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    マドモアゼルは語る ほんとうに面白いことなんて何もないのよ。私と彼って。
    「出会いは?」
     ねぇ、デイヴィスさん、本当に話さないとダメですか?……話します、話しますから、やめてください。
     出会い――出会いって言うか、うーん。ほんとうに、期待せずに聞いてほしいんですけど。新卒ってこちらでも使うんですかね?えぇっと……学校を卒業してすぐに働き始めた場所が同じだったんです、私と彼。私はその頃、恋愛ってもういいかな、なんて大人ぶったことを考えていて、彼は女の子って苦手だなって、奥手な男の子みたいなことを考えていて。
     ようは、二人とも恋愛をする気なんて一つもなくて。だから、なんていうか……いいお友達?みたいな感じで。ちょっと地味な顔で、穏やかな性格で。頼まれたら嫌とは言えなくて。彼と話してると、なんだか居心地がいいなって思ってたけど、それだけだった。
     いつだったかな。私、仕事で失敗しちゃって。色んな人に迷惑をかけて。今考えれば、そんなに大したことじゃなかったんですけど、でも仕事のことなんてまだ全然分かっていないから、もうとにかく迷惑をかけたことが申し訳なくて、消えたくなっちゃって。先輩たちがいいよ大丈夫って言ってくれても、全然頭が回らなくて。
     何が何だか分からないうちに一日が終わって、そしたらいつの間にか彼とレストランにいて。うそ、なんで、って。そしたら彼、ずっとボーっとしてるから心配でって。いっそ飲んですっきりしちゃおって言われて、頷いたんです。多分、彼だから。
    「どうして?」
     どうしてって……、なんて言っていいのか……敢えて言うなら、優しそうで、甘えたかったから?ふふ、そう、そうね。私甘えたかったの。誰かに。優しくしてもらって、大丈夫だよって言ってもらって。慰めてもらいたかったの。
     もう私、大泣きしてしまって。そしたら彼、女の子を泣かせたことも泣かれたこともないから、ずっとオロオロして。涙を拭うくらいしてくれたっていいじゃない、って八つ当たりしたら『あぁ、そっか』って言ってハンカチを取り出して丁寧に私の目元を拭ってくれたの。
    「間抜けだな」
     やだ、そんなこと言わないで。ちょっと笑っちゃうから。ふふふ、そうね、デイヴィスさんと違って女の子に慣れてないから、彼。どうしていいか本当に分からなかったのよ。
     それで……そこから何度か食事をしながら仕事のことを話してみたり、興味のあることを話してみたりしている内に、休日にも出かけるようになって。水族館に動物園、流行りの映画、それから落ち着いたカフェ。
     お互いを知っていけばいくほど居心地が良くなって。それでも私たち、友達だったの。彼はどうか分からないけど、私は……多くの女の子がそうであるように、男の子ってもうこりごり、って思うようなことがあったから。怯えてたのよね。そんな人じゃないって分かってても。
    「それがどうして?」
     ――出会ってもうすぐ三年目っていうときに、彼の転職が決まったの。ずっとやりたかった仕事だって知ってたから、自分のことみたいに嬉しかったわ。でも、ほら。それだけ時間があれば、心の傷って完治はしなくても、かさぶたはできて、触れるようにはなるでしょう?私ね、彼のことを好きだって自覚しはじめていたの。
     今までよりも会えなくなるって思ったら寂しくて。それで私、彼に気持ちを伝えようって思ったの。フラれてもいいから、なんて気持ちはなかったわ。その……ズルいかもしれないけど、彼の好意はなんとなく分かってたから。周りにも絶対そうだよって言われてたし。
     結局、私が言う前に彼の方が先に言ったんだけど。嬉しくて大泣きしちゃったわ。それなのに彼ったらなんて言ったと思う?『嫌な思いさせてごめんね』よ?思わずばかって言っちゃったわ。
