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    マドモアゼルは見ない あの日からずっと彼女は感じていた。そろそろ、自分の行く先を見つめなければならないかもしれない、と。
    「トレイン先生、お時間を作ってくださってありがとうございます」
     そこは普段、生徒が教師に相談事をしたいときに使われる部屋で、ローテーブルを挟んでソファが二組置かれている。そしてゆっくりくつろげるようにと、ティーポットや茶葉、ちょっとしたおやつなど、お茶の準備までされてあった。
     指を指揮棒か何かのように繊細に振って紅茶を淹れたトレインに、彼女は静かに頭を下げる。それにトレインは気にすることではないと気難しげに答えた。とは言え機嫌が悪いわけではない。それがトレインという男の常なのだ。
     彼の膝の上ではルチウスが気持ちよさそうに眠っている。その頭を優しく撫でてやりながら「それで、」とトレインが口を開く。それに彼女はぎゅっと手を握りこんだ。
    「この世界のことを私に教えてほしい、と」
    「ご迷惑なのは分かってます。ちゃんと授業料もお支払いします。だから、」
     勢いのままに言葉を重ねる彼女の前にトレインは人差し指を立てた。それから小さく「ルチウスが起きてしまう」と囁いて微笑む。彼女はそれにすっかり力を抜かれてしまって、へなりとソファにもたれた。ぽすりと軽く彼女を受け止めてくれるソファは、見た目以上に柔らかかった。
     トレインは何かを見透かすようにして、彼女の瞳をじっと見つめた。一体トレインは何を見たのか、気が付いたのか、彼女に「覚悟ができたということか」と問いかけた。それは穏やかな、しかし不穏な声であった。
    「かくご、ですか……?」
     日常生活においてあまり頻繁に聞かない言葉に彼女は戸惑いを見せた。もしかしたら、心の奥底で抱いている悩みを見抜かれたような気がして、ぎくりとしただけだったのかもしれない。彼女の視線が惑い、それでも最後にはトレインの瞳へと吸い込まれた。
    「引き受けるのは吝かではない」
     トレインは先ほどの自分の発言なんてまったく忘れてしまったかのように告げる。その言葉を素直に安堵して聞いていられるほど、彼女は無知ではなかった。断り文句の常套句とも呼べるそれに彼女はそっと下唇を噛んだ。
    「この世界を知る、ということは。
     この世界を生きる、この世界で生きる、と覚悟したと受け取ってよろしいか?」
     その、言葉に。
     彼女は何も言えなかった。頭が真っ白になって、ふるりと小さく唇が震えて。じんわりと瞳が輪郭を曖昧にして。はくり、と息を吐き出した。へたくそな呼吸だと、笑えたならどんなによかっただろうか。
    「かくご、だなんて、そんな」
     うわごとのように彼女は呟いた。私はただ、この世界を知ってみたいと、そう思っただけなのだと。まるで小さな子供みたいに。ゆっくりと、それでもしっかりと首を横に振った彼女に、トレインは小さく溜息をついた。
    「君は愚かではないからもう気付いていると思うが、あの男がそんな言葉で許すと思うか」
     射抜くような視線に彼女は言葉に詰まってしまった。その脳裏に浮かぶのは白と黒、そして目も覚めるような鮮やかな赤を見事に着こなしてみせる男。ちょっと意地悪に笑うくせに、いつだって紳士な態度を崩さなくて。生徒の前ではちゃんと先生の顔をする、あの男のことを彼女は想って。
     そしてあの日のことを思い出す。切なく、焦がされるほどに熱く、彼女だけを見つめた薄墨の瞳。今日だけは、と願ったクルーウェルの瞳を、どうして忘れられる。どうして無下にできる。どうして、あの日だけと割り切れられる。
    「君のその願いは、あの男を期待させるだけだ」
     ゆっくりと、諭すような言葉が彼女を貫いた。言葉とは凶器だ。彼女の心を突き刺して、穴をあけて。そこからどろりとした想いが溢れだすのをどうやって止めればいいのか。彼女はもう、何も考えたくなんてなかった。
