
巨鳥ジャターユ。その悪魔を下から見上げていると、広げた翼はビルの陰に入りきらないほど大きかった。
アイトワラスは初めてジャターユを見た日から、ずっとその卵でオムレツを作りたかった。大きな大きな卵を垂直に立てて、くちばしで丸く穴を開ける。どれくらい硬いだろうか。それから棒を差し込む。うんと厳かにだ。中で混ぜたら傾けて、十分に熱せられたフライパンに流し込む。ああ一体どんな音がするだろう。立ち上る香り!
アイトワラスという悪魔は皆オムレツを愛するが、彼がオムレツに注ぐ情熱はこの一帯のアイトワラスの中でも抜きんでていた。せめて卵を抱えても素早く移動できる体であったなら、このアイトワラスは逸る気に任せて自らジャターユの巣へと向かっただろう。いや、一度は試した。向かったなどという上等なものではなく、ろくに近付きもしないうちにしつこく追い回されて散々な目にあったのだ。ジャターユのお決まりの飛行ルートの真下で何日その習性を観察しても、アイトワラスに卵は盗めないとわかるばかりだった。
そこにあの奇妙な連中がやって来た。棲む場所も食べるものもてんでばらばらだろう悪魔たち。ヒュドラを倒した悪魔もいた。なぜ行動を共にしているのかはわからないが、ジャターユの卵を丸飲みにして食べてしまいそうな悪魔はいない。アイトワラスはよく考えた。
(卵を盗ってこさせよう。)
とっておきの報酬をどうちらつかせようかと考えているうちに、依頼は早々と承諾され、アイトワラスはすっかり拍子抜けした。とんだお人好しもいたものだ。
車と車の隙間に潜り込んで様子を見る。彼らは随分長い間空を見ているのでアイトワラスは焦れてきた。アイトワラスの尻尾の火が車を変色させ始めたころ、彼らは揃って駆け出した。砂に足をとられながら、ついにジャターユの巣に手を差し入れる。
「振り返れ! ジャターユが方向を変えた!」
アイトワラスは思わず尻尾を車に叩きつけた。ジャターユが怒りもあらわに飛んでいく。
(駄目だ、逃げられねぇ。ジャターユのやつ、あんな一人きりで産んだ卵を後生大事に温めやがって。ふんわりとオムレツにした方が卵も幸せなのによぉ。)
卵の前に飛び出すジャターユが遠くに見えたとき、アイトワラスはため息と共に車のドアにもたれかかった。
ところがしばらくして、ジャターユの体は手前にかしいだかと思うと、砂の上を滑り落ちていった。アイトワラスは驚いてそれを見た。
「オイラはただ、見つかるなって言ったんだ。」
人間には黄金の卵を産むガチョウを捕まえて腹を裂いた大馬鹿がいたらしい。アイトワラスはそんな話を思い出しながら複雑な感情に揺れていた。ジャターユが頭の上を飛ぶ限り、ジャターユがいくつ卵を抱えようとアイトワラスはそれを手に入れることができない。しかし倒してしまっては、もう、一つの卵も産まれはしない。それともまだ、アイトワラスの知らない空にジャターユは飛んでいるのだろうか。そうであってほしいと彼は思った。卵にひびの一つでも入っていたら、あの長い髪を根元まで燃やしてやる。
傷一つない卵殻に翼を這わせ、アイトワラスの機嫌はすぐにすこぶる良くなった。報酬に渡す約束すらしていなかった護符をくれてやっても気にはならなかった。
(考えてもみろ。もしオイラが初めてジャターユの卵を手に入れたアイトワラスだとしたら、オイラが今から作るオムレツは、世界で最初のジャターユオムレツだ。もしもうこの世にジャターユがいないんだとしたら、これは世界で最後のジャターユオムレツになるんだろ。)
その考えはアイトワラスをうち震わせた。
気が付くと眼下にはチンの群れが旋回している。万が一にも卵が毒気にあてられてはたまらない。アイトワラスは一層力を込めて翼を動かした。
アイトワラスは自分がいずれジャターユの卵を手に入れると決めていた。来る日も来る日も、できたてのオムレツに切れ目が入る瞬間を繰り返し思い描いてきた。
フライパンの手入れは欠かさなかったし、砂に埋もれていない建物から塩と胡椒を手に入れた。
腹立たしいことに、多くの人間は地下や地上の一番低いところで食べ物を売ったので、これはなかなか骨が折れた。ようやくまともな調味料にありついたのは、卵のように満ちた月がすっかり痩せ細った頃だった。鮮やかに思い出せる。
