マドモアゼルは逃げる おかしい、と彼女は溜息をこぼした。オンボロ寮前、枯れ葉を箒で集めながらのことである。
ことの始まりは三日前である。彼女はランチの時にクルーウェルから「付き合ってほしい」と言われたので「恋人が居るのでごめんなさい」と返した。細かいニュアンスまでは忘れたが、大雑把に言えばそういうやり取りであった。
彼は最後に「オレは諦めが悪い」と言っていたが、彼女はあまり本気にしていなかった。せっかく少し打ち解けてきたところではあったが、これからはあまり話すこともなくなるだろうと思っていた。それにほんのちょっと心が軽くなったことに罪悪感はあったが、何を言ってももう関わり合うことがほとんど無い人だからまぁいっか、と思っていた。
それなのに、である。
「精が出るな、レディ」
かけられた声にびくりと肩を震わせて、ひくりと引き攣った口元を隠そうともせずに彼女は「クルーウェル先生……」と呟いた。
「あの、テストの採点でお忙しいのでは……?」
暗に「仕事しろ」と伝えれば、クルーウェルはなんでもないように「好きな女に会うための時間を作るくらい、どうということもない」と言ってのける。それに彼女はくらりと眩暈を覚えた。
あの日からクルーウェルは好意を隠そうともしない。そればかりか毎日毎日時間を作っては彼女に会いにくるのだ。
それまでのクルーウェルと言えば、彼女と自分の距離を推し量るような、駆け引きを楽しむような、どこか一歩引いた姿勢であった。好意的な態度は取るが、決して直接的な言葉は与えない。焦らすような思惑さえ見て取れた。
だと言うのに、この変わりようはなんだと言うのだろうか。あまりの変わりように彼女は胃がチクチクしてきた気がした。
「あの、クルーウェル先生、そういうの、困ります」
小さな子供に言い含めるように彼女はゆっくりと、文節で区切る丁寧さまで織り込んで伝える。それでもクルーウェルはわざとらしく小首を傾げて「ほう、そういうの、とは?」と聞いてきた。
あまりのわざとらしさに彼女が絶句していれば、クルーウェルは一歩分だけ距離を詰めて「言葉にしないと分からないぞ、レディ」とにこやかに言う。まるで彼女が困っているのが嬉しくて堪らないとでも言いたげな顔に彼女はすっかりと呆れてしまった。
「もういいです」
溜息まじりに彼女が投げやりに言えば、今度はクルーウェルが眉間にしわを寄せる番だった。面白くない、とでも言いたげな顔をして、でもその実、それもいいかも、とでも言いたげな顔をして。「レディ」と口に乗せた時だった。
ふ、と息を吹きかけるような風が吹く。少し強めのそれは、せっかく彼女が集めた枯れ葉を攫ってあたりにまき散らしてしまう。彼女が思わず「あっ」と言った時には遅かった。
「はぁ……クルーウェル先生、御覧の通り私は忙しいので、今日は――」
気落ちした様子で彼女が言葉を紡ぐ間にきらきらと光が舞った。おや、と彼女が光を追えば、枯れ葉はまるでダンスでも踊るようにひとところへ集まっていく。まるで意思を持った生き物のように、だ。
「すごい……」
無意識なのだろうか。まるで物を知らない子供のように目を輝かせた彼女に、クルーウェルはそっと目を細めた。
こんな魔法は、このナイトレイブンカレッジでは生徒にも扱える簡単な魔法だ。クルーウェルであれば目を瞑っていてもできるし、なんならテストの採点の片手間にも扱える。誰にだって起こせるもの。しかし彼女はまるで奇跡を目の当たりにしたように呆けるのだ。
「気に入って頂けたなら結構。
ところでレディ、オレは貴女に会うためにかなり無理をしてな。
今ので疲れてしまったから少しの間休ませてくれないか?」
とても疲れている人間とは思えないような笑みを見せてクルーウェルが言うから、彼女はもう一度溜息をつく。そもそも会いに来たのだって、クルーウェルの勝手じゃないか。彼女はなにか言ってやろうと思って、でもすっかり集まった落ち葉を見て。結局観念したように「捨てるのも手伝ってくださるなら」と言った。
