マドモアゼルは出会う ささやかな夢の話をしよう。
彼女は「お嫁さん」になりたかった。
今どき?歳いくつ?本気で?
そんな笑い声が聞こえるから、誰にも言えなくなったささやかな夢。
朝、旦那様より少し早く起きて、その額にそっとキスをして。それから朝ご飯とお弁当を作って、旦那様が起きてきたらおはようのキスをして。少しお寝坊をした旦那様を急かしながら、今度はいってらしゃいのキス。見送る時、早く帰ってきてね、と言うのも忘れない。
お昼はうららかな陽気にあてられて鼻歌なんかを唄いながら、旦那様を想って家事をする。休憩時間にはナイショのティータイムも忘れない。ちょっとお高いケーキに、手ずからいれた紅茶を飲むの。
夕ご飯は旦那様の健康を考えて、バランスの良い食事を用意する。でも時々、おめかししてレストランに連れて行ってもらって、君は今日も綺麗だね、なんてくすぐったい睦言をもらうの。年に一度くらいは、ホテルのスウィートに泊まれたら最高の贅沢。
彼女はそんなお嫁さんになりたかった。不景気のご時世に、女性の社会進出が謳われるご時世に、彼女は、そんなお嫁さんになりたかった。
もちろんそれはただの夢で、現実は甘くはなくて。ありがたいことにご縁があって、結婚を考えている人は言った。
『せっかくここまでキャリアを積んだんだから、結婚を機にやめるなんてもったいないよ。
家事は僕も頑張って覚えるから、仕事を続けた方がいいよ』
彼女は笑って「ありがとう」と言うしかなかった。だってそれって、多分彼女以外の他の人にとってはとても羨ましいことだったり、素敵なことだったりする。事実、彼女の友達や同僚は「理解のある彼氏で羨ましい」なんて言っていた。だから彼女は曖昧に笑って、だけど心の奥底からの気持ちを込めて「私にはもったいないわ」と返していた。
ささやかな、だけど未だに忘れることの出来ない夢を想いながら。
その時彼女は、家までの道を歩いているつもりだった。ほんの少し悩ましいことがあって、ぼんやり考え事をしながら黄昏時の道路を歩いていた。紅蓮と黄金、それから群青でグラデーションを作る空なんて目もくれずに。
ふと彼女が顔を上げれば、見覚えのない生垣に囲まれていた。青々しく繁る葉を額縁にして、絵画のように美しい薔薇が咲き乱れる生垣だ。そんなものは通勤路になかったはずだ。少なくとも今朝までは。
いくらボーッとしていたとは言えども、さすがに何年も通い慣れた通勤路を間違えるミスを犯すほど彼女はおっちょこちょいではない。
それに、違和感が一つ。
見上げた空が清々しい程に青いのだ。太陽が中天にあるのだ。
つまり、時間が巻き戻っている、あるいは知らぬ間に巻き進んでいる。そんなことが起こり得るのだとすれば、の話ではあるが。
「……え?」
何が何やら分からなくて、彼女はただそれだけを呟いた。どっ、どっ、どっ、と早鐘のように鳴る心臓がバカみたいに耳に響く。悪い夢でも見ているようだった。くらりと立ちくらみを起こしそうになる。
「とりあえず……進まなきゃ……」
自分の考えを肯定するかのように彼女は呟いた。道は彼女の前と後ろに伸びている。耳を澄ませても位置感覚はイマイチ掴めなかった。
迷った時は前だ!
