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    しおり
    マドモアゼルは知る 色とりどりのサンゴに、地上とは違った無重力の浮遊感。種々様々な海の生き物たちが上にも下にも、右にも左にも。尾ひれを優雅にしならせながら泳ぐ人魚たち。幻想的なその世界を、ユウは言葉を尽くして彼女に語った。それを彼女は暖かな眼差しで静かに聞き入る。そこには優しい時間が流れていた。
    「大冒険をしてきたのね、ユウさん」
    「大冒険って、それはなんか、言いすぎですよ」
     海の中を歩いた興奮を思い出していたのか、ほんのりと頬を蒸気させながらユウは唇を尖らせる。なんだか子供扱いされているみたいで恥ずかしかったのだ。彼女が「よく頑張りました」と頭を撫でるから、余計にくすぐったい気持ちになってしまう。それを見てグリムが「オレ様も!オレ様も頑張ったんだゾ!」と言うので「そうね、今夜はツナ缶を用意しなくちゃ」と微笑みながら、その小さな頭をくすぐるように撫でた。
     気持ちよく晴れた日の朝。二人と一匹はつい最近までの騒動をオンボロ寮の談話室で振り返っていた。色々とあったものの、こうしてこの世界での家に戻って来れたことに、彼女はホッとしていた。少し前の恥ずかしかった出来事なんてすっかり忘れて(考えないようにして、とも言えるけど)。
     そんな穏やかで、賑やかで、そして外の気温とは裏腹にぽかぽかと暖かな朝の闖入者は、それこそ話題に上がっていたオクタヴィネル寮のジェイドとフロイドであった。二人と一匹はぎょっとしたものの、アトランティカ記念博物館への遠足、という心躍る魅力的な提案に逆らうことなんてできるはずもない。とくに海の中の世界は今回がはじめての彼女には、ここのところの諸々なんて本当に頭の外に出ていくくらい素敵な響きだった。
    「すごい楽しそうにするじゃん」
     目を輝かせて付いてくる彼女を振り向きざまに見ながらフロイドが言えば、彼女は「それはそうよ、だって海の中を歩けるんでしょう?それも何もつけなくても!」と声を弾ませる。ユウが「その代り魔法薬の味はすごいですけど」と顔を歪めているのなんてまったく気付いていない。
     そのとき、もしも彼女がもう少し冷静であったなら、フロイドとジェイドが意味深な視線を投げかけてきていることに気が付けていたかもしれない。もしかしたら、の話しでしかないし、気が付いたからといって何ができたわけでもないのだけど。
     鏡舎の前で例の魔法薬を飲んで、そのあまりの味にようやく少し冷静さを取り戻したことは、彼女にとって僥倖だったかもしれない。彼女はどくどくと脈打つ心臓の音を心地よく聞きながら、ユウたちに続いてその足を鏡の中へと踏み出した。とぷん、と沈み込むような感覚が襲ってきて思わず目を閉じる。ゆっくりと瞼を開ければ、そこは想像していたよりもずっと、ずっと美しい世界が広がっていた。
     ゆらゆらと揺蕩う海藻はどこまでも青々と広がり、まるで海の花とでも言わんばかりに彩り豊かなサンゴが咲き乱れ。魚は躍り、人魚は歌い。時折ぷかぷかと気泡が昇っていくのだって、なんて幻想的なのだろうか。元の世界であったなら、こんな場所、夢見るだけで終わっていた。ダイビングスーツに酸素ボンベ、それからゴーグルという重装備であったとしても、人の身で海の底の底ま辿りつくのは不可能だろう。そもそも、あちらの深海はこんなに明るい世界ではない。
    「すごい……すごいわ」
     彼女はその目に焼き付けるようにあたりを見回した。息を詰めて、胸をときめかせて。まるで少女のような顔をして。いや、その瞬間たしかに彼女は少女であった。未知との遭遇に恐れることすら知らない、無垢に感動する一人の少女であった。
    「すっげぇ感動するじゃん」
    「人にとっては見慣れない世界でしょうからね」
