口紅 ネコマタたちは妖精の里のすぐ近くにある林で暮らしていました。妖精たちの丘は背丈の低い草に覆われてなだらかで、きっと何をするにも気持ちが良いでしょう。特に猫が体を丸めるにはもってこいの場所でした。ところが妖精の王オベロンと女王ティターニアは勘が鋭くて、どれだけ足音を消してもネコマタはすぐに追い払われてしまうのでした。
悪魔になる前は大商人の飼い猫だったネコマタがいました。大きな屋敷を自由に歩き回り、雨に濡れたことなど一度もありませんでした。猫にしては長すぎるほど生きていても、商人は長命を喜んで、食べ物が良いのだと客人に自慢しました。客人がいぶかしく思いながらも商人と猫を褒めるので、ネコマタは年を経た自分がとうに妖怪になっていることを隠して、猫の姿であくびをしていました。日々のご馳走にはますます力が入れられて新鮮で良い匂いがしました。大変結構なことでした。お前は年を取ったからとなんでも柔らかいことだけが不満でした。猫は商人も長生きすればいいのにと思いましたが、人間は長く生きても妖怪にはならないようでした。
身の回りの調度も良いものが揃えてあったので、それに囲まれて育ったネコマタには、小川の向こう岸に落ちている小さな布の袋が高価なものでないことはわかっていました。それでも人間の持ち物を見るのは久し振りで、どうしてもほしくなりました。近頃里に棲みついた人間が落としたのだろうと思いました。
遠くの大岩の上に妖精王たちがいるのが見えました。気配を消して川岸に忍び寄ってから、一つ石の上を跳んで対岸の袋を咥え、すぐにもう一度石を踏んで戻ろうとして、慌てるあまり足を濡らしました。体が濡れて毛を逆立てたネコマタを妖精王と女王はじっと見ていましたが、あえて追いはしませんでした。境界を踏み越えてはいけないと理解しているようでしたし、妖精もあのくらいの悪さはするものです。
ネコマタは仲間から見えないように上着の内側に拾った袋を隠し持って、高架下にしゃがみこみました。
(うそ、これ化粧ポーチじゃん!)
小さなポーチは魔界に連れ去られた女子生徒のポケットに入っていたものでした。学校で持ち歩くにはあまり目立つものはいけません。薄い綿を挟んだ黒い布地に黒い糸でアルファベットが一つ縫い取られていて、ふっくらと浮かび上がって見えました。開け口のつまみに下がった飾りは安っぽい金色で、ここにも同じアルファベットが刻まれていました。十八年前には無かったブランドですのでネコマタには知りようのないことでしたが、女子生徒がよく読んでいた雑誌がブランドと協同して付録に用意したポーチでした。
中には白い筒と黒い筒、それに畳まれたティッシュペーパーが入っていました。初めに白い筒の蓋を取ってみると無色のリップスティックでした。獣油でもありませんし、これにはあまり興味が湧きませんでした。次に黒い筒を開けてみると繰出し式の口紅でした。ネコマタはこれを喜びました。まだあまり減っておらず、ネコマタはいまどきの人間が使う口紅の色をしげしげと眺めました。口紅の色というのはかたまりで見ていても実際の色があまり分からないものです。ネコマタはあとで舐めてしまおうと思いながら白い上着に少し塗りつけてみました。女子生徒が学校で使うものですから濃い色ではありませんでしたが、桃色が柔らかくすじを付けて、ネコマタは満足しました。
(はあ、あたしも使いたいな)
商人の家にはもっと鮮やかな赤色をした舶来ものの口紅があって、猫の前脚でなんどかつついているうちに、床に落としてしまったことがありました。口紅は根本から折れてしまい、商人は猫のしたことだからと新しいものを取り寄せましたが、ネコマタは今でも駄目になった口紅が捨てられる光景が忘れられませんでした。口紅を使っていた女性が何を話したかは忘れても、そのくっきりとした赤い唇が彼女の耳に寄せられるくすぐったさは今もたやすく思い出せました。