彼女はやけくそのように心の中で呟いて決める。だってこんなの現実なわけがない。きっと目が覚めたら終える夢だ。そう思うとなんだか、勇気が湧いてくるような気がした。
彼女はひたすら歩いた。前に、前に、前に。左右に伸びる道は右を選んだ。彼女は右利きだから。
普段ならそんな愚かなこと絶対にしないけど、でもここは夢だから。その割にはここに来る前の記憶――なんなら今朝起きてからの記憶もすべて明瞭に残っているし、言いしれない不安はあるけれど、それでも彼女は歩いた。そうするしか、ここがどこで、どうしてここに居るのか知る術が何一つないから。
どれくらい歩いたのだろうか。ほんの少しの間のようにも思うし、ずっと長い間のようにも思えるし。時間を見ようと思ってケータイを取り出そうと思っても、そもそもカバンすら持っていなかった。スーツのポケットにも何もない。そもそも彼女はポケットの中に物を入れる習慣がないのだけれど。
微かに声が聞こえた。それも複数の声。風に乗って聞こえてくるから、どこからなんて検討すらつかないけれど、それでも彼女は足に力がみなぎるのを感じた。少なくともこの世にひとりぼっちになったわけじゃない。それが酷く幸せなことのように感じた。
彼女はぐんぐんと歩いて、歩いて。ふと頭上を見上げれば、少し向こうにアーチのようなものが見えたから、自然と顔が綻ぶ。きっとあのアーチをくぐればこの悪い夢も終わる。彼女はなんの根拠もなく信じた。
結論から言って彼女の夢は覚めなかった。
アーチをくぐったさきにパーティ会場を見つけて駆けよれば、そこには揃いの白いスーツを纏った男の子たちが居た。彼女はぽかんとして、そうしている間に不審者として捕まってしまった。
気が付いたらバラの迷宮に居たこと。自分の会社の名前、電話番号を伝えてもだめだった。調べてもそんな会社は無いと言うし、電話をかけても存在しない番号だとアナウンスが流れると言うし。この時になってようやく彼女はパニックになった。夢だとしてもあんまりだし、なにより首にかかった錠が酷く重たかった。
それでも彼女は一欠片だけ残ったプライドのために泣かなかった。まだ高校生くらいの男の子たちの前で泣くなんて彼女は嫌だった。
そんなときだ。彼女が、弟妹のように可愛がることになる女の子と不思議な猫に出会ったのは。そして、彼女の何もかもを変えてしまうことになる男に出会ったのは。
「監督生、グリム!」
「学園長にクルーウェル先生まで」
傍に立っていた二人の男の子が口を開くが、彼女はさらに混乱するばかりだ。巨人みたいに背の高い男が二人(それもだいぶ特徴的な服装)に、耳の内側に炎を纏った猫。それだけでも恐ろしいのに、中心に居るのが居たってどこにでも居そうな女の子だから余計に恐ろしかった。
「まったく、今年はトラブルばっかり!
それで?貴女どこから潜り込んだんです?え?」
「――に、」
彼女は限界であった。夢だか何だか知らないが、こんな大勢で女性一人に詰め寄ってなんなのだろうか。そもそも潜り込んだだなんてとんだ言いがかりだ。気が付いたらここに居たのだから。
「いい加減に、してください」
唇をわななかせて彼女は言った。それは囁きのように小さな声だというのに、なぜかこの場によく響き渡った。
「潜り込んだ?私が?