     するりと顔の真横をそれぞれ左右ぎりぎりのところで泳ぎ去って行くフロイドとジェイドに、彼女は思わず小さく悲鳴を上げる。しかしその次の瞬間には「すごい」と掠れる声で呟いて見惚れていた。
     ユウから話しには聞いていたが、本当に目の前にウツボの人魚が居るのだ。手を伸ばせば届く距離に。彼女は感極まってしまって、もうそれ以上何も言葉が出てこなかった。彼女はすっかりと海の世界に心奪われてしまっていた。
     そんな折であった。硬質的な声が響いたのは。
    「仔犬共!はしゃぐのは結構だが、中では駆け回らないように」
    「げぇ~、マジでイシダイ先生居んじゃん」
    「二年D組フロイド・リーチ、躾けられたくなければお利口さんにすることだな」
     いつもどおりに手の中の教鞭をぴしりとやって鋭く言い放つその男性を見た瞬間、彼女は思考がすべて止まってしまったような気がした。なぜここに、と言いたげな彼女の顔を見てクルーウェルは意地悪く口端を持ち上げる。
    「これはレディ、随分と久しぶりだな?」
     怒っていらっしゃる。
     当然と言えば当然の事実を彼女は心の中でゆっくりと、噛みしめるように呟いた。つ、と背中を冷や汗が伝ったような気がしなくもない。そんな二人をユウはハラハラと見つめ、グリムは「クルーウェルも居るなんて聞いてねぇんだゾ」と少し気落ちした様子で答えて。エースやデュース、ジャックたちは「そろそろ機嫌直ってると思う?」「どうだろうな」「クルーウェル先生、苦手だ」と囁き合い。
     そんなとても和やかとは言えない空気の中で差し込まれた声は、酷く落ち着いていて、そして楽し気なものであった。
    「これはこれは寮母さん、初めまして。僕はアズール・アーシェングロットです。
     今回は引率として、クルーウェル先生に付いて来ていただいたんです。寮母さんも交友がある大人がもう一人いらっしゃった方が、ご安心いただけるかと思いまして」
     突然話しかけられて少し驚いたものの、話しに聞くよりもずっと好青年然としたアズールに手を差し伸べられて、彼女は握手を求められているのかと己の右手を差し出す。にこり、と微笑まれるから彼女も微笑み返す。すると軽やかな調子で手を取ってキスを落とされた。彼女はぎょっとしたものの、もうなんだか三度目ともなると慣れてしまって、だけど何と言っていいのか分からなくて「ど、どうも……?」と頓珍漢な言葉しか出てこなかった。
     ちなみにそれを見ていたユウは「私だって女の子なのに」とぽつりと呟いた。隣りでエースに「今更監督生にそんなこっぱずかしいことできるかよ」とぼやかれながら。唇を少し尖らせて、ツノ太郎なら言ったらしてくれるかな、なんてことを考えた。出来る限りクルーウェルを視界に収めないようにしながら。だって、もしも怒った顔をしていようものならちょっと気まずいし、どうしていいか分からない。
    「おや、僕では照れていただけませんか」
     残念です、と言いながらも愉快そうな顔をしてからアズールは彼女からそっと離れた。彼だって引き際はちゃんとわきまえているのだ。ちょっと面白そうだから、なんて愉快犯みたいな理由でこんなことをしたけれど。
     それでは、とアズールを筆頭に博物館へと入っていくのだが、彼女が足を踏み出すよりも先にクルーウェルが近づいてきて腕を差し出す。
    「貴女をエスコートする栄誉をいただいても?」
    「……あの、」
     ユウさんたちの前なので、と断ろうとする彼女をクルーウェルはただじっと見つめる。その視線の圧に何も言えなくなってしまって、もとより先日の負い目がある彼女は少しだけ迷ってから「ぜひ」と手をかけた。視線で射殺すとはこういうことか、と彼女は妙に感心してしまった。