塩の袋についた砂埃を払う。調理をしない悪魔はこんな砂袋に何の価値も見出さないだろう。肉や魚は腐臭も残らないうちに消えたようだが、この棚は倒れただけで手つかずだ。
バターは見に行くまでもなく使えない。棚の前に座り込んで油を舐め比べ、一番オムレツの味を引き立たせるものを選んだ。バターが手に入らないことは非常に不本意だった。どこかにバターを作れる悪魔はいないのかと聞いて回りもしたが、何の情報も得られなかった。
ようやく崖の陰にある隠れ家に辿り着き、積み上げた草の中に卵を下ろす。龍穴の脇のこの場所にアイトワラスの仲間は滅多に来ない。何度も積み上げなおした卵のためだけの巣は、アイトワラスがどれだけ今日という日を待ったかを物語っている。
アイトワラスは尻尾も脚も地面に放り出して息を整えた。抑えていた尻尾の炎がぼっ、ぼっと吹き上がり地面を焦がす。
「ホホゥ、ついに手に入れたのか。大したものだ。」
木陰にいたアンドラスが腕組みをしたまま卵を眺める。ほしい物があって来たと聞いたときは警戒したが、卵に興味はないらしいとわかってオムレツについて教えてやった。好奇心と礼節をもって耳を傾けるアンドラスを、アイトワラスは悪く思っていなかった。
「すごいだろ。おっと。遠くから見てくれよ。」
山道に近い辺りからモー・ショボーが目線だけを寄越す。
「必死ぃ。」
「オムレツを一口頬張ればモー・ショボーの意見も変わるって。」
「ないなーい。」
卵があればモー・ショボーの態度も全く気にならない。彼女はいつだってこの調子だ。
アイトワラスはかまどの準備に取り掛かる。ありふれたオムレツなら自分の火で手早く調理を済ませてもいい。しかし大きなジャターユの卵に集中するには火を別に用意するべきだ。勿論、枯草も乾いた枝も手頃な石も、この場所にすっかり集めてきている。目立たないように分散させた材料を拾い集めて龍穴の隣に組み上げた。
続いてアイトワラスは木の枝に掛けた自分のフライパンを取りに行くと、積み上げた石の端に乗せた。
「キャハ! そんなかわいいフライパンじゃ全然役に立たないよぉ。」
モー・ショボーの嘲りにアイトワラスはにやにやして見せた。フライパンの内側をくちばしでつつく。フライパンは振動し、倍ほどに大きくなった。アイトワラスはもう何度かつつく。
「相棒。オイラは今からとびきりでかいオムレツを焼くからな。もっともっと大きくなくちゃ駄目だぜ。」
フライパンは疑わしげに不規則に震えたあと、ようやくかまどに丁度良いサイズに広がった。
「おいおいモー・ショボー、もしかしてオイラが人間のフライパンを失敬してきたとでも思ったかい。」そう言ってやっても良かったが、アイトワラスはそっぽを向いたモー・ショボーを見るだけで満足した。
いよいよアイトワラスはフライパンの前で卵を抱え込んだ。慎重にくちばしの先で卵に穴を穿つ。
(穴が開いた。オイラのくちばしはジャターユの卵殻より強いんだ。)
小さな穴をいくつも開け、大きな円が描かれた。全体にヒビが入らないように円形の殻を外すと、中にはアイトワラスの頭ほどの黄身が浮いている。なんて素晴らしい卵を手に入れたのかとアイトワラスはしばしうっとりとした。
棒で黄身を潰して卵を溶きほぐす。アンドラスはここまでのところを後ろから近寄って覗き込んでいたのだが、その先は料理人の秘密だとアイトワラスに追い払われてしまった。
「どんな書物に遺されることもない貴君だけの匙加減に興味があるのだ。」
「だめだめ。他を当たっておくれよ、それでオイラよりうまく作るアイトワラスがいたらアンタはオイラにも教えに来る。」
「虫が良いことを言う。」
アイトワラスは蛇のような音で喉を鳴らした。アンドラスはその正確な意図は図りかねたが、大仕事に取り掛かるアイトワラスにそれ以上抗議はしなかった。新しい呪いを試す自分の姿はきっと彼に似ているだろう。
アイトワラスはそれから何やら作業を進め、しばらくすると後ろを向いたままかまどの辺りを尻尾で打った。かまどの中に炎が爆ぜる。
