マドモアゼルは見ない あの日からずっと彼女は感じていた。そろそろ、自分の行く先を見つめなければならないかもしれない、と。
「トレイン先生、お時間を作ってくださってありがとうございます」
そこは普段、生徒が教師に相談事をしたいときに使われる部屋で、ローテーブルを挟んでソファが二組置かれている。そしてゆっくりくつろげるようにと、ティーポットや茶葉、ちょっとしたおやつなど、お茶の準備までされてあった。
指を指揮棒か何かのように繊細に振って紅茶を淹れたトレインに、彼女は静かに頭を下げる。それにトレインは気にすることではないと気難しげに答えた。とは言え機嫌が悪いわけではない。それがトレインという男の常なのだ。
彼の膝の上ではルチウスが気持ちよさそうに眠っている。その頭を優しく撫でてやりながら「それで、」とトレインが口を開く。それに彼女はぎゅっと手を握りこんだ。
「この世界のことを私に教えてほしい、と」
「ご迷惑なのは分かってます。ちゃんと授業料もお支払いします。だから、」
勢いのままに言葉を重ねる彼女の前にトレインは人差し指を立てた。それから小さく「ルチウスが起きてしまう」と囁いて微笑む。彼女はそれにすっかり力を抜かれてしまって、へなりとソファにもたれた。ぽすりと軽く彼女を受け止めてくれるソファは、見た目以上に柔らかかった。
トレインは何かを見透かすようにして、彼女の瞳をじっと見つめた。一体トレインは何を見たのか、気が付いたのか、彼女に「覚悟ができたということか」と問いかけた。それは穏やかな、しかし不穏な声であった。
「かくご、ですか……?」
日常生活においてあまり頻繁に聞かない言葉に彼女は戸惑いを見せた。もしかしたら、心の奥底で抱いている悩みを見抜かれたような気がして、ぎくりとしただけだったのかもしれない。彼女の視線が惑い、それでも最後にはトレインの瞳へと吸い込まれた。
「引き受けるのは吝かではない」
トレインは先ほどの自分の発言なんてまったく忘れてしまったかのように告げる。その言葉を素直に安堵して聞いていられるほど、彼女は無知ではなかった。断り文句の常套句とも呼べるそれに彼女はそっと下唇を噛んだ。
「この世界を知る、ということは。
この世界を生きる、この世界で生きる、と覚悟したと受け取ってよろしいか?」
その、言葉に。
彼女は何も言えなかった。頭が真っ白になって、ふるりと小さく唇が震えて。じんわりと瞳が輪郭を曖昧にして。はくり、と息を吐き出した。へたくそな呼吸だと、笑えたならどんなによかっただろうか。
「かくご、だなんて、そんな」
うわごとのように彼女は呟いた。私はただ、この世界を知ってみたいと、そう思っただけなのだと。まるで小さな子供みたいに。ゆっくりと、それでもしっかりと首を横に振った彼女に、トレインは小さく溜息をついた。
「君は愚かではないからもう気付いていると思うが、あの男がそんな言葉で許すと思うか」
射抜くような視線に彼女は言葉に詰まってしまった。その脳裏に浮かぶのは白と黒、そして目も覚めるような鮮やかな赤を見事に着こなしてみせる男。ちょっと意地悪に笑うくせに、いつだって紳士な態度を崩さなくて。生徒の前ではちゃんと先生の顔をする、あの男のことを彼女は想って。
そしてあの日のことを思い出す。切なく、焦がされるほどに熱く、彼女だけを見つめた薄墨の瞳。今日だけは、と願ったクルーウェルの瞳を、どうして忘れられる。どうして無下にできる。どうして、あの日だけと割り切れられる。
「君のその願いは、あの男を期待させるだけだ」
ゆっくりと、諭すような言葉が彼女を貫いた。言葉とは凶器だ。彼女の心を突き刺して、穴をあけて。そこからどろりとした想いが溢れだすのをどうやって止めればいいのか。彼女はもう、何も考えたくなんてなかった。
「でしたら、先生」
トレインを見つめる瞳はゆらゆらと揺れていた。それでも涙をこぼさないのは、意地か、プライドか、はたまた別の何かか。
「私は、どうすればいいのですか?」
それは祈りにも似た、請うような言葉であった。トレインはゆっくりと瞼を閉じて、何も言わずに彼女の悲鳴に耳を傾けた。そう、それは正しく彼女の悲鳴であった。
「いつ戻れるのか――いいえ、そもそも戻ることができるのかさえ分からない。
ここで生きると決めた次の瞬間には、向こうに戻っているのかもしれない。
向こうに戻りたいと願い続けても、ここで一生を終えるのかもしれない。
……先生、私はどうすればいいですか……?」
空気を震わせる声は、どこまでも頼りなく、脆く、儚く。瞼を持ち上げたトレインの瞳には、迷子の少女が映っていた。親の手を探す、小さな小さな迷子の少女が。
ルチウスがうっすらと目をあけて「な゛ぁう」と鳴いた。彼女は生憎と動物と会話ができないから何を言っているのかは分からなかったけれど、それでも慰めの言葉をくれたのだろうと思った。そうでも思わないとやってられなかった。
「消えないんです」