     エスコートなんて人生で初めて受けた彼女は、まるでカップルみたい、なんて自分の首を絞めるようなこを考える。耳元で「階段に気を付けて」なんて囁かれれば、なんだかクラクラしてしまう。こんな人、それこそ外国の映画の中でくらいしか見たことがない。
    「ある程度は大目に見てやるが、騒ぎを起こすんじゃないぞ仔犬共!」
    「へーい」
    「うっす」
    「もちろんです!」
     エスコートのための腕は決して崩すことなく、それでも生徒たちに注意を怠らないクルーウェルの横顔を、彼女はそっと盗み見た。それはたしかに、「先生」の顔であった。彼女がそのことに言葉を詰まらせていると、クルーウェルはほんのりとした微笑みを浮かべて「さて、レディ」と囁く。すっかり「男」の顔に早変わりして。
    「せっかくだからこのままオレが案内をしよう。
     積もる話もあるし、断らないでくれるな?」
     空いた右手で己の額を軽くとんとん、と叩きながらクルーウェルがいたずらっ子のような顔で言う。それに彼女はう、と言葉を詰まらせて「その節はすみませんでした」と呟くように謝罪する。クルーウェルはその様子にクツクツと笑いながら「謝ってばかりだな、貴女は」とからかうように言った。
    「……クルーウェル先生って」
    「なんだ?」
    「やっぱりなんでもないです」
     ズルい人、と彼女は心の中でだけ呟いてそっぽを向いた。

     海の中だからだろうか、靴音は不思議と響かなかった。クルーウェルのエスコートに最初はぎこちなく付いて行っていた彼女も、今は少し慣れて顔の強張りも少しだけ解れていた。その功績は、博物館内に展示されている品々のおかげが大きなものであるが。
     貸し切りと言うこともあって静かな館内を歩きながら、クルーウェルはおもむろに口を開いた。
    「――レディ、貴女の世界に人魚は居たかな?」
     突然の問いかけに、あちらこちらへ視線を彷徨わせては瞳を輝かせていた彼女は、思わず立ち止まってクルーウェルを見上げた。彼は繊細な造りをした彫像を見上げていた。
    「いえ、私たちの世界では空想上の生き物でした」
    「本当に?」
     クルーウェルは珍しいことに、彼女に一つも視線をくれないまま、まるで言葉を無意識にこぼしていくように呟いた。彼女はクルーウェルが何を言いたいのか分からなくて、その答えを探すように彫像を見上げる。人魚の乙女を模した彫像であった。
    「この世界でも、人魚の存在は長らく幻、空想上の生き物だった。
     漁師の見間違い、伝承の捩じれ、誰かの創作……諸説あったわけだが、誰も海の底にも世界が広がっているだなんて、本気で信じていなかった」
     訥々と語られる言葉に彼女は無言で聞き入った。見たこともない遠い昔をなんとか垣間見ようとしながら。クルーウェルの低く、落ち着いた声が彼女を導いていく。
    「たしかレディは魔法石を知っていたな」
    「はい。グリム君のペンダントや、あとはエース君たちのペンに使われている綺麗な石ですよね?」
     彼女の解答を「Good Girl、お利口さんだな」といつかのように褒めてからクルーウェルは微笑む。視線はやはり、彫像に縫い付けられたままで。
    「魔法石が発見された年を魔法元年と呼ぶのだが、その年から世界は変わり始めた。魔法エネルギーは広く世界に知られ、我々人間の魔法は急激に発達し、生活へと馴染んでいくことになる。
     ――もちろん、オレが担当する錬金術や魔法薬学も、な」
     クルーウェルの言葉はするすると彼女の内側へと入っていく。彼は一体、何を見ているのだろうか。どこか高揚した様子を滲ませるクルーウェルの横顔は、さきほど見た「先生」であった。もしくは一人の夢見る少年である。
    「レディ、人は願った。
     空を飛び、あの青に溺れてみたいと。