「どうだい、八本の腕があったって、オイラほどうまく卵を混ぜられない。九枚の舌があったって、こんないい味付けになりっこないね。」
アイトワラスは誇らしげな顔をした。
ところが油を引いたフライパンに卵を注ごうとしたまさにその時、アイトワラスは同胞たちの羽音を聞いた。少しためらってからアンドラスに卵を預ける。アンドラスは塩の分量を知る権利と引き換えにこれを承諾した。弱みにつけこんで、と言ってやる時間も惜しかった。
かまどのそばをもう一度尻尾でぴしゃりと打つと火が消える。それを確認して山道に躍り出たアイトワラスは、危うく一群のアイトワラスにぶつかるところだった。そのうちの一羽が言った。
「なあ、一体どうして火なんか燃やしてるんだ。オイラたちのところまで煙の臭いが流れてきたぞ。」
「ああ、アンドラスって悪魔が呪術に使う鍋を火にかけたのさ。悪魔の角を煮込むなんてぞっとしないね、次はオイラたちのとさかをむしり取らないとも限らないだろ。」
これを聞いたアイトワラス達はわらわらと元いた方へ飛び去っていった。
「なぁに? 内緒なの? アタシぜーんぶ話してきてあげるね。」
モー・ショボーが意地悪く笑うのを見て、アイトワラスは目を丸くした。
「知り合いでもないあいつらの退屈を埋めてやるのかい。オムレツは分けてやるから次にあいつらがここに来たらうまいこと言って追い返しておくれよ。」
「アタシが食べ物に釣られるわけないじゃない。」
「馬鹿だなぁ。このジャターユのオムレツは最高においしく仕上がるんだ。あっという間に噂が広がって、誰もが食べたかったと悔しがるぐらいのとびきりだぞ。アンタが食べたと知ったらモー・ショボーたちの話題の中心は誰になると思う?」
「えっ……でもそんなの、そんなの、まだオムレツ食べてないのに決められないし。」
「そーそ。アンタが追い払ってくれなきゃオイラのオムレツは食べらんないってわけ。あいつら自分の好みを押し付けあって卵を台無しにするに決まってら。」
それだけ言うとアイトワラスは右の翼をひらひら振ってモー・ショボーから離れていった。
「まだオイラのフライパンは空っぽだってのに、もう予定どおりには進んでないんだぜ。」
次に山道の先からアイトワラスの群れがやって来たのは卵がじゅうと音を立ててすぐのことだった。
「なあそこのモー・ショボー。道の下の方から卵が焼ける匂いが上がってきて、オイラたち急いで飛んできたんだ。アンタ、何か知ってるかい。」
「ああ、モコイたちよ。さっきはしゃいでたのを聞いたわ。珍しい卵を見つけたから坂の下でオムレツ焼くんだ、って。」
アイトワラスたちはざわめいた。
「オムレツ!」
「オムレツだって。」
「やっぱり卵を焼いてるんだ。」
「ありがとうモー・ショボー。」
彼らは慌てて飛んでいった。
アンドラスが拍手をしながらモー・ショボーのところへ近付いてきた。
「モー・ショボー嬢は随分と才能がおありだ。嘘だと知っていなければわが輩も騙されてしまうところだった。」
「馬鹿にして! もうやんないから!」
「馬鹿になど。その名演を拝見し、わが輩もやってみたくなった。アイトワラス、わが輩たちはあとどれほど時を稼げばいいのだ。」
「オムレツってやつはさっさとまとめた方が旨いんだ。卵がでかい分、ちょっと掛かってるだけさ。きれいに焼いてやるにはしっかり火を操ってやんなきゃな。」
アイトワラスは熱い取っ手の上で跳ねてフライパンを揺すりながらもごもごと答える。くちばしに長い棒を器用に咥えていたからだ。曲芸のような格好で火を覗いては、尻尾でぴしゃりぴしゃりとかまどを打つ。その度に火勢は変わり、時には外だけを熱したり、奥だけを熱したりした。この頃になるとアイトワラスはまるで踊っているようだったので、眺めていると飽きなかった。
アンドラスは一つ咳払いをした。また群れたアイトワラスの羽音が近付いてきたのだ。彼らは山道に出たアンドラスから十分に距離を取って止まった。一羽が意を決して尋ねる。
「なあ、アンタ、アンドラスかい。翼ある者のよしみで教えてくれよ。オイラたち、卵の焼ける匂いを嗅いで、モコイたちのところに行ったんだ。そうしたらあいつら、卵なんか知らないって言うんだ。」