「疲れ切っている人間に酷なことを言うんだな」
「嫌ならお帰り頂いていいんですけど」
「まさか」
微笑むクルーウェルを見て、彼女は心の中で「変な人」と呟くのだった。だって、なぜだかクルーウェルの微笑みには嬉しそうな色合いが濃く出ているのだから。
魔法ってなんて便利なんだろう。
あたたかい紅茶を淹れながら彼女は羨ましい気持ちでいっぱいだった。異世界の人間はみんな魔力を持たないのか、それとも彼女とユウがたまたまそうだったのか。いずれにしても彼女もまた、魔力を持たない人間であった。
えい、と気合を口にするだけで家事が勝手に終わるのであれば、空いた時間で何をするだろうか。彼女は夢想するが、なぜだかあまり良案は浮かばない。あまりにも現実離れしているからか、それとも大人になってしまった代償か。
どうぞ、と出したのは紅茶とタルトタタンだ。宝石のような艶を放つそれにクルーウェルはおや、と眉を跳ねさせた。
「クッキーが出てくるかと思ったが」
「あぁ、トレイくんから頂いたんです」
すごいですよね、彼、と彼女は表情を綻ばせて言う。それが面白くないのはクルーウェルだ。だってそんな表情、自分には一切向けられたことがない。おまけに生徒とはいえ別の男からの贈り物(ただのお裾分けである)を出してくるのだ。
「……悪いのはどちらだか」
「何か仰いました?」
「べつに」
なんでもないように装ってクルーウェルはすまし顔をする。それから出されたタルトタタンを、大きめに切り分けて豪快に口に運んだ。その様子をじっと見つめながら、彼女も小さく切り分けて食べる。
「なんだ、オレに見惚れたか?」
「いえ、意外に豪快に食べるな、と思っただけです」
あっさりと否定されても、クルーウェルは「そうか」と言うだけだった。そりゃあ、ここで「はい」と答えてくれれば嬉しいが、そんな簡単な女であれば彼はここに居ない。それに、こういう気安いやり取りの方が居心地がよかった。以前の少し困ったような、曖昧な笑みを向けられるよりもずっと。
彼女はそれに気づいているのかいないのか、おそらく気づいていないのだが、やっぱりこの人の顔って綺麗だなぁ、なんてことを考えていた。こんな人に本気で追いかけられたら、逃げられる女の子って居ないんじゃないだろうか、とブーメランで返ってきそうなことを思いながら。
「クルーウェル先生、モテるでしょう」
「……生憎、惚れた女にフラれ続けているんだ」
「まぁ、カワイソウ」
さして感情をこめずに彼女は言った。どうせジョークかなにかの一種だろう、と聞き流しながら。こんなことってない。
クルーウェルは今までだったら通用していた何もかもがてんで響かないことに、じつは少しだけプライドを傷つけられているのだが、それでもなんでもないような顔を押し通した。その程度には彼のプライドは高かった。
「ところでレディ、この三日はずっとパンツスタイルだが」
「動きやすくって。
おしゃれなクルーウェル先生からしたらありえないことでしょうけど」
どうせ女性はスカートであるべきだとか、年頃の女性であればおしゃれをすべきだとか、そんなことを言われるんだろうな、と彼女は紅茶に視線を落とした。しかしクルーウェルは「なるほど、機能性重視か」と言ったきりだった。
だから彼女はパチパチと瞬きをして、それからクルーウェルの顔を見る。そこには不快も何もなく、ただ彼は優雅に紅茶を飲んでいた。
「今度こそオレに見惚れたか?」
「いいえ」
「……否定が早いぞ、レディ」
さすがにちょっとだけ顔をしかめてクルーウェルが言うから「すみません」と彼女は言った。だってしつこいから、と心の中でだけぼやいて。
「てっきりおしゃれしろって言われるのかと思って」
「あぁ、なるほど。
たしかに着飾ったレディを見たくないと言えば嘘になるな」