     ……不器用なのよね。でも、彼はいつだって私に誠実であろうとしてくれた。嘘だってつかないし、つけないし。優しくて、ちゃんと私のことを考えてくれた。私の未来のことも。
    「レディ?」
     初めてのデートのとき、彼、言ってくれたの。君のこと、ずっと大切にするよって。本当に、その言葉通り彼は大切にしてくれたわ。不器用だし、たまに頓珍漢なことを言うけど。でも二人で穏やかに気持ちを育んでいたのよ、私たち。
    「……愛していたんだな」
     えぇ……そう、そうね、愛していたわ。喧嘩もしたし、こんな人もう知らないって思ったこともたくさんあったわ。だけどどうしようもなく会いたくて仕方ない夜もあったし、一緒に居れば幸せになれた。照れくさくてお互い一度も言えなかったけど、愛していたの。好きって伝えるのが精いっぱいだったけど、愛していたのよ、私。勘違いじゃなくて、間違いでもなくて。本当に。
     なのに、

    「なのに、どうして私」
     お酒のせいだろう。彼女は涙ぐんだ声で、それでも瞳に溜まった涙をこぼさないようにしてグラスを煽った。クルーウェルがすすめた甘くて、飲みやすいカクテルを。
     頼りなくて、弱々しいその肩にクルーウェルは少しだけ躊躇って、それでも腕を回した。背中をゆっくりとさすってやるために。肩を抱くことは簡単だけど、きっと彼女はそれを望んでいないだろうから。
    「私、なんで」
    「レディ、仕方ない。貴女がこの世界に来たのは不可抗力だ」
     クルーウェルの低い声が彼女の耳にじんわりと染み込んでいくけれど、彼女は首を横に振った。違うの、そういうことじゃないの、と。それにクルーウェルは無言で彼女の次の言葉を待った。
    「ちがうのよ」
     うわごとのように、彼女は滲んだ視界でそればかりを言った。クルーウェルの優しい手に涙が出そうになるのを必死で堪えながら。それをクルーウェルは急かすようなことはせず、ただじっと待ち続けた。
     気まずくて杯数を重ねたカクテルを言い訳に、彼女はようやく「私ね」と言葉を紡いだ。飲んだカクテルのように、美しい思い出だけだったならどんなによかっただろう。それを壊したのは彼女だった。
     わたし、と嗚咽の合間に彼女は言った。無理をしなくていいと言うクルーウェルの言葉は聞かなかったことにして。だって彼女の本質はあの時から何も変わらない。甘えたいのだ。優しくされたいのだ。大丈夫だよ、と肯定されたいのだ。とてもズルいことに。
    「わたし、考えさせてって」
    「レディ?」
     なんのことだか分からないクルーウェルは彼女を覗き込んだ。そのときようやく、彼女の瞳から一筋だけ涙がこぼれるのを、クルーウェルは美しいな、と思いながら指で拭った。
     ぐすり、と彼女の鼻をすする音が聞こえる。とっても勇気がいったはずなのにね、と彼女は要領の得ないことを言う。
    「プロポーズの返事ね、考えさせてって言っちゃったのよ」
    「それ、は」
     ゆっくりと、クルーウェルの目が見開かれる。瞠目した瞳に映るのは驚きと疑問。なぜ、と囁くように問いかけたクルーウェルに彼女はふるりと睫毛を震わせた。
    「……私ね、お嫁さんになりたかったのよ」
     今まで誰にも言ったことがなくて、ずっと心の奥底にしまい続けていたのに彼女は今日二回もそれを口にした。ぴくり、とクルーウェルの手が止まるのを察して彼女は「笑わないでくださいね」と困ったように言った。
    「女性の夢を笑うほど、オレは酷い男に見えるか?」
     クルーウェルの真っ直ぐな瞳から視線を外して、彼女は「いいえ」と小さく呟いた。「きっと彼もそうだったのに」と続けながら。彼女の頬に睫毛の影が落ちた。
    「別に誰かのっていうのはなかったの。ただ、そう、母が忙しくて、よく父と喧嘩をしていたから。
     だから私は、愛する人のためにお家でずっと待っていられるお嫁さんになりたいなってずっと思っていたの」