     海を歩き、あの神秘を暴いてみたいと」
     彼女の内側にほんのりと暖かな、けれどしっかりとした炎が灯った。彼はこの炎を胸に抱いて過去を、今を、そして未来を見ようとしているのだと知った。
    「……そうしてできたのが、今日貴女も飲んだ魔法薬だ。
     もちろんかつてのものとは少しばかり違うが、それでもこの魔法薬のおかげでオレたち人間は海の中に広がる世界を知った。
     人魚という、不思議な友人が実在することも」
    「素敵」
     彼女は全ての想いをその三つの音に込めた。心を震わせる奇跡に対する感想としては言葉数が少ないかもしれないが、でもそうとしか言えなかったのだ。人は言葉を操る生き物ではあるが、感情が昂ると単純な言葉しか出てこない生き物でもある。
    「……魔法は、毒にも薬にもなる」
     クルーウェルはようやく、今にも泳ぎだしそうな人魚の乙女から視線を外して彼女を見つめた。それを教えるのがオレたちの役目だが、難しいな、と苦笑しながら。きっとクルーウェルはアズールのことを言っているのだろうと彼女は思って、それから否定した。アズールだけではない。彼女の知っている生徒も、知らない生徒も、全員のことをクルーウェルは今、想っているのだろう、と。
     彼女はどうしようもなく胸がいっぱいになった。自分の中の何かが歯止めが効かなくなりそうな、そんな確かな予感に打ちのめされそうになりながら。ともすればこぼれ落ちそうなその想いを飲み込んで、彼女はその日初めて自分からクルーウェルの瞳を見つめた。
    「……久しぶりにレディに会えて、柄にもなくはしゃいでしまったらしい。
     喋りすぎたな」
     演技なのか、本気なのかもはや見分けがつかない、少し弱ったような表情でクルーウェルは軽く笑む。己の中の熱を隠すようにして。だから彼女は「いいえ」と微笑み返した。
     それは、いつものような曖昧なものではなかった。彼女の精一杯の好意を詰め込んだものだった。クルーウェルは小さく息を飲んだ。
    「貴方のことを少しだけ知れた気がします」
    「それは、」
    「先生」
     彼女は敬意を込めてクルーウェルを呼んだ。その響きに、クルーウェルは何も言えず、ただ彼女を見つめるしかできなくなって。どくり、どくりとクルーウェルの心臓が大きな音を立てる。
    「今日は貴方の授業を独り占め出来て、光栄です」
    「……は、とんだ教師誑しだな、レディ」
     クルーウェルは片目を歪めて笑う。まるで内心を見透かされないように虚勢を張る男の子みたいに。だから彼女もつられて、無垢な女の子みたいに微笑んだ。クルーウェルの腕にほんの少し体を預けながら。
    「もっとお話しを聞かせてくれませんか?」
    「もちろんだ」
     澄ました顔で、そのくせ嬉しそうな様子を隠しきれない表情でクルーウェルは頷いた。何から話し始めようか、と考えながら。
     クルーウェルはいつにない高揚感を自覚して苦笑した。体の奥底に火が灯ったようなこの感情をなんと呼べばいいのか、彼自身決めかねていた。
    「レディ、これを見ろ。これは貴重だぞ」
     心臓をくすぐられているような、奇妙な浮遊感がクルーウェルの中に居座り続けるものだから、彼は常にない程に喋り続けた。女の子とのデートで失敗する素だってことは分かっていても、お喋りな口は閉じてはくれない。自分の体なのに言うことを聞かないもどかしさは、風邪の時に喉の内側に感じるかゆみと似ている気がする。
    「フォーク、ですか?」
    「そう思うだろう?」
     いたずらっ子のような顔でクルーウェルは微笑んだ。それに彼女がきょとりとするから、なんだか楽しくなってしまう。クルーウェルは「銀の髪すきだ」と言えば、彼女は「え」と呟いてもう一度それをまじまじと見つめた。