ネコマタの口元は黒いので、あの女性のように唇を彩ることはできません。蓋をした口紅をしばらくもてあそんだあと、ポーチを隠してから口紅だけを咥えて崖を登っていきました。
崖の上には夜魔のリリムたちが暮らしています。里に来た人間たちよりさらに若い少女の姿をしていて、何より彼女たちにはあらわになった整った唇がありました。
「えっ、ネコマタが来たんだけど。迷子?」
「崖の下から来て迷子ってことないんじゃない?」
戸惑うリリムたちがネコマタに距離を置きました。ネコマタは咥えていた口紅を離れたところからもよく見えるように手に取って「ねえ唇貸して」と言いました。
「あれなに?」
口紅があるとわかるとリリムたちは奪おうとして互いに視線を交わしましたが、隠し持っているでもなく、見せびらかしに来たわけでもないようで、怪しみながらもひとまず友好的に振る舞いました。
「うーん、色味が見たいってこと? あたしたちにはなんの損もない話だよね、キョーミあるしいいよ」
鏡もないのにリリムたちは器用に唇をなぞると、上下の唇を押し合わせて周囲のリリムと見せ合いました。色の白い唇が悔しいほど愛らしい桃色に染まっているのを見て、ネコマタは彼女たちに声をかけました。
「あんたたちにあげる、それ。だけど大事にして。あたしまた見に来たいから」
ふいと背を向けようとしたネコマタは、口紅を手にしたリリムに呼び止められました。振り返ると手袋を外したリリムの人差し指が頬に押し当てられました。驚いたネコマタが鋭い爪を出したのも無視して、リリムは重ねて何度も触れ、仲間を振り返りました。
「ねっ、これだけ伸びが良ければできるって。あー人間界行きたーい」
ネコマタがわけもわからずリリムを見ていると、彼女は繰り出した口紅の先を指で撫でて、それを反対の頬に押し当ててくるのでした。
「あはっ、美人! 本当だよ、目元とか、この辺に赤みが入ると色っぽくなるんだから! 大人っぽい悪魔の方が似合うし、口紅のお礼ってことで特別。お化粧のことで夜魔を信じないなんてやめてよね」
ネコマタはなんとかして自分の頬が見たくなりました。高い崖を慎重に下り、小川を覗き込みました。流れで水面が揺れて駄目でした。次に、廃墟で割れたガラス窓の破片を拾ってきました。向きをあれこれ変えてみたけれど、これもどうにも暗くて顔色まではわかりません。ネコマタは仕方なく諦めはしましたが、仲間の前に顔を出すには全部拭い取らねばならず、それはまだ惜しいような気がして、先に隠した化粧ポーチを取りに行きました。もっと良い隠し場所が必要でした。ポーチを触ってぼんやり考えていると、なにやら硬いところがありました。裏を見ても何もなく、中を開けば、ティッシュペーパーの向こうにポケットがあってカードが一枚入っていました。
「なにこれ」
カードは真っ黒で、表にも裏にも何も書かれていませんでした。ネコマタが興味を失って元に戻そうとしたとき、カードのふちがずれました。ふちはもっとずらしていくことができて、内側に鏡が嵌め込まれていました。持ち主の女子生徒も、リリムのように生まれながらに自分を粧うことに熟達した存在ではありませんでしたから、ささやかな化粧をこっそりと直すには小さな鏡が必要でした。
鏡の中のネコマタの頬は確かに薄っすら染まっていて、いつもと違って見えました。ネコマタは食い入るように見つめた後、リリムの唇を思い出しました。あの桃色の唇と、もっと古い記憶の中の赤い唇が思い出されて、それこそが美しいもののように思いました。リリムが言ったように、彼女の控えめな頬の赤みもまた、確かに美しかったのですが、ネコマタは「お世辞じゃん」と呟くと、袖口で何度も頬を拭ってすっかり色を落としてしまいました。