     クルーウェルはできるだけ口を挟まないようにしながら、それでも静かに相槌を打って彼女の言葉を聞いていた。それはクルーウェルからすれば、とてもささやかな夢であった。
     朝、旦那様より少し早く起きて、その額にそっとキスをして。それから朝ご飯とお弁当を作って、旦那様が起きてきたらおはようのキスをして。少しお寝坊をした旦那様を急かしながら、今度はいってらしゃいのキス。見送る時、早く帰ってきてね、と言うのも忘れない。
     お昼はうららかな陽気にあてられて鼻歌なんかを唄いながら、旦那様を想って家事をする。休憩時間にはナイショのティータイムも忘れない。ちょっとお高いケーキに、手ずからいれた紅茶を飲むの。
     夕ご飯は旦那様の健康を考えて、バランスの良い食事を用意する。でも時々、おめかししてレストランに連れて行ってもらって、君は今日も綺麗だね、なんてくすぐったい睦言をもらうの。年に一度くらいは、ホテルのスウィートに泊まれたら最高の贅沢。
     彼女はそんなお嫁さんになりたかった。不景気のご時世に、女性の社会進出が謳われるご時世に、彼女は、そんなお嫁さんになりたかった。
    「……素敵な夢だ」
     律儀にコメントをしてくれるクルーウェルに彼女は小さく微笑んだ。そうでもないのよ、と。
    「この夢が忘れられなかったの、私。
     うんん、もしかしたら不安だったのかもしれない。彼と私も、両親みたいになったらどうしようって」
     信じてあげられなかったのね、私。彼女は悔やむように呟いた。だって、ちゃんと彼を信頼していたなら、きっとそんなお嫁さんじゃなくても幸せになれたはずだった。
    「不安になるくらいなら彼に言えばよかったのよ。
     それなのに私、笑われたらどうしよう、大人になれって言われたらどうしようって、そればっかりで。
     ……あんな顔をさせてしまったの」
     どんな顔だったのか、もちろんクルーウェルには知る由もない。それでもなんとなく想像はついた。きっと、彼女と出会っていなければ、彼女に本気で恋をしなければ欠片も思い描けなかったであろうが。
    「仕事は続けた方がいいって言ったのはきっと好意だったのよ。優しさだったのよ。
     それなのに勝手に裏切られたような気持になって。
     言わなきゃ彼だって分かるはずないのに」
     彼女は残りのカクテルを全て飲み干してしまった。赤らんだ顔は、感情の高ぶりか、たんにお酒が悪さをしたせいか。彼女は帰りましょう、と静かに囁いた。これ以上話すことは何もないとでも言うように。
     クルーウェルは彼女に断って会計だけ済ませると、そのまま手を取って丁寧にエスコートする。どうして自分が先に出会わなかったのだろうかと思いながら。だって、クルーウェルからすればその恋人も恋人なのだ。そんなふうに不安にさせる方が悪いのだ。とても身勝手な意見ではあるが。
    「足元に気を付けて、レディ」
    「えぇ、親切にありがとう」
     彼の親切さを愛したと言うのならば、どうしてオレの親切には靡いてくれないのだろうか、とやるせなさを感じているなんて、彼女はきっと想像もしていない。
     夜の道を彼女はご機嫌に歩いた。何かを誤魔化すように。クルーウェルはそんな彼女を辛そうな目で見つめながら、それでも一緒に笑って月明かりの中を歩いた。ワルツでも踊るような足取りで。時折小さく聞こえる彼女の鼻歌が余計に悲しい気持ちを煽っていく。
    「ふふ、ねぇデイヴィスさん」
     この一日ですっかりと慣れた様子で彼女はクルーウェルの名前を舌に乗せる。クルーウェルはそんな彼女にゆったりと微笑んで「どうした、レディ」と首を傾げて見せる。
    「今日はとても無口ですね。
     私のこと、嫌いになれました?」
    「まさか。もっと好きになったさ」