パチリとクルーウェルがきざったらしく指を鳴らせば、彼女の服装は一瞬で黒いシックなドレスに早変わりする。けれど元に戻るのも一瞬で、瞬きをすればもう先ほどまでの、薄手のニットセーターとジーンズという出で立ちだった。
彼女は忙しなく瞬きをして、それから少しだけ朱の差した顔で「魔法って本当にすごいですね」と呟いた。その顔が見たくてわざわざ魔法を使ったのだから、クルーウェルとしてはそれだけで満足であった。
「どちらも貴女だ。どちらかを強要するつもりはないな」
「……そうですか」
「それにレディ、シンプルな装いも貴女の美しさを際立たせて似合っているぞ」
「それはどうも」
甘い笑顔で褒めたのにこの素っ気ない対応。これでこそ、とクルーウェルの瞳の奥が燃え上がっていることなんて、彼女はまったく気づいていない。クルーウェルはいつかこの顔を真っ赤に染め上げて「あなたが好きです、デイヴィス」と言わせてやりたいな、なんて思った。
そんなことなど露知らず、彼女は窓の外を眺めて「もうすっかり寒くなりましたね」と呟いた。彼女がこちらに来た日は、まだ風がほんの少し肌寒い程度であったのに。木枯らしが吹くのを眺めながらクルーウェルも「あぁ」と頷く。
奇妙な無言の時間が流れる。居心地が悪いわけでもなく、かと言って心地よい安堵があるわけでもなく。お互いになにか話そうとは思うが、この無言の空気を何となく壊したくなくてずっと同じ窓の外を二人で眺めていた。
カチリ、カチリと時計の秒針が刻む音に二人で耳を傾ける。無言だけが部屋を満たしていく時間はなんて贅沢で、そして無為なのか。遠くから風に乗って生徒たちのざわめきが届けられる。
「……そろそろお暇しよう」
「玄関まで送ります」
唐突にクルーウェルが言うから、彼女も立ち上がる。悪いな、と口角を上げるクルーウェルはやっぱり今日もキラキラしかった。
「今度はオレがお茶に誘っても?」
玄関先で、彼女の瞳を覗き込みながらクルーウェルは囁いた。それに彼女はたしかに恥ずかしそうに頬を染めるのに、表情は相変わらず困ったような笑みであった。だからクルーウェルは苦いものを噛み潰したような心地で「またその顔か」と内心で呟く。
「あの……気まずくないんですか?」
意を決したように彼女が問えば、クルーウェルは少しの間口を閉ざす。薄墨色の瞳にじっと見つめられれば、彼女はどうしていいかわからなかった。さきほどまでの穏やかな時間なんて幻だったのかと思うほど心が騒めいた。
「オレは言ったはずだぞ。
諦めが悪い、とな」
それだけ言って、クルーウェルはあっさりと帰っていく。去り際にするりと撫でられた頬が熱くて仕方ない彼女のことなんて、まるで気にしていないかのように。
紫から水色へとグラデーションを作るそれは、見間違いようもなくイソギンチャクであった。彼女がちょっとした好奇心でそれを突いてみれば、グリムは「ふなぁ~!やめるんだぞ!」と嫌がった。どうやら感覚があるらしいと知って、彼女は「ごめんなさい」と手を引っ込める。
「なんというか、大変ねぇ」
「自業自得ですよ」
頬杖をついてグリムを見るユウのじとりとした視線といったら。グリムが「子分のくせに生意気な……」と言ってもどこ吹く風だ。手のかかる弟と、しっかり者の姉といったところだろうか、と彼女は微笑む。実際は微笑んでいるような場合ではないのだが、生徒ではない彼女にとっていまいち事の重大さが掴みきれないのだ。
ただ、グリムが何かズルをしたらしいということは分かったので「今度からは自分の力でね」と言っておく。もちろんグリムが素直に言うことを聞くとは思えなかったし、実際むくれた顔でそっぽ向いたのだが。
その時は、本当にそれだけの、特に何か問題があるようなことなんて何もない様子だったのだ。彼女から見た限りでのことではあるが。
「寮母さん……ごめんなさい!」
「えーっと……私はいいんだけど……」