     何度見ても彼女には銀のフォークにしか見えない。だって三又で、髪すきにしては歯が少ないし。それに歯と歯の間隔だって、まるっきりフォークのそれだ。
    「今でこそ魔法によって海の旅は安全となったが、その昔はそうではなかった。
     行くも戻るも天候次第、嵐がくれば人間の操る船はあっという間に海の底へ誘われた」
     昔、まだクルーウェルが学生だった頃。まるで歌うように歴史を語った教師をぼんやり思い出しながら、クルーウェルは言葉を紡いでいく。彼の教師はよく言ったものだ。君たちに生きてきた歴史があるように、世界にも生きてきた歴史があるのだ、と。
    「これは、嵐に飲み込まれたものか、それとも人が海へと捨てたものか。
     貴女はどう思う?」
     クルーウェルの問いかけに彼女はちょっとだけ押し黙って。それからゆっくりと「落とし物、だと思いたいですね」と微笑んだ。その答えにクルーウェルは目を細めた。
    「なるほど。
     一番平和で、ロマンティックな解答だな、レディ」
     まさかそう返されるとは思わなくて彼女はぱちりと瞬きをしてから、そっと頬を染めた。逸らされる視線が惜しくてクルーウェルは危うく手を伸ばしかけて、それからぎゅっと拳を握って自制する。
     クルーウェルは小さく「オレも青いな」とひとりごちた。まるで仔犬のようにはしゃいでみっともない。分かっているのにどうにもならない。こちらを見てほしくて堪らなくて。綺麗にリップを塗ったその艶やかな唇でクルーウェルを呼んでほしくて。だけどそれを願ってしまった瞬間に彼女がするりと逃げていくかもしれない恐怖が、クルーウェルの口を噤ませる。
     そのままならない感情を、人は恋と呼ぶのだとクルーウェルは知らなかった。知らなかったけれど、クルーウェルはその瞬間、たしかに彼女のことが好きだと自覚した。もう引き返せないところに居るらしい、と。
    「……貴女は不思議だな」
     クルーウェルは小さく語りかける。それに彼女が小首を傾げるからそっと苦笑した。何がですか、と問う彼女にクルーウェルはどう言葉にしたものかと迷って、結局「いや、なんでもない」と微笑んだ。
    「ただ、貴女が好きだと思っただけだ」
     彼女はひゅ、と息を飲んだ。こんなに美しい人を彼女は今までの人生で初めて見た。海の中という幻想的な空間に居るからではない。ただ、クルーウェルその人が美しかったのだ。
     彼が初めて見せる、瞳の奥に熱を込めた視線を、彼女はどうしても受け止めきれなくて目を伏せた。それから口を開こうとするのをクルーウェルは己の人差し指で押しとどめる。
    「何も言わないでくれないか。今日だけは」
     分かっているから、と言いたげな響き。その切なさに気付かないほど彼女も鈍感ではない。それなりに恋の経験もしてきた大人の女性なのだから。だからこそ、その切なさに応えられない歯がゆさに打ちのめされながら、大人しく頷いた。
     今日だけ、と言い訳のように呟きながら。
     名残惜しそうにクルーウェルの人差し指が唇を離れていく。しまったな、なんて言葉が聞こえてきて彼女が顔を上げれば、何もかもを押し隠した笑顔でクルーウェルが彼女を見つめていた。
    「せめて手袋を外すべきだったな。
     惜しいことをした」
     見せつけるように己の人差し指にキスをするクルーウェルが見ていられないくらいに色っぽくて、なのに視線が外せない不思議に、彼女は小さく息をつくのだった。

    「監督生、あれどうにかしてよ」
    「そんな無茶な」
     大人たちの繰り広げるラブロマンスが気まずくて相当距離を取って館内を回っていたはずなのに、いつの間にかすぐ近くに居たらしい。さきほどまであそこでは「こんなんただのフォークじゃん!」とゲラゲラ笑っていたエースたちが居たのに、今では立派に二人の世界を作り上げている。