まさか。私は仕事帰りに家へ帰ろうとしていただけだわ。
そもそもここどこなの?――なの?」
学園長と呼ばれた面を付けた男に詰め寄りながら彼女は静かにまくしたてる。その言葉の中にあった地名に女の子が「あ」と声を上げた。
「学園長!その人、私と同じ場所から来た人です!」
ゆっくりと、まるで引き延ばしたかのように沈黙が流れる。彼女はよく分からない、とでも言いたげに眉を顰めていたし、学園長と呼ばれた男は「え?」と呆けていた。未だ一言も発していない白と黒の髪の男は「ふむ」と腕組みを組んでいる。猫は夢だからか「ってーことは、ソイツも異世界から来たってことなんだゾ?」と人の言葉を話していた。周りの男の子たちはごくりと喉を鳴らして成り行きを見守っている。
彼女は何かを言うべきか考えて、それから女の子にもっと詳しい地名を言ってみた。そうしたら女の子は嬉しそうな、泣きそうな、よく分からない顔で彼女も知っている別の地名を口にした。
「あの……信じられないかもしれないんですけど」
女の子が彼女にゆっくりと歩み寄ってその手を取った。女の子の指先が震えていることに気が付いたから、彼女は振り払おうなんて思えなくてされるがままにする。
「ここは、私たちの居た世界とは、別の世界です」
夢でもなんでもなく。
女の子の言葉に、彼女はここに来てはじめて溜息をこぼしたのだった。
あのあとの騒動はあまり思い出したくないな、と今では寮母さんと呼ばれる彼女はこぼす。
あれから一週間。学園長と雇用契約を結んで、日給八千マドルでオンボロ寮の寮母をしていた。食費だけは経費として別にもらっているけれど、御給料日は月末なので、彼女は必要最低限として揃えてもらったワンピースが二着と、下着が三日分しかなかった。それが彼女の全財産である。
とは言え、それでも頑張った方なのである。あの喰えない学園長といったら、衣食住を保障していることを笠に着て無給で働かせようとしていたのだ。ブラック企業どころではない。あのあとさらに二人増えた男性(後に全員教師だと知ることになった)や、白と黒の髪の男が若干引いた顔を見せる中で日給八千マドルを勝ち得たのだ。ちなみに土日は休みである。
「寮母さん、いってきまーす」
「はい、いってらっしゃい。
あ、今日の夕飯はチキンのトマト煮込みですよー!」
「ふなー!チキン!チキン!」
グリムの元気な声が遠くなっていくのを聞きながら彼女は苦笑する。お昼ご飯、ちゃんとチキン以外を食べてくれるといいんだけど、なんて思いながら。
さて、と彼女は洗濯物から取り掛かる。洗濯機に汚れものをぽいぽい入れて、洗剤を流しいれる。それからスイッチを入れればあとは放っておいて大丈夫。とても魔法のある世界とは思えないお手軽さである。
そして洗濯物を回している間に食器などの洗い物を終わらせて、談話室の掃除を軽くする。そうこうしていれば洗濯機が急かすようにピーピー鳴くから「はいはいはい」と独り言を呟いて干しにかかる。
綺麗でふんわりいい香りがする洗濯物を干しながら、彼女はこっそり微笑んだ。だってなんだか、彼女のささやかな夢がちょっとだけ叶ったような気分だったのだ。
もっとも、一緒に暮らしているのは旦那様ではないし、どちらかと言えば弟妹に近い存在ではあるが。
「あ、そうだ。ユウさんからお使いを頼まれているんだったわ」
廊下に掃除機をあてながら彼女はふと呟いた。ペンのインクがなくなりそうだから買い足してほしいと頼まれていたのをすっかり忘れていた。ゴーストたち(最初は驚いたものだが、一週間も一緒に暮らせば慣れてしまった)に時間を聞けば、お昼少し前を答える。
あと少し――具体的には四十五分もすればお昼休憩だ。そうなると学生たちは購買部にも押しかけてくる。その時間を外そうと遅くすればまたうっかり忘れかねない。彼女はしばらく天井を見上げるようにして考え、それから掃除機をゴーストたちに託して購買へと急ぐ。なんだかゴーストたちが文句を言っていたような気がするが、そんなものは右から左へと聞き流していた。彼女は案外図太いのだ。