ここ数日、グリムが朝早くから出て行って、夜遅くに帰って来ること。ユウも急に夜遅くに出かけることがあって、おかしいな、とは思っていたのだ。まさか反抗期というやつかと一瞬不安にもなったのだが、どうもそういうことではないようで。学校のことでちょっと、と言葉を濁されれば彼女には何もできなかった。
誰かに相談しようにも、彼女には相談できる人間なんてほとんど居ない。トレインを頼るのも気が引けるし、そもそもトレインはだいたい教室か職員室にこもっているから、生徒ではない彼女からは中々会えない。クルーウェルのことも考えはしたが、あれ以来彼女が避けていることもあってまともに顔を合わせてすらいなかったのだ。そんな状態で相談を持ち掛けられるほどには彼女は図太くできていなかった。
そうこうしていればユウとグリムが背の高い男子生徒二人(双子だろうか、細かな違いはあるものの、似た雰囲気の外見をしていた)に連れられて帰って来たのだ。ユウの背があまり高くないことも相まって、なんだか連行されてきたかのようにも見えた。
お友達とも思えない空気にハラハラしつつ話しを聞いてみれば、このオンボロ寮を担保になにやら契約をしたらしく。しかも三日の間にユウが海の底にある博物館に飾られた、一枚の写真を取ってこなければオンボロ寮はそのまま徴収されると言うではないか。
ぎょっとしても、契約したと言うのであれば彼女にはどうしようもない。向こうであれば伝手でもなんでも使って、法を盾にすることも出来たかもしれないが、こちらではそういう訳にもいかない。彼女はそのとき、ようやく自分の無力さと無知さを思い知り、そして打ちのめされてしまった。
荷物をまとめて追い出され、さあどうするかと言うとき、彼女は喉元まで「クルーウェル先生に相談してみましょう」という言葉が出かかった。都合がいいと分かっていても、それでもそれ以外に何も案が浮かばなくて。彼女の唇がふるりと震えたころに駆けつけたのがエースやデュース、そしてジャックであった。
救われた気がした、というのはこういうことかと思いながら大人しくサバナクローまでついていき、結局なんだかんだの末にレオナの部屋に置いてもらうことになったのだ。彼女に至っては完全な召使い要員として。
それで冒頭のユウの謝罪というわけである。
「それにしても、植物園の変な子はここの寮長さんだったのね」
「……おい、変なのはオレじゃなくてアンタだろ」
レオナについていきながら彼女がこぼせば、変な子と言われた本人が顔だけで振り返ってしかめっ面を見せる。それに彼女は「私も変かもしれないけど、あなたの方がずっと変よ」と微笑む。そんな二人のやり取りをハラハラと見守るのはユウだ。彼女は心の中で「寮母さん、その人は結構怒らせると面倒なので勘弁してください)と祈っていた。
結局その日の夜はあっさりと就寝となり、翌朝彼女が少し早めに起きだせば、まだみんな夢の中であった。だから起こさないようにこっそりと支度をして部屋を出て、昨夜の記憶を頼りに談話室へと行けばもうすでに動き回っている寮生たち。サバナクローの朝はなんて早いのか、と思いながら彼女はその渦に巻き込まれる。
顔見知りの生徒には「寮母さん、こっち手伝ってよ」と呼ばれてあっちへこっちへと引っ張り回され。かと思えば「お、噂のアイジン」「ほんとに愛人なんっすか?」「馬鹿、ほんとだとしても言うわけねぇじゃん」なんて噂話に巻き込まれ。かと思えば、気が付けばほとんどの生徒がマジフト場へと出て行って朝練に励みだすから急に手持ち無沙汰になる。
なんだかいつもの倍以上疲れ果ててしまって、彼女は「若いってすごい」と呟いた。パワフルなんてものじゃない。パワーが余り余っている、と言うのでもまだ足りない。彼女は「男子校ってすごいところなのね」とぼんやりとした感想を抱く。
彼らが学校に行っている間は、使われていない部屋の掃除をすることにした。何か月も掃除していないなんてよっぽどだ。何かの拍子に使うことになって困るのは彼らだというのに、そういうことを気にしないから男の子って、と彼女はぼやいた。埃が積もった部屋を掃除しながら思うのは、本当に「何か月」の範囲なのか、ということである。