    「でしたら、先生」
     トレインを見つめる瞳はゆらゆらと揺れていた。それでも涙をこぼさないのは、意地か、プライドか、はたまた別の何かか。
    「私は、どうすればいいのですか?」
     それは祈りにも似た、請うような言葉であった。トレインはゆっくりと瞼を閉じて、何も言わずに彼女の悲鳴に耳を傾けた。そう、それは正しく彼女の悲鳴であった。
    「いつ戻れるのか――いいえ、そもそも戻ることができるのかさえ分からない。
     ここで生きると決めた次の瞬間には、向こうに戻っているのかもしれない。
     向こうに戻りたいと願い続けても、ここで一生を終えるのかもしれない。
     ……先生、私はどうすればいいですか……?」
     空気を震わせる声は、どこまでも頼りなく、脆く、儚く。瞼を持ち上げたトレインの瞳には、迷子の少女が映っていた。親の手を探す、小さな小さな迷子の少女が。
     ルチウスがうっすらと目をあけて「な゛ぁう」と鳴いた。彼女は生憎と動物と会話ができないから何を言っているのかは分からなかったけれど、それでも慰めの言葉をくれたのだろうと思った。そうでも思わないとやってられなかった。
    「消えないんです」
     彼女は何か大切なものでも抱えるようにして、自身を掻き抱いた。自分自身を守るための、唯一の手段なのだろう。まるで背中の針を逆立てたハリネズミだ。彼女が普段決して見せようとしないその内側は、驚くほどに柔いのだとトレインは改めて突きつけられた。
    「優しくて誠実で……いつも私を大切にしてくれた彼への罪悪感が、消えないんです」
     いっそ忘れられたらいいのに。
     心の底からの願いなのだろうか。それにしては困ったように笑う彼女に、トレインは吐息とも溜息ともつかぬ何かを吐き出した。
    「忘れてどうすると言うのだ」
     今まで生きてきた色々なことを思い出しながらトレインは呟いた。彼にだって忘れられれば、と思えるようなことはたくさんある。小さなものから、大きなものまで。忘れたくても忘れられないたくさんのものを重ねて生きているのだ。
    「忘れたところで、今の君が背負っている罪悪感が消えるわけではない」
     まるで己に言い聞かせるような言葉は、たしかにそのとおりであった。もっともな言葉に彼女は俯いて「そう、ですね」と頷いた。
     だからトレインはそれを哀れに思いながら「それに」と続けた。こんなもの、なんの慰めにもならないと自分でも分かっていながら。
    「何もかもを諦めてでも欲しい、と。
     君にそう思わせないあの男の自業自得だ」

     ご機嫌な様子のクルーウェルに彼女はなんとも言えない顔をする。お昼時、学園長に呼び出されてすっかり食べ損ねたランチをクルーウェル一押しの穴場で食べていた時だった。業務に追われて同じくランチを食べ損ねた彼とばったり鉢合わせたのだ。
     あまりにも隣りで嬉しそうだから、とうとう彼女は「何か嬉しいことでもあったんですか」と聞いた。それにクルーウェルは一瞬だけきょとりとして(その顔は彼を少しだけ子供っぽく見せた)、次いで「分かるか、レディ」と目を細める。
    「実は友人のところに仔犬が産まれてな」
     十五匹も!と声を弾ませるクルーウェルはそれはそれは嬉しそうであった。彼女はなんだか意外に思いながらも「それは素敵ですね」と微笑んだ。
    「昨夜見に行ったんだが……仔犬だと言っても侮れない、全員お利口さんでな」
     クルーウェルがパチリと指を鳴らせば、子犬の形を取った光がキラキラと輝きながら現れる。その子犬はベンチの周りを一周回ると、彼女の前でいい子にお座りをした。わん、と吠えた気がするのは彼女の気のせいだろうか。
    「レディ、犬はいいぞ。
     主人の帰りを尻尾を振って出迎えてくれるし」
     クルーウェルの言葉に合わせて子犬は小さな尻尾をちぎれんばかりに振る。それに彼女は小さく微笑んだ。
    「それに主人のいうことをよく聞いてくれる」