     クルーウェルは彼女を抱き寄せて、あと少しで唇が触れ合う距離で言った。彼女と同じように、何かを誤魔化すみたいに。だから彼女は、ぼんやりとした瞳でクルーウェルの頬をそっと撫でて「可哀想で……優しい人ね」と囁いた。
     するりと彼女はクルーウェルの腕の中から逃れる。月光が静かに照らすその姿は、クルーウェルにとっては妖精も同然だった。気まぐれで、人間嫌いで。近寄っただけでするりと逃げていく。彼女はそういった女性だった。
    「レディ、あまりはしゃぐのは感心しないな」
     クルーウェルは彼女を支えるように腰に手を回す。下心が全くないわけではないが、それでもおぼつかない足元の彼女が心配なのも本当だった。だから彼女はちらっとその手を見るだけで、拒むこともなく身を委ねる。
     しばらく二人は無言で歩いて。ときおり口遊む彼女の歌だけが夜の静けさを縁取る。クルーウェルには聞き覚えのない、それだけが。
    「レディ、約束通り、オレは今日で貴女を困らせるのをやめよう」
     キラキラと輝く星を見ながら彼女は「はい」と頷いた。彼女とクルーウェルが得たものは、結局なんだったのだろうか。楽しく美しい思い出?哀しい気持ち?やるせない想い?彼女は手に入れたものを数えて、それから小さく溜息をつく。数えたところで虚しいだけだったから。
     ただ、とクルーウェルは言葉を続けた。気が付けばもうオンボロ寮のすぐ近くだった。いつの間にこんなところまで帰ってきていたのか。彼女はまるで魔法みたい、と思った。
    「オレは今、少し悩んでいる」
     クルーウェルは彼女の頬を優しく撫でる。それに彼女は少しだけ心地よさそうに目を細めてから、何を、と聞いた。クルーウェルは彼らしくなくわずかに言い淀んで、だけど何か意を決したように口を開いた。
    「貴女を今夜返すべきかどうか」
     冷や水を浴びせられた気分だった。彼女は一気に酔いが冷めていく頭で「そんなのってない」と呟く。唇がわななくように震えた。距離の近いクルーウェルの身体を押し返して、硬い声で「やめてください」と拒む。
    「違う、レディ、オレは」
    「やめて、やめてください」
     クルーウェルの言葉を遮って彼女は首を横に振った。だって彼女はもう大人の女性なのだ。クルーウェルが言った言葉の意味が分からないほど、無垢でも純粋でもない。そんな人だなんて思わなかった、と言った彼女にクルーウェルは「ちがう!」と少しだけ大きな声で否定した。
    「聞いてくれ、レディ、違うんだ」
    「聞く?何を?
     私はそんなつもりで彼の話をした訳じゃなかったし、そんなつもりであなたの誘いに応じたわけじゃなかった」
    「分かってる、だけどそうじゃない。違うんだ」
    「何も違わない。帰って――」
     ちがうんだ、と泣きそうな声が彼女の耳を擽った。クルーウェルに抱きしめられている、と彼女が気が付いたのは、瞬きを数回した後だった。
     大きな体を少しだけ震わせて、まるで子供みたいなハグをこの人はするんだな、と彼女は場違いなことを考える。縋るような、そのくせ、彼女が本気で抵抗すればちゃんと逃げられる力加減がクルーウェルの優しさを教えてくれていた。
     だから彼女は何度呟いたか分からない言葉を心の中で呟く。ズルい人、と。だって、こんなふうに優しさを教えられてしまったら、拒みきれないではないか。違うんだ、とまた掠れた声が震えた。
    「オレは、今の貴女を一人にしたくない」
     幾分か落ち着いた声でクルーウェルが囁く。彼女が振りほどかないからだろうか。体の震えは消えていた。
    「貴女がこれから一人で涙をこぼすのかと思うと……オレは」
     言葉はそこで途切れた。月光が優しく二人を照らして、まるで舞台の上のような光景を作り上げる。出会った時からこの男は、随分と変わってしまったように彼女は思う。
     いや、もしかしたら。変わったのは彼女も同じなのかもしれない。あんなに苦手にしていた相手にときめいて。彼しか居ないと思っていたのに、もしかしたらなんて考えてしまって。猫よりも犬を飼いたいかもしれないと願ってしまって。