なんだかもう、やる気にならなかった。
ラギーの「昼間は自由にしていいっすよ。あ、でも寮生の部屋に立ち入るのは禁止っス」という言葉を思い出して彼女は溜息をつく。それから立ち上がって図書館に行こう、と呟いた。
今彼女に必要なのは、気晴らしであるのだ。
天井まで届く背の高い本棚。彼女はその隙間を縫うように歩き回りながら、法律に関する本を見ていく。とは言えどれから読めばいいのか見当もつかない。そもそも彼女は向こうでも法律のプロであったことはなかった。なんとなく知っているけど、詳しいかと言われればべつに。その程度のものであった。
「どうしてこう、法律の本って小難しい言葉ばかりなのかしら」
適当に手に取った一冊をパラパラと捲りながら彼女は溜息をつく。古めかしい言葉を使ってみたり、普段は使わないような言葉を使ってみたり。もっと簡単に、分かりやすくしてくれればいいのに。法律の先生が居たら呆れ切った溜息をつきそうなことばかり考えていれば、ふっと影がかかる。
「オレが手取り足取り教えてやろうか?」
降って来た声に彼女はびくりと肩を震わせた。かろうじて悲鳴を上げなかったのは、ここが図書館であることをちゃんと覚えていたからである。彼女がそろそろと視線を本から上げると、ちょうど顔の真横あたりに見慣れてしまった赤い手袋。怖くて見れないが、頭上に誰かの頭がある気がした。
どっどっど、と彼女の心臓が早鐘のようになる。まるでかくれんぼのときに、鬼が間近を探しているような、いや、それ以上にタチの悪い恐怖や焦りを感じながら。
「く、るーうぇる、せんせい」
喉の奥から絞り出した声は掠れていた。ぐ、と彼が身体を屈めようとするから、彼女はとっさに顔を本に埋める。もちろん化粧がつかないように、本当にギリギリのところで寸止めしたけれど。おかげで本は汚れず、そして彼女の鼻腔には紙とインクの匂いが広がった。こんな場面でなければ楽しめただろうに。こんな場面でもなければこうはならないだろうが。
「……」
頭上から降ってくるのは無言だ。痛いほどの。共に紅茶とタルトタタンを囲んだときのような、生易しいそれではない。チクチクと刺すような無言なのだ。彼女はクルーウェルに心臓の音が聞こえてしまうのではないだろうか、と思いながらぎゅっと目を瞑る。
どうしてこんなに彼女が叱られる直前の子供みたいな行動をするのかと言えば、もちろんクルーウェルのことを避け続けたことに対する罪悪感だ。一度など、学園で目が合って彼が挨拶をしようとしたのに脱兎のごとく駆け出したこともある。二度か三度は居留守を使った。要するに自業自得だ。
そんな彼女を見下ろしながら、クルーウェルは眉根を寄せた。ここまで避けられたこともそうだが、ようやく追い詰めたと思ったのにまだ逃げ続けようとすることにも腹が立つ。可愛さ余って憎さ百倍とでも言えばいいのか。さらけ出された白いうなじに噛みついてやりたいくらいには苛立ちを感じていた。
だからクルーウェルは、己の中の諸々を落ち着かせるためにゆっくりと息を吐き出した。そうでもしないと目の前の彼女をぺろりと平らげてしまいそうな気がしたから。それに驚いたのは彼女だ。クルーウェルから吐き出される溜息に、罪悪感を通り越して恐怖を抱いてしまう。
結果、窮鼠猫を噛む。
彼女は勢いよく顔を上げた。もう謝ってしまおう、と思って。クルーウェルはそんなことになるなんて思わずに彼女の顔を覗き込もうと顔を寄せた。つまりはそういうことである。
ごちん、と豪快な音がした後には、頭を押さえるクルーウェルと、「あ、あ、すみません、本当に、本当に、本当にすみません!」と泣きそうな顔で謝って逃げる彼女がいた。バタバタと乱雑に響く足音がクルーウェルの耳を打つ。
「~っ、だから、なぜ逃げる!」
一人取り残されたクルーウェルは、いつぞやの購買での出来事を思い出しながら、絞り出すように呻くのだった。