     ジャックたちを追いかければよかったね、とユウが呟く。ユウが歩き疲れてしまったので、少しだけ休んでから行くと言った時に、エースが「一人じゃ寂しいだろうからオレが残ってやるよ」と言って一緒に居てくれたのだ。また後で合流しような、と笑ったデュースの笑顔をユウはぼんやりと思い出す。
     そんなユウの横顔を見つめながら、エースは小さく頬をかいて。ちらちらと恋愛劇を気にするユウの手をぶっきらぼうに取った。
    「エース?」
     突然のことに驚くユウに、エースは一度天井を見上げて何かを呟いて、そして意を決したようにユウを見た。笑うなよ、と言いながら。その目があんまりにも真剣だから、ユウはちょっとだけドキドキしてしまう。
    「オレに、エスコートさせてください」
     不器用なキスだった。おっかなびっくり手の甲に落とされたそれに、ユウはビックリしすぎて声も出なくて。手の甲とエースを交互に見つめて、それから蚊の鳴くような声で「はい」と囁いた。熟れたりんごのように頬を赤らめるから、エースは我慢できなくなって「ユウが!どうしてもって言うからだからな!」なんて小さな男の子みたいなことを言ってしまう。
    「うん……うん、ありがとう、エース」
     ユウの浮かべた、はにかむような笑顔にエースは心臓が早鐘のように鳴るのを聞いた。彼にしては珍しく、この場から逃げ出したいような、なんて言葉を紡げば正解なのか分からないような、途方に暮れた感情に胸を詰まらせる。
     このとき少年は、たしかに恋に出会ったのだ。
    「……そんなに喜んじゃってまー。なに?オレに惚れた?」
    「あはは、まさか」
    「否定が!早いんだよバカ!」
     けろりと笑う女の子ってこれだから。エースは自分だけというのが悔しくて、恥ずかしくて。だから苦し紛れに「肯定されても困るんだけどさ」なんて嘯いた。
     もしもその時、エースがちゃんとユウの顔を見ていられたなら、もしかしたら二人の物語は違ったのかもしれないけれど、それはまた、別のお話しであった。
     クルーウェルに手を取られながら鏡を出た彼女は、肺一杯に空気を入れた。博物館で見たものを楽しそうに話し合うユウたちを見ながら彼女はそっと微笑む。
    「クルーウェル先生、今日はありがとうございました」
    「貴女が楽しめたのならいいのだが」
     慣れた手つきで彼女の指にキスを落とす。くすぐったいような優しい感触に、彼女はふるりと睫毛を震わせて「もちろんです」と呟いた。
     クルーウェルと居ると、彼女は自分がまるで物語のお姫様になったような錯覚を抱いた。ドレスを纏って舞踏会で蝶のように踊るお姫様に。だからその度に彼女はクルーウェルに恋に落ちるのだけれど、それと同じだけ胸を突き刺す痛みが増していく。
     例えばあちらに残してきてしまった彼のこと。例えばいつか帰ることになるかもしれないこと。例えば、――彼女はそこで心の内から目を背けた。それ以上は、今日は、今日だけは考えたくなかった。
    「どうやら仔犬共はモストロ・ラウンジに行くようだな。
     貴女はどうする?」
     クルーウェルの瞳は「もう少し一緒に居たい」と訴えかけていた。彼女だって本当はそうだ。でもこれ以上は、今日だけでは済まされないような気がして。惑う彼女に気付いてクルーウェルは口を開いた。願わくば、と。
    「今日は天気がいい。
     よければオレと一緒にサンドウィッチでもどうだ?いい場所を知っている」
     茶目っ気たっぷりの笑顔がトドメだった。彼女はもう一度心の中で強く「今日だけだから」と呟いてから頷いた。それを見てクルーウェルは嬉しそうに目を眇めて腕を差し出す。エスコートしよう、と軽い調子で。