     ダウン、とクルーウェルが言えば子犬はちゃんと伏せをする。尻尾は嬉しそうに振り続けているままに。
    「ボールを追いかける姿は可愛いし、愛する家族を守る番犬にもなる」
     犬はいいぞ、ともう一度言ったところで子犬はキラキラと余韻を残して霧散した。それをちょっとだけ惜しく思いながら彼女は「たしかに……犬っていいですね」と同意した。いつか猫を飼ってみたいと思っていたけど、それは改めることにした。だってクルーウェルがあんまりにも楽しそうに語るものだから。
    「教員寮でなければなぁ」
     ぼんやりと、残念そうに呟くクルーウェル。白と黒のぶちの可愛いやつだった、と溜息をつく姿は普段のちょっと澄ましたクルーウェルとは思えないほど可愛らしい。彼女はくすくすと笑いながら「それは残念でしたね」と相槌を打つ。
    「白と黒のぶち、というとダルメシアンですか?」
    「あぁ。オレのコートみたいだなって言ったらさすがに友人の夫に叱られた。
     あれは嫌われたな」
     やれやれ、と首を横に振って肩をすくめたクルーウェルに、彼女は思考が止まる。なぜだろうか、彼女は勝手に男性の友人だと思っていたのだ。
    「お友達……女性なんですね」
     彼女の問いに、クルーウェルはなんでもないように、だけど何か大切なものでも見るかのように目を細めて「あぁ」と頷く。オレの唯一の女友達だ、と。それを聞いて彼女は膝の上でぎゅっと拳を握った。
     なんとなくクルーウェルの横顔を見ていられなくなって俯けば、怪訝に思ってクルーウェルが「レディ?」と呼びかけてくる。きっと困っていると分かっていても、彼女はそちらを見ることができなかった。
    「唯一の、女性の、お友達」
    「……まさか嫉妬か?」
     意外そうな顔で、でもほんのりと喜色を滲ませるから彼女はむっとした。なんだか無性に八つ当たりしたい気持ちになってしまった。だから彼女は澄ました顔で「えぇ、嫉妬です」となんでもないように言ってのける。それにクルーウェルが驚きを隠せないでいれば、彼女はとんでもないことを言いだした。
    「私だってあなたの女友達なのに。
     酷い人」
     つん、と顔を背けてからさっさと立ち上がると、彼女はそのまま「私、用事があるので」と立ち去ってしまう。その後姿を見送りながらクルーウェルは「いや、」と呟く。追いかけようかと思ったけど、今は藪蛇というやつだろう。
    「酷いのはどっちだ、レディ」
     一体、何度好きだと囁けば彼女に届くのだろうか、と溜息を零してクルーウェルは空を仰ぐ。彼の憂鬱をそっくりそのまま映したような曇り空を。
    「麓の街……?」
     彼女の言葉にユウは「そう!」と元気よく頷いた。休日前夜のオンボロ寮。ゴーストたちまで「なんだなんだ?」と集まってくる。
     ユウの言葉によると、明日エースとデュースが麓の街まで買い物に行くらしい。ユウとグリムも誘われたらしく、行ってもいいか、というお伺いだった。それに彼女はふんわりと微笑んで「もちろん」と答える。寮母とは言え、やることはオンボロ寮の管理と運営くらいなものである。ユウの行動を制限するつもりは彼女にはなかった。
     それにユウは小さくはしゃいでから「寮母さんも一緒に行きませんか?」と瞳を輝かせる。あまりにもキラキラとした瞳で見てくるものだから、彼女はちょっとだけ言葉に詰まってしまう。
    「その……行きたいのは山々だけど……」
     少しだけ言葉を濁したから、ユウは「あ」と気が付いてしまった。ユウは何度もその顔を見たことがある。楽しみにしていた水族館や動物園、遊園地。行けなくなったときのお父さんやお母さんと同じ顔だった。
     申し訳なさそうな顔で、でもどうしようもないのよって言い聞かせる時の顔。ユウはその顔を見るのがあまり好きじゃなかった。だって、そんな顔をさせたいわけじゃなかったのだ。だからユウは笑顔を作る準備をした。
    「ごめんなさい、学園長から頼まれていることがあって」
    「――大丈夫ですよ!むしろお疲れ様です。