    「頼む、レディ。
     今夜だけはオレの隣りで泣いてくれないか」
     彼女はゆっくりと目を瞑った。何かを諦めるみたいに。一粒、誰にも拭われることのない涙を零して。
    「貴女の許しが無ければ、指一本触れることはしない。誓うから、だから」
    「……デイヴィスさん、あなたって」
     本当に、ズルい人。
     何度目か分からない呟きを音にするのは、もしかするとそれが初めてのことだったかもしれない。

     シャワーを浴びて、オンボロ寮から持ってきた着替えを身に纏って。彼女はクルーウェルの部屋のソファに座って一人でぼうっとしていた。微かに聞こえるシャワーの音をこんなにも心安らかに聞くことができるのは、クルーウェルが「絶対に貴女に許可なく触れることはしない」と約束してくれたからだろう。
     用意してくれていたホットワインにちょっとだけ口をつけて、ぽかぽかと温まる体と心に苦笑する。こんなに良くしてもらっても、彼女はクルーウェルの想いに応える気になれなかった。彼女の心を未だ彼が占めているから。
     そんな状態でクルーウェルに逃げるのは、いくら彼女がズルい女だったとしても、悪い女だったとしても、さすがに許すことはできなかった。他の誰でもない、彼女自身が。
     それとも、もしかしたら。思いっきり泣いて、思いっきり喚いて。すっきりすれば何か変わるんだろうか。彼のあの、泣きそうな、ショックを受けた顔を忘れられるんだろうか、都合よく。ほろりと彼女は涙をこぼした。ぽろぽろ、ぽろぽろ。流れるそのままに彼女は涙をこぼして、それからホットワインを一口飲む。
    「……酷いな、オレの隣りで泣いてくれるんじゃなかったのか?」
     慌てて出てきたのだろうか。ろくに髪を乾かしきれていないまま、クルーウェルはタオルを肩にかけて彼女の前に膝をついた。涙を拭っても?と聞くから、彼女は泣きながら笑うなんていう器用なことをしてみせた。
    「その前にクルーウェル先生の髪を乾かさなきゃ」
     安心しきっている顔で彼女は「貸して」とクルーウェルの肩にかかったタオルを手に取る。クルーウェルはそれに少しだけ驚いた顔をして、それでも彼女にされるがままに乾かしてもらう。優しい手つきのそれに、ほんのりと恥ずかしさがこみ上げてくるのはなぜだろうか。デイヴィスと呼んでくれ、なんて照れ隠しを呟きながらクルーウェルはじっとしていた。
     小さいころに母親にしてもらったように、彼女は慈しむような手で水気を拭っていく。穏やかで、暖かな心で。涙は少しだけ落ち着いていたけど、泣く準備はいつでもできていた。きっとこれが終わればすぐにでも泣ける、なんてムードも何もないようなことを彼女は考えていた。
    「……レディ、もう」
     クルーウェルはその腕を掴もうとして、それから慌てて引っ込める。だって彼は自分で誓ったのだ。彼女の許可なく触れないと。彼女はそれに気付いてクスクスと笑って、クルーウェルの可愛いところなんて、これ以上知りたくないのにな、なんて思った。
     取り繕ったように咳ばらいをするクルーウェルの顔はほんのりと赤かった。酔いが回った、なんて今更のようなことを言うから「嘘ばっかり」と彼女が笑う。クルーウェルは何も言わずに彼女からタオルを取り上げて「すぐに戻る」と部屋を出た。宣言どおり、すぐに戻って来た彼の手には自分の分のホットワインと、それから上品なデザインの女性もののハンカチがあった。
    「貴女に贈ろうと思って買ったんだが、まさか貴女の涙を拭うために使うことになるとは思わなかった」
     苦笑気味にクルーウェルが笑うのを見て彼女は困ったように笑った。枯れれば捨ててしまう花ではなく、飲めば消えてしまうハーブティーではなく、食べれば無くなるホットドッグではなく。形として残る物を贈られるのは、これが最初で、そしてきっと最後だった。