    「購買まで?」
    「貴女さえ良ければ今日はずっと」
    「……ふふ、じゃあ、お願いします」
     おかしそうに笑うから、クルーウェルはまた嬉しくなる。まるで初めてのデートに挑む男の子みたいにソワソワしそうになってしまう。つん、と澄ました顔をしているくせに、だ。
    「クルーウェル先生、モテるでしょう」
     いつかと同じ質問をする彼女にクルーウェルはやっぱり、いつかと同じように「生憎フラれ続けている」と答える。その言葉に彼女はくすくすと笑って「嘘ばっかり」と言った。
    「こんなに慣れていらっしゃるのに」
     皮肉みたいなことを言うからクルーウェルは肩を竦めて見せた。それから「そう見えるか?」とわざとらしく聞いた。だから彼女は呆れた調子で「とっても」と苦笑する。
    「これでも、レディの前ではいつも緊張しているんだがな」
     その割には気取った様子で言うものだから、彼女は「ほんとお上手」と笑ってしまった。それを眩しく見ている男が隣にいるなんて気が付かずに。

    「君にしては気の利いたことを言うな、デイヴィス・クルーウェル」
     たまたま廊下で行き会ったトレインに話しかけられて、隣りを歩きながらクルーウェルは「は?」と訝しげな顔をする。なんの話しだ、と言ったクルーウェルにトレインはくつくつと笑った。
    「人は願った。空を飛び、あの青に溺れたいと。海を歩き、あの神秘を暴きたいと。
     中々いい詩を紡ぐではないか」
     トレインの言葉にげほりとクルーウェルは咽た。なぜそれを。呻くような若造をトレインは面白くて仕方ない、とでも言いたげな目で見ていた。
     実は昨日、今噂の「オンボロ寮の寮母さん」を招いてお茶を嗜んだのだが、それを素直に教えてやるほどトレインは優しくない。さてな、と呟くトレインにクルーウェルは苦虫を噛み潰したような顔をした。相変わらずいい性格をしている、とぼやきながら。
    「ところでいつから彼女は学園長の愛人から、君の恋人になった?」
    「……さてね」
     そもそも学園長の愛人だった事実すらないのだが、そんなことは今更のことである。良識ある大人であればみんな分かっていることを、あえて指摘することはないだろう。
     クルーウェルはここ数日学園にまん延している噂を思い出してひっそりと笑った。
    「仔犬が勝手に勘違いしたことを逐一訂正するほど、オレも暇じゃない」
    「ほう、勘違いさせるようなことをした記憶もないと」
    「もちろん。オレは友人として彼女をエスコートしたまでだ」
     あっさりと言ってのけるクルーウェルにトレインは静かに喉を鳴らした。なるほど、なるほど。落ち着いた、未だハリの残る声で囁きながら。
    「ならば学園長にもそう報告するといい」
    「……なに?」
     そっと眉を顰めるクルーウェルにトレインは口端をほんの少しだけ、それこそミリ単位の変化で持ち上げて言った。
    「お呼び出しだ、デイヴィス・クルーウェル。
     しっかり叱られてくるんだな」
     そう言った瞬間にトレインは姿をくらませる。高位の移動魔法を使ったのは誰の目にも明らかであった。魔法が使われた痕跡として、トレインの魔力がキラキラと空を舞う。それを睨みつけるように見つめて「今更すぎるぞ、クロウリー」とぼやきながら、クルーウェルは踵を返して学園長の元へと向うのだった。

     一体何を考えているんですか、あなた。
     学園長室のソファで、優雅に足を組んで紅茶に舌鼓を打ちながら(もちろん寮母が手ずから淹れてくれたものには遠く及ばない)、クルーウェルは白々しく「何を、とは?」と問い返した。それにクロウリーは頭を抱える。
    「ここは職場、それも多感な男子生徒が通う学園内ですよ!