     あ、お土産買ってくるんで、楽しみにしていてくださいね」
     ユウは「ね」と笑って見せる。それを見て何も気づかないほど大人は鈍感ではないけれど、だからと言ってどうにかしてやれるほど万能でもない。結局、子供の好意に甘えるしかなくて、己の無力さを噛みしめるだけなのだ。
    「……ありがとう。楽しんできてね」
     彼女はゆっくりと微笑む。それにユウはもちろんだと笑う。グリムは知らんぷり。ゴーストたちはやれやれと首を振る。
     いつも通りのオンボロ寮がそこにはあった。

     危ないところへは行かないこと。エースやデュースと離れないこと。二人の言うことをよく聞くこと。日暮れまでには帰って来ること。晩御飯が食べられなくなるまでお菓子を食べないこと。
     彼女が心配そうに何度も何度も言うから、ユウはとうとう「分かってるよ、大丈夫ですから」とうんざりしたように言って「いってきます!」と半ば強引に出かけて行った。グリムなんて大欠伸をしてこれっぽっちも聞いていなかったのだから、彼女の心配は増すばかりだった。ゴーストたちの「大丈夫さ」「気にしすぎだよ」なんて言葉は、これっぽちの慰めにもならない。
     だって彼女には麓の街がどんなところか分からないのだ。この世界の、学園の外がどうなっているのか知らないのだ。どうしてそれを安心して「いってらっしゃい」と見送れると言うのか。朝から大きな溜息をついて彼女も出かける準備をする。
     今日学園長に頼まれているのは、魔法薬学室に備え付けられている備品庫の整理だった。もちろん知識の無い彼女に一人で任せることはできないから、補助が主な役割であった。あとは掃除だろうか。
     普段オンボロ寮の掃除や、植物園の水遣りなんかが仕事のメインである彼女としては、その初めての依頼が新鮮で、そして楽しみでもあった。とは、言え。
    「心配……」
     ユウへの心配よりも勝るほどではない。そもそもとして、なぜこんなに彼女がユウとグリムの心配をしているかと言えば、二人がとんでもないトラブルメーカーだからである。学園でしょっちゅう騒動の渦の中に居るのは彼女も知るところであった。また何か問題に巻き込まれないといいんだけど、とぼやきながら彼女は寮を出る。
     振り向けば、オンボロ寮は寂しそうな佇まいで彼女を見送っていた。部屋の中からゴーストたちが手を振っていて、なんだか肩の力が抜けていくのを感じる。心配してもしょうがないか、とようやく彼女は呟いて魔法薬学室へと向かった。
     ちなみにこの魔法薬学室、実はオンボロ寮から割と近い。生徒ではない彼女が実際に足を踏み入れるのは初めてのことだが、その前だけは何度も通った。例えば購買へ行くのも、植物園へ行くのも、クルーウェル一押しの穴場へ行くのも、どこに行くにも魔法薬学室の前を通ることになる。もっとも、その中でどんな授業が繰り広げられているかなんて彼女にはこれっぽっちも見当がつかないのだけど。
     彼女はその古めかしい建物を見上げて(この学園に古めかしくない建物なんて、中々無いのだけれど)、とくりとくりと微かに高鳴る鼓動を抱えて魔法薬学室の戸を叩いた。返事はないけれど、いつまでも立ち尽くし続けているわけにも行かないから、彼女は勇気を持って扉を開ける。
     古めかしい見た目どおりに、ぎこちない音を立てながら開ければ、そこには向こうの世界の理科室にも似た光景が広がっていた。複数人でかけることを前提とした机に丸椅子。横幅の広い黒板。何が入っているのかよく分からないけれど、少し気味の悪い標本。埃っぽい匂いまでそっくりだった。
     ただ違うのは、絵本に出てくるような、おどろおどろしいほどに黒光りする大釜だろうか。それから砂時計や、分厚い本、それに綺麗な色をした液体が入った小瓶。そういったものが理科室ではないことを彼女に教えてくれている気がした。
     物珍しさに彼女が辺りを見回していれば、背後でがちゃりと音がして体を跳ね上げさせる。反射で「ごめんなさいっ」と謝ってしまったのは、仕事をせずに呆けていたことへの罪悪感か。聞きなれた笑い声が聞こえてきて、彼女は慌てて振り向いた。