どうしてこう、オンボロ寮ってどこに行くにも遠いのだろう。
そんなことを考えながら歩いて購買へと辿りつく。毎日学園まで歩いて通っているユウさんはすごいなぁ、なんてぼやきながら。からんころん、と軽やかな音。それから「いらっしゃい小鬼ちゃん」と、これまた軽快な掛け声。
者に溢れた店内には店主のサムと、そしてこの時間には珍しく男子生徒が二人。とは言ってもここは男子校だから、ユウ以外に女子生徒は居ないのだが。彼女を見ながらこそこそと耳打ちをする生徒二人は視界の外にやってサムへと話しかける。
「こんにちはサムさん。インクを買いたいのだけど」
「それはそれは。どんなテストも百点間違いなしの、正解しか書けないインク?それともプロも大絶賛するような小説を書けちゃうインク?それとも」
「普通のインクよ」
呆れたように言った彼女にサムは「冗談だよ」とウインクをしながら準備をする。六百マドルだよ、という声に「はーい」と答えた時だった。
「なぁ、あんたさぁ、ウワサのオンボロ寮の寮母だろ?」
くすくすと嫌な笑い声を店内に響かせて聞いてくる生徒に、彼女はほんの少し困ったように微笑んだ。相手はなんと言っても子供だ。それも高校生くらいの。
「そうだけど、それがなぁに?」
小さな子に聞くように彼女は問い返した。すると高校生と言っても男の子。どこか下卑た笑みを浮かべながら、それでも残酷なほどに純粋な愉悦を浮かべながら「学園長の愛人なんでしょ、アンタ」と言った。ひくりと彼女の口元が引きつる。
冗談じゃない、と言いたいが、この年頃の男の子は否定すればするほど面白がる。そういう生き物なのだ。分かっている。だがしかし、肯定もできない。というか絶対にしたくない。彼女は学園長であるディア・クロウリーが好きではなかった。嫌いでもないが、厄介ごとを押し付ける気満々の上司をどう好きになれと言うのか。
どうしたものか、と考えながら「まさか。違うわよ」と苦笑する。あまり大袈裟にならないように気を付けながら。
「とか言ってさぁ。一文無しなのに、なんで買い物とかできるわけ?」
「やっぱ小遣いもらってんじゃねーの?」
そういう知識、どこで身に付けてくるんだろう。彼女はぼんやりと考えながら溜息をつく。これは説明しても無意味な気がするが、ここで否定しておかないと変に噂が広まることになる。別に彼女自身はどうでもいいのだが、それでユウが気まずい思いをするのはいただけない。
どうするのが一番丸く収まるのだろうか、と考えていたときだった。彼女が入店したときと同じように涼やかな音がなる。
「随分と面白そうな話をしているな、仔犬ども」
かつ、と靴音を鳴らして入ってきたのは、初日に紹介されたデイヴィス・クルーウェルであった。派手な装いの男で、彼女にとっては苦手な部類の人間であるが、ユウが「クルーウェル先生、遅れがちな私にも熱心に教えてくれるんです」と言っていたから嫌いではなかった。むしろ仕事に熱心な姿勢には称賛さえ贈りたいほどだ。人としては苦手であるが。
かつ、こつ、と威圧的な音を響かせて生徒に歩み寄るクルーウェルにサムがぴゅう、と口笛を吹く。とんだ王子様だね小鬼ちゃん、と言うので彼女は曖昧に微笑んだ。王子様というか、王様、いや、女王様にでも見えそうだ。
「どうやら――」
クルーウェルが口を開くと、生徒二人は「ひ」と小さく悲鳴を上げる。一体普段、何をしたらあんなに怯えられることになるのか。彼女にはとんと想像もつかなかった。
「二年A組とC組はお行儀から躾けないといけないみたいだな?」
見下ろされながらそんなことを言われて、彼らは心に傷を負わないのだろうか。彼女は他人事ながらにそんなことを考えた。ちなみに興味はもう薄れていて、サムに六百マドルを渡しながらである。
「す、すみませんでしたっ」