     まったく嘆かわしい」
    「話しが見えてこないな。
     オレはただ、友人としてオンボロ寮を管理する淑女をエスコートしたまでだ。
     それに何か問題でも?」
     一切悪びれもせずに、なんならからかうような調子で言い放つクルーウェルにクロウリーは「これだからここの教師は!」と大袈裟に嘆いて見せる。芝居がかったそれに向けられる視線は冷えていたけれど。
    「仔犬共もオレを見習って、レディの一人や二人、立派にエスコートしてもらいたいものだな。
     なぁ、愛人の噂を放置し続けた学園長」
     クルーウェルの言葉にクロウリーは「あなたね」と言おうとしてからやめる。今なんと言った?そう言いたげなクロウリーをクルーウェルはじっと見つめた。
    「……とっても嫌な予感がするんですけど」
     クロウリーが恐る恐る呟けば、クルーウェルは知ったことかとでも言うように「それは良かった」と返す。二人の間にはしばし、クルーウェルが紅茶を飲む僅かな音だけが満たした。
    「あの……愛人の噂、って私初耳なんですけど」
    「それはそれは。
     オンボロ寮の寮母は学園長の愛人らしい、と生徒たちの間でまことしやかに囁かれていたぞ。
     何か勘違いさせるようなことでもしたんじゃないのか、多感な男子生徒に誤解されるような何かを」
     トゲのある言葉にクロウリーは「ぐ」と言葉に詰まった。もちろんそれを見逃すクルーウェルではない。ティーカップをテーブルに置いて、すらりと伸びた腕を組む。クロウリーを見つめる瞳はただただ冷たかった。
     クロウリーはその視線から逃れるように顔を背けて、ぽつりと呟いた。
    「いや、まぁ、別にね。
     淑女をエスコートするのは紳士の嗜みですから、私もあんまり口うるさいことは言いたくないんですよ?えぇ、私優しいので」
     クロウリーの悪い癖であった。都合が悪くなるとすぐに意見を翻す。そしてまくし立てるように言い訳を並べるのだ。トレインによると、こういう時はじっと静かに聞くことが肝要らしい。
     たしかにクロウリーは沈黙に耐え切れず、ペラペラと喋り倒した。常の二倍くらいは饒舌に。
    「――というか、ね。ほら、今ってわりと自由な気風でしょ?
     職場恋愛くらい、まぁ他に迷惑をかけなければいいんじゃないかなぁって思いますよ、えぇ。
     あ、もちろんお互い了承の上で、ですけど」
    「ほう、学園長は理解があるな」
    「それはもう!私、優しいのでね」
     クロウリーの言葉を聞きながらクルーウェルはくっ、と喉を鳴らすように笑った。なるほど、なるほど。呟いた言葉にデジャヴを感じたのはクルーウェルだけではない。
    「ならば学園長が心配することは何もないな。
     オレは授業の準備があるのでこれで失礼する」
     一方的に告げて部屋を出ていくクルーウェルの、その清々しいまでの背中を見つめて。クロウリーはぽつりと「年々トレイン先生に似てきてませんか、あの人。あぁやだやだ」と呟くのだった。
    宇喜たると Link Message Mute
    2022/06/27 14:34:33

    マドモアゼルは知る

    #not監督生 の  #クル先夢 です。

    ※シリーズ通してクル先がかっこよかったりかっこ悪かったりしてます。
    ※夢主はネームレス寮母さんです。
    ※デフォルト名(ユウ)の女監督生がいます。
    ※捏造てんこもりです。
    それでも良ければどうぞ。

    #twst夢

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