彼女は何か大切なものでも抱えるようにして、自身を掻き抱いた。自分自身を守るための、唯一の手段なのだろう。まるで背中の針を逆立てたハリネズミだ。彼女が普段決して見せようとしないその内側は、驚くほどに柔いのだとトレインは改めて突きつけられた。
「優しくて誠実で……いつも私を大切にしてくれた彼への罪悪感が、消えないんです」
いっそ忘れられたらいいのに。
心の底からの願いなのだろうか。それにしては困ったように笑う彼女に、トレインは吐息とも溜息ともつかぬ何かを吐き出した。
「忘れてどうすると言うのだ」
今まで生きてきた色々なことを思い出しながらトレインは呟いた。彼にだって忘れられれば、と思えるようなことはたくさんある。小さなものから、大きなものまで。忘れたくても忘れられないたくさんのものを重ねて生きているのだ。
「忘れたところで、今の君が背負っている罪悪感が消えるわけではない」
まるで己に言い聞かせるような言葉は、たしかにそのとおりであった。もっともな言葉に彼女は俯いて「そう、ですね」と頷いた。
だからトレインはそれを哀れに思いながら「それに」と続けた。こんなもの、なんの慰めにもならないと自分でも分かっていながら。
「何もかもを諦めてでも欲しい、と。
君にそう思わせないあの男の自業自得だ」
ご機嫌な様子のクルーウェルに彼女はなんとも言えない顔をする。お昼時、学園長に呼び出されてすっかり食べ損ねたランチをクルーウェル一押しの穴場で食べていた時だった。業務に追われて同じくランチを食べ損ねた彼とばったり鉢合わせたのだ。
あまりにも隣りで嬉しそうだから、とうとう彼女は「何か嬉しいことでもあったんですか」と聞いた。それにクルーウェルは一瞬だけきょとりとして(その顔は彼を少しだけ子供っぽく見せた)、次いで「分かるか、レディ」と目を細める。
「実は友人のところに仔犬が産まれてな」
十五匹も!と声を弾ませるクルーウェルはそれはそれは嬉しそうであった。彼女はなんだか意外に思いながらも「それは素敵ですね」と微笑んだ。
「昨夜見に行ったんだが……仔犬だと言っても侮れない、全員お利口さんでな」
クルーウェルがパチリと指を鳴らせば、子犬の形を取った光がキラキラと輝きながら現れる。その子犬はベンチの周りを一周回ると、彼女の前でいい子にお座りをした。わん、と吠えた気がするのは彼女の気のせいだろうか。
「レディ、犬はいいぞ。
主人の帰りを尻尾を振って出迎えてくれるし」
クルーウェルの言葉に合わせて子犬は小さな尻尾をちぎれんばかりに振る。それに彼女は小さく微笑んだ。
「それに主人のいうことをよく聞いてくれる」
ダウン、とクルーウェルが言えば子犬はちゃんと伏せをする。尻尾は嬉しそうに振り続けているままに。
「ボールを追いかける姿は可愛いし、愛する家族を守る番犬にもなる」
犬はいいぞ、ともう一度言ったところで子犬はキラキラと余韻を残して霧散した。それをちょっとだけ惜しく思いながら彼女は「たしかに……犬っていいですね」と同意した。いつか猫を飼ってみたいと思っていたけど、それは改めることにした。だってクルーウェルがあんまりにも楽しそうに語るものだから。
「教員寮でなければなぁ」
ぼんやりと、残念そうに呟くクルーウェル。白と黒のぶちの可愛いやつだった、と溜息をつく姿は普段のちょっと澄ましたクルーウェルとは思えないほど可愛らしい。彼女はくすくすと笑いながら「それは残念でしたね」と相槌を打つ。
「白と黒のぶち、というとダルメシアンですか?」
「あぁ。オレのコートみたいだなって言ったらさすがに友人の夫に叱られた。
あれは嫌われたな」
やれやれ、と首を横に振って肩をすくめたクルーウェルに、彼女は思考が止まる。なぜだろうか、彼女は勝手に男性の友人だと思っていたのだ。
「お友達……女性なんですね」
彼女の問いに、クルーウェルはなんでもないように、だけど何か大切なものでも見るかのように目を細めて「あぁ」と頷く。オレの唯一の女友達だ、と。それを聞いて彼女は膝の上でぎゅっと拳を握った。
なんとなくクルーウェルの横顔を見ていられなくなって俯けば、怪訝に思ってクルーウェルが「レディ?」と呼びかけてくる。きっと困っていると分かっていても、彼女はそちらを見ることができなかった。
「唯一の、女性の、お友達」
「……まさか嫉妬か?」
意外そうな顔で、でもほんのりと喜色を滲ませるから彼女はむっとした。なんだか無性に八つ当たりしたい気持ちになってしまった。だから彼女は澄ました顔で「えぇ、嫉妬です」となんでもないように言ってのける。それにクルーウェルが驚きを隠せないでいれば、彼女はとんでもないことを言いだした。
「私だってあなたの女友達なのに。
酷い人」
つん、と顔を背けてからさっさと立ち上がると、彼女はそのまま「私、用事があるので」と立ち去ってしまう。その後姿を見送りながらクルーウェルは「いや、」と呟く。追いかけようかと思ったけど、今は藪蛇というやつだろう。
「酷いのはどっちだ、レディ」
一体、何度好きだと囁けば彼女に届くのだろうか、と溜息を零してクルーウェルは空を仰ぐ。彼の憂鬱をそっくりそのまま映したような曇り空を。