悲鳴のように謝罪を口にして生徒二人はまろびながら店を出ていく。転ばないかしら、と彼女が見ていれば、案の定少し先ですてん、と一人が転んでいた。それを見ながら「あらまぁ」と呟いて彼女はクルーウェルに向き直る。いくら苦手とは言えども助けてもらってお礼を言わないのは、それこそお行儀から躾けられるべきだろう。
「クルーウェル先生、助けていただきありがとうございます」
彼女は自分がおっとりして見えるのをちゃんと自覚して、ふんわりと微笑んだ。だいたいこれでなんでも何とかなるのだ。しかしクルーウェルはじっと彼女を見つめるばかり。何か間違えただろうか、と彼女が考え始めたころ、彼はその美しい顔を少しだけ傾げた。
「……もう少し強烈な性格をしていたと思ったが」
「……」
本当に不思議そうに呟かれて、思わず彼女は先ほどと同じように口元を引き攣らせた。そう言えば彼とは学園長室での雇用契約に関する、熾烈な戦いのとき以来だな、なんて思い出す。そしてあのときのことは忘れてほしい、と切に願った。だって必死だったのだ。
だって考えてもみてほしい。どうやら夢でもなんでもなく異世界へ来てしまって、現状無職で。しかも衣食住は本当に最低限しか保障してもらえない。貯金どころか所持金すらゼロ。いつ気まぐれで追い出されるかもわからない。
生きるか死ぬかがかかっていたのだ。必死にもなるってものだ。
「まぁいいか」
ぽつりとクルーウェルが呟く。何やら勝手に納得したらしい。彼女としてはちょっと待ってと言いたいところではあるが、あまり追及して墓穴を掘るのは利口ではない。彼女は正しく口を噤める人間であった。
「レディ、不快な思いをさせて申し訳なかった」
クルーウェルはそのけぶるような睫毛を伏せて彼女に伝える。それからごく自然な流れで彼女の手を取り、優しく唇を寄せようとして。
ぱしん、と振り払われる。
「あ……」
「……」
しまった、とでも言いたげな彼女に、思いっきり顔を顰めるクルーウェルに、必死になって笑いをこらえるサム。三者三様である。しかしてみな一様に沈黙を守っていた。
遠くで鐘が鳴る。授業が終える合図。
「あの、その、色々とすみません、ほんとうに、ほんとうに、すみません!」
彼女は赤く熟れた頬を隠すように頭を下げると、サムからインク瓶をひったくるように奪って走り去る。
だって仕方ないじゃないか。彼女の生きていた国では、手にキスをするなんて物語の王子様だけなのだ。そんなこと恋人同士でだってしない。そもそも彼女の国ではキスってとっても大切なもので、そう簡単に、それこそ挨拶のようにするものではないのだ。
もちろんそんなことを知らないサムとクルーウェルは呆然と彼女を見送って。それからサムは珍しく大笑いをしながら言った。
「フラれちゃったね、色男の小鬼ちゃん」
『そんなわけでユウさん、お願いです。後生なので誤解だけ解いておいてください』
昨夜泣きそうな顔で頼み込んできた寮母さんを思い出してユウは苦笑した。まだ一週間じほどしか一緒に居ないが、いつもゆったりと微笑んでいる寮母さんだが、昨日はちょっと可愛らしかった。こんなこと本人に言ったら怒られるかもしれないから、黙っておくのだけれど。
「はよーっす」
「おはよう、ユウ、グリム」
欠伸をしながら適当に挨拶をするエースに、優等生然としてきっちり挨拶をするデュース。対照的な二人に「おはよう」と答えながら一緒に校舎までの道を歩く。なんとはなしに二人に昨日の話をしてみれば、肩を震わせて笑っている。
「そんなに笑うこと?」
「いや、だって」
「あのクルーウェル先生が……」
ぷ、と噴き出す二人にユウはもう、と呆れてグリムは興味なさそうに欠伸をする。それから話しが流れて今日の小テストの話しだったり、ハーツラビュルでの話しだったり、あっちこっちに話題が飛んでいれば、あっという間に教室につく。今日の一限目は都合のいいことに錬金術だった。
黒板前で難しい顔をしながら授業の準備をするクルーウェルの元へと、ユウは少しだけ小走りに近寄る。それに気が付いたクルーウェルは「仔犬か。どうした」と呟いた。