「ああ、モコイたちか。さっき嘆いているのを聞いた。オバリヨンがオムレツを奪ってビルの中に隠したのだ。モコイたちは少々ひねくれている、奪われたなどとは言えなかったのだろう。」
「なんだって。」
「ビルなんてあんな広いところに隠しやがって。」
「オムレツが冷めちまう。」
「窓が割れていたらチンが入ってくるかもしれないぞ。」
「そうしたら最悪だ。オムレツは毒の塊に変身だ。」
アイトワラスたちは身を翻して戻っていった。
アンドラスは顔を隠すように俯いて笑った。
「これは愉快。貴君の友人は皆他者を信じる心を持っているな。」
アイトワラスはフライパンを見つめながら肩をすくめた。
「まぁな。アンドラスってちゃんと友達いるのか?」
「何を言う。」
「ちょっと!」
モー・ショボーが割って入る。
「あんたさっきアタシの言い方真似した! そういうのほんとサイテー!」
「あの言い回し、実に気に入った。これからも折々使わせてもらおう。」
モー・ショボーは言葉を失うほど腹を立てて、アンドラスの顔を引っ掻いてやろうとした。モー・ショボーが地面を蹴った瞬間、アイトワラスが一際大きく尻尾をぴしゃりとやった。
「完成だ! ほら。」
フライパンの上でふくよかなオムレツが揺れていた。
端から端まで穏やかな黄色をして、一点のむらもない。
アイトワラスは布の袋から人間のスプーンを二つ出すとモー・ショボーとアンドラスに渡した。そのままオムレツの上に浮かぶと、中心を探して少し脚をさまよわせた後、爪で短く切り裂いた。オムレツはゆっくりと裂け、熱い湯気がアイトワラスのくちばしを湿らせる。こぼれ出た柔らかな卵が扇形に広がっていく。アイトワラスは喉を鳴らした。
「さあ食えって食えって。今すぐが一番おいしいから。こいつを乗せられるのがこのフライパンだけだから、下から段々熱が回ってくるぞ。」
モー・ショボーは溶けたような内側を見て焼けていないと嫌がったが、一口食べて考えを改めたのは明らかだった。アンドラスは清潔な布を掛けた長いテーブルで食したいと言った。どうやら褒め言葉らしい。
アイトワラスは慈しみとも言うべき感情と共にオムレツを口にした。フライパンの縁にとまって直接かぶりつく。間違いなくアイトワラスの最高傑作だった。ジャターユの卵の奥深い味わいにアイトワラスはいつしかバターのことを忘れていき、腹が重たくなる頃には額にまで卵の欠片が飛んでいた。横を見るとモー・ショボーがスプーンを持つ手を止めて唇を舐めている。
こうして全員がオムレツを十分に味わった頃、山道と反対の空から仲間のアイトワラスたちが飛び込んできた。
「オムレツ!」
「オムレツだ!」
「どうしてここにあるんだ。」
「オイラたちが探したオムレツだ。オイラたちのもんだぞ。」
料理人はオムレツだらけのくちばしで笑った。
「誰のもんだって? そんな風に言うけどさ、これはオイラとモー・ショボーとアンドラスがあっちのビルで見つけてきたんだぜ。モコイには返してやる義理なんてない。だってオイラたちが取って来たんだからな。」
背後でアンドラスが一口食べてみせると疲れ果てたアイトワラスたちはこの世の終わりのような顔をした。
「そんな顔するなって。お喋りが長いほどオムレツの味が悪くなるぞ。ここはオイラが羽を休めるのに丁度良くて気に入ってるんだ。もうこの上を飛ばないし覗かないってんなら残りはこの山に棲む全てのアイトワラスのオムレツだ。」
アイトワラスたちは約束の内容がなんであろうと頷いただろう。
オムレツが冷めきる前に、フライパンの中身はすっかり平らげられた。
「この焼き加減、塩加減、どれもオイラには再現する自信がないくらいだ。」
「これを焼いたモコイはどこにいるんだ。」
「探せ。」
「聞き出せ。」
「今すぐに!」
アンドラスはまた俯いて笑っていた。アイトワラスたちは再び山道を飛んでいく。
「モコイが作ったことになっていーの?」
モー・ショボーの問いにフライパンをきれいにしていたアイトワラスが右の翼を振った。
「そんなモコイ、どれだけ探したって見つからないだろ。謎めいた世紀のオムレツ名人は正体不明のまま昼寝をするのさ。きっとあいつらが噂を広めるよ。」