     彼女は「素敵なハンカチですね」と感想を口にした。気に入ってもらえたらいいんだが、と言ったクルーウェルには、不安なんて全くないように見える。自分のセンスに絶対の自信がある顔だった。
    「今日はこのハンカチで貴女の涙を拭う栄誉をいただいても?」
     彼女の隣りに腰掛けながらクルーウェルが聞いた。答えなんて聞かなくたって分かっているくせに言うものだから、彼女は嬉しいのか悲しいのか分からない涙を零して「ぜひ」と言うのだった。
     彼女は彼との思い出話を時折口にした。静かに涙をこぼしながら。他にも小さかった時のことも、少女時代のことも、大人になってからのことも。色んな事をぽつりぽつりと話した。悲しかったこと、寂しかったこと、辛かったこと。涙と一緒に流しきって忘れようとしているようにも見えた。
     途中で彼女が手を握ってほしいと言うので、クルーウェルは言われるがままに彼女の右手を握った。ごくたまに力強く握り返してきたのは、きっと感情の高ぶりなのだろう。クルーウェルはまるでなだめるようにそっと手の甲を撫でた。
     彼女がうつらうつらとするから、ベッドを貸そうか、とクルーウェルが申し出た。それに彼女は首を縦に振らなかった。信用が無いのかと問えば、今度は彼女は首を横に振った。今は一人になりたくないの、と。だからクルーウェルはそれ以上は何も言わなかった。ただ、毛布を取りに行く許可だけをもらって、そっと彼女にかけてやった。
     二人はいつの間にか眠っていた。まるで仲の良い兄妹のように手を繋いだままで。夜の闇を怯える幼い子供みたいに。
     瞼を明るい日差しが刺すから、クルーウェルはゆっくりと瞼を押し上げた。体が固まっていて、背を伸ばせばバキバキと音がする。ぼんやりとした頭でクルーウェルは「レディ」と隣りを見て、それから肩を落とした。
     そこには誰も居なかった。彼女にかけた毛布だけが、ぬくもりをそのままにして残っているだけだった。もう少し早く目が覚めていたら、朝の挨拶くらいできたのだろうか、とクルーウェルは残念に思いながら立ち上がる。見ればハンカチもなくなっているから、持って帰ってくれたのだろう。それだけがクルーウェルには喜ばしいことだった。
     ホットワインが半端に残ったコップを片付けて、顔を洗って。タオルで顔の水気を拭くとき、昨夜のことを思い出してクルーウェルはくすぐったい気持ちになる。きっとこの先ずっと、こうやって折に触れては思い出してこんな気持ちを抱くのだろうな、と思いながら。
     着替えて毛布を片付けて、それからふと彼女のバッグと着替えが入った手提げが残されていることに気が付いた。そこでようやくクルーウェルは眉を顰める。彼女はそんなに抜けたところのある女性だっただろうか、と。なんだか嫌な予感がして、クルーウェルは少しためらってから二つの荷物を持って慌ててオンボロ寮へと足を向ける。
     途中ですれ違った教員たちから何か言われたような気がしたけど、クルーウェルは「急いでいる、後にしてくれ」と取り合わなかった。彼は必死だった。オンボロ寮へ行って、あの困ったような笑顔を見るために。そうして「なんだ、勘違いか」と安心するために。
     ほとんど全力で走って、鏡をくぐって、また走って。学生のときならなんでもなかったのに、心臓は痛いし息は切れるし足はもつれるし。魔法薬の一つでも飲むんだった、なんて思いながら彼は走った。
     いつも通りのオンボロ寮。どんどん、どんどん、と乱暴にドアを叩けばグリムの怒ったような声が聞こえた。ドアが壊れるとか、朝っぱらからとか、多分そんな内容の。クルーウェルにとっては取るに足らないようなことだ。
    「ふなっ!なんでクルーウェルが……」
    「レディはどこだ!」
     切羽詰まった顔のクルーウェルにグリムはぱちりと瞬きをして。寮母のことかと呟いたあと、そう言えば見てないんだぞ、と言った。ざ、とクルーウェルは全身の血が引いていくのを感じた。
    「クルーウェル先生?