「あの、寮母さんのことなんですけど」
ぐぐぐ、とクルーウェルの眉間にしわが寄った。それにユウは「おっと、これは楽観視している場合じゃなかったかもしれない」なんて今更思った。
「詳しくは知らないんですけど、なんだか寮母さん、慣れていないから失礼な態度を取ってしまったって気にしてましたよ」
本当は一から十まで全部知っているくせにぺろりと嘘をつく。誰も不幸にならない嘘だから問題ない、と心の中で呟きながら。
クルーウェルの片眉がぴくりと跳ねる。それで?と続きを促しているようだった。
「せっかく助けていただいたのに申し訳ないって」
「……そうか」
「もしお嫌じゃなければ渡してほしいって」
「……む」
可愛らしくラッピングされているクッキー。手作りのものだろう。クルーウェルの中で何かが揺れるのをユウは感じた。
ちなみにこのクッキー、昨夜大量に焼いて、ユウとグリムの胃袋の中にも収められた。ランチのときにみんなで食べてね、とカバンの中にあまりもある。だけどそれは、ほら。多分気を遣った方がいいのだ。
時に子供は大人よりも敏感に物事を見ている。
「先生にぜひって、寮母さん言ってましたよ」
「……そういうことなら」
クルーウェルの口元がむずむずとしているのをユウは見逃さなかった。
ユウにとってクルーウェル先生は「良い先生」である。何かと遅れがちなユウや、要領が悪い上に基礎があやふやなデュースを放課後の貴重な時間を使ってフォローしてくれる。とても良い先生である。
そして寮母さんは、異世界から来てまだ日が浅く、不安もたくさんあるだろうに、そんなのまったくユウたちに見せずに暖かく迎え入れてくれる。寮の掃除だって寮母さんが来てから格段に進んだ。
ユウは年頃の少女らしく、「好きな人と好きな人が付き合ったら、それって最高なのでは?」と考えた。
「クルーウェル先生って、手作りのお菓子とか今までたくさんもらってそうですよね。モテそうですもん」
「おべっかか、仔犬」
「まさか。思ったことを言っただけですよ」
「……手作り、というのはあまりないな」
モテることは否定しないらしい。ユウは「ほーん」と内心で呟いた。
そんな視線に気が付いたわけではないだろうが、クルーウェルは一つ咳ばらいをすると「そろそろ席につけ」と先生らしいことを言う。照れ隠しというわけではなさそうだった。そんなことで照れるような男とも思えない。
ユウは考えていることなんて一ミリも出さずに「はーい」と良い子のお返事をする。だいたいのことはこれで何とかなるからだ。
「寮母さん、今朝のクッキー渡しておきましたよ」
「もう本当に、本当にごめんね……」
弱り切ったように眉を下げる寮母さんにユウはにこやかに「いえいえ」と言った。楽しそうなことを思いついたからこれくらいなんでもないのだ。
「そう言えば寮母さん、寮母さんってどんな人がタイプなんですか?」
ユウの唐突な問いに寮母さんはきょとりとして。それから「急ねぇ」と苦笑した。年頃の女の子なのだから興味があってもおかしくないか、と内心で納得しながら。
「そうね……あんまりこれと言うのはないんだけど」
うーん、と考える寮母さんにユウは「おしゃれな人とか」と水を向けてみる。すると寮母さんは「ちょっと苦手かも」と言った。
「あんまり派手じゃなくて、素朴で優しくて……あとキザじゃない人がいいかしら」
「……で、でもカッコいい方が良くないですか?」
クルーウェルが聞いたら怒るだろうか、ヘコむだろうか、なんて考えながらユウが口を挟む。しかし寮母さんは「むりむり」と言いながら首を横に振った。
「キラキラした人って、見てるだけで疲れるもの。そういうのはドラマの中だからいいのよ」
どうやら自分の考えていたことはあまり妙案ではなかったらしい。
ユウは「あんまり二人をくっつけようなんて考えないでおこう」と少しだけ反省を込めて内心で呟いた。その頃クルーウェルが大きなくしゃみを一つしたなんて全く知らずに。