    「何か悪さでも?レディ」
    「クルーウェル先生……」
     堪えきれないとでも言うかのように笑う男がそこに居た。いつもの毛皮のコートではなく、ぱりっと糊の効いた白衣を纏ったクルーウェルが。腕まくりをして、いつもは隠されている腕の筋を見た途端に、なんだかいけないものを見てしまった気持ちになるのはなぜだろうか。どういう生き方をすれば、色香をこぼすように振り撒けるのかと彼女は視線を少しだけ逸らす。
     とは言え、ほぼ一週間ぶりに(実際にはもう少し短いが)会うクルーウェルに、彼女は前回怒っていたことも忘れてホッと胸を撫で下ろした。慣れた相手で良かったと思うのと、あとは今までと変わらない態度で良かったと思うのと。
     そんな彼女の内心まで見透かしたわけではないだろうが、クルーウェルは「さぁ、こちらへレディ」と彼女を己の方へと招いた。それに「そちらが備品庫ですか?」と問いながら彼女は少し駆け足で歩み寄る。
    「あぁ。それにしても、まさか本当に貴女が来るとは思わなかった」
    「ご存知だったんですか?」
     だったら教えてくれても良かったのに。そんな気持ちを込めて彼女がクルーウェルを見上げれば、彼は悪戯っぽく笑って「怒ってるか?」と聞いた。
    「怒っている……わけではないですが」
    「それは残念だな。
     オレに迎えに来てほしかったのかと」
    「違います」
     呆れたように溜息をつきながら彼女が言えば、それでもクルーウェルはめげずに微笑む。つれないな、なんて思ってもいないような顔をして。だからこの人って苦手、と忘れていた感情を思い出しながら彼女は備品庫を改めて見る。
     天井まで届く棚にはぎっしりと本やらビーカーやら、何かの材料らしきものやら、色んなものが置かれていて。とてもじゃないが整理されているとは言えない様子にこっそりと眉を顰める。誰か気にならなかったのだろうか、と呆れてしまうのは当然だろう。
    「掃除し甲斐があるな」
     まったく、とぼやきながら言ったクルーウェルに「本当に」と彼女は返した。それにクルーウェルは苦笑しながら「今度からはレディに見られても恥ずかしくないよう、オレも頑張ろう」と付け足す。
    「クルーウェル先生がここの管理を?」
     それならばもっと上手に整理していそうなものなのに、案外ずぼらなのだろうか。彼女が意外に思って聞けば、クルーウェルは肩を竦めながら「まさか」と言う。そんな小さな仕草すら様になるのだから、美形というのは得である。
    「普段の管理は上に任せて、年一回か二回の掃除がオレの役目だ」
     定期的な掃き掃除なんかはしていても、さすがに物の移動まではこういうときでないと勝手にできない。中にはクルーウェルでさえ触れることを禁止されている材料もある。主に希少で、授業ではなく研究に使うような材料だ。
     だというのに上の人間ときたら、研究研究で整理は後回し。品質が一定に保たれていて、自分がどこにあるか分かっていればいいと思っているのだ。難しい問題だ、と頭を痛めるクルーウェルの隣りで、彼女はこっそりと共感を覚えていた。社会人ならば誰しもが通る道である。分かる分かる、と心の内で同意を示していた。
    「さて……レディにこんな雑用をさせるのはオレとしては大変心苦しいが」
     クルーウェルは彼女の手を取ると、その指先にそっと唇を掠めた。
    「手伝って頂けるかな?」
     不敵に笑う彼の頼みを断れる女性が居るのなら、ぜひ見てみたいな、なんて考えながら彼女は頷いた。
    「それでは、今は麓の街へ?」
    「えぇ、変なことに巻き込まれないといいんですけど」
     お互いに無言で作業をするのもなんとなく憚られて、ぽつりぽつりと雑談を交えながら捨てるものをまとめたり、必要なものを整理したりと作業に没頭していた。そんな中で彼女がこぼしたのが、今日のユウたちのお出かけのことであった。
