夜道 常夜灯の僅かな灯りだけが灯された暗いロビーを早足で歩く。カツコツと、ヒールが立てる音だけが静まり返った室内に響いては消えていくのを聞きながら腕に巻きつけた時計を見れば、時刻は二十三時過ぎを指していた。着慣れないスーツで凝り固まった肩が痛い。定期的にある政府からの呼び出しが向こうの書類の不手際やらシステムエラーやら何やらでこんな時間まで延びに延びてしまったのだ。
はぁ、と流れるように自分の口からは大きなため息が漏れてしまう。まさかこんな時間になるとは。晩御飯までには帰れるから、と自信満々に言い置いて昼過ぎに本丸を発ったと言うのに何の連絡もできないままこんな時間になってしまった。誰か気を利かせてご飯を取っておいてくれるといいのだけど、この時間ではもうご飯より先にお風呂に入って明日に備えて寝た方がいいかもしれない。
「さっむ……」
暖房もとうに切られた室内は外のように寒く、スーツの上に羽織ったコートを手繰り寄せても吐く息は白い。そういえば今日の予報は雪だったと、本丸を出た時より遥かに下がっている気温に思わず顔を顰めた。
政府から本丸に繋がるゲートのある場所までは一旦外に出て、そこそこの距離を道なりに進んでいくしかない。普段なら苦にはならない距離だけれど、疲れ切った体で冬の夜を一人歩き切る自信はなかった。まぁそんなことを言ったところで行くしかないわけだけれど。いっそのこと走るか、でも雪が積もっていたら滑って転びそうだなんて考えながら誰もいないエントランスを抜けると突如隣で黒い影がゆらりと立ち上がった。
「おせーよ」
ビルの外に一歩出れば雪がちらちらと舞っている。寒そうに背中を丸める肥前くんは不機嫌そうな顔を隠しもせず、ペタペタと間の抜けたスニーカーの音を立てながら気怠げに私の隣に並び立った。元々悪い目つきは眠いのか更に悪くなっており、暖かそうなコートの上からぐるぐるに巻かれたマフラーのせいで口元は見えない。
「……びっくりした、なんでいるの」
「遅くなんなら連絡しろっつったろ」
私の問いには答えずに、自身に巻かれていたマフラーを雑に解くとこれまた一段と乱暴に私の首元に巻きつけていく。肥前くんの体温を含んだマフラーは暖かく、外に出たことでより一層縮こまってしまった肩が少しだけましになる。首元から口元までぐるぐる巻きにされた暖かさにほっと肩の力を抜けば、じろりと私を睨め付けた肥前くんは「腹減った」とだけ言い捨ててくるりと背を向けた。
マフラーがなくなり曝け出された肥前くんの口元から吐き出される息は白い。ペタペタと軽い音を立て私の一歩先を歩くその体は付かず離れずの距離を保ちながら、ぽつぽつと街灯が灯る夜道を歩いて行く。肥前くんの鼻先は赤くなっていたし、マフラーを巻いてくれた時に触れた手はとても冷たかった。一体いつからあそこにいたというのか。どうせだったら中で待っていてくれたらよかったのに、なんて言った所で一睨みされて終わってしまうだろうから言えないけれど。
野生の猫のようだ、と肥前くんを見る度にいつも思う。触れないように放っておけば寄ってきて、手を伸ばせばすぐに離れていってしまう。心の機微に敏感で、触れられることを恐れるくせにその実諦めきることも難しい。
一歩を歩く度に彼の猫っ毛が振動で跳ねて、また元に戻る。雑にコートのポケットに突っ込まれた両手はもう暖かくなっただろうか。丸められた背中に「ねぇ」と声を掛けると、振り向きもせずにピクリと動いて止まった後頭部が本当の猫のようで可愛らしい。
「肥前くんはもうご飯食べた?」
「食ってねーよ。お前が晩飯までには帰れるっつったんだろうが。おかげで食い損ねたぜ」
チッ、と背を向けられていてもわかる舌打ちを漏らした肥前くんはほんの少しだけ歩くスピードを上げる。ペタペタ、カツコツ、暗い夜道に二人分の足音だけが響く。夜の帳が下り切った道のなんとうら寂しいことか。空からは雪が降り続けているし、この分だと明日の朝には薄っすらと積もっているかもしれない。
迎えにきてもらわなくたって、一人でだって帰れるのに。政府へ出向くのだって何も今日が初めてなわけじゃない。そんなことは肥前くんもわかっているだろう。わかっていて、来てくれたのだ。途中で連絡を入れることもせず、帰ることもせず、ただ不器用に私が出て来るまで待ち続けた背中は寒さにその身をぶるりと震わせている。
「…どこかで何か食べて帰ろうか」
ほとんどの店はもう閉まっているだろうけれど、深夜過ぎまでやっている所もこの辺にはあったはずだ。ペタペタと鳴る肥前くんの靴音よりも早く足を動かして隣に並ぶと、不機嫌そうな鋭い視線が途端に頭上から降ってくる。
「ラーメン」
「うん」
「あと餃子と唐揚げ、大盛りで」
「うん」
ふふ、とマフラーで埋もれた私の口元から笑いが溢れれば肥前くんは苛立ったような、そして心底嫌そうな盛大なため息をついた。綺麗な白い息が黒で塗り潰された空に立ち昇っては消えていく。
「肥前くん、迎えに来てくれてありがとう」
「……うっせ」
照れ隠しのように肩でぶつかってきた肥前くんはそっぽをわざとらしく向く。
疲れ切った体で冬の夜を一人歩き切る自信はなかった。でも今は二人だから、どこまでだって歩いて行ける気がする。