     ……あの、何かあったんですか?」
     彼女の荷物を持ったクルーウェルを見てひょっこりと顔を出したユウが問いかける。クルーウェルは「彼女はどこだ」と言った。震える声で。
    「まさか」
     ユウは青い顔で呟いて慌てて二階へ上がる。クルーウェルの顔を見て嫌な予感はしていた。彼女の部屋のドアを開けて、誰も居ない部屋を見て。あぁ、と呟いた。
    「……ずっと一緒だと思ったのに」

     車の音と、小鳥の鳴き声と。刺すような朝陽と。誰かの話し声と。何かの機械音と。彼女はそれらを感じながらゆっくりと瞼を押し上げた。最初に見えたのは白い天井だった。目が覚めた、と誰かが言う。それを聞きながら彼女は寝たのなら、そりゃあ覚めるでしょう、とぼんやり考えた。
     どうしてだか随分と久しぶりに両親が揃っていた。プロポーズを遠回しに断ってしまった恋人と一緒に。まだちゃんと紹介してなかったと思うんだけどな、と彼女は回らない頭で考える。
     なんだか長い夢を見ていた気がした。不思議な世界の、不思議な人たち。彼女は無性に帰りたいなぁ、と思った。どこにと聞かれると、それは答えに困るのだけど。うとうととまどろむ彼女の手を恋人が取った。なんだかその顔を随分と久しぶりに見た気がした。
    「おかえり」
     彼の言葉に、どうしてだか涙がこぼれて。彼女はよく分からないまま「ただいま」と囁いた。一体自分は、どこに行っていたのだろうか、と疑問に思いながら。

     ユウは案外、普通に日常って流れていくものなんだな、と思いながら窓の外を見た。今日からホリデーが始まるということもあって、みんな一様に浮かれていた。浮かない顔をしているのはユウくらいかもしれない。
    「ユウ~、オレ様そろそろ毎日玉子サンドは飽きたんだゾ」
    「そんなこと言ったって、寮母さん居ないんだからしょうがないじゃん」
     彼女に教えてもらった玉子サンド。ふわふわで、バターの利いた玉子が美味しいのに、なんだかこの数日は食べ飽きてしまった。だけど、それしか教えてもらった料理がないのだから仕方ない。
     グリムが他のだって作れるじゃねーか、とぼやく。だからユウは「そういう問題じゃないの」と返した。だって、まだ心の整理がつかないのだ。
     多分日数に直せばそんなに長い時間じゃなかった。だって半年も経っていない。でも、それでも彼女はユウの生活の一部だったのだ。まるで、そう。お母さんみたいに。お姉ちゃんみたいに。友達みたいに。ユウはこちらに来て初めて寂しさに涙した。こんなとき、一緒に居てくれたらな、なんて思う男の子のは、きっと今頃寮で帰り支度でもしているのだろう。
     どうして男の子って、居てほしいときに限って一緒に居てくれないんだろう、なんてユウは一人で泣いていた。
    宇喜たると Link Message Mute
    2022/06/30 17:42:33

    マドモアゼルは語る

    #not監督生 の  #クル先夢 です。

    ※シリーズ通してクル先がかっこよかったりかっこ悪かったりしてます。
    ※夢主はネームレス寮母さんです。
    ※デフォルト名(ユウ)の女監督生がいます。
    ※捏造てんこもりです。
    それでも良ければどうぞ。

    #twst夢

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