     手を止めずに、ほう、と溜息をつく彼女にクルーウェルは分からないでもないな、と密かに笑った。あの仔犬は少し目を離したすきにすぐトラブルの渦のど真ん中へ元気よく走っていくから、と目を細めながら。仔犬とはそういうものだと思ってはいても、ユウは女の子である。クルーウェルをはじめとした教師一同、みなが不安に思っていた。いつか顔に傷でも作って来るのではないかと。
     実際何度かケガをしているし、よりにもよって頭を強打したこともある。いつかあの考えなしの仔犬共には女性へのマナーを徹底的に叩き込まなければ、とクルーウェルはいつもユウを見ながら考えている。
    「ジャック・ハウルが居ればまだ安心なんだがな」
    「……こんなことは言いたくないですが、本当に」
     渋い顔で呟くクルーウェルに、やはり渋い顔で頷く彼女。ジャックはあんな見た目ではあるが、面倒見が良く、困っている人間を放っておくことができない質である。ユウのことをさりげなくフォローしているのを、彼女もなんとなく気付いていた。そんなことをぼんやりと頭の中で考えながらも、指示通りに作業をこなす横顔をクルーウェルは見つめて、「だったら」と口を開いた。
    「こんなつまらないことはさっさと終わらせて、オレとデートでもどうだ?」
     それに彼女は視線だけチラリとクルーウェルに寄越すと、どうして、とでも言わんばかりの顔をする。この人大丈夫かしら、なんて彼女の声が聞こえてきた気がして、クルーウェルは少しだけ傷ついた。今までデートに誘われて断ったことはあっても、逆はないのだから余計に。
     クルーウェルはわざとらしく咳ばらいをした。普段そんなことなんてしないくせに。
    「つまり、オレと仔犬共の様子を見に行かないか、レディ」
     髪を鬱陶しそうにかき上げながらクルーウェルが誘う。今まで生きてきた中のどんな誘いよりも必死で、緊張していたなんて彼女が知るはずもなく。それでもいつもとはちょっと様子が違うと気付けるそれに、彼女は意外にも心地よさを感じてしまった。
     彼女はくすりと笑った。いい考えですね、なんて言いながら。
    「私、学園を出るのは初めてなんですけど」
     できるだけクルーウェルの方を見ないようにしながら彼女は言った。緊張しているなんて覚られないようにしながら。
     そうするとクルーウェルも彼女の方を見ないようにしながら口元を綻ばせる。
    「貴女の初めてを共にできるなんて幸運な男がオレでいいのか?」
    「クルーウェル先生がお嫌でなければ」
     もちろんだと答えた彼の嬉しそうな顔と言ったら。気付いていないのは本人ばかりだ。視界の端にちらりと映ってしまったそれに、彼女はうっかりときめいてしまって。それから突き刺さる罪悪感に、やんわりと胸を押さえる。
     そうと決まれば、とクルーウェルは言った。
    「貴女とのデートを少しでも長く楽しむために頑張らないとな」
     独り言とも、彼女への言葉とも取れないトーンで告げられた言葉に、彼女はなんとも言えずに目の前のよく分からない木の棒きれたちをまとめるのだった。

     難しい女性だ、とクルーウェルは彼女の支度を待ちながらぽつりとこぼした。誰にともつかぬそれは、本当にただの独り言だった。心の内側から自然とこぼれ落ちた独り言に、らしくないとは思いつつもクルーウェルはオンボロ寮の塀に身体を預けて思い耽る。
     甘い空気を作ろうとすれば拒み、友人だと言い張る彼女。そのくせ、クルーウェルの気持ちを完全に拒むことはしない。いつも「困る」としか言わないのだ。クルーウェルが嫌いだなんて、一つも言わない。曖昧な微笑み、これ以上こちらにこないでと言いたげな瞳。なのにふとした瞬間、楽しそうに、嬉しそうにクルーウェルへ微笑みかける。
     それにクルーウェルの気持ちに気づいていないのかと言えば、そういうわけでもない。そもそもクルーウェルは一度、真正面から告白してフラれているのだ。それで気付いていなければよほどである。
     アトランティカ記念博物館でのことを思い出して、彼女の唇に触れた人差し指をそっと己の唇に押し当てる。あの時の彼女の瞳には、たしかに熱が灯っていた。クルーウェルと同じだけの熱が。それなのに、クルーウェルが願ったとおり、あの日だけだったのだ。彼女が許してくれたのは。
     クルーウェルは途方に暮れたように溜息をつく。
    「憎いな、」
     顔も見たことのない、そもそも本当に存在しているのかすら知らない男。嘘をつかれているなんてもちろん思っていないし、結婚を考えている人が居る、というのが嘘だったとしてもクルーウェルは別に怒るつもりはない。だって女性は、嘘をアクセサリーのように身に付けるものなのだから。
     でも、だけど。本当にそんな男が居るのであれば、クルーウェルは憎かった。例えば生徒の誰が(具体的にはアズール・アーシェングロットとか)彼女の気を引こうとしても、クルーウェルは別に気にしない。だって彼女が靡かないのをちゃんと知っているから。
     しかしその男は違う。クルーウェルよりも先に彼女に出会ったという、ただそれだけのことでクルーウェルの欲しい何もかもを持って行ってしまったのだ。所持金も知識も知人もなにも無い状態で異世界に放り出された彼女の隣りに居ないくせに。ときどき泣きそうな顔をする彼女を抱きしめてやることすらしないくせに。こうしてクルーウェルに言い寄られたって守ることすらできないくせに。
     それなのに、彼女の心の行きつく先は、今もその男なのだ。
    「クルーウェル先生、お待たせしました」
     少しだけ息を弾ませて彼女が玄関から出てくる。寒かったでしょう、なんて言うから、クルーウェルは「まさか」と微笑んだ。毛皮のコートを見せつけるようにしながら。実際に体の冷えなんてまったく気にならなかった。そんなことよりも、心の方がずっとずっと冷え切っていたのだ。
    「レディ、先ほどまでの装いも素敵だったが、その服も貴女の気品を引き立てるな」
    「……大袈裟ですよ」
     恥ずかしそうに顔を背ける彼女は、クルーウェルの言葉にならない悲鳴に気づいているのか、いないのか。差し出された腕にゆっくりと手をかけて、「やっぱりこういうの、慣れないです」と囁く。
    「慣れない?
     ……恋人が居たのに?」
     わざとらしく過去形で尋ねれば、彼女は戸惑ったような顔をした。それから小さく「居ても、です」と訂正する。どの意味での訂正だったのだろうか。クルーウェルの意地悪な言い方になのか、それとも本当に額面通りの訂正だったのか。
    「私の居た国では……こういうのって、映画の中だけだったので」
     言い訳のように呟く彼女の横顔は、なんて気まずそうなんだろうか。クルーウェルはなるほど、と頷きながら一歩踏み出す。それに彼女も倣う。
    「レディ」
     クルーウェルは彼女を呼んだ。それに彼女はようやくクルーウェルの顔をちゃんと見てくれる。その視線の先が、本当にクルーウェルだけを映しているかなんて、そんなことは彼女にしか分からいことではあったけど。
    「……道が悪いところがある。気を付けてくれ」
     本当に言いたいことは、胸の内に。クルーウェルはなんでもない顔で気遣うフリをする。紳士であることで己を保とうとするように。
     オレを、オレだけを見てくれ、なんて。
     荒れ狂うほどの願いを抱えていることなんて、微塵も感じさせずに。
    宇喜たると Link Message Mute
    2022/06/27 14:36:39

    マドモアゼルは見ない

    #not監督生 の  #クル先夢 です。

    ※シリーズ通してクル先がかっこよかったりかっこ悪かったりしてます。
    ※夢主はネームレス寮母さんです。
    ※デフォルト名(ユウ)の女監督生がいます。
    ※捏造てんこもりです。
    それでも良ければどうぞ。

